斎藤成也著「核DNAでたどる日本人の源流」を読む ―2(完)― 国津神=縄文人、天津神=弥生人、 現代日本人は12%縄文人、ヤマト人は混血集団、 三段階渡来モデル、 Y染色体D系統は日本だけ

斎藤成也著「核DNAでたどる日本人の源流」を読む 2(完) 国津神=縄文人、天津神=弥生人、 現代日本人は12%縄文人、ヤマト人は混血集団、 三段階渡来モデル、 Y染色体D系統は日本だけ

 

 


 


 

 

さて、ここからいよいよ縄文時代人の古代DNA研究の話に入っていきます。

 

いろいろと研究内容の難しい話がでてくるのですが、私の理解を越えている部分は

どんどんスキップしていきます。 悪しからず。

 

p091

 

データが膨大なので、ランダムに一部の配列だけを選んで、それらを調べた結果である。

バクテリア由来の塩基配列が、どちらの場合も30%を超えているが、これはもともと

DNA抽出に用いた歯が、縄文時代の貝塚に埋められてから3000年経過しているので、

そのあいだに歯に進入したものだと考えられる。 この他カビなどの菌類もはいっていた。

こうして、次世代シークエンサーがたたきだした28億7800万塩基から、ヒトゲノムの

配列1億1500万塩基を選びだすことができた。

比率でいうと、決定された塩基配列のなかの4%弱しかないが、それでも1億個を

優に超えている。

 

このようにして選ばれたヒト由来のDNAだが、今度はそれらが本当に縄文人由来なのか、

それとも現代の考古学者や人類学者、あるいは実験をした神澤さん本人由来なのかが

問題となる。

 

==>> ここでは、データの膨大さと解析の困難さが述べられています。

     区別するための仕分けの段どりの構想やら、地道な分析などの難しさが

     見えてきます。

 

 

p100

 

北方中国人(北京の漢族)、南方中国人(中国系シンガポール人)、ベトナム人、ダイ族

(中国雲南省の少数民族)がこの順でななめに分布している一方、東京の日本人は

これら大陸の集団からすこし左上に離れて位置している

 

そして三貫地縄文人は現代日本人からぐっと離れたところにある。

別の言葉でいえば、現代日本人は縄文人と東ユーラシア大陸人との中間に位置している

ことになる。

 

==>> 要するに、三貫地(さんがんじ)縄文人は今の中国系とはかなり離れていた

けれど、現代日本人はその後のミックスで次第に中国系に近づいてきたという

話ですね。

     

     こちらに三貫地縄文人関連のサイトがありました。

     (リンクが長すぎるので、一番下に貼っています。)

     「DNA解析による縄文人の出自

     20169月、国立遺伝学研究所などのグループが「縄文人の核ゲノムを初めて

解読した」とする論文を専門誌に発表した。この「縄文人」とは、福島県新地町

にある三貫地貝塚で発掘された3千年前の人骨である。三貫地貝塚は、昭和20

年代に100体以上の人骨が発掘された縄文時代を代表する貝塚である。研究

グループは、東京大学に保管されていた人骨・男女2人の奥歯の内側からわずか

なDNAを採取し、解析に成功したのである。」

 

このサイトの系統樹をみると、現代日本人の中に縄文人と共通DNA

12%存在すると書かれています。

 

 

p103

 

図27で縄文人ゲノムと比較した4現代人集団を用いると、・・・・アイヌ人が縄文人

と共通なDNAが68%となって、もっとも高く、オキナワ人、ヤマト人、そして

北方中国人とつづく。

一番低い北方中国人でも63%の共通性がある。

 

なお、ゲノム全体でみれば人間はおたがいに99%以上が共通だが、ここではゲノム

規模SNPデータという、個人間でDNAに差があるところだけを選んで調べているので、

このような低い値が得られるのである。

 

==>> 以前から言われていることですが、縄文人に一番近いのはアイヌ人そして

     オキナワ人ということですね。

     ヤマト人はかなり中国寄りになっているようです。

 

 

p108

 

以前から、人骨の形態学的研究で縄文時代人の特異性がいろいろ議論されてきたが、

ゲノムDNAの塩基配列を解析することにより、縄文時代人の祖先は、東アジアだけで

なく、アフリカを出てユーラシア、さらにはオセアニアや南北アメリカ大陸に拡散

していった現代人の祖先のなかでも、きわめて特異的な集団であったようだ。

 

