大和岩雄著「秦氏の研究」を読む ―3― 熊野権現は天台山から彦山へ、 蘇我氏と物部氏の医術対決、樹木・磐座・山岳信仰・巫覡信仰、山岳信仰の文化圏
大和岩雄著「秦氏の研究」を読む ―3― 熊野権現は天台山から彦山へ、 蘇我氏と物部氏の医術対決、樹木崇拝・磐座・山岳信仰・巫覡(ふげき)信仰、山岳信仰の文化圏
「仏教が一番早く入った「秦王国」」に入ります。
p121
豊前の彦山(英彦山)は、・・・九州修験の総本山だが、かつての秦王国の聖山であった。
『彦山縁起』によれば、この山は、仏教公伝(538)より早い、継体天皇二十五年
甲寅(534)に、北魏の僧善正が開山したとあるが、『彦山縁起』は、成立が平安中期
以前にさかのぼる『熊野権現御垂迹縁起』・・・に典拠があるという。
『熊野縁起』によれば、熊野三所権現は天台山から飛来した神で、最初は彦山に天降った
という。彦山から伊予の石鉄(いしつち)山、ついで淡路の遊鶴羽(ゆずるは)岳、さらに
伊予の切部(きりべ)(切目)山から熊野新宮の神蔵山へ移ったとあり、彦山へ最初に来た
のを、「往古、甲寅年」とする。
==>> この彦山(英彦山)について、興味ある内容のサイトがありました。
「英彦山の開山は、継体天皇の25(531)年、中国北魏の僧善正が英彦山に
入山し、・・・」
「最近の研究では、この恒雄を朝鮮開国の祖壇君の父神恒雄ではないかとする
韓国での研究があり、宮司さんのお話によると毎年、多数の登山者が韓国から
遊びに来ているとのことでした。」
「倭鍛冶と韓鍛冶の接点である九州の地で、両者各種の特徴をとらえ融和して
世に冠たる「日本刀」が誕生したと考えられます。とくに英彦山から宇佐八幡宮、
そして大分の国東半島には日本を代表する刀鍛冶が存在し、・・・」
・・・・ここに鍛冶の話が出てきましたが、その2で読んだところに
鍛冶師と朝鮮の巫覡(ふげき)の関係についても興味深い話が出てきました。
いわゆるシャーマニズムとの関係です。
檀君神話については、こちらの本で読みました。
吉田敦彦編「世界の神話101」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/09/blog-post_18.html
「p176
漢半島 檀君神話
「今から二千年前、檀君王倹(タングンワンコム)が都を阿斯達(アサダル)に
立て、国を開いて朝鮮と名付けた。 これは中国の尭と同じ時である」(「魏書」)
昔、恒因の庶子である恒雄は天から降下して、人の世に行きたいと願った。
父は子の願いを聞き入れて、地上に送り、・・恒雄は徒三千を率いて太伯山
の山頂にある神壇の樹木の下に降り立った。」
・・・いずれにせよ、日本神話に似ている話が半島にもあるということの
ようです。
p122
仏教公伝以前に渡来した仏教の性格について、五来重は、朝鮮への仏教伝来は、「道人」と
いわれる人が伝えているが、「道人といわれる人々は、日本の優婆塞(うばそく)・禅師・
聖(ひじり)などとよばれる民間宗教者にあたり、仏教にあわせて陰陽道や朝鮮固有信仰
などを習合して 咒術(じゅじゅつ)・易占・託宣などをおこなったものとおもわれる」
から、仏教・陰陽道・朝鮮固有信仰がミックスしたかたちで入った、と推測している。
==>> つまり、仏教公伝以前に秦王国に入っていた仏教は、このような
ミックスしたものだったとしているわけです。
そのような仏教がメンタルな部分での医療行為としての「「毉術」の字は薬以外
の巫術で病気をなおす」ことができる秦王国の法師が天皇の病気の治療に呼ば
れたということはその2で読みました。
優婆塞については、こちら:
https://kotobank.jp/word/%E5%84%AA%E5%A9%86%E5%A1%9E-35049
「サンスクリット,ウパーサカの音写。清信士(しょうしんじ),近事男(ごんじ
なん)などと訳す。三宝に帰依し,五戒を受けた仏教の在家信者の男子。女子は
優婆夷(うばい)。日本のとくに奈良時代には民間の宗教者をさしていた。」
p124
豊国法師の入内は、崇仏派蘇我氏の排仏派物部氏への挑戦状である。
