大和岩雄著「秦氏の研究」を読む ―1― 秦の始皇帝の末裔たちが亡命して渡来人となった? 弓月の民? 沖ノ島祭祀の特徴とは? 

大和岩雄著「秦氏の研究」を読む ―1― 秦の始皇帝の末裔たちが亡命して渡来人となった? 弓月の民? 沖ノ島祭祀の特徴とは? 

 

 


 

私がこの本を読もうという気持ちになったのは、秦氏そのものが知りたいというよりも、

神社がらみで、神社以前の日本の信仰がどのようなものであったかを知りたいという点に

あります。 つまり、神道よりも前の日本人の庶民の信仰がどのようなものであったかに

興味があるということです。

 

ですから、この本の著者の意図とはあまり関係なく、話の筋もよくわからないままに、

自分の興味のある部分だけを拾い読みしていますので、悪しからず。

 

 


ところで、この「秦氏の研究」を読む前に、このような本を神道がらみで全体をざっくり

復習するために読んだのですが、こんなページがありました。

しっかり眠れましたけどね・・・・

 

 


まあ、要するに、神道がどう始まったかとか、その前はどうだったかというような話は

謎だらけでさっぱり分かっていないって話です。

 

まあ、一応そういうものだと分かった上で、無意味な努力をして読んでいきたいと

思います。

 


 

p019

 

『日本書紀』の五世紀初頭・・・の記事に、渡来伝承が集中している・・・

渡来伝承で、特にスペースをとって書かれているのが、弓月の君と弓月の民の渡来だが、

加羅にいた弓月の民の人数を「百二十県の民」と書き、一番多い。 

 

五世紀初頭の半島の戦乱と天災をのがれ、列島に渡来・移住した人たちが多数いたことは、

歴史的事実であり、その反映が弓月の民の渡来伝承といえる。

 

==>> さて、この「弓月の君」とか「弓月の民」とはそもそも何なのでしょう。

     弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ/ユンヅ、生没年不詳)

     https://kotobank.jp/word/%E5%BC%93%E6%9C%88%E5%90%9B-145197

     「古代の朝鮮から渡来した人々の集団の首長とされる伝説的人物。融通王とも。

『日本書紀』によると,応神14年に弓月君が百済から渡来し,率いる120県の人々

が新羅人の邪魔により,加羅(加耶)に留まっていると報じたので,葛城襲津彦が

加羅に遣わされた。・・・・『古事記』応神記には秦造の祖,漢直の祖が渡来したと

のみある9世紀初めの『古語拾遺』や『新撰姓氏録』には秦氏の祖と伝えられ,

『日本三代実録』元慶7(944)年条の秦永原らの上奏では同氏は秦の始皇帝の

子孫融通王の後裔であるとの系譜意識が語られている。」

 

     ・・・要するに、いろいろと説はありそうですが、いわゆる渡来人の祖とでも

     言える人であるようです。

 

p020

 

「五世紀後半から末葉にかけて」ではなく、五世紀初頭の朝鮮半島の戦火・旱魃・飢餓から

のがれた人々も日本列島へ「安住の新天地を求めて移動」したことがなかったとはいえない

だろう。  ・・・私は、前述の金石文と文献例の一致からみて、両氏の渡来時期を四世紀

末から五世紀前半とみる。

 

==>> ここでは、他の研究者の説を紹介しながらも、著者本人の意見として、

     上記のような見解を述べています。

     ちなみに、両氏というのは秦氏と漢氏のことです。

     漢氏(あやうじ)

     https://kotobank.jp/word/%E6%BC%A2%E6%B0%8F-27598

     「古代において活躍した渡来人の豪族。応神(おうじん)朝に帰化したと伝える

中国、後漢(ごかん)霊帝の曽孫(そうそん)、阿知使主(あちのおみ)の後裔(こう

えい)と伝えられる。」

織工,文筆などで活躍して蘇我氏に用いられ,その勢力の一端を担うように

なった。蘇我馬子にそそのかされて崇峻天皇を殺害した東漢直駒(やまとのあや

のあたいこま)などもこの出である。天武朝には飛鳥一帯に勢力を張り,平安時

代には坂上田村麻呂が出た。」

 

p022

 

