熊谷公男著「大王から天皇へ」を読む ―3― 倭王権のメンバーは? 氏族の姓はまだなかった  滅ぼされた葛城氏と吉備氏は国津神? 「天の下治めたまう」大王から天皇へ

熊谷公男著「大王から天皇へ」を読む ―3― 倭王権のメンバーは? 氏族の姓はまだなかった  滅ぼされた葛城氏と吉備氏は国津神? 「天の下治めたまう」大王から天皇へ

 

 

 


 

「第二章 治天下大王の登場」

 

 

p091

 

倭王権の王墓の地が、このように移動するということに関しては、考古学者の見解はほぼ

一致しているようである。 問題は、その意味をどう考えるか、ということである。

 

・・・「王朝交替説」が、戦後の古代史学界を風靡した。 しかし、近年はこの学説に

批判的な立場をとる研究者がふえてきている

 

p093

 

文献史料からみると、五世紀の倭王権の主要な構成メンバーは、倭王家・葛城・和珥

(わに)氏などのヤマトの勢力と、吉備・出雲・紀・上毛野(かみつけの)氏などの

有力地方豪族であったとみられ、河内の勢力は見いだせない。

 

六世紀になると地方豪族の地位が低下し、ヤマトの優位が確立するが、有力氏族に河内

の豪族がほとんどみられない点は同じである。

 

p094

 

河内の勢力が古市・百舌鳥古墳群の巨大古墳を造営したとみるのはやはり無理で、

ヤマトの勢力が何らかの理由で河内に王墓を造ったと考えるしかないと思われる。

 

==>> この時期の有力者がどんな氏族だったのかは興味のあるところです。

     倭王家・葛城・和珥(わに)氏というのがいわゆるヤマト勢力ということ

     なんですが・・・

     まず「倭」をチェックすると、諸説紛々でなんだかその由来すら分かりません。

     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD

 

     もし仮に倭の五王というのが倭という名字だったとすると、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B0%8F#:~:text=%E5%92%8C%E6%B0%8F%20%EF%BC%88%E3%82%84%E3%81%BE%E3%81%A8%E3%81%86%E3%81%98%EF%BC%89%E3%81%AF%E3%80%81%E3%80%8C%E5%92%8C%E3%80%8D%E3%82%92%20%E6%B0%8F%20%E3%81%AE%E5%90%8D%E3%81%A8%E3%81%99%E3%82%8B%20%E6%97%A5%E6%9C%AC%20%E3%81%AE%20%E6%B8%A1%E6%9D%A5%20%E6%B0%8F%E6%97%8F,%E5%A7%93%EF%BC%88%E3%82%AB%E3%83%90%E3%83%8D%EF%BC%89%20%E3%81%AF%20%E5%8F%B2%20%E3%80%82%20%E5%80%AD%20%E3%83%BB%20%E9%A4%8A%E5%BE%B3%20%E3%81%A8%E3%82%82%E8%A8%98%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82

     こちらにあるように、和氏(やまとうじ)の和は

     「和氏(やまとうじ)は、「和」を氏の名とする日本の渡来氏族。姓(カバネ)

は史。倭・養徳とも記される。」

百済系の渡来氏族で、百済の第25代王・武寧王の子孫である。和(やまと)

の名称は、大和国城下郡大和郷(現在の奈良県天理市佐保庄町大和一帯)に由来

する。」

とありますから、渡来氏族ということになりますね。

 

ちなみに、こちらのサイトの下の記述を見ると、倭直系の王朝という書き方

になっていますので、倭氏が最初の頃の天皇になったと理解できます。

https://tokyox.sakura.ne.jp/wordpress/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E3%80%81%E7%B4%80%E4%BC%8A%E3%80%81%E5%A4%A7%E5%92%8C%E3%81%AE%E5%87%BA%E9%9B%B2%E7%B3%BB/

「富家の話だと、9代天皇までは、富家系と倭直系の王朝だと主張されています。

神武~3代は倭直系の王朝、56代は出雲系7代目=孝霊は倭直系、8,9代は

富家系だそうです。

倭直は、海神族で多氏や吉備氏、海部直、尾張連などが祖を同じくしてます。

出雲系は、富家の分家と和邇氏、三輪氏などです。」

 

上記に出て来た富家とは:

出雲王家、富家の富神社と出雲に攻め入った大和大王「フトニ大王」を祀る

高杉神社

https://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/464b21299eccb5cdf6234e3f2a4e7b35

「古代出雲王朝は 東出雲王家の富家と西出雲王家の神門臣家のニ家が

それぞれ主王(役職名は大名持ち)と副王(役職名は少彦)を交互に出し合って 

維持されて来ました。」

とあるように、出雲の王家のようです。

 

葛城氏は、大王家との婚姻関係が強かったようです。

また、和珥(わに)氏については、諸説あるようですが、朝鮮系鍛冶集団、

海人族、地祇(ちぎ)系氏族などがあるようです。

地祇系とは国津神系だそうです。

朝鮮系鍛冶集団というのと地祇系というのは矛盾するような気もしますが。

 