問題は、わざわざ豊国(秦王国)から、法師を呼んでいることである。
蘇我馬子は、高句麗からの渡来人で、還俗して播磨にいた恵便を飛鳥に呼び、法師とし、
善信尼・禅蔵尼・恵善尼の師とした。
この法師を呼ばず、豊国奇巫の伝統を受け継いでいた豊国法師を読んでいるのは、病気
治療は恵便よりすぐれていたからであろう。
p125
豊国法師を、蘇我馬子はわざわざ飛鳥へ呼びながら、戒師にしなかったのは、豊国法師は、
戒師になるような法師ではなかったからであろう。
鎮護国家にかかわる公的な仏教は、「伽藍仏教」であり、蘇我馬子が受け入れようとした
のは、「伽藍仏教」である。
==>> 天皇の病気の治療に、どっちの医術がすぐれているかというもっともな
理由で秦王国の豊国法師を呼びよせたといいうことですね。
しかし、その巫的な医術が使える法師は、公的な立場の僧ではなく、
ちょっと怪しげなミックスされた民間の僧だったということのようです。
p129
このように、秦王国だけでなく、大和の飛鳥の地でも、私宅に仏像を安置して礼拝して
いた人たちはいたが、彼らは百済系渡来人であった。 それに対して、秦王国の
「私宅仏教」は、私宅に窟室を作り、窟室に仏像・経典などを置いて、礼拝している。
==>> 窟室というのは洞窟のことで、新羅系の渡来人は、新羅に最初に仏教を
伝えた祖師が洞窟修行をしていた姿を礼拝の対象としていたのだろうと
書かれています。
p130
宇佐八幡宮の祭祀氏族の辛島氏と深くかかわる修験の求菩提山も、石窟がたいへん多く、
主要な霊場は、ことごとく窟なのも新羅の南山の岩窟の仏教信仰と共通している
ヤハタの信仰にかかわる山岳寺院だけが、新羅仏教と強い結びつきをもっている。
しかも、新羅が公式に入れた「伽藍仏教」でなく、それ以前に新羅に入っていた
「私宅(草庵)仏教」と結びついている。
==>> この辺りを読んでいると、公伝仏教の前に秦王国や宇佐八幡宮に
新羅系のミックスした宗教が入ってきたということのようですね。
そして、そのシャーマニズム的なものも新羅系ということになりそうです。
それが、その当時、天皇の病気を治療するほどに高度な医療でもあったと
いうことでしょうか。
それから、時代が進んでいくと、空海が密教を導入して、そのシャーマニズム
的なものが真言密教とか最澄・円仁の天台密教によって置き換えられていった
という話になっていくのでしょうか。
p133
朝鮮半島において、原始時代に樹木崇拝が行われていた。 樹木の繁茂する林は神聖
な場所であり、巫覡(ふげき)信仰の本拠でもあった。 新羅仏教史において、早い時期
に建立された寺の中に、林に関連した事例がある。 すなわち慶州の興輪寺は天鏡林が、
同じく四天王寺は神遊林が、寺の根源であったと考えられる。
図式的にいえば、仏教伝来以前の樹木崇拝の聖地に、仏教の寺院が立てられ、そして
巫覡(ふげき)が僧尼になったことになる。
==>> この部分の推測は、私が知りたい日本の神道以前がどうだったのかという
興味のポイントを突いている感じです。
日本の場合は、樹木だったのか岩だったのかまだ分かりませんが、
三輪山・大神神社の磐座などがヒントになるのかなと思います。
また、同じく社殿がない諏訪大社なども詳しくしりたいところです。
p134
飛鳥に公式に入った伽藍仏教の伽藍(寺院)を建てた地は、百済からの渡来人が祀っていた
神の聖地であったように、いままでの信仰の上に仏教が重なっている。
但し、倭人の信仰というより渡来してきた朝鮮人の信仰の上に、「大唐神」「他国神」の
信仰が重層化したのである。
九州における初期の寺院は、大宰府のある筑前に、豊前より多く創建されてよいはず
なのに、豊前に特に多いのは、仏教公伝以前から、豊前には、民間ベースで、新羅の
私宅仏教が、普及していたからであろう。
==>> 確かに、そういうものだろうと思います。
元々、なんらかの意味で、倭人なり渡来人が祀っていたところに、
新しい宗教の形がのっかってくるということでしょう。
その意味から、私は、元々の倭人の祀っていた信仰のあり方が知りたいと
思います。 神道や仏教以前のあり方です。
