大和岩雄著「秦氏の研究」を読む ―8(完)― 新羅びいきの『古事記』と新羅嫌いの『日本書紀』 古事記偽書説とは 秦氏は「日本の文化と信仰に深く関与した渡来集団」
大和岩雄著「秦氏の研究」を読む ―8(完)― 新羅びいきの『古事記』と新羅嫌いの『日本書紀』 古事記偽書説とは 秦氏は「日本の文化と信仰に深く関与した渡来集団」
「五、 秦氏をめぐる諸問題」に入ります。
p520
『日本書紀』には載らず、『古事記』にのみ載る神統譜に、大年神系譜がある。
この系譜は、秦氏の『古事記』への関与と、『古事記』の成立過程を示唆する・・・・
ここに載る二十九神のうち、『日本書紀』に載る神は、大国御魂神の一神のみで、
大年神をはじめ他の二十八神は、すべて『古事記』のみに載る神々である。
p524
曽富理神(園神)と韓神は、平城京の地に住んでいた秦氏が祀る神であったのが、平安京
が造営された後、平安京の守り神となって宮内省で祀る神になった。
==>> 大国御魂神とはどんな神様なのでしょう。
http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/shinmei/okunimitamanokami/
「旧 大国御魂神(地祇本紀)
大年神の系譜中に見え、大年神が伊怒比売を娶って生んだ五神(大国御魂神・
韓神・曾富理神・白日神・聖神)の第一。」
「大年神と伊怒比売との間に生まれた兄弟五神については、神名から、渡来系の
神かといわれ、あるいは、渡来系氏族の秦氏らによって奉斎された神とも論じら
れている。また、各神の順序や性格の関連から、この神名の列記が、農耕、稲作
文化の日本への伝来を語ったものではないかとする説もある。」
こちらのサイトでもダブルチェックしておきます。
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E9%AD%82%E7%A5%9E-1059940
「大国魂神は〈大年(おおとし)神の子〉,または〈大国主神〉とも言われて
いる(《古事記》《日本書紀》《古語拾遺》)が,本来は幾つかの国魂の総称,
あるいは,最高の国魂と考えられたものであろう。」
一方で、「倭大国魂神」という神様もいるんですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E9%AD%82%E7%A5%9E
「『日本書紀』のみに登場し、他に日本大国魂神とも表記する。大和神社(奈良
県天理市)の祭神として有名。」
「大国主神の別名の一つに「大国魂大神」があることから、倭大国魂神は
大国主神と同神とする説がある。」
・・・つまり、『古事記』にのみ載っている大国魂神と『日本書紀』のみに
出てくる倭大国魂神という神がいるんですね。
しかし、結局、どちらの神も、大国主神・大物主神という同一の神ってことに
なるのでしょうか??
