熊谷公男著「大王から天皇へ」を読む ―1― 天皇とはなにものなのか? 「現神御宇天皇」は、「この世に現れた神として天下を統治される神聖なお方」
熊谷公男著「大王から天皇へ」を読む ―1― 天皇とはなにものなのか? 「現神御宇天皇」は、「この世に現れた神として天下を統治される神聖なお方」
この本は、思いがけず、期待以上の本でした。
50年以上まえ、私は日本史という教科が一番苦手で嫌いでした。
年号や出来事を暗記するという能力がほとんどなかったからです。
この本を読むと、受験勉強のために日本史を勉強するという、ほぼ内容が分からないまま
暗記したことが実に残念だったということが現れてきました。
つまり、今更ながら、ああ~~そういうことだったのか、という歴史の断片が繋がって
きたように感じられたのです。
私の今の興味は、「天皇ってそもそも何者なのか」「神話とは誰が作ったものなのか」
「神社は誰がどのように始めたのか」・・・等々です。
では、例によって、拾い読みをしていきましょう。
p008
信長が「天下布武」という印章を用いたことは有名である。
この日本的な「天下」という言葉の起源は古代にある。
『古事記』が各天皇段の冒頭に、きまって「・・・の宮に座(ま)しまして天の下(あめの
した)治めたまう」と記すのをはじめとして、六国史や『万葉集』『風土記』など、たいて
いの古代の史料は、何ページが繰ってみれば、容易に「天下」という文字を見つけ出すこと
ができるはずである。
わが国での「天下」という言葉の初見は、五世紀にまでさかのぼる。
p009
本巻では、前巻の叙述を受けて、倭王権がいっそう発展して、列島の君主が独自の「天下」
的世界の王を自任し、さらに「天皇」と名のるようになるまでの時代を扱う。
具体的には、古墳時代が中期を迎える四世紀末前後から、七世紀後半の天武天皇の即位まで
の時期である。
この時代の大半は、列島の支配者は、「治天下大王」と名のり、「日本」という国号はまだ
なく、「倭国」であった。
天皇号の成立時期については、一部に推古朝説もあるが、最近は天武・持統朝(七世紀末葉)
説が有力視されている。
==>> まず、漢字の読み方ですが、wikipediaによれば、
「大王(おおきみ、だいおう)または治天下大王(あめのしたしろしめす
おおきみ、ちてんかだいおう)」となっています。
この巻は「日本の歴史03」となっていますから、前巻というのは
「日本の歴史02」でして、これを読んでおくのがよさそうです。
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211382
「前六世紀末から四世紀末、稲作伝来以来、日本列島は大きく変貌した。弥生人
の生活はどのようなものであったのか。各地に残る環濠集落、石剣が突き刺さっ
た人骨、大量に埋納された銅鐸・銅剣、巨大墳丘墓の築造。カミから神へ、
マツリから祭りへ、ムラからクニ、国へ。王権誕生・確立までのダイナミックな
歴史のドラマを最新の研究成果を結集し描く。」
・・・私的には、03でほぼ十分なのですが、念のために順番が逆ですが、
前巻を今後読みたいと思います。 邪馬台国も出てくるそうだし・・・
p010
大王の正式名称が「治天下大王」であったが、天皇にも「現神(あきつみかみと、明神)
御宇天皇(あめのしたしらしめすすめらみこと)」という、より長いよび方があった。
これは和文体の詔(みことのり)である宣命(せんみょう)などで使用される称号で、
「天皇」という称号にこめられた理念がより具体的に表現されている。
p011
つまり「シラス」が絶対的な統治権を意味する語であるのに対して、「オサム」は
互酬的(ごしゅうてき)(お互いが相手に見返りを期待する。ギブ・アンド・テイクの
関係)な統治権を意味する語であった。
==>> つまり、「治める」から「知らしめす」という絶対化が進んで、
大王から天皇になったということですね。
p012
中国人の頭のなかでは、中国に朝貢してくる「夷狄(いてき)」も含めて、天子の支配
が行き届く世界がすなわち「天下」なのであった。
一方、日本では、「アメ(天)」といえば、八百万の天つ神(あまつかみ)の住む神々
の世界がイメージされた。
p013
「現神御宇天皇」は、「この世に現れた神として天下を統治される神聖なお方」という