p136
李箕永は「新羅人たちは、はやくより山岳を崇拝する習俗を持っていた。その代表的
な崇拝の対象は、三山五岳であって、それに対しては『三国遺事』や『三国史記』のいずれ
も、共にその重要性を強調するものであり、こういう習俗は、少なくとも新羅の全時期
を通じて、連綿として維持されていたことが、ほとんど間違いのない事実らしい」と
書き、修験道の開祖の役小角の「「経歴とその修験道の内容を調べてみると、そこには
意外にも、新羅の花郎道や、華厳思想の影響が甚だ濃厚であることが看取される」
と書く。
==>> 前述には樹木崇拝の聖地というのが出てきましたが、ここでは山岳崇拝が
出てきました。山岳崇拝などは、多くの国であるのだろうと思いますが、
日本でも山を神域とするのが神社などの元々の姿でもあるようです。
こちらのサイトでは、「山岳信仰のある文化圏」として、下のような地域・
民族がリストアップされています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E4%BF%A1%E4%BB%B0
「朝鮮、延辺朝鮮族、チベット民族、満州民族、大和民族、ネパール、
ラダック、ペルー、ハワイ先住民、アメリカ先住民、アボリジニ、マオリ」
・・・これを見ると、太平洋を囲む地域になっているようですが、
ヨーロッパやアフリカなどが入っていないのが意外に感じます。
一神教の影響が大きいということなのでしょうか。
精霊を信仰するアニミズムは世界的にも広い範囲で元々あったのだろうと
思うのですが、自然そのものを信仰する自然崇拝や山岳信仰は限られると
言うことなのでしょうか。
アニミズムに関しても様々な説があるようですが・・・・
ところで、役小角(えんのおづぬ)をチェックしますと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B9%E5%B0%8F%E8%A7%92
「役氏(えんうじ)、役君(えん の きみ)は三輪系氏族に属する地祇系氏族で、
葛城流賀茂氏から出た氏族であることから、加茂役君、賀茂役君(かも
の えん
の きみ)とも呼ばれている。」
・・・・三輪系というのが気になります。
「地祇系賀茂氏」については、wikipediaに、
「大鴨積命(大賀茂津美命・大賀茂都美命)を始祖とし、三輪系氏族の一派に
属する。大鴨積命は大物主神(三輪明神)の子または後裔の大田田根子の孫で、
『先代旧事本紀』によると速須佐之男命の11世の孫である。」
・・・とされていますので、渡来系ではなさそうです。
p141
弥勒信仰は新羅仏教の特色の一つだが、公式の新羅仏教が飛鳥の宮廷に入ったのは、
推古朝である。
・・・当時、大和政権の都のあった大和飛鳥の仏教は、公伝の百済仏教であった。
この百済仏教に対し、新羅仏教を公式に入れたのは、聖徳太子と太子の寵臣の
秦河勝である。
平野邦雄は、「百済仏教を通じての蘇我―漢―今来漢人の一貫した結合関係にたいし、
同時代の秦氏が新羅仏教への親近性を示すのは、仏教興隆をめぐる蘇我―漢と、
これに対する聖徳太子―秦河勝の勢力的結合によるもの」とみて、「蘇我氏の伝統的な
百済救援と任那復興政策」に対し、聖徳太子の外交政策のちがいを詳述している。
==>> 弥勒信仰について確認しておきます。
https://kotobank.jp/word/%E5%BC%A5%E5%8B%92%E4%BF%A1%E4%BB%B0-393035
「弥勒は浄土である兜率天 (とそつてん) で天人のために説法しているが,
56億7000万年ののち,この世に現れて衆生を救済するとされている。」
・・・インドで生まれたメシアニズムであるとしています。
p146
「天皇寺」とは「四天王寺」のこと、・・・・田村圓澄は、四天王寺の創建当時の
金堂本尊を、弥勒半跏像とみているが、四天王寺の楽人はほとんど秦氏で、四天王寺は
秦氏と縁がある。
秦河勝による新羅―弥勒―秦氏という結びつきは、秦王国にもあるから、秦王国と秦河勝
の交流がうかがえる。
p149
