熊谷公男著「大王から天皇へ」を読む ―2― 渡来人が我々の祖先 倭漢(やまとのあや)氏と秦氏  倭の五王と中国王朝の権威

熊谷公男著「大王から天皇へ」を読む ―2― 渡来人が我々の祖先 倭漢(やまとのあや)氏と秦氏  倭の五王と中国王朝の権威

 

 


 

第一章の「3 渡来人の来住と列島の技術革新」に入ります。

 

p049

 

古代、半島から列島には断続的にたくさんの人々が渡来し、列島の住民となった

されら渡来人(帰化人)が歴史上はたした役割は、想像以上のものであった。

 

 

また新しい精神的な世界を展開させることもできたのである。だから、彼らの持ち込んだ

ものが、新しい時代の主人公となっていったと言っても言い過ぎではない。

 

 

 

p050

 

われわれは、誰でも古代の帰化人たちの血を10%や20%はうけていると考え

なければならない。 ・・・帰化人はわれわれの祖先なのである。

 

記紀は、ともに応神朝に最初の集中的な渡来人の来朝があったと記している。

秦氏の祖や、倭漢(やまとのあや)(東漢)氏の祖がたくさんの人々を率いて帰化した

ことを記す。 王仁(わに)(和邇吉師 わにきし)が渡来して、太子に典籍を教授した

という記事もある。

 

p051

 

記紀の応神朝の渡来人関連記事の信憑性には問題があるが、だからといって。すべてを架空

の造作記事と決めつけてしまうわけにもいかない。

 

==>> ここに書いてあることは、先に読んだ本でも、十分に理解したところです。

     斎藤成也著「核DNAでたどる日本人の源流」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2023/01/dna.html

     大和岩雄著「秦氏の研究」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2023/01/blog-post_15.html

 

     逆に言えば、これらの渡来人がいなかったら、元々居たとされる縄文人だけ

     が列島にずっといたとしたら、列島はどのような国になっていたのか、

     そのような内容の本が読みたいところです。

     特に、上記の遺伝子の本で、縄文人がどこから来たのかが、振り出しに戻って

     さらに謎となっているそうなので。

 

     私は個人的には、縄文人が太平洋に沈んだ謎の大陸、ムー大陸の子孫であったら

     面白いなと妄想しているんですけど・・・・

     ムー大陸

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%BC%E5%A4%A7%E9%99%B8

 

 

p052

 

渡来人の列島への来住の契機として、もっとも重要なのは、半島の戦乱であろう。

 

==>> 著者はこの半島の戦乱として次の3つの例をあげています。

     ― 4世紀末からの広開土王の時代

     ― 475年に高句麗が百済の都を陥落した前後

     ― 新羅・唐と高句麗・百済の間の戦争、663年の白村江での倭軍の敗退

     ・・・これは、いわゆる難民ということですから、理解しやすいですね。

     今現在でも、現におこっていることです。

 

p052

 

もう一つの渡来人の来住の契機として、受け入れ側の倭王権の意向がある。

列島に来住した渡来人は、多くの場合、王権の掌握下におかれ、その保有する技術や

知識をもって王権に奉仕した

 

==>> ここで私が気になるのは、列島の先住民が縄文人だとした場合、

     そして縄文人=国津神だとした場合、その列島先住民はどのように

     ヤマト王権に関与していたのかということです。

     渡来人がさまざまな分野で日本をつくってきたことは、いろいろな本に

     書かれているのですが、その時、国津神の人々はどうかかわったのかが

     気になるのです。

 

p055

 

このように須恵器誕生の契機となったのは、400年前後に渡来した第一波の渡来人たち

が持ち込んだ技術と見ることが妥当と考えられるが、彼らのもたらしたものは、高度な

土器製作技術のみではなかった。

 

須恵器の生産に従事した渡来人たちは、新しい生活スタイルも列島にもちこんだ

竪穴住居内にカマド(竈)をそなえ、そこに長胴の甕(かめ)や把手(とって)の付いた

をすえて使用し、甕にはさらに甑(こしき)を入れ子状にすえて蒸し器として用いた。

カマドもこれらの土器も、これまでの列島にはまったくなかったものばかりである。

 

また五世紀初頭は、半島から馬と馬具がもたらされ、列島で乗馬の風習が急速にひろまって

いく時期でもある。 意外にも、列島には四世紀代まで馬がいなかったのである。

 

==>> 400年前後というと、「古墳時代」ということになりますね。

     https://www.youce.co.jp/nennpyou/

     

     先に読んだ『秦氏の研究』のところで、古墳人に関しては下のような

     DNAの系列になると理解しました。

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2023/01/blog-post_25.html

     「p527

     縄文人=縄文人のDNA

     弥生人=縄文人DNA+長江系DNA=邪馬台国?