意味になる。
称号の変化の背後には、列島の君主の“王中の王”から“神”への飛躍があった、というのが
筆者の考えである。
==>> ここでは、中国大陸と日本列島での「天下」に対するイメージの違いが
説明されています。
従って、自ずから、その統治の概念や制度の違いも出て来たというべき
なのでしょう。
p013
大王の段階に、大王が天つ神の子孫(天孫)であるという観念は芽生えていたが、
まだ漠としたものであり、奈良時代以降のように、天照大神の直系の子孫という明確な
形の皇統観念にはなっていなかった。
==>> 私が知りたいのは、この天照大神を始めとする皇統観念というものを
誰が企画し列島全体に定着させていったのかという素朴な疑問への答えです。
それには、おそらく、記紀の制作、神話の拡散、神社の造営などが
関係するのでしょうね。
p014
新大王はまず群臣の推戴を受けることが必要で、ついで王宮を造る場所に小高い壇を
つくり、そこに昇って天つ神を祭り、神々から地上の支配を付託されて(これを
「事依(ことよ)させ」という)、はじめて王位につくことができた。
天皇が神であることの根拠は、「天孫降臨」の神話にあった。 天皇号の成立時期に
あたる天武朝に建国神話の体系化が推進され、八世紀はじめの記紀の成立によって
それが定着していく。
中国では、天と地上の支配者を結び付けるものは天命という抽象的な概念であったのに
対し、日本では天孫降臨という具体的な神話であり、君主の資格としては、天照大神の
直系の子孫という血統(これはもちろん事実ではなく、観念的なもの)が重視された。
==>> つまり、中国は実力主義、日本は血統主義、ってことでしょうか。
もちろん、最初にその血統主義を創ったのは、実力者だったのでしょうが。
さて、ここからその詳しい内容が語られます。
「第一章: 列島と半島と大陸 ―― 東アジア世界の中の倭国」
p018
倭王は、五世紀後半の雄略朝に、独自の「天下」観の形成を前提とした「治天下大王」
(ちてんかだいおう)という君主号を名のりはっじめるが、これは倭王権の伸長の結果
であった。
この時期の王権の形成には、列島周辺の東アジア世界との交渉がきわめて重要な意味
をもっていた。
半島ルートの担い手をみていくと、ほぼ四世紀初頭を境にして列島側の担い手が変わる。
それまでは北九州の勢力が中心となってカラ(半島南部の伽耶地域を列島社会ではこう
よんだ)との交渉が行われていたが、これ以降は畿内のヤマト・・・がそれに取って
代わる。 いわば、このときヤマトとカラがはじめて出会うのである。
筆者は、この出会いこそが、倭王権発展の原点であると考えている。
==>> ここで気になるのが前回読んだ『核DNAでたどる日本人の源流』です。
そこでは、国津神=縄文人、天津神=弥生人という感じの分析・考察でした。
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2023/01/dnay.html
「この出会いこそが、倭王権発展の原点」と著者が主張しているということは、
天津神=弥生人=渡来系ヤマト人ということになるのでしょうか。
p019
日本の国のことを「ヤマト」ともいうがこのヤマトは、元来、奈良盆地東南部一帯の
地名であった。
ここは三輪山の西麓一帯にあたるが、ちょうど倭王権の発祥の地でもある。
・・・箸墓古墳や、纏向遺跡が所在するのもこの地である。
==>> 昨年11月にこの地を散策したので、こちらでその雰囲気をどうぞ。
本殿がない三大神社を巡る:奈良県 纏向遺跡・箸墓古墳と三輪山・大神神社
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/11/blog-post_22.html
特に、三輪山をめぐる神話には、国津神から天津神への劇的な変化が
隠されているのを感じるので、非常に魅力的だと思います。
p020
古代史で「カラ」というと、本来は、朝鮮の三国時代、百済や新羅に併合されずに
残っていた小国群をさした。 ふつう「加羅」と表記するが、「加耶」「伽耶」などと
書かれる「カヤ」も、朝鮮語ではヤとラを通用するので、実は同じ語である。
これは、『書紀』が好んで「任那(みまな)」と呼んだ地域のことで・・・・・