なぜなら、これまで縄文人は北方系か、南方系かといった議論が多くなされていたのに、

そのどちらでもなかったからだ。

 

この系統樹のパターンは、・・・縄文人との遺伝的近さがどんぐりのせいくらべだった

集団が、まさに東ユーラシアと南米の集団であり、サフール大陸に移動した人々

は縄文人からもっと縁遠い関係だったことに対応している。

 

 

==>> ここで著者は「縄文人の祖先さがしが振出にもどってしまった」とも

     書いています。

     サフール大陸というのは

     「サフル大陸(サフルたいりく)とは、ニューギニア、オーストラリア、

タスマニア島など今のオセアニアを形成している国をカバーする大陸」

ですから、つまり、縄文人は南方系とは違うという話になって、

どっちかといえば、東ユーラシアや南米の集団に近いということでしょうか。

 

p116

 

・・・長い研究の歴史がある。

江戸時代の後期、1820年代に長崎の出島に滞在したドイツ人のフランツ・フォン・

シーボルトは、もともとはアイヌ人の祖先集団が日本列島全体に住んでいたのではないか

と想定した

 

その後ユーラシアから渡来した新しい人々が、日本列島の中央部と南部に進出し、

アイヌ人の祖先は日本列島北部を中心に住むようになったと考えたのである。

 

1877年に大森貝塚を発見した米国人のエドワード・モース(東京帝国大学理学部

で動物学を教えた)は、縄文土器などの発掘結果をもとにして、アイヌ人の祖先とは

別の先住民が日本列島にいたと考えた。なぜなら、アイヌ人は土器を使っていなかった

からだ。

 

==>> おお、シーボルトさんもなかなか鋭い観察眼だったんですね。

     その当時の日本人は、そういう研究はしていなかったんでしょうかね。

 

 

p117

 

1876年に来日し、東京帝国大学で20年以上にわたって医学を教えたドイツの

医師エルヴィン・ベルツは、アイヌ人が日本列島北部を中心に分布した先住民族で

あると考えた。

 

日本人の成立についてベルツは三段階の移住仮説を提唱した。

第1段階の渡来民は現在のアイヌ人の祖先、第2段階の渡来民は、華北や朝鮮半島

の人々(長州型)、第3段階の渡来民は、マレー民族に似た南方系の人々(薩摩型)である。

現代の日本人は、これら3種類の渡来民の子孫の混血であるとした。

 

p133

 

2011年は、1911年にベルツがアイヌ琉球同系説を発表してからちょうど

100年であり、ついにこの説が「証明された」とわたしは高らかに宣言した。

日本列島人の成立に関する二重構造モデルは、ベルツのアイヌ琉球同系説に強い

影響を受けているので、わたしたちの研究結果は、二重構造モデルを基本的に

支持するものである。

 

==>> 100年前のベルツの仮説が、ゲノム解析によって裏打ちされたと

     いうことは凄いことですね。 ベルツはどのような調査研究方法を

     とったのでしょうか。

 

     Wikipediaの下のサイトの中に、ベルツの言葉が掲載されています。

     今の日本人にとってもなかなか示唆に富むものかと思います。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%84

     「文化人類学的素養を備えていた彼は、当時の日本の状況に関する自身の分析・

把握を基にして、当時の日本の状況に無理解な同僚のお雇い教師たちを批判し

た。さらに、彼の批判は日本の知識人たちにも及ぶ。

不思議なことに、今の日本人は自分自身の過去についてはなにも知りたくない

のだ。それどころか、教養人たちはそれを恥じてさえいる。「いや、なにもかも

すべて野蛮でした」、「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今、

始まるのです」という日本人さえいる。このような現象は急激な変化に対する

反動から来ることはわかるが、大変不快なものである。日本人たちがこのように

自国固有の文化を軽視すれば、かえって外国人の信頼を得ることにはならない

なにより、今の日本に必要なのはまず日本文化の所産のすべての貴重なものを

検討し、これを現在と将来の要求に、ことさらゆっくりと慎重に適応させること

なのだ。」

 