私は、四世紀末から五世紀初頭の半島の人災・天災をのがれた難民の多くは、上陸地と

その周辺に定着したとしても、現代の韓国政府が、ベトナム難民の上陸をすべて拒否

したような態度を、当時のヤマト王権もとったとは考えない。 ヤマト王権は、当時、

大古墳の築造や河川の土木事業に、新技術を必要としていたから、北九州に上陸した

渡来者の中の技術者を、積極的に畿内へ呼び寄せ、王権の強化に活用したと考えたい。

その中に秦造(みやつこ)の祖も含まれていたのであろう。

 

==>> 著者はここで、さりげなく現代の難民問題を取り上げていますが、

     韓国政府という書き方をしながら、実は日本政府のことを匂わしているの

     ではないかと感じられました。

     いずれにせよ、ヤマトよりも高い技術を持った人たちを歓迎したようです。

 

     ちなみに、今の日本政府のベトナム難民への対応については、こちらに

     解説がありました。

https://www.hurights.or.jp/archives/newsletter/sectiion3/2016/03/post-311.html

     「日本では1979年から2005年にかけて合計11,319人を受け入れた。

このうち、ベトナム人は8,656人であり、3か国の中で最も多い。

日本に到着した難民たちの受け入れに最初に取り組んだのがカリタスジャパン

である。その後、国連難民高等弁務官事務所と宗教団体、日本赤十字社などが

受け入れと支援に取り組んだ。

一方で、日本政府の対応は大きく遅れ、197910月になってようやく日本で

定住支援を行う決定がなされた。・・・・

また、インドシナ難民の発生は、難民条約の加盟国の増加にも影響し、日本も

1981年に加盟国となった。」

 

ちなみに、インドシナ難民の国別の受け入れ人数はこちらで:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%B7%E3%83%8A%E9%9B%A3%E6%B0%91

「各国の現在までのインドシナ難民受け入れ数は以下となっている。

アメリカ - 823,000

オーストラリア と カナダ - 137,000

フランス - 96,000

ドイツ と イギリス - 19,000

日本 - 11,319

イスラエル 400人」

・・・この国々の中では、日本が一番近いところにあるんですけど・・・・

 

     

p025

 

このように、四世紀末から五世紀前半の沖ノ島祭祀が、畿内の王権と深くかかわっている

ことは、通説化している。 一方、河内の陶邑古窯跡群の出土遺物から、畿内の須恵器

生産も五世紀初頭からとみられていたが、今回の五世紀初頭の窯跡の発見で、そのことは

はっきり裏付けられた。

 

大和政権の沖ノ島祭祀が四世紀末であることからみて、四世紀末からの南朝鮮の戦火を

のがれた人々は、五世紀前後には畿内へ移住して来た・・・・

 

==>> 沖ノ島祭祀がいきなり出てきたのですが、これがどのように渡来人と

     関連するのでしょうか・・・・

https://kotobank.jp/word/%E6%B2%96%E3%83%8E%E5%B3%B6%E7%A5%AD%E7%A5%80%E9%81%BA%E8%B7%A1-882081

     「縄文・弥生(やよい)の生活遺跡と、古墳時代、奈良~平安時代の祭祀遺跡が

あり、とくに祭祀遺跡は、島の中腹部にある沖津宮社殿の背後の巨岩群の岩上や

岩陰にあり、原始宗教と律令(りつりょう)祭祀の両形態の祭祀がうかがわれ、

日本の神道考古学の代表的な遺跡である。」

「この沖ノ島の祭祀遺物で特徴的なものは朝鮮製の金銅製馬具類や、中国製の

唐三彩、ササン朝ペルシアの切子(きりこ)ガラス碗(わん)など舶載遺物がある

ことで、国家的な祭祀が行われたと考えられている。」

 

一方、wikipediaのは以下のような記述があります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E3%83%8E%E5%B3%B6

「沖ノ島で国家的な祭祀が始まったのは出土遺物の年代編年から古墳時代前期、

4世紀後半頃と推測される。391年に倭国が高句麗へと出兵した際、北部九州が

前線となった時期に相当する。祭祀の終了は9世紀末頃とみられ、894年(寛平

6年)に遣唐使が廃止されたことや神道・神社の形式が確立したこと、仏教に

よる鎮護国家の比重が増えたことなどとされる。」

 

・・・これから推測すると、沖ノ島祭祀というのは、倭国あるいはヤマト政権が

国家護持のために祈ったということなのでしょうか。

あるいは、半島の戦乱のとばっちりが来ないように警戒していた?