虚空蔵寺は宇佐八幡宮の祭祀氏族である秦氏系の辛島氏・・・の本拠地の宇佐郡辛島郷に
あったが、宇佐氏出身の法蓮が座主とみられるから、虚空蔵寺は辛島氏・宇佐氏系の寺で、
辛島・宇佐氏によって造営された。
この私寺に対し、神宮寺として創建されたのが、弥勒寺である。
弥勒信仰は新羅仏教だから、秦氏系の辛島氏の影響が強い。
p152
この道教的常世信仰が、仏教的になったのが、新羅の弥勒信仰だが、弥勒信仰は
秦王国のヤハタ信仰にも影響しているから、八幡宮の神宮寺の本尊は弥勒仏で、
寺号を「弥勒禅寺」という。
==>> 常世信仰については、その2のp118のところで出てきました。
「p118
香春神社の祭祀氏族は赤染氏である。 秦氏系常世神信仰が入った豊国の
シャーマニズムが、「秦王国」の信仰である。 この信仰は、わが国の神祀信仰
とちがっており、巫覡(ふげき)の祭儀・呪儀も異なっていたから、「奇巫」と
いわれたのであろう。」
・・・著者はここで、この常世信仰と弥勒信仰が伽耶・新羅で習合したものが
わが国へ伝来したのであろうとしています。
p153
韓国にも山岳信仰は古くから発達していた。 『三国遺事』によると檀君の信仰がみえる。
・・・金得榥氏によると朝鮮の古代信仰に「神教」のあることを述べ、その民族の始祖を
檀君としている。
この宗教を「大倧教」といっているが、白頭山を中心に広く分布している。
・・・しかもこの信仰は現在も民族信仰として遺っているという。
==>> この大倧教(だいそうきょう)については、日本がらみでの変遷があった
ようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%80%A7%E6%95%99
「大倧教(だいそうきょう)は、檀君を朝鮮民族の始祖として崇拝する朝鮮の
民族宗教である。」
「朝鮮の国民の統一と独自のアイデンティティの確立を求める民族主義的な
動きに呼応して出現した宗教であった。外来の神を拒否し、朝鮮独自の神として
の檀君を強調していた。」
「親日派の檀君教と抗日派の大倧教へと分派していった。」
「現在大韓民国に約50~60万人の信徒がおり、総本司が直接関与する施設は、
道本司4カ所、施教堂100カ所余り。」
・・・・これを読むと、民族主義的で、日本で言うなら神道系右派という感じ
なのでしょうか。
p156
貞享3年(1686)に成った『対州神社誌』は、白獄が対馬に三山あると記している。
また金井典美は、「韓国に近い対馬には、白岳・白獄・白山などという山が八つある」
(『故郷の神山』)と書いている。 対馬の「白」のつく山は、朝鮮にかかわりをもつ。
対馬の白山信仰は、ストレートに朝鮮の白山信仰が入ってきたものであり、その信仰が
北部九州に入り、白山信仰つまり朝鮮の山岳信仰が、北陸の同じ朝鮮から入った山岳
(白山)信仰と重なった。それが豊前の修験の山を中心とする白山信仰であろう。
==>> 白山信仰をインターネットで検索しましたが、北陸中心の記事しか見当たらず、
対馬に関してはwikipediaにもありませんでした。
そんな中でやっと見つかったのがこちらの「白嶽神社」でした。
https://shrineheritager.com/shiratake-shrine/
「神籬磐境の上古制の社にして津島七岳の宗社として深林鬱蒼峻岳秀麗の
地なり 古来蛇淵を中の御所と称し緑原を遥拝所となし 茲に神殿を設け
たり国主の崇敬ありし神社にて洲藻の総鎮守神なり」
「そのほか、古い信仰の形態として知られているものとしては、「磐座」があり
ます。神が降臨する巨石ですが、霊峰・白嶽は、白い岩盤が露出する山頂部その
ものが巨大な磐座とも考えられます。」
・・・しかし、このサイトにも、白山信仰という文字は出てきません。
対馬の場合は、天童(天道)信仰が有名みたいですが・・・・
p158
記・紀神話では、天忍穂耳命でなく、その子のニニギが天降っているが、ニニギにする
わけにいかないから、オシホミミにしたのである。 恒雄は太白山に天降っているから、
恒雄をオシホミミに変えたのであり、この伝承の根は、朝鮮の始祖降臨の檀君神話に