まあ、いろんな説が混じり合って訳が分かりません。
p525
この三神(韓神・曽富理神・白日神)と共に列記されている聖(ひじり)神の四神を、
中沢見明は外来神・外国神とみているが、西田長男も、聖神は韓神・曽富理神・白日神
と同じに、「秦氏の以ちいついていた」神であったことは、「先づ疑問の余地はなかろう」
とみている。
==>> こちらで曽富理神(ソホリ神)の解説をみてみます。
http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/shinmei/sohorinokami/
「新羅の王都を意味するソフルが神霊の来臨する聖処を原義とするとし、
「曾富理」が京城の意で、この神を京城・帝都の守護神とする説がある。百済の
王都泗沘も「所夫里」と呼ばれ、書紀第八段第一書に素戔嗚尊が五十猛神を率い
て新羅国に降り「曾尸茂利」(ソシモリ)にいたとある。現『古事記』が平安初
期に成立したものとする立場から、この神が、遷都に際して平安の新京の護り神
として秦氏が奉斎した神であるとし、秦氏がその根拠地に平安京を誘致する
ことに成功したことで、朝鮮半島の京城の護り神である曾富理神を新たに勧請
したものとする説がある。」
・・・いずれにしても、諸説紛々ということですね。
p525
竈神(かまどがみ)をもってきた渡来人(代表的なのが秦氏)が、日本流の奥津日子・
奥津比売という神名をつけたのだろうが、大山昨神も秦氏の奉斎する松尾大社の祭神に
なっている。
==>> この竈神さまは世界中にいるようですね。
https://nihonsinwa.com/page/307.html
大山咋神(おおやまくいのかみ)は、松尾大社と関係あり。
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%92%8B%E7%A5%9E-451033
「『古事記』によれば,穀物などの実りの神である大年神と天知迦流美豆比売との
間に生まれた子で,近江国の日枝の山(大津市の日吉大社),また葛野の松尾(京都
市西京区の松尾大社)にいて鳴鏑(音を立てて飛ぶ矢)を持つ神であり,山末之大
主神という別名を持つという。」
「比叡(ひえい)の山をまもる神とも京都松尾(まつのお)神社に鎮座して鳴鏑
(なりかぶら)をもつ神ともいう。」
・・・こうやってみると、外来の神でありながら、庶民の台所から信仰の
御山まで、いろいろと祀ってきたということのようです。
p526
このように、大年神の系譜に、秦氏にかかわる神々が入っていること。 特にこの
系譜が『古事記』にのみ載っていることからみて、『古事記』と秦氏の関係は無視
できない。
p527
古事記偽書説を発表した中沢見明は、戦時中憲兵隊にひっぱられたそうだが、
『古事記』を聖書としていた時代に、『古事記』成立への疑問を書くわけにはいかなかった
から、宮島も太平洋戦争中に発表のこの論文では「筆を擱(お)く」と書かざるを
得なかったのであろう。
このような説ああることからみても、山城国葛野地方の主権者秦氏と、『古事記』の関係は
否定できない。
==>> ここで、古事記偽書説がどんなものなのかを見ておきましょう。
http://relnet.co.jp/relnet/brief/r18-90.htm
「▼『古事記』を疑うことは今もタブーである
この何の疑いもないようなことが実は虚偽であり、この方面を専門とする学者
ならとうに感づいているとしたらどうだろう。これを「古事記偽書説」というが、
その疑いは賀茂真淵に始まり、近代における嚆矢は中沢見明(けんみょう)氏の
『古事記論』であった。」
「中沢氏は親鸞論で著名な、浄土真宗本願寺派の伊勢・暁覚寺の僧侶で、異論を
提出したのは昭和初期のことであったが、学会挙げての凄まじい袋叩きに遭い
沈黙せしめられた。戦時中には憲兵に「国賊」呼ばわりされたそうである。」
「しかし、その日本神話には食い違いがかなりある。例えば、「高天原」や
「大国主神」の名は『古事記』の称で、『日本書紀』の「本書」にはなく「一書」
に登場するのみである」
「つまり、私たちが紀記神話あるいは日本神話と言うとき、実はむしろ『古事記』
を基にしているのである。」
「どれをとっても『日本書紀』より『古事記』の方が新しいのである。こんなこ
とを学者たちが気づかぬはずがない。事実、気づいてはいる。しかし誰も本当の
ことを語り出そうとしない。」
「『弘仁私記』序が説明してくれるのだが、万多親王にも関係する茨田氏ら百済
系氏族の系譜がデタラメだと断じてある。それもそのはずで、オホ氏は秦氏に
極めて近い新羅(もしくは加羅)系氏族なのである。それを一緒くたにするとは
言語道断というわけだ。「序」にはこうある、こんなデタラメを書くのは「旧記
を読まないからだ」と。そして「旧記」に注して、『日本書紀』『古事記』(「原-
古事記」であるとの理解も可)等と書くのである。」
「以上で、少なくとも「序」は後世の偽作であることは明白であろう。そして
もちろん「本文」についても、平安期の完成でしかあり得ない。」
・・・日本神話という場合に、古事記と日本書紀をごったにして一括りで
考えてしまいがちだが、神話と呼ばれる内容は古事記にあるだけだという
ことのようです。
そして、古事記が後から作られた偽書である根拠を掲げています。
古事記編纂に関連して、こちらの動画が気になるので、リンクしておきます。
【DNAが暴く】考察:古事記編纂の真相【ゆっくり解説】
https://www.youtube.com/watch?v=TtGCuXn2sYM&t=268s
「もし、古墳人が本当に遠い祖先だったら・・・」
「どうして、空想と史実を織り交ぜた書物を作り上げる必要性があったのか・・」
「伊勢神宮の内宮の禁足地は、外出禁止の場所・・・・」
「なぜ天皇家の皇祖神ともいわれる、アマテラスの参拝が千年もなかったのか」
「弥生人のDNAと古墳人のDNA・・・」
・・・おお、アマテラスは封印された祟り神???