     古墳人=縄文人DNA+長江系DNA+黄河系DNA=大和朝廷??

 

     もちろん、いろんな説があるので??なんですが、大和朝廷が今の日本の

     ベースであるとするならば、少なくとも支配者レベルでの文化は

     多くが渡来系ということになるのでしょうか。

     先住民たる縄文人の文化は、アイヌやオキナワにしか残っていないという

     話になるのでしょうか。

     それとも私たちがなんとなくイメージする日本文化とは江戸時代の文化

     ということになるのでしょうか。

 

p058

 

このように、第一波の渡来人が列島に残した数々の遺物は、彼らの大半が伽耶南部出身

であることを語っている。 『書紀』や広開土王碑からみると、早くから倭王権と密接

な関係にあった伽耶の国々は、金官・安羅・卓淳などであった。

 

伽耶南部地域は、ちょうど土師器系土器をはじめとする倭系の遺物が集中して出土

するところでもあった。つまりこれは、四世紀前半以降、ヤマトの人々が集団で

渡航したカラ地域から、四世紀末になって、住民が大挙して列島に渡ってくる、という

逆の大きな流れがおこったことを意味する。

 

==>> 広開土王碑(こうかいどおうひ)が気になるので、チェックしておきます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B%E7%A2%91

     「高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた、現在の中華

人民共和国吉林省通化市集安市に存在する石碑である。」

「百済・新羅はもと高句麗の朝貢国であったにもかかわらず、倭軍が侵略して

これらを臣民としたために、現状回復するということが百済親征の理由とされ

ている。」

     「七支刀の時代について『日本書紀』は百済との関係を百済側が積極的に交渉を

求めて来たのだと記述している。」

「倭がはるか平壌近くまで出兵する理由は百済の介在によって明らかとなり、

百済の求めに応じて倭は派兵し、高句麗はそのため倭軍と戦わざるを得なかっ

た。百済の救援要請は当然のことながら倭王の地位を高めることになり、それが

倭の五王の「都督百済諸軍事」(百済を軍事的に支配する権限)の背景となる。」

 

・・・つまり、百済の要請に応えて倭の五王が半島に派兵したということ

なんですが、この本の流れとしては、倭王権はそれなりの見返りを期待して

協力したということのようです。

 

 

p059

 

記紀は、ともに応神朝に渡来人の記事を集中して載せている。 なかでも、代表的な

渡来人である倭漢(やまとのあや)氏と秦氏がともに応神朝に渡来しているのは注目

される。 

 

==>> ここで著者は、倭漢氏も秦氏も、漢室や秦の始皇帝の後裔を名のるように

     なるが、前者は半島の安羅(あら)出身、後者も伽耶出身であろうとして

     います。

 

p062

 

金官国を中心としたカラから渡来した第一波の渡来人が、さまざまな先進の文物を

列島にもたらし、それが王権を強化したばかりでなく、やがて列島社会に技術革新

をまきおこしていくのである。

この時期の倭王権にとって、「任那」のもつ重要性ははかり知れないものがあったと

いってよい。

 

==>> 金官国については、こちらの金官伽耶でイメージが掴めます。

https://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E5%AE%98%E5%8A%A0%E7%BE%85-1303072

     「朝鮮古代の加羅諸国中の有力国。別名は金官加羅,大伽耶,狗邪(くや)国,

狗邪韓国,駕洛(から)国,任那(みまな)加羅,任那。」

・・・つまり、対馬の対岸にあったということですね。

 

 

p065

 

この時期の倭王権は、半島からの先進文物を独占的に掌握し、それらを列島各地に

分配するという“公共機能”をになうことによって、列島社会の統合を実現していた

ということができる。

 

p068

 

倭の五王に関しては、・・・九州の豪族とみる説もあるが、明証はなく・・・。

倭王武の上表文に「東のかた毛人を征すること五十五国、西のかた衆夷を服すること

六十六国・・・」とあることからみても、武の居所が関東や九州などの辺境にあった

とは考えがたく、列島のほぼ中央部、つまり畿内にあったとみるのがもっとも自然

ある。 倭の五王は、やはり倭王権の王なのである。

 