 

p025

 

『新撰姓氏録』(大和国諸蕃)は、

己智 秦太子胡亥(こゐ)より出づ

と書くが、「秦太子胡亥」は始皇帝の皇子で、秦帝国の二代皇帝になった。

・・・このように秦・己智両氏は始祖を秦始皇帝・秦二代皇帝とする

・・・「己智」は「秦」ともいっている。

 

==>> この始皇帝につながるという説は、どこまで真実かは微妙な感じですが、

     秦の名前はその他にもいろいろと拡がりがありそうです。

 

 

p029

 

『日本書紀』は、百済の波多臣の祖と加羅(耶)の秦集団を一本化して、百済の弓月の君

が率いた弓月の民(人夫)と書いたため、弓月(秦)の民である加羅の人たちを、

新羅の妨害にあって加羅にとどまっている人たち、と書いたのであろう。

 

==>> ここで、加羅とか伽耶という地名が出てきました。

     地図をチェックしておきましょう。

     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%BD%E8%80%B6

     「伽耶(かや、伽倻または加耶とも)、加羅(から)、または加羅諸国(からしょ

こく)は、1世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江

流域を中心として散在していた小国々を指す。後述のように、広義の任那に含ま

れるが狭義の任那とは位置が異なる。」

加羅の権力層には倭系の姓を帯びる集団が検出される。浜田耕策は「朝鮮半島

からの『渡来人』が古代日本の国家形成に果たした成果を評価する『渡来人』

史観は近年注目されている百済や伽耶にも倭人の『渡来人』がいたことが見られ

るように、この相互の移住民を国家の形成史のなかでどのように評価するかの

問題にも発展して新たに考察される課題であろう」と指摘している。」

 

・・・・つまり、対馬の目と鼻の先の地域ですね。

この地域は、時代は違えど倭寇のような国際的というか無国籍的というか、

かなり民族が混じり合っていたような海域でもあったようですから、相互の

往来が盛んだったのでしょう。

 

私は長崎県人なんで、そういう人たちの末裔である可能性は高いですね。

父と姉・兄は満州の引揚者でもありますし・・・・

 

p030

 

「ハタ」に「秦」という漢字をあて、始祖を秦の始皇帝にしているのにも、理由がある。

『魏志』辰韓伝に、・・・・・・・とある。

 

大意は辰韓は馬韓の東にあるが、古老が伝えていうには、秦の苦役を避けて韓国に亡命

した人たちを、馬韓の東を割いて住まわせた。 それが辰韓だから、住人は秦人に似て

おり、秦韓というのもそのためだと書く。 

 

この記述から、新井白石は『古史通惑問(こしつうわくもん)』で、秦氏は辰韓に移住して

来た秦人とみる。

 

==>> 著者は必ずしも秦氏が始皇帝の末裔だとしているわけではないのですが、

     このような伝承を持っている亡命した人びとであるということに

     関しては、肯定的な態度であるようです。

 

 

p037

 

私は、弓月の民の渡来伝承は秦氏、弓月の君渡来伝承は波多氏に関係ある伝承と

みるが・・・、波多朝臣と弓月の君・弓月の民は、無関係とはいえない。

 

・・・・この「波多」氏は、韓人だが、「波多」氏を代表とする弓月の君に率いられた

弓月の民の中には、秦の亡人伝承をもつ人々がおり、彼らが「波多」に「秦」の字を

宛てたのであろう。

 