p021
カラとは本来、半島南部の大河、洛東江(ナクトンガン)河口の右岸に所在した
金官(きんかん)国(慶尚南道金海市付近)の固有名であった。
『魏志』倭人伝の邪馬台国までの里程記事で、半島から列島への渡航の場所とされている、
狗邪韓国(くやかんこく)という国がある。 のちの金官国のことであるが、この
「狗邪」がカラに通じる地名なのである。
・・・ちょうど対馬の対岸にあたっており、天気がよければ対馬の北西端の千俵山から
遠望することができる。
==>> では、こちらのサイトで、狗邪韓国と対馬国の位置関係を見ておきましょう。
九州の伊都国も描いてあります。
仮説と検証③ 邪馬台国の在り処
http://yamataimichi.g1.xrea.com/kasetsu_kensyou_3.html
p022
ほんの二十~三十年ほど前まで、日本の古代史学界では、日本はヤマト朝廷が成立して
間もない四世紀後半には・・・「任那日本府」をおき、・・・「任那」を植民地のように
支配・経営した、・・・とする考えが不動の定説であった。
このような見解は、さすがに影をひそめつつあるが、一般には、まだまだ影響力を
もっているのではなかろうか。
p023
『書紀』は・・・「任那」の地は、朝廷の「官家(みやけ)」であると主張する。
・・・しかし、実際には・・・支配していたわけでは決してないし、伽耶諸国は
小さいながらも政治的独立を保っていた。
==>> 念のために、手元にある2016年文科省検定済みの「詳説日本史」教科書
で「任那」を目次から探してみたところ、本文には記載がなく、
脚注に「『日本書紀』では伽耶を「任那」と呼んでいる。」とだけありました。
私の50年以上前の授業の時は、確かに「任那日本府」ということが
しっかり描いてありました。
p025
近年の金海(キメ)を中心とした伽耶地域の発掘調査の進展によって、倭系遺物に
関して興味深い事実が明らかになってきた。 それは、列島の弥生時代までの倭系
遺物は、北部九州のものが大半を占めるが、古墳時代にはいると畿内の遺物が主体と
なる、という事実である。
四世紀代の墳墓から発見された巴形銅器・碧玉製石製品・筒形銅器などの倭系遺物は、
いずれも畿内のヤマトを中心に分布している遺物である。
==>> ここで著者は、四世紀ごろに半島と畿内の関係が強くなったことを
示しています。
北部九州の地位の低下を示唆しているようです。
p027
このように沖ノ島の祭祀は、四世紀後半に、倭王権を主体とする祭祀としてはじまる。
すなわちこれは、四世紀半ばまでに「海北道中」を倭王権が掌握したことを物語るもの
でこれまたヤマトとカラの出会いを考古学的に証明する事例である。
==>> 沖ノ島は、近年いろいろと脚光を浴びてきたので、テレビ番組などでも
見たことがありますが、こちらで歴史的なことを復習しておきます。
宗像大社と沖ノ島、海の孤島に集ったイノベーション
https://www.kokugakuin.ac.jp/article/48401
「ヤマト王権、倭国にとって、朝鮮半島との交流は最新の技術・知識・鉄資源を
得る意味で重要。また、当時の航海技術を考えれば、朝鮮半島へたどり着くのは
簡単ではない。だがそれを助けるように沖ノ島があり、しかも海路では貴重な
真水まで手に入った。だからこそ神格化され、国家祭祀の舞台となっていく。」
世界遺産に関連しては、こちらの動画で。
世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群 解説動画
https://www.youtube.com/watch?v=AwqF596an18
p028
要するに、これらの土師器(はじき)系土器は、倭王権が半島との交流ルートを掌握
したことにともない、交流の担い手としてカラに送り込まれたヤマトの人々と、カラに
定着した彼らの子孫たちが残した土器であったと思われる。
倭王権は伽耶諸国・百済と一種の軍事同盟を結び、半島側からの先進文物・必需物資
供与の見返りとして軍事援助をおこなったので、渡航した人々には兵士が一定の割合
で含まれていたであろう。
==>> 土師器とはなんでしょうか。
ついでですから、須恵器との違いを見ておきましょう。
「土師器」と「須恵器」の違いとは?