・・・明治時代にこのような「お雇い外国人」がいて良かったなと思います。

もしかしたら、「秦氏の研究」で読んだ秦氏のような渡来人たちも、このような

意味で古代日本を創ってくれたのかもしれません。

大和岩雄著「秦氏の研究」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2023/01/blog-post_15.html

 

 

p136

 

どちらの場合でも、左右にばらつかせる第一主成分でいえば、アイヌ人からみてもっとも

近いのはオキナワ人であり、次がヤマト人である。 東アジアの大陸集団は、ヤマト人

よりもさらにアイヌ人から遠い。

 

p140

 

このグループとは反対方向にずれているグループが日本列島の3集団と韓国人である。

アイヌ人がもっとも東アジアの中心部からはなれており、オキナワ人、ヤマト人、韓国人

がつづく。 ・・・このずれは縄文人の影響である。

 

韓国人も、弱いながら縄文人のDNAを含んでいる可能性がある。

縄文人が、現在の東アジア大陸部に住んでいる人々と異なっているとは思っていたが、

こんなに大きな違いがあるのは、驚きだった。

 

==>> つまり、東アジア人と縄文人の違いは大きい。

     そして、その縄文人の影響をどの程度受けているかによって

     アイヌ人、オキナワ人、ヤマト人、韓国人という順に並んでいるという

     ことのようです。

 

 

p142

 

アイヌ人とオキナワ人から構成されるクラスターがつながるのは、ヤマト人である。

ヤマト人だけは、他の集団と異なり、自分に特有の線分がなく、水平線の上に位置して

いる。 これは、ヤマト人が混血集団であることを示唆する。

すなわち、右側に延びるアイヌ人とオキナワ人のグループがしめす縄文人の要素と、

左側に伸びる大陸系の人々の要素の混血である。

 

p143

 

ヤマト人は、アイヌ人・オキナワ人のグループと結合してヤポネシア人のグループを

構成する

 

これらの3集団は統計的に100%の確立でまとまっている。

ヤポネシア人グループにもっとも近縁なのは、地理的にも接近した韓国人であり、

朝鮮半島と日本列島の4人類集団もまた、統計的に100%の確立でひとつのグループ

となっている。

 

==>> 私のこの部分の理解としては、

     アイヌ人とオキナワ人は、縄文人の要素が濃く、かなり似ている。

     ヤマト人は、縄文人に大陸系の要素がはいった混血集団である。

     そして、これら3集団はひとつのヤポネシア人グループとしてまとめられる。

     そのヤポネシア人グループに一番近いのは韓国人である。

 

 

p143

 

わたしたちが論文を発表したあと、シカゴ大学のグループがもっと多くの人類集団の

データとアイヌ人のデータを比較した。 それによれば、アイヌ人のDNAと共通性

をある程度もっていたのは、ヤマト人とオキナワ人以外では、ウルチ人だけだった。

 

p144

 

ウルチ人はアムール川河口域に住んでおり、おそらく樺太島を通じてアイヌ人と

遺伝的交流があったのだろう。

 

==>> このウルチ人がアムール川の辺りにいて、アイヌ人と関係があったと

     いうことになると、こちらのサイトのグレート・ジャーニーの経路の

     樺太経由ということになるのでしょうね。

     日本へ到達した現生人類

     https://akikusah.hatenablog.com/entry/2017/10/03/191450

 

     ただし、p108で、「これまで縄文人は北方系か、南方系かといった議論が

多くなされていたのに、そのどちらでもなかった」と書いてありますから、

ウルチ人とアイヌ人が近いから北方系であると断定はできないという

ことなんでしょうか。

 

p145

 

混血が始まったとされる時代は、もっとも新しくて1375年前、もっとも古くて

1740年前となる。 用いたDNAサンプルが得られた年代がばらついているので、

便宜上「現在」を西暦2000年とすれば、これら混血が始まった年代は西暦3~7世紀

となり、日本列島中央部では、古墳時代から飛鳥時代にあたる。

 

この時期は、ヤマト政権が東日本から東北地方に勢力範囲を拡大していた時期である。

 

p147

 

これらの証拠を総合すると、弥生時代以降の渡来人が中心となったヤマト王権の勢力

範囲が西日本から東日本に拡大するにしたがって、かつて東北地方に住んでいた、縄文人

DNAを色濃く伝えてきた人々はすこしずつ北にしりぞき、大部分が北海道に落ち着いた

のではないかと考えられる。

 