==>> 列島内を掌握するために、貿易を独占して他の王たちに差をつけた。

     そのメリットを保つために、半島への派兵も実行したということですね。

 

     そして、倭の五王が天皇の系譜とどう重なるのかをこちらのサイトで

     ちらっと見ておきましょう。

     人物に年号が記入してあって見やすくなっています。

     宋書の倭の五王と日本書紀の天皇 比較

     https://www.ne.jp/asahi/isshun/original/siryo_wa5ou.html

     「この5人の王に対応する日本の天皇は誰か、ということは、研究者の間で古く

から議論されてきた。下の図は、どの天皇がどの倭王に対応しているか、

現在一般的な説とされているものを、即位順に①~⑤で示したものである。」

 

・・・仁徳天皇から雄略天皇までの時代に重なるとしています。

     五世紀前半から後半までの時代です。

 

 

p079

 

倭王は、自己の臣下への叙爵も要請している。 438年、宋に朝貢した倭王珍は

自らの官爵の除正を求めると同時に、倭隋(わずい)ら13人に・・・の将軍号の

除正を要請して認められている。 また451年にも、倭王済の求めに応じて

23人が軍・郡(将軍号と郡大守号)に任じられた。

 

・・・倭王と臣下の上下関係を中国王朝の官爵によって明確に定める必要があった

ためと思われる。

 

珍と済が官爵を要請したのも、おそらく王権を構成する王族や有力豪族であったろう。

 

p080

 

これらの官爵は倭王自らが除正を求めたものであるから、この段階の王権内部の序列

を反映したものとみられる。 少なくとも済の代までは、倭王はいまだ連合政権の

盟主という地位にとどまっており、臣下との身分差はさほど大きくはなかったことに

なる。

 

==>> まず「除正」とは、

     「中国王朝が、近隣諸国の君主・臣下の称号を認定することを「除正」と称する。」

     という意味だそうです。

     

     それにしても、自分の支配領域、自分の人事領域での権威付けを

     中国王朝にお願いするしかない時代だったんですね。

     それと似たことは、仏教の世界で、授戒ができる僧侶として鑑真さんを

     招聘したというようなこともあったわけで、8世紀でもそのような

     外国人による権威付けが必要だったんですね。

     ・・・と言いながら、現在でも、権威付けを外国に頼るということは

     続いているようですが・・・

 

     ただ、ここでは、身分の差があまりなかったから、外からの権威付けで

     序列を明確にするほかなかったということのようですが。

 

 

p082

 

倭王武のときになって、ようやくそれまでの外交政策の矛盾に気がついたのである。

 

こうして倭王は、冊封体制から離脱する決意をして中国王朝と決別し、独自の

「天下」的世界の王としての道を歩みはじめることになる。

その理由は、なんといっても、列島の支配者としての地位の維持に、もはや中国王朝

の権威を必要としなくなった、ということであろう。

 

p083

 

実は、古代の列島の君主が中国の皇帝に冊封されたのは、邪馬台国の女王卑弥呼と

倭の五王だけであった。

七世紀から九世紀にかけて継続する遣隋使・遣唐使では、倭王・天皇は中国王朝に

朝貢の形式をとった使節を派遣したが、冊封はされていない

・・・中国王朝の冊封を受けないことが、日本側の外交の基本方針となるのである。

 

==>> 冊封体制については、こちらのサイトで、どんな国がどのような関係を

     唐と作っていたかをささって見ておきます。

     唐の国際関係(冊封体制)

     https://blog.goo.ne.jp/taitouku19/e/5358a85e761c5e8330900f83b76a49ab

     

     ・・・ということで、倭王権はさっさと貿易だけの関係に方針転換を

     したようです。

     もうその頃から「天孫降臨」の筋書きを考えていたんでしょうか。

 

 


 

では次回は、「第二章 治天下大王の登場」に入ります。

 

===== 次回その3 に続きます =====

 熊谷公男著「大王から天皇へ」を読む ―3― 倭王権のメンバーは? 氏族の姓はまだなかった  滅ぼされた葛城氏と吉備氏は国津神? 「天の下治めたまう」大王から天皇へ (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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