ある。 朝鮮の始祖降臨神話の主人公が、彦山伝承では語られていたが(但し、「藤原
恒雄」と日本人化してはいたが)、それが、記・紀神話の主人公に変えられて、
天忍穂耳命となり、香春神社の祭神忍骨命となったのである。
==>> まず、これを確認。 Wikipediaより。
「天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと、天忍穗耳命)は、日本神話に登場
する神。アマテラスの子で、地神五代の2代目。神武天皇の高祖父。」
ここでは、朝鮮の神話の方が、日本の神話の元になっているということを
言いたいようです。
この件については、2010年の韓国メディアの報道が、日本のこちらの
サイトで紹介されています。
日本神話は韓国が起源、日本の学者も認めた!―韓国メディア
https://news.livedoor.com/article/detail/5047901/
「ソウル市内の国立中央博物館で4日、韓国の檀君(だんくん)神話と日本の
建国神話を比較考察する「檀君の建国神話は、日本の建国神話の母胎」と題した
学術会議が開催される。この席上で発表されるアジア史学会会長の上田正昭氏
の論文が30日に事前公開され、韓国では「天孫(てんそん)が空から降りる
韓国と日本の神話には類似性が多い」との記述に注目が集まっている。」
・・・ただし、wikipediaを見ると、
「高麗時代の一然著『三国遺事』(1280年代成立)に『魏書』からの引用とみら
れるのが、檀君朝鮮の文献上の初出である。『東国通鑑』(1485年)にも類似の
説話が載っている。しかし引用元とされる『魏書』(陳寿の『三国志』や魏収の
『北魏書』)などの中国の史書には檀君に該当する記述がまったくないので創作
である。」
と断じています。
「1667年に徳川光圀の命で刊行された『東国通鑑』の和刻版の序文で林鵞峰は、
檀君を朝鮮の祖としながらも、素戔烏尊を三韓の一祖として、日本と朝鮮を同一
視する。これによって江戸時代には、檀君=素戔烏尊という主張が多くみられる。
・・・・・いろいろと揉めそうな話ではあります。
p158
『彦山流記』は、彦山に降臨した「王子晋」の分身を「天童」というと書くように、
王子晋も御子忍穂耳(忍骨)も、同じイメージである。 彦山の「彦」は「日子」で、
日の御子の意である。 対馬の天童伝説では、天童を日の御子とみている。
==>> 上の白山信仰のところでは出てきませんでしたが、ここで「対馬の天童」が
現れました。
彦=日子=日の御子=天童・・・という繋がりですかね?
そこで、英彦山を検索してみたところ、英彦山神宮のサイトに
忍穂耳(オシホミミ)が主神として書かれていました。
https://hikosanjingu.or.jp/origin/
「英彦山は、古来から神の山として信仰されていた霊山で、御祭神が天照大神
(伊勢神宮)の御子、天忍穂耳命であることから「日の子の山」即ち「日子山」
と呼ばれていました。」
「英彦山は、中世以降、神の信仰に仏教が習合され、修験道の道場「英彦山権現
様」として栄えましたが、・・・・」
p161
私は、聖徳太子と秦河勝との関係からみて、聖徳太子信仰にも、朝鮮の大使信仰の影響
があるとみるが、天童は太子信仰の太子である。 この天童は、花郎や弥勒・白山信仰
と深くかかわっており、加賀白山の主神の白山姫も太子巫的性格をもち、対馬や豊前の
白山信仰の天童(太子)と対で、いずれも原流は朝鮮にあり、これらの信仰のわが国での
普及には、秦氏が深く広く関与していたのである。
==>> まだまだ、ここまで読んでも、白山信仰と対馬の天童がどうつながっているのか
私には理解できません。
ましてや、ここで聖徳太子とか太子信仰という展開には、ついて行けません。
もっとじっくりこの著者の本を読まないと無理なのか・・・・
次回は、「「秦王国」の鍛冶神伝承をめぐって」から読んでいきます。
===== 次回その4 に続きます =====
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