==>> ここで著者は「弥生時代以降の渡来人が中心となったヤマト王権の勢力」

     述べています。 私が今までに読んできた本からの印象でも、確かに

     渡来人の要素は大きいだろうなと思います。

 

 

     ・・・そこで、次に「5章 ヤマト人のうちなる二重構造:

     従来の縄文人・弥生人とは異なる第三の集団の謎」 にはいります。

 

 

p154

 

その結果は、目を見張るものだった。 出雲が含まれる山陰地方は、地理的に朝鮮半島

に近いので、人々のDNAも関東地方の人々より大陸の人々に近くなるのではないかと

予想していたのだが、そうではなかった。

 

わずかではあるが、むしろ関東地方のヤマト人のほうが、出雲地方のヤマト人よりも、

大陸の人々に遺伝的には近かったのである。

 

 

p156

 

出雲ヤマト人が関東ヤマト人のすこし右側に位置するのは、・・・東北地方集団の

位置と似ているというのだ。

 

ティムは、純粋にDNAデータにおける共通性に着目したのだが、わたしはただちに

小説「砂の器」を思い出した。 原作者である松本清張は、出雲地方の方言のアクセントが

東北地方のそれと似ているという日本方言学の成果を、事件解明のヒントとしてこの小説

に使っているが、DNAでも、出雲と東北の類似がある可能性が出てきたのだ。

 

==>> 私も、今までに読んできたいくつかの本からの印象として、山陰地方は

     朝鮮半島と地理的に近く、渡来人も多かったのだろうと思っていました。

     その意味では、著者と同じく、びっくりです。

 

     松本清張のミステリー小説のこの話は、小説を読んだか映画で観たかで

     私も知っていました。松本清張は、一世を風靡した騎馬民族説でしたけど。

     こちらのサイトに松本清張の古代史に関する考え方が掲載されていました。

     【松本清張の邪馬台国論】

     http://hofurekikou.web.fc2.com/hapyou/h3-seityo-yamataikoku.html

     「松本清張は、九州政権が東遷して大和政権の母体になったと考えている。

 また、最後の方では江上説の騎馬民族説に魅力を感じており、帯方郡の滅亡後、

北九州に上陸して、女王国を併呑して狗奴国を敗亡させて九州一帯を統一した

騎馬民族的な性格を持つ北方系の朝鮮経由の第三勢力が、北九州から大和へ

政権と種族の移動が行われたと思うと述べている。」

 

 

p160

 

現在、日本における国際結婚は全婚姻の5%ほどに達しているが、そのうちのかなりの

部分は韓国や中国の人々との婚姻である。 現在でも渡来がつづいているのだ。

 

現代の渡来人は東京、横浜、名古屋、大阪、福岡といった大都市を好むように思われる。

だとすれば、この傾向は大昔からそうだったのではなかろうか?

 

・・・日本列島中央部は、博多から東京まで伸びる「中央軸」とその周辺部にわけて

考えるべきではないか・・・・

 

p161

 

いわば、「うちなる二重構造」である。

出雲は西日本に位置するが、山陰地方なので、中央軸ではなく、周辺部になる。

 

 

p163

 

すると、残りの祖先集団はなんだろうか?

この祖先集団のゲノムは、過半数のオキナワ人が80%以上を受け継いでおり、

ヤマト人でも60%以上を占めている、もっとも割合が高い祖先集団である。

興味深いことに韓国人にもこの祖先集団のゲノムが30%ほど伝わっている。

北方中国人(北京の漢族)ですら、10%前後が伝わっている。

 

p164

 

この祖先集団が実在したものであれば、彼らこそ、うちなる二重構造をつくる土台

だった可能性が出てくる。 すなわち、二重構造モデルで「縄文」と「弥生」で象徴

されるふたつの祖先集団の後者が2種類にわかれ、そのより古いほうではないかと

いうことだ。

 

ちなみに、韓国のヒトゲノム研究者に最近この図49をみせたところ、韓国人は

高句麗など北方由来の集団と中国から移住してきた南方由来の集団の2系統から構成

されていると信じられているとのことである。

 

==>> これはどういうストーリーかと言いますと、下のような図がp163に

     掲載されていまして、その説明なわけです。

     この図の第三派移住民はどういう祖先集団なのかという話です。

     そのゲノムを、オキナワ人80%、ヤマト人60%、韓国人30%、

     北方中国人10%ぐらい持っているというものだそうです。

     