「縄文人=縄文人のDNA
弥生人=縄文人DNA+長江系DNA=邪馬台国?
古墳人=縄文人DNA+長江系DNA+黄河系DNA=大和朝廷??」
というDNA解析の結果がでたんだそうな。
p531
『古事記』が『大御神』と書くのは、「天照大御神」「伊邪那岐大御神」「迦毛大御神」で
ある。 天照と伊邪那岐の「大御神」はわかるが、なぜ「カモ」の神のみを、「アマテラス」
「イザナキ」と同じに「大御神」をつけるのか。 これも大年神系譜と同じに、秦氏の
関与を示す一例といえよう。
==>> この賀茂と秦氏の関係は、こちらのサイトでも書いています。
https://blog.kyotokk.com/20060202/1320-01/146/
「松尾大社は賀茂社と並ぶ京都最古の神社で、701年秦氏である秦忌寸都理
(はたいみきとり)が松尾山の神霊を総氏神と仰ぎ神殿を建立したのが始まり
と言われています。」
p532
『古事記』に載っている秦氏の神は、「異民族同化政策」などという大それた政治意図
によって記載されているのではない。 秦氏と太氏との密接なつながりから、両氏は
共謀して神統譜をつくり付加、挿入したのである。
現存『古事記』は単なる国粋の書ではない。 「渡来」と書いて「帰化」とは書かぬ
のも、『古事記』の古さを示すのではなく、編集者の性格を示すものである。
==>> ここに出た「太氏(おおうじ)」を検索したところ、下のサイトが
見つかり、その中に「於保などとも記す」とありますので、これが
上記ででてきた「オホ氏は秦氏に極めて近い新羅(もしくは加羅)系氏族」と
繋がるのかなと思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%BC%E4%BF%9D%E6%B0%8F
「於保氏(おぼし、おほし)は、日本の氏族。日本最古の皇別氏族とされる、
多氏(おおし/おおうじ)の末裔説がある。」
p533
賀茂祭の「木を炬(や)き鉾を祭り」の「鉾」と「賢木(さかき)」は同じ神の依代だが、
鉾を祭り、賢木を立てるとき、必ず「火を炬く」のである。この役を宮廷では秦氏の童女が
おこない、伊勢の斎宮の祭事でも、わざわざ伊勢まで赴いて、秦氏の童女がおこなって
いるのは、矛や賢木を立て、火を炬いて神の来臨を待つ神事が、秦氏がとりおこなっていた
神事だったからであろう。
==>> ここでは、宮廷にも神事を実行するという中で、秦氏が朝廷に深くかかわって
いたことが述べられているのですが、下のサイトでは、秦氏の影響は
おもに四点があるとまとめられています。
渡来の民と日本文化
「秦氏の最大の特徴としては、さまざまな最新技術を持った集団であったことを
特筆しておく。・・・加藤謙吉は四点に整理している。
第一点として、製塩技術
第二に銅生産をあげる。
第三点は朱砂と水銀
第四点は土木・建築技術である。」
・・・いずれにせよ、この4点ばかりでなく、ここまで読んできたように、
信仰や文化芸術関連でも大きな影響があったことは否定できないようです。
p537
『古事記』は新羅人だけを記しているのに、『日本書紀』は高麗・百済・任那・新羅という
順に下記、新羅人をどん尻にしていることからも、『日本書紀』編者の新羅に対する見方が
わかる。
p543
この記述では、息長帯比売(神功皇后)は天之日矛の後裔であると記しているが、
こうした系譜は『古事記』にはない。
==>> ここでは、新羅びいきの『古事記』と新羅嫌いの『日本書紀』を対比して
解説しています。
このような記紀の違いを見ていると、
上記p527で「古事記偽書説を発表した中沢見明は、戦時中憲兵隊にひっぱら
