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金澤正由樹著「古代史サイエンス ― DNAとAIから縄文人、邪馬台国、日本書紀、万世一系の謎に迫る」を読む ― 後編

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      <<前編からの続きです>>         p195   さて、宇佐神宮は、応神天皇と神功皇后、そして比売大神が祭神です。 これから宗教的に判断すると、 「皇統断絶」が疑われている継体天皇 の子孫である天武天皇 は、外部の人間ではなく、神武天皇からつながる 男系ということになります。   ==>> 継体天皇については、過去に読んだ本の中に下のような      解説がありました。       熊谷公男著「大王から天皇へ」を読む ―4― 継体天皇は婿入り?       https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2023/02/blog-post_8.html      「p134 記紀によれば、 雄略の後の大王は清寧(せいねい)―顕宗(けんぞう)― 仁賢(にんけん)―武烈(ぶれつ)と続く が、いずれも短命に終わる。  六世紀は、 継体天皇の異例づくめの即位 とともに開幕する。  金村は物部麁鹿火(もののべのあらかい)大連らとはかって、 応神天皇の五世の孫の男大迹(おおど)王 を越の三国(福井県三国町) から迎えたという。 これが継体天皇である。       p196   宇佐神宮の祭神には、 「比売大神」という女神 もいるのですが、 具体的に誰なのかわからない ようです。 普通の神社は拍手は2回ですが、 宇佐神宮では出雲大社と同じく 4拍手です。 神道的には、4は「死」に通じるので、 誰かの 霊を閉じ込めている ことになるそうです。   井沢元彦氏によると、台与の後継者かもしれないとのこと ですが・・・・・   ==>>  wikipedia によれば、下のようになっています。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E5%A3%B2%E7%A5%9E      「八幡社では比売大神を祀る。 総本宮である宇佐神宮 (大分県宇佐市)や宇佐から勧請した石清水八幡宮 (京都府八幡市)などでは、 宗像三女神を祭神 として祀る。」

金澤正由樹著「古代史サイエンス ― DNAとAIから縄文人、邪馬台国、日本書紀、万世一系の謎に迫る」を読む ― 前編

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      インターネットや新聞などで、古代人のゲノム解析の結果が出たこと などが掲載されていたので、興味があって、この本を読んでみました。   この本の全体のストーリーの流れで、古事記や日本書紀、そして 魏志倭人伝などとの関係性をすっきりと理解できるかといえば、 私にはストンと落ちる感じにはなりませんでした。   しかし、様々な分野での研究結果が従来型の日本の古代史を 再編していくことになるのだろうという予感を感じることができました。   では、私が気になった部分を引用しながら、感想を書いていきます。   ==     p031   ゲノム解析の結果は一貫していて、 弥生人の DNA は現代日本人とほぼ同じ でしたが、 なぜか弥生時代の朝鮮半島南部人ともほぼ一致 していました。 これは、薩摩半島の南方50 km にある、 鬼界カルデラが約7300年前に 大噴火 し、南部九州の縄文人は壊滅したものの、かろうじて生き残った 北部九州の縄文人が朝鮮半島南部にまで避難し、その後に北方から来た 中国大陸人と混血した・・・という驚くべき歴史があった可能性を示して います。     ==>> この話は前回読んだ本の中で、朝鮮半島南部にいわゆる「倭人」が      住んでいたという話と一致します。      ただし、 倭人=日本人という意味ではないという但し書き が      ありました。     p044   恩師はこう諭しました。 我々は工学系の人間である。  工学では、実際に動作しないプログラムには 何の意味もない 。 動作するプログラムがいいに決まっているではないか、と。   p045   つまり、従来の「定説」には必ずしもこだわらず、完璧な理論的一貫性も 求めない。 しかし、現実に起きている現象について、 なるべく多く矛盾 なく説明できるという「仮説」を提示する ことです。   ==>> この理系の著者の考え方は、前回読んだ本の方針にも近いと      感じます。 漫画家の無理のない筋立てが、素人にも納得      出来るものでした。       あおきてつ

あおきてつお著「邪馬台国は隠された」を読む ― 卑弥呼はなぜ日本書紀に書かれていないのか? ― 後編

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    <<前編からの続きです>>         p178   「古事記」「日本書紀」の記述によると、 神武天皇は「九州から やってきた」 ことになっています。   ・・・神武一族=邪馬台国だとしたら、九州を出て、東に進んだ 邪馬台国が、都を大和へ移し、政権を樹立したことになります。   p180   壱与が西晋に使者を送った西暦266年より、実に50年も以前に、 大和では新しい国づくりを始めているわけなのです。   邪馬台国が東遷しようがしまいが、大和では新政権が着々と 国づくりを始めている ではありませんか。   これはどう考えても、 邪馬台国東遷説に無理があり、時代が合わない と言わざるを得ません。   ==>> 私も過去に読んできたいろいろな本からのイメージとして、      邪馬台国東遷説じゃないかと思っていたんですが、      どうも雲行きが変わったようです。     p183   福岡県朝倉あたり をさらに調べていたら、 大和へ移住した痕跡 を示すある事実が浮かび上がりました。 歴史学者の安本美典先生が、 古い地図から福岡県夜須・朝倉地方と、 奈良県大和地方に、相当数の共通した地名がある ことを提示して いたのです。   p184   私は一つの可能性として、 ヤマト政権となる民(=神武一族)が、 西(夜須地方)から東(大和地方)へ移住した痕跡 ではないか、 と考えます。   ==>> ここでは、福岡県甘木・朝倉・夜須地方の地名と      纏向遺跡を含む奈良県大和地方の地名の共通点が      記されています。      邪馬台国ではない、九州の神武一族が東遷したという話。   p185   この福岡県夜須のあたりに、神武の出発点となるなんらかの痕跡が ないか、・・・   すると、不思議な遺跡の存在を確認したのです。 そこは、佐賀県吉野ケ里遺跡をも上回る巨大な規模をもつ遺跡と 言われ、・・・しかも何重にも環濠が掘られ、入