 

  


   

 

 

そして、ここで、「ヤポネシアへの三段階渡来モデル」が下記のように

一旦まとめられています。

 

p165

 

第一段階: 約4万年前~約4400年前

第一波の渡来民が、ユーラシアのいろいろな地域からさまざまな年代に、日本列島の

南部、中央部、北部の全体にわあってやってきた。

 

主要な渡来人は、現在の東ユーラシアに住んでいる人々とは大きくDNAが異なる

系統の人々だったが、彼らの起源はまだ謎である。

 

 

p168

 

第二段階: 約4400年前~約3000年前(縄文時代の後期と晩期)

日本列島の中央部に、第二の渡来民の波があった。

彼らの起源の地ははっきりしないが、朝鮮半島、遼東半島、山東半島にかこまれた

沿岸域およびその周辺の「海の民」だった可能性があると・・・・

 

p168

 

第三段階: 約3000年前~約1700年前(弥生時代)

弥生時代にはいると、朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から、第二波渡来民と

遺伝的に近いがすこし異なる第三波の渡来民が日本列島に到来し、水田稲作などの

技術を導入した。

 

p169

 

第三段階後半: 約1700年前~現在(古墳時代以降)

第三波の渡来民が、ひきつづき朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から移住した。

日本列島中央部の政治の中心が九州北部から現在の近畿地方に移り・・・

それまで東北地方に居住していた第一波の渡来民の子孫は、古墳時代に大部分が

北海道に移っていった。 その空白を埋めるようにして、第二波渡来人の子孫を

中心とする人々が北上して東北地方に居住した。

 

 

==>> つまり、上記を見ると、第一段階と第二段階は、縄文人に関わる移民で

     あって、一般的に歴史上で渡来人と呼ばれているのは第三段階の移民と

     言うことになるのでしょうか。

     

     いずれにしても、第一段階の縄文人の元になった集団がかなりの謎

     言えそうです。

     もしかして、太平洋に沈んだ幻の大陸とか??

 

     第三段階後半の説明は、どうやら大和朝廷ができた頃という時期に

     なりそうです。 神武東征に重なるのでしょうか。

別の本で「古墳人」とされている渡来人に該当するのかもしれません。

 

p171

 

日本神話に登場する国津神と天津神は、それぞれ第二段階と第三段階の渡来人の象徴的

呼び方であるといえるのではなかろうか。

 

p172

 

二重構造モデルによれば、国津神は縄文系の人々ということになるが、国津神と

天津神は、それほど大きな違いはなかったように思われる。

考古学的データを神話に重ねあわせると、アマテラス以降の神話の世界は、西暦ゼロ年

前後のころに始まった可能性がある。

 

この時代は弥生時代が始まってから1000年ほど経過しており、朝鮮半島や大陸の

他の地域から、すこしずつ渡来人がきていたと思われるので、国津神と天津神の

違いは、あるいは第三段階渡来人の多様性ないし、第二段階・第三段階との混血の

程度の違いなのかもしれない。

 

==>> つまり、上記のイメージとしては、縄文人が国津神で、弥生人が天津神

     ということになりそうですね。

     Wikipediaによれば、この国津神と天津神の関係は下のように説明されて

     います。

     天津神・国津神

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B4%A5%E7%A5%9E%E3%83%BB%E5%9B%BD%E6%B4%A5%E7%A5%9E

     「日本神話において、国津神がニニギを筆頭とする天津神に対して国土(葦原

中国)の移譲を受け入れたことを国譲りとして描かれている。これはヤマト王権

によって平定された地域の人々(蝦夷、隼人など)が信仰していた神が国津神に、

ヤマト王権の皇族や有力な氏族が信仰していた神が天津神になったものと考え

られる。」

 

・・・つまり、このストーリーから考えると、ヤマト王権は、先住民で

あった縄文人から国譲りをうけた渡来人の政権ということになりますね。

 

     私の元々の興味は、日本神話や神社よりも前の列島古来の信仰はどんなもの

     であったのか・・・というところにありますので、国津神=縄文人の信仰が

     どのようなものだったのかが知りたいということになりそうです。

     まあ、ほぼ史料がない時代の、それも心の中の話ですから、不可能ですかねえ。

 