れた」ということの意味がやや不可解な感じがします。
私の感じとしては、国粋的という意味では、『日本書紀』に拠るのが本来の
あり方であって、『古事記』が秦氏寄りだとするなら偽書説を政府が受け入れ
るのが自然かなとも思うのですが・・・・
まあ、記紀がごちゃまぜで日本神話として受け入れられてしまっているから、
今更それはできないってことでしょうか。
p548
このような内容の伝承が、三輪の大物主神になっているので、三輪伝説が原型で、
天之日矛伝説がつくられたとみる説もあるが、これは逆である。
『古事記』の天之日矛の伝承の原型は、新羅・加羅にあることは、三品彰英の全六巻
の論文集で、くりかえし述べているから、この三輪伝説も、新羅・加羅系の伝説が
反映しているとみるべきであろう。
p550
このように、朝鮮的要素をもつ三輪伝説は、特に『古事記』の記述に主にみられ、
こうした伝承は、天之日矛や秦氏の伝承と同じだから、秦氏と『古事記』の関係は
否定できない。
==>> これまでのこの本の内容の流れからみれば、これはそうだろうと
思います。
私の個人的感じとしては、そもそも三輪の大物主神が出雲の大国主神と
同一の神というのが、まだ納得できていません。
Wikipediaにもこのように書いてありますしねえ・・・
「大物主の由緒は不明瞭であり、他の神と同定すべきか否かについて複数の異説
が見られる。例えば古事記では詳しい説明はされておらず、大国主命とは別の神
である様に述べられている。
一方『日本書紀』の異伝では大国主神の別名とし
ており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として三諸山に
祀ったとある」
p558
宮中の楽人の家柄は、明治以前は七十軒ぐらいに分かれてをったそうですが、
ほとんど狛、林、東儀といふやうな苗字を名告る帰化人でございます。(中略)
そのなかで多氏だけが神武帝のご子孫だといふので格式が一番高かった。
p559
四天王寺のいわゆる「天王寺楽人はほとんど秦氏であった」と、・・・この天王寺楽人
の秦氏と雅楽寮の楽家多氏は、密接である。
p569
楽家多氏は、なぜか雅楽寮の楽人として採用されず差別されている天王寺楽人(秦氏)に、
秘曲を伝授している。 このような事実は、「多」を名乗っていても、楽家多氏が、本来
は天王寺の楽人と同じ秦氏系であったことを、示唆している。(宮内庁雅楽寮の多氏は
楽家多氏の末裔である)。
==>> 上記p532のところで、太氏(おおうじ)を検索した時に、
この「多氏(おおし/おおうじ)」のことが少し出てきました。
多氏の解説を見たところ、このような繋がりも書いてありました。
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%9A%E6%B0%8F-1150700
「多氏(おおうじ)は,平安朝以降,宮廷神事の歌舞音楽である雅楽をつかさど
った。このような伝統は古いに違いなく,そうした家柄であったことが,安麻呂
と《古事記》や稗田阿礼とを結びつける環であったのだろう。」
・・・この太安麻呂(おおのやすまろ)が、古事記を編纂し(712年)、
日本書紀の編纂(720年)にも関与したわけですね。
p572
彼らは全国到るところに分散して、工業に従事し、非常な富をなした。
・・・欽明天皇の朝、・・・天皇、後にこれを大蔵の吏に補し、7053戸の秦氏を
統ぶべき秦伴造とした。 富豪に金庫の監督を委した訳である。
p573
さらに聖徳太子の時に秦河勝が太子の旨を承けて、独力葛野の蜂岡寺すなはち今の