     上記の「倭直」は、椎根津彦(しいねつひこ)を祖とする「倭直部」の

     ようです。 神武東征で活躍したらしい。

     https://nihonshinwa.com/archives/17369#i

 

 

p095

 

河内が列島最大の渡来人の集住地となったのは、在地勢力の未発達という事実と表裏の

関係にあったとみられる。 四世紀末以降、倭王権は、有力な在地豪族のいない、

未開拓地のひろがる河内に渡来人を計画的に集住させ、彼らのもつ先進技術をつかって

この地域の開拓を組織的におこない、さらには彼らの持ち込んだ先進技術による生産拠点

を設けていったのである。

 

==>> これらのストーリーの流れから言えそうなことは、

     古くから半島からきていた渡来人が、新しくやってきた渡来人を

     使って、倭王権を有力なものにしていったという話なんでしょうか。

 

 

p097

 

河内の地域的重要性が高まってくると、王権を構成する主要氏族が新たに河内に拠点を

おくようになるのは自然の勢いである。

 

六世紀以降、大伴連(おおとものむらじ)・物部連(もののべのむらじ)・中臣連

(なかとみのむらじ)・土師連(はじのむらじ)などの連のカバネをもつ氏族は、

ヤマトと河内の双方に拠点をもっていたことが知られる。

 

==>> この辺りでやっと日本史で学んだ名前が出てきました。

     土師連は知りませんでしたが・・・

     土師氏は、wikipediaでは、

     「古代豪族だった土師氏は技術に長じ、出雲、吉備、河内、大和の4世紀末から

6世紀前期までの約150年間におよぶ古墳時代において、古墳造営や葬送儀礼

に関った氏族である。」

とあります。 埴輪を発明したという噂も。

土師という名前は土師器からきているのでしょう。

 

p100

 

六世紀以降になると、倭王権は地方にも国造(くにのみやつこ)などの地方官をおき、

支配機構を媒介とした地方支配を行うようになるが、それにくらべると、ヒトとモノの

行き来を媒介として形成されたこの段階の王権と地域勢力との関係は、はるかに流動的

であった。

 

p101

 

長山泰孝氏が注目しているように、五世紀代には葛城・・・・などの中央の諸氏や、

吉備・・・・などの地方豪族が、軍事指揮官として国内各地や半島に軍兵を率いて

遠征したという伝承がある。 こちらの方が歴史的事実を反映しているとみるべきで

あって、五世紀代には倭王がみずから軍兵を率いるということはもはやなく、王権を

構成する有力メンバーが、倭王の権限を一時的に委譲されて、軍事指揮官として内外の

遠征に派遣されたとみられる。

 

==>> ここでは、五世紀から六世紀にかけて、次第に倭王権が制度的にも

     支配を固めていったことが述べられています。

     五世紀はまだ「ヒトとモノの行き来」が豪族たちを繋ぎ留めるもので

     あって、いわば「金の切れ目が縁の切れ目」的なものであったのが、

     制度的に支配する形が出来て来たということのようです。

 

p102

 

『書紀』にも、地方で反乱がおこり、軍兵を派遣したという伝承的記事が散見する。

これらのことを総合すると、五世紀代に列島各地でしばしば首長勢力同士の武力衝突

がおこり、それに王権が軍事介入することがあったことは否定できないと思われる。

 

==>> いわゆる倭国大乱といわれるものは、2世紀後半の出来事だとされて

     いますが、ここでは、五世紀代の列島各地での武力衝突について書いて

     あります。

     著者は、

     「集落全体を巻き込んだ争いというよりは、首長家同士の抗争という性格

     をもつものであった可能性がたかく・・・」

     としています。

 

 

p112

 

倭王権は、五世紀末の倭王武=雄略天皇のときに中国王朝と決別するが、その

雄略天皇に相当すると考えられるワカタケル大王が、国内で独自の「天下」観をもち、

みずから「治天下大王(ちてんかだいおう)」と名のって列島支配を行っていたことを

示す刀剣銘が二つ発見されている。

 

==>> 獲加多支鹵大王(わかたけるだいおう)について。

https://kotobank.jp/word/%E7%8D%B2%E5%8A%A0%E5%A4%9A%E6%94%AF%E9%B9%B5%E5%A4%A7%E7%8E%8B-879827

     「埼玉県行田(ぎょうだ)市の稲荷山古墳出土鉄剣銘に記された辛亥年(471年)

当時の大王。雄略天皇の諱を大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)といい,478年の

上表文で知られる倭王武が雄略とされることから,この大王も雄略天皇とする

説が有力。」

 

埼玉県立さきたま史跡の博物館

https://sakitama-muse.spec.ed.jp/%E9%87%91%E9%8C%AF%E9%8A%98%E9%89%84%E5%89%A3

「剣身に表面57文字、裏面58文字の計115文字の銘文が金象嵌で刻まれて

いる。その内容は「辛亥年」(西暦471年)に「ヲワケの臣」(または「ヲワケ

コ」)が「杖刀人首」(「杖刀人」のトップ)として「ワカタケル大王」(雄略天皇)