 

 

p174

 

アイヌ人のDNA解析に用いたDNAは、 宝来聡・田島敦らがY染色体の研究

用いたものである。 彼らは日本列島の3集団(アイヌ人、ヤマト人、オキナワ人)すべて

で、特異なD系統が存在し、周辺の集団には存在しないことを示した。しかも、アイヌ人

で88%、オキナワ人で56%という高い頻度をしめすのに対して、ヤマト人では30%前

後の頻度にとどまっていた。

 

それとは対照的に、東アジアから東南アジアにおいてひろくみいだされるO系統は、

ヤマト人では50%以上の頻度だったが、アイヌ人では0%であり、オキナワ人でも

38%にとどまっていた。

 

==>> ここではY染色体の研究の結果が述べられています。

     この辺りが分かりやすく解説されているyoutubeを見てみましょう。

     ミトコンドリアDNA(母方)の解析結果と、Y染色体(父方)の結果の

     違いが述べられています。

     https://www.youtube.com/watch?v=QsswgFm1ZxY&t=228s

     「ミトコンドリアのハプログループは東アジアで似てる・・・

      Y染色体のハプログループを調べてみると、

      日本人まわりとぜんぜんちがうじゃん!

      という話のようです。

     

     要するに、母方を辿る遺伝子では東アジアで周辺地域と似ているということ

     になっているけど、父方を辿ると周りには似ている国はないってことの

     ようですね。

     お父ちゃんはどっから来たの・・・・ってことですか??

 

     念のためにwikipediaでチェックすると、以下のような説明になっています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97D_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)

     「現在、このハプログループDは、日本列島・南西諸島やアンダマン諸島、

チベット高原で高頻度に観察されるほかは、アジア、アフリカの極めて限られた

地域で散発的にしか見つかっていない。」

D系統は東アジアにおける最古層のタイプと想定できるが、一つの説として

東アジア及び東南アジアにO系統が広く流入した為、島国日本や山岳チベット

にのみD系統が残ったと考えられている。」

 

ちなみに、私の場合は、ミトコンドリア・ハプログループAなので、

バイカル湖周辺に発生した集団だったようです。

Y染色体の検査はしていません。残念。

 

 

p177

 

D系統は、世界で1200人以上が調べられたなかで、日本列島人だけにみいだされ

いる。・・・世界のその他の地域では、ユーラシア大陸の高地にすむチベット人と、

インド洋のアンダマン諸島人だけがこの系統のY染色体を高い頻度でもっている。

 

 

p178

 

なお、日本列島のお隣の韓国人男性545人におけるY染色体の系統の頻度を調べた

最近の研究によれば、O系統では日本列島人と同じくOb系統の頻度が高かったが、

D系統はまったくみられない・・・・

 

==>> つまり、父方のY染色体で調べると、D系統というのは日本列島人だけに

     かなり特異的にみられるということですね。

     

     次に、「都道府県別のミトコンドリアDNAが支持する「うちなる二重構造」

     に入ってみます。

 

 

p182

 

主成分の位置に大きな貢献をしているのは、縄文系を含むかもしれないM7系統

頻度である。 全国平均は14%だが、沖縄県、宮崎県、長崎県、島根県、青森県では

頻度が20%を超えている。

一方、弥生系を含むかもしれないD系統は、全国平均は39%だが、青森県、山形県、

福井県、滋賀県、鳥取県、佐賀県、長崎県では30%未満となっている。

 

==>> これは母方のミトコンドリアDNAの解析結果なんですが、

     わが長崎県は、いずれにしても、縄文系に近い方であって、

     「うちなる二重構造」の中では、隅に追いやられた集団ってことになる

     のでしょうか。 「隅っこぐらし」は好きですが・・・

 

 

 

さて、これで図書館から借りて来た本の14冊目を読み終わりました。

借りてくると、期限内に読まなくてはいけないので焦ります。

ストレスがたまります。

 

しかし、この本は、なかなか良い本でした。

神話との関連にもふれてあったので、特に国津神=縄文人、天津神=弥生人という

おおざっぱな掴み方ができたのが、なんだかすっきりした感覚です。

 

 

===== 完 =====

 

 

日本列島への人類の流入

DNA解析による縄文人の出自

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