==>> つまり、弓月の君に率いられた渡来人の中に、秦の始皇帝につながる伝承

     を持つ人たちが混じっていたということですね。

 

 

p041

 

海を渡って大集団で渡来した伽耶(羅)系の人たちを、海を渡って来た意味のpataと、

多いの意味のhataの、二重の意味をこめて、「ハタ」といったのであろう。

 

『姓氏録』では、「ハタ」に「波多」の表記を用いている・・・海と多の意が「ハタ」

であることを示している。

 

==>> 本来は「波多」という表記であったところ、始皇帝の伝承を持つ人たちが

     「秦」という漢字をあてたということのようです。

 

     この古代の波多氏については、こちらで確認。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E6%B0%8F_(%E5%8F%A4%E4%BB%A3)

     「武内宿禰の長男である波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)を祖とする。」

     「祖の波多(羽田)八代宿禰は弟の巨勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)と

ともに神功皇后による三韓征伐に従う。」

「天武朝に制定された八色の姓では、皇族出身である52氏の一つとして朝臣姓

を賜与されている。」

「百済人である佐布利智使主の子孫。姓は造。」

 

・・・氏祖というのがいろいろあって、訳が分かりません。

 

043

 

現在の韓国の秦氏も、始祖を秦始皇帝にしているが、秦氏がもっとも多いのが、

全羅南道・済州島であることからみても、五世紀代の秦氏の原郷も、かつての加羅の地

である全羅南道であった、とみるべきであろう。

 

p046

 

秦氏の族長としての中心的存在は、欽明朝の秦大津父(山城国深草)、推古・皇極朝の

秦造河勝(山城国葛野)などの山城の秦氏で、天武十二年九月の賜姓で造から連へ、

更に天武十四年六月、連から忌寸になっている本流の秦氏である。

 

河内の秦氏が、山城の「忌寸」より上の秦「宿禰」になって、河内から左京へ移って、

太秦公宿禰になることによって、本流の山城の秦氏を追い越し、秦氏の族長的位置についた

のである。

 

p047

 

ウヅは、珍・厳・貴を意味する古語で、天孫をウヅの御子などと呼んでいるから、

ウヅ(貴)マサ(勝)と単純に解釈すべきであろう。

 

==>> この話の流れをみると、渡来人である秦氏が大和朝廷(ヤマト王権)に近い

ところで出世して、それが太秦(うずまさ)という名前に繋がっているようです。

 

p055

 

五世紀の倭王権について、直木孝次郎が、「葛城臣と大王家の両頭政権ではなかったか

と思われる」と書くほど、葛城臣は大きな権力をもっていた。 その権力は、大王の下

で権力をもっていた大伴・物部などの氏族と違って、大王と同じレベルでの権力

あったから、大王も葛城臣の女性を皇后にせざるを得なかった。

 

葛城臣の祖の葛城襲津彦・・・の『日本書紀』の伝承には、国内関係伝承はまったくなく、

朝鮮半島関係記事のみである。 

・・・・襲津彦は、朝鮮半島の倭人集団の長ではなかったかと、私は推測している。

 

p056

 

葛城襲津彦が史上に登場する時代は、四世紀末から五世紀初頭だが、それより

さかのぼる三世紀の『魏志』倭人伝に載る『狗邪韓国』について、韓の地にある

倭国とみる説がある。

 

==>> 葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)

https://kotobank.jp/word/%E8%91%9B%E5%9F%8E%E8%A5%B2%E6%B4%A5%E5%BD%A6-464631

     「記・紀にみえる伝承上の人物。

「古事記」によれば,建内(武内)宿禰(たけしうちのすくね)の子とされ,玉手臣

(たまてのおみ),的臣(いくはのおみ),生江臣(いくえのおみ),阿芸那臣(あぎなの

おみ)の祖。「日本書紀」には神功(じんぐう)巻から仁徳(にんとく)巻に新羅(しら

),加羅(から),百済(くだら)など朝鮮に派遣されたことがしるされている。」

 

Wikipediaには、

「武内宿禰の子で、葛城氏およびその同族の祖とされるほか、履中天皇(第17

代)・反正天皇(第18代)・允恭天皇(第19代)の外祖父である。」

とあって、天皇の親戚になっています。

 