に仕えたことを示すもので、日本古代史を解明する上で欠かせない超一級資料。」

 

 

 

p118

 

鉄剣銘の系譜には、のちの氏族系譜とは大きく異なる点もある。

それはウジ名(姓)が記されていないことである。

船山古墳の銘文大刀を作ったムリテという人物も、名前だけで姓がない。

これは、オワケ臣の時代にはまだ一般にウジ名が成立していなかったことを示す重要な

証拠となる。

 

これまで五世紀の豪族を、葛城・和珥・吉備・上毛野などと、氏族名でよんできたが、

正確には、それらの氏族の先祖、あるいは原葛城氏などというべきなのである。

 

鉄剣銘は、ウジ名の成立に先立って氏族系譜が存在していたことを示している。

 

==>> 氏族名つまり「姓」がまだ無かったというのは重要ですね。

     そのまだ無かった頃に、天皇が生まれたということならば、今の天皇家にも

     姓が無いということの意味が分かるような気がします。

     

 

 

p120

 

近年では、国造(くにのみやつこ)制の成立は、六世紀前半とみるのが通説になりつつある。

私もこの見解を支持している。 ワカタケル大王の時代の二つの刀剣銘が、ともに在地での

政治的地位にふれていないのは、オワケ臣もムリテも、在地で国造などの王権の定めた

官(つかさ)についていなかった、さらにいえば、この時代には、そもそも王権の任じる

地方官自体が、まだなかったことを示すと考えるべきであろう。

 

==>> ここでは刀剣にあった銘の内容から、少なくともワカタケル大王(雄略天皇)

     の頃には地方官の制度などはなかったと見ているようです。

     倭王権の支配がそこまで及んではいないという話です。

 

 

p123

 

国文学者の神野志隆光氏がいうように、「治天下」はもちろん、「天下」も特殊な政治性、

イデオロギー性を帯びて用いられる言葉であった。

 

たとえば『古事記』では、各天皇記を「〇〇は、△△の宮に座しまして天の下治めたまう」

と書き始めるように、「天下」は「天皇のもとになりたつ世界」という思想性を包含して

いる。 「治天下」と結びついて用いられる君主の呼称は、大王と天皇しかない

 

p126

 

雄略天皇の時代は、400年前後の第一波渡来人の大量流入によって幕が切って落とされ

た歴史の新たな段階の到達点であるといってよい。 この段階の列島の歴史の推進力と

なったのは、半島ルートを通して伝来した「カラ」を中心とした地域の渡来人と先進技術

・文物であった。 これらのヒトとモノを独占掌握した倭王権は、それをテコに列島支配

を強化していった。 そしてそれは、「治天下大王」として結実することになる。

 

==>> ここで著者は、この「治天下大王」という呼称が、「天皇」に繋がったもの

     だとしています。

     「天の下治めたまう」大王から天皇への変化ということです。

 

 

p128

 

この五世紀後半の半島の戦乱は、列島の歴史にも多大の影響を及ぼした。

雄略朝前後には、戦乱の余波をうけて、今来漢人(いまきのあやひと)と呼ばれる百済系

の渡来人が多数来朝する。 彼らが第二波の渡来人で、列島に百済系の先進技術をもたらす

ことになる。 

 

 

倭王権はこのときも渡来人を王権の政治機構に組み込んで、彼らのもつ技術の独占を

はかった。

・・・第一波渡来人の有力な一族である東漢(やまとのあや)氏の管掌下におかれた

 

 

雄略朝でもう一つ逸することのできないできごとは、五世紀に大きな勢力を誇った

葛城氏と吉備氏が相次いで没落することである。

 

p129

 

『書紀』によれば、雄略が市辺皇子を狩りに誘いだし、だまし討ちにしたという。

雄略は葛城氏を滅ぼし、ライバルの葛城氏系の王子を殺害して、ようやく大王になること

ができたのである。

 

p131

 

以後、大伴・物部氏や蘇我氏のような、王権の新しい支配機構に密着し、ヤケだけで

なく部を重要な経済的基礎とするタイプの氏族が王権の中枢部を占めるようになるので

ある。

 

==>> ここでは、従来は王権をささえる立場だった有力な豪族が滅ぼされて、

     新しい制度に組織的に配置された氏族がそれぞれの職務として大王を

     支えていくという形になったようです。

     葛城氏と吉備氏は、国津神だったんでしょうか・・・・

 

 

 

さて、第二章を終わりました。

 


次回は「第三章 自立する倭王権」に入ります。

 

 

===== 次回その4 に続きます =====

 熊谷公男著「大王から天皇へ」を読む ―4― 継体天皇は婿入り? 宮内庁vs考古学者 徳治vs血縁「事依(ことよ)させ」 任那日本府はタブー? (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

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