「「土師器」は、弥生式土器と同じ技術を元にして作られた土器のことを言い
ます。地面に浅い穴を掘り、700度から800度位の低温で焼いたもので、野焼き
を更に進化させた「覆い焼き」という技法が使われています。」
「「須恵器」は、古墳時代の中期に朝鮮半島から伝わり、作られる様になった
土器です。ろくろで形を作り、窯で焼き上げる手法で、温度は1200度から1300
度と高温で焼かれ、青灰色で硬質の仕上りになります。」
・・・土師器は煮炊き用、須恵器は貯蔵用という感じでしょうか。
須恵器の方が高温で焼くという点で技術が高いということになりそうです。
p029
列島と半島の交流で、近年とくにその重要性が指摘されているものに鉄の問題がある。
三世紀ごろのことを記した『魏志』弁辰伝に「国は鉄を出し、韓・わい・倭、皆な従い
てこれを取る。諸(もろもろ)の市買(ものの売り買い)には皆な鉄を用い、中国の
銭を用いるが如し」という有名な一節がある。
弥生時代の列島の倭人は半島の鉄資源に大きく依存し、その入手のためにしばしば
半島までいったのである。
・・・すくなくとも五世紀末ごろまでは基本的には変わらなかったようで、武器・農具
などの製品への加工はかなりの程度国内でおこなわれていたが、鉄原料はその大半を
半島に依存する状態がつづいていたようである。
==>> 鉄生産の重要性については、すでに読んだこちらの本にも述べられて
いました。
村井康彦著「出雲と大和」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/12/blog-post_31.html
「p027
磐座信仰は、・・・出雲系の信仰圏に限るものではない。・・・にもかかわらず
敢えてそれを出雲系の神々の世界の徴証したのは、その磐座信仰には独自の
背景があったとみるからである。
ひと言でいえば、磐座の発見は、出雲族に顕著な鉱山の開発、ことに鉄生産の
仕事と深い関わりがある。
大和の場合、三輪山の麓には「金屋」「穴師」などの地名が残るように製鉄が
行なわれていた形跡があり、・・・ 製鉄が「国作り」の中核を占めていたこと
からすれば、出雲系の神と磐座祭祀=信仰との関係は本質的なものだったと
いえるのである。」
・・・つまり、鉄に関しては、磐座信仰とも結びついていたということの
ようです。 出雲系、すなわち国津神系=縄文人という繋がりまで
ありそうです。
また、製鉄技術については、渡来人が大いにかかわっているようです。
p030
古墳時代には、生活必需品ではないが。首長の地位の権威付けに重要な役割をはたす
物品があった。 舶載中国鏡や碧玉製腕飾・装飾太刀・冠などの威信財がそれである。
威信財も、多くは半島ルートを通じて中国や朝鮮諸国から列島にもたらされたのである。
四世紀前半のヤマトとカラの出会いは、・・・・鉄をはじめとする必需物資や先進技術・
威信財を独占し、その再配分という“公共機能”をもつことによって各地の首長に対する
支配力を強めていったのである。
==>> 貿易の独占というのは、その後の日本史の中でも重要であったようですが、
倭王権が支配力をつけていくためには、必須だったということですね。
p044
四世紀の後半に本格化する高句麗の南下政策は、新興国の百済・新羅や伽耶諸国、さらには
倭国をも巻き込んで、半島は最初の動乱期を迎える。
新羅は高句麗の軍事力を頼り、その傘下に入る。 一方、百済や伽耶諸国は、倭国との
提携を深める道を選び、倭国を半島に引き込んで、対高句麗戦の一翼を担わせようと
した。
・・・むしろ、高句麗の圧迫を受けた百済や伽耶南部諸国の方が倭国に救援を要請
したのである。 半島とのパイプが王権の強化に不可欠の倭国は、その要請に積極的
に応じて半島南部に派兵する。
==>> ここでは、倭国と百済や伽耶の連繋が述べられているのですが、
先に読んだこちらの本では、百済か新羅かで、かなりもつれた感じになった
ようです。