     狗邪韓国(くやかんこく)について、

https://kotobank.jp/word/%E7%8B%97%E9%82%AA%E9%9F%93%E5%9B%BD-831128

     「《魏志倭人伝》に見える国名。3世紀頃朝鮮にあった弁韓12国の一。

《魏志韓伝》には弁辰(弁韓)狗邪国とある。狗邪は加羅(から)の意で現在の

慶尚南道金海,釜山の地。」

 

・・・・ここで何故、葛城氏の話が出てきているのかと言いますと、

話の筋からは、葛城氏と弓月の民との伝承の繋がりを解いていこうとして

いるようです。

 

p058

 

中国文献では、五世紀代まで、朝鮮半島南部に倭人がいたとみているが、朝鮮文献

ではどうであろうか。

 

p059

 

私は、朝鮮半島の倭人の本拠地は、日本列島の倭人の船の碇泊地になる海岸地帯で、

その本拠地で半島と列島の倭人は合流し、新羅の東海岸から慶州に侵入したり、根拠地

から地続きに侵攻したのが、『三国史記』の倭人・倭兵記事と推測する。

 

==>> ここで連想するのが「倭寇」という言葉なんですが、この言葉には

     歴史上は異なる意味で使われていたようです。

     この五世紀の頃の意味は下のようなことだそうです。

     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%AF%87

     「字句をそのまま解釈すれば、倭寇とは「倭人(日本人)の侵略賊」という意味

で、中国、朝鮮では日本人海賊を意味する。使用例は5世紀(404年)の高句麗

広開土王碑の条文にも見られるが、後世の意味とは異なる

ここに見られる『倭、○○(地名)を寇す』という表現の漢文表記では『倭寇○

○』のように「倭寇」の2字が連結しており、これが後に名詞として独立したと

考えられている。つまり5世紀の倭寇は「侵入してきた倭(国)」を指し13

紀以降の倭寇は「倭人を主とする海賊集団」となる。」

 

 

 

p062

 

このような襲津彦伝承の性格は、当時の東アジアの国際関係の中で、葛城臣が特に

半島と深いつながりをもっていたからであろう。

 

したがって、半島から列島へ渡来する人々が、葛城臣の仲介を必要としたため、

葛城臣の祖の襲津彦伝承に、それが反映しているのだろう。

 

p063

 

伝承のほとんどが、韓国の王や王族、人民や技術者を連れてきた伝承である。

 

 

p066

 

葛城臣の権力が衰えても、大王と葛城臣の両方の血縁者でなければ、皇位につけな

かったのは、単に権力だけでなく、血統も大王と同じレベルであったことを暗示して

いる。

 

『古事記』で葛城長江曽都毘古が登場する、建内宿禰後裔氏族系譜の、波多臣・

許勢臣・蘇我臣・平群臣・紀臣らの伝承上の祖は、すべて朝鮮半島との関係伝承

をもっているのは、これらの氏族の祖が、朝鮮半島の倭人集団の長と関係があったから

であろう。

 

葛城臣のヤマト王権における地位からみても、秦造の祖は葛城襲津彦の活躍した

五世紀前後に、葛城氏の本拠の掖上(わきがみ)とその周辺に、まず定着し、五世紀中葉

から後半に、山城へ移住したと考えられるのである。

 

==>> おお、やっと葛城氏と秦氏のつながりが出てきました。

     いずれにしても、大王(あるいは天皇)の一族にかなり近いところに

     いた様子が分かります。

 

 

 

では、次回は 「弓月の君と秦氏・波多氏」から読んでいきます。

 

 


===== 次回その2 に続きます =====

 大和岩雄著「秦氏の研究」を読む ―2― 弓月の民、 稲荷神社、波多野神社、養蚕(こかい)神社、 三柱鳥居、 秦王国は豊前、 香春神社、宇佐神宮、豊国法師と朝鮮の巫覡 (sasetamotsubaguio.blogspot.com)




 

 

 

 

 

 

 

 

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