太秦興隆寺を興したことは、いかに彼の富裕であったかを示すに足るものである。
p576
林屋は喜田説を受け入れた上で、秦氏の経済力は「単なる大土地所有者」としての
経済力だけでなく、「殖産的」なものとみる・・・・
・・・八世紀後半のこの時代の秦氏は、「新興」氏族ではない。 二百余年前に
この地を開拓し定着していた氏族で・・・・
==>> 著者はここで、秦氏というのは、単なる土地持ちではなく、
富を生み出す殖産的な実業家であったということを言いたいようです。
そしてさらには、朝廷に非常に近いところで、側近的な立場も手に入れ
ていたということです。
p579
林屋辰三郎は、・・・・「律令政府の銭貨流通に関する政策」は、「班田体制とは相容れない」
から、農民より、秦氏のような殖産的氏族が、「最も容易に受容せられた」とし、・・・
実は藤原氏が秦氏と提携することによって、支配体制を維持しようとしたものであったと
思われる」と書き・・・・
p588
藤原種継が秦朝元の娘、 藤原小黒麻呂が秦島麻呂の娘を妻にしたのも、秦氏の財力が
バックにあったからである。
==>> 経済的な面と姻戚関係において、朝廷に深く結びついた藤原氏との
関係も作っていったわけですね。
p598
平野邦雄は、「百済仏教を通じての蘇我―漢―今来漢人の一貫した結合関係にたいし、
同時代の秦氏が新羅仏教への親近性を示すのは、まず仏教興隆をめぐる蘇我―漢と、
これにたいする聖徳太子―秦河勝の勢力的結合によるものと一応考えられよう」と
書いている・・・・
==>> 百済仏教=蘇我氏=漢人とあるのですが、ここでいう「漢人」は
漢民族の「かんじん」ではなく、漢人(あやひと)であろうと思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E4%BA%BA
「漢人(あやひと)
日本における中国系帰化系氏族。漢氏(あやうじ)に属し漢部を統率した。」
一方が、 新羅仏教=聖徳太子=秦氏という構図だそうです。
p602
秦氏と蔵部の結びつきは、秦氏が殖産氏族であったからだが、一方、秦氏が芸能
とかかわっているのも、芸能も蔵部に属していたからといえる。
この職人と芸能者は、中世になると、非農業者として差別された。
そのことが秦氏の信仰が被差別者の信仰になっている一因なのである。
==>> 日本の「中世」は、年表によれば鎌倉時代から戦国時代までとされています。
ということは、武士が台頭して、農民を基礎とした支配体制が
できてきたからということでしょうか。
その中で、士農工商の工商は低くみられたということですね。
芸能者は特に定住しない漂泊の民だったのでしょうから、さらにその下と
いうことでしょうか。
p615
豊前の秦王国の人たちが祀った香春(かわら)神社の祭神を、「辛国息長大姫大目命」
という。 香春神社の祭神が「息長」をつけるのは、息長と秦氏がかかわるからで
ある。 宇佐八幡宮も秦王国の神であったことは、くりかえし述べたが、八幡宮の
母神になっている神功皇后は、「息長帯(足)姫」という。
息長帯姫は「古事記」の天之日矛(天日槍)系譜では、新羅王子天之日矛の末裔に
なっている。
==>> 辛国息長大姫大目命で検索すると香春神社がひっかかってきまして、
そこに以下の記述があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%98%A5%E7%A5%9E%E7%A4%BE
「辛国息長大姫大目神社と忍骨神社に正一位の神階が与えられたのは、
承和10年(843年)で、これは奈良の大神神社(859年)、石上神宮(868年)、