大和岩雄著「秦氏の研究」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2023/01/blog-post_18.html
「p141
弥勒信仰は新羅仏教の特色の一つだが、公式の新羅仏教が飛鳥の宮廷に入った
のは、推古朝である。
・・・当時、大和政権の都のあった大和飛鳥の仏教は、公伝の百済仏教であった。
この百済仏教に対し、新羅仏教を公式に入れたのは、聖徳太子と太子の寵臣の
秦河勝である。
平野邦雄は、「百済仏教を通じての蘇我―漢―今来漢人の一貫した結合関係に
たいし、同時代の秦氏が新羅仏教への親近性を示すのは、仏教興隆をめぐる
蘇我―漢と、これに対する聖徳太子―秦河勝の勢力的結合によるもの」とみて、
「蘇我氏の伝統的な百済救援と任那復興政策」に対し、聖徳太子の外交政策の
ちがいを詳述している。」
・・・ただし、仏教公伝は538年、六世紀の話ですから、上記の四世紀後半
の状況とは大きく変化していたのでしょう。
「蘇我氏の伝統的な百済救援」ということから言えば、聖徳太子がなぜ新羅派
になったのかが気になります。
Wikipediaによれば、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90
「聖徳太子=厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁であって、「推古天皇3年(595年)、
高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり・・・・
推古天皇8年(600年)に新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束
させる。」
・・・とあって、新羅仏教との関係がどこにあったのかが不思議です。
p048
しだいに倭国の側では半島諸国との外交関係を朝貢関係とみなすようになり、やがて
倭の五王が半島南部での軍政権を宋王朝に主張したり、「任那」や百済を朝廷の「官家
(みやけ)」と主張するようになっていったと思われる。しかし、それらはあくまでも
倭王権の側の論理であって、客観的、永続的な外交関係として実現していたわけでは
なかったのである。
==>> 日本史の年表をみると、倭の五王は5世紀ごろですね。
倭国大乱が2世紀、卑弥呼と台与が3世紀、ヤマト王権の統一が4世紀、
そして、伽耶(任那)の日本符が新羅に滅ぼされたのが562年(6世紀)、
百済の滅亡が660年(7世紀)となっています。
この3世紀ごろから7世紀ごろに、半島から列島に移住したのが、いわゆる
渡来人ということになっているようです。
ちょっとここで、寄り道をして、天皇家の一覧表で卑弥呼の時代、つまり
3世紀の天皇はだれなのかをチェックしておきます。
実在は確認されていない天皇なんですが・・・・
初代 神武天皇 BC660年~
10代 崇神天皇 BC97年~
14代 摂政 神功皇后 201年~
15代 応神天皇 270年~
16代 仁徳天皇 313年~
やはり、これで見ると、卑弥呼の時代は神功皇后の時代ということに
なりそうですね。
「倭の五王」がどの天皇にあたるのかについては、こちらで。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B
「倭の五王が記紀=『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)における歴代
天皇の誰に該当するかについては諸説ある」
では、次回は第一章の中の「3 渡来人の来住と列島の技術革新」から
読んでいきます。
===== 次回その2 に続きます =====
熊谷公男著「大王から天皇へ」を読む ―2― 渡来人が我々の祖先 倭漢(やまとのあや)氏と秦氏 倭の五王と中国王朝の権威 (sasetamotsubaguio.blogspot.com)
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