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李在鎬著「認知言語学への誘い」を読む ― その1 認知言語学は意味の科学、生成言語学との違い?

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李在鎬著「認知言語学への誘い」を読む ― その1 認知言語学は意味の科学、生成言語学との違い?   李在鎬著 「認知言語学への誘い ― 意味と文法の世界」 を読んでみます。     私の読書テーマは相変わらず意識と志向性なんですが、いろいろ読んで来た本の 中に 「意味」とか「認知XXX」というものが時々出てくるので 、そもそも 意味って何? とか 認知科学系のものにはどんな特徴があるのかが気になりだした わけです。 それで、 意味論とか認知科学関連の本 を検索してみたところ、下の5つの本が なんだか良さそうな感じだったので購入しました。   そして、その中で、ざっと読んでみたところ、まずは 「認知言語学への誘い」 を読むのが よさそうに思ったので、読んでみたところ、非常に懐かしい感じの印象があったので、 まずはこの本から感想文を書いてみます。   なにが懐かしいと感じさせたのかということですが、私が日本語教育に関わってきた ことと関係があります。 2001年に、東京にある某日本語教師養成学校に通ったのですが、 そこで習った 直接教授法の理論的背景が、この認知言語学にあったのではないか と、読んでいるうちに 気が付いたからです。   ちなみに、私はこの学校で教授法を1年間ほど学んだのですが、その後の実習も含めて、 オーストラリア・メルボルン、西アフリカのベナン共和国、そして、養成学校にもどり 数か月間だけ講師を務めたあと、フィリピンのバギオ市の日本語学校や日系人会で 教えてきました。   この本は2010年に出版されているのですが、私が教授法を学んでいた頃に出ていたら よかったのになあ、とつくづく思います。   では、この本を読みながら、勝手な感想を書いていきましょう。 この本の 目次はこちらのサイト で詳しくご覧ください: http://www.kaitakusha.co.jp/book/book.php?c=2517   ちなみに、私が日本語教授法を学んでいた頃は、 森田良行著の「日本語学と日本語教育」 が バイブルのような感じでした。     p004   本書は日本語の日常表現に見られるさまざまな言語的

横山紘一著 「阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門」 ― その3(完) 念じれば自由になれる?  近代心理学は唯識論に似ている?

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  横山紘一著 「阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門」 ― その3(完) 念じれば自由になれる?  近代心理学は唯識論に似ている?     「第一章      心を変革する」を読んでいきます。       p130   私は大学時代には農学部水産学科で 魚の血液の研究 をしていました。 人間の持つ ヘモグロビンの一種であるハプトゴロビンが魚類にもあるか、あるとしたら、それは どのような組成なのか、これを調べるのが私の研究テーマでした。   しかし、座禅をはじめた頃から、・・・・いわば 対象化され分析された「生命」を対象に していた わけですが、それでいいのかという疑問が生じたのです。   ・・・私は、この 私自身の“いのち”を観察対象として 、それは一体なにかを追求していき たいと思いはじめたのです。   ==>> これは著者の研究テーマが、「対象化され分析された生命」から「研究者自身の      生命」に変わったことが述べられています。 いわゆる心身二元論でいうならば、      物理的客観的なものから精神的主観的なものへの転向ということになります。      具体的にはインド哲学科での研究を始めたようです。   p140   念とは「明記不忘」 といって、あるイメージを心の中に明瞭に記憶しつづけて、それを 忘れないこと、すなわち、消し去らないという心のはたらきです。   たとえば、澄んだ美しい 満月を心の中に描き 出してください。 そしてその満月を想い つづけてください。 すると、そのためにはかなりの集中力を発揮しつづけなければ ならないことがわかります。 その集中力が念の力 です。   ・・・すると、次第次第に 念力が増し、表層心を自由に操れるようになります 。 私は、念の力を発揮するところに本当の自由がある、すなわち、 「自らに由る」 という状況 が実現していると思います。   ==>> この部分の説明は、私が月に一度お寺で参加している瞑想会での 「月輪観」      に通じるものがあります。 月輪観では、まさにここにあるように、満月の      絵を観て、それを瞼に浮かべ、その瞼に浮かんだ満月を、しだいに大

横山紘一著 「阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門」 ― その2 有るのでも、無いのでもない。 「知らぬが仏」の言霊。 量子力学が仏教を補強する??

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横山紘一著 「阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門」 ― その2 有るのでも、無いのでもない。 「知らぬが仏」の言霊。 量子力学が仏教を補強する??   「第一章      心の中を探る」の「ヨーガによる深層心の発見」からです。       p077   1. 末那識は「深層にはたらく自我執着心」 。 常に阿頼耶識を対象として「自分」(我)と執する。 表層心がエゴで汚れている 原因は末那識である。   2. 阿頼耶識は「深層にはたらく根本心」 。  一人一宇宙の中のすべての存在を生じさせる 可能性を有していることから、その可能力を植物の種に喩えて「一切種子識」ともいう。 眼識ないし末那識を生じさせる。 身体を作りだし、それを生理的に維持している。 自然をも作りだし、それを常に認識しつづけている。   ==>> ここは、「八識」を説明している部分です。       八識とは 、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識の5つの感覚と、 意識(思考)、      そして、意識の下にある末那識と阿頼耶識の、あわせて8つの識のことです。   p079   この 「意識」 という語は、いまでは心の経験内容全体を意味する語ですが、これは明治 時代以後、 consciousness や  Bewusstsein などの西洋の語に対する訳語として用いられる ようになったものです。 しかしこの訳語は、もともとは仏教が六識あるいは八識の 一つとして説いた「意識」から借りてきたもの・・・・   ・・・ <唯識>が説く「意識」 には・・・・ 1. 感覚とともにはたらいて感覚を鮮明にする。 2. 言葉を用いて概念的な思考をおこなう。   ==>> 八識の中の「意識」には、このような働きがあることが述べられています。      確かに、自分自身を振り返ってみても、そのようなことかなと思います。   p086   存在の真のありようは「有るのでもなく、無いのでもない」 というのです。 当時は自然科学を学んでおり、また、深く物事を考えることもなく、もののありようは 有るか無いかのどちらかであるという常識の世界に生きていたので、びっくりしました。 その後