大和神社(897年)が正一位になった年よりはるかに早い。」
「辛国息長大姫大目命と神功皇后との関連性は古くから議論されている。応神
天皇の母で三韓征伐を行い、朝鮮半島支配に成功した神功皇后は、『古事記』に
おいて息長帯比売命・大帯比売命と記されている。」
・・・少なくとも、大神神社、石上神社や大和神社よりも早く正一位にされた
ということは、歴史的にも重要な意味を持っていたということになりそう
ですね。
最古の神社はどこかということを書いたサイトは、たくさんあるようですが、
サイトによってどんな神社を選んでいるかは結構バラバラな感じがします。
その中で、大神(おおみわ)神社だと言い切っているのはこのサイトぐらい
でしょうか。
https://ovo.kyodo.co.jp/news/life/travel-news/a-1670303
「現存している日本で最も古い神社は、奈良県桜井市にある大神神社だ。本殿は
持たない。鳥居と、拝殿だけで構成されている。拝殿の奥にある三ツ鳥居から
仰ぎ見る聖山、三輪山そのものがご神体であり、信仰の対象なのだ。」
創建年は不明だとしながら、最古であると言うのは、いかがなものかと
思うのですが、その山を御神体とする形などから、古いとしているのでしょう。
私のフィーリングとしても、本殿をもたず、磐座や山を御神体としている
形のものがいいなと思っています。
私自身の興味が、神社以前の列島人の信仰はどのようなものだったのかと
いうところにあるからです。
p630
秦氏は、日本古代史上、単なる渡来人として論じるだけではすまされない存在である。
惟宗(これむね)氏・島津氏・宗氏など、中世・近世に活躍する名族も、秦氏であり、
中世の能楽者世阿弥も、秦元清と称しており、古代に限定することはできないだけでなく、
渡来人という枠に、はまらない氏族である。
秦氏は、日本人の神祇信仰・仏教・芸能・技術・殖産・学芸など、「日本の文化と信仰に
深く関与した渡来集団」なので、・・・・
==>> これが著者のこの本のまとめと言うべきところでしょう。
私もこの本を読んで、そのことはつくづく分かりました。
一方で、このように幅広く日本の文化と信仰に貢献した「非渡来人」と
いうのはどういう人たちなのかが知りたくなりました。
それは渡来人ではなく倭人なのでしょうか? 古墳人なのでしょうか?
そのあたりの区分すら曖昧で理解が及びません。
いずれにせよ、これでこの本を読み終わりました。
私の興味の焦点は、上にも書いたとおりなのですが、そのためには、秦氏以前の
列島の在り方を知らなければならないようです。
日本の歴史年表を確認すると、弥生時代の次に古墳時代がかかれていて、
以下のような事実があったらしいと書かれています。
https://www.petitmonte.com/contents/rekishi/nihon/kohun_zidai.html
「266 邪馬台国の女王、台与(とよ)が晋(中国)へ朝貢する
270~310頃 漢字の伝来 ※紀元前との説もある
3世紀後半頃 前方後円墳や円筒埴輪が出現する
3世紀後半頃 ヤマト王権(大和朝廷)が国内を統一する」
この辺りの時代は、魏志倭人伝以外に結局文字では残されていないようですから、
私が知りたいことは永遠に解明できないことなのかもしれません。
もし万一、宮内庁が今は立ち入り禁止、調査禁止になっている古墳などの
史跡を研究者に開放したら、どのような歴史的激震がはしるのか、この目で
見てみたいものだと思います。
===== 完 =====
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