本殿がない三大神社を巡る: その3 奈良県 纏向遺跡・箸墓古墳と三輪山・大神神社、百襲姫(ももそひめ)は卑弥呼なのか?
本殿がない三大神社を巡る: その3 奈良県 纏向遺跡・箸墓古墳と三輪山・大神神社、百襲姫(ももそひめ)は卑弥呼なのか?
本殿がない三大神社のうち、金鑚(かなさな)神社と諏訪大社にはすでに詣でたので、
今回は最後の大神(おおみわ)神社に行きました。
その1 埼玉県・金鑚(かなさな)神社
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/10/jr.html
その2 長野県・諏訪大社・四社参り
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/10/jr_28.html
2022年11月16日に、桜井駅のコインロッカーに荷物を預けて、巻向駅から
三輪駅、大神神社まで散策しました。
大雑把なルートは、下のルートのとおりで、途中からは点線の初心者ルートを
歩き、三輪駅で線路をまたいで、大鳥居から「一の鳥居」、「二の鳥居」そして拝殿へと
散策します。
さて、まず、旅行カバンをどこのコインロッカーに預けるかなんですが、
下の案内図にあるとおり、巻向駅や三輪駅は無人駅になっていて、コインロッカーなど
はありません。
コインロッカーは桜井駅か天理駅にはありますので、私の場合は、桜井駅のコインロッカー
を使い、巻向駅から三輪駅まで歩き、桜井駅まで戻ることにしました。
おまけに、列車は昼間は1時間に1本、朝夕は1時間に2本ぐらいしか走っていませんので、
要注意です。
これが巻向駅です。
ほとんど駅舎らしいものはなく、改札らしきものもないような無人駅なのですが、
トイレだけは設置してありました。
ところで、この路線は、駅によっては、列車のドアが開かない車両があるので、
車内アナウンスをしっかり聞いていないと、目的の駅で降りられないことがあります
から要注意です。
この巻向駅も、先頭車両の一番前のドアだけが開くようになっていました。
巻向駅から線路を渡ったところに、こんな案内板があって、ちょっとした広場があり、
公衆トイレの建物もあります。
おそらく、纏向遺跡を見学に来る人たちが多くなったために設置されたものとみえます。
では、まず、纏向遺跡の一部を見ておきましょう。
Wikipediaによれば、以下の解説があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91%E7%9F%B3%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3
「纒向石塚古墳(まきむくいしづかこふん)は奈良県桜井市にある、纒向古墳群に属する
古墳。纏向遺跡内では最古の古墳の可能性がある。また、前方後円墳成立期の古墳として
注目されている。
2006年1月26日、纒向古墳群の一つとして国の史跡に指定された。」
古墳の周りにアオサギでしょうか。ゆったりと歩いていました。
おそらく古代にも飛び回っていたのでしょうね。
そして、次は、卑弥呼の墓ではないかという噂のある箸墓(はしはか)古墳です。
詳しい解説はこちらのサイトでどうぞ:
http://makimukugaku.jp/info/iseki.html
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓ということになっているの
ですが、この百襲姫こそが卑弥呼なのではないのかという説もあるようです。
倉橋日出夫著「古代出雲と大和朝廷の謎」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/11/blog-post_2.html
「p097
柳田国男によれば、なんと「市」は「市場」の市ではなく、巫女のことだというのである。
つまり、「小市」の台与にたいして、「大市」の卑弥呼という関係がある。「イチ」とは、
神に一番近づける女性だという柳田の指摘も示唆に富んでいる。
「大市」という名前(地名)には、このように卑弥呼とつながるものがある。
『日本書紀』に記された「大市に葬る」の「大市」、そして「倭迹迹日百襲姫命の大市墓」
の「大市」は、おそらく「大きな市場」ではなく、「大いなる巫女」を意味している。
百襲姫と卑弥呼は、大市によってもつながっている。」
卑弥呼もこんなトンボと遊んでいたのでしょうか。
箸墓古墳のあと、線路を渡ってしばらく歩くと、前方右側、線路の向こう側に大神神社の
大鳥居が見えてきて、左方向の矢印はご神体の三輪山を指していました。
そして、私が是非とも来たかった「神御前(かみのごぜん)神社」に到着。
なぜかと言うと・・・・
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が御祭神なんです。
大物主神(=大国主命?)の奥さんになったという話もあり、卑弥呼なんじゃないかという
噂もありで、なかなか興味深い姫さまなんですねえ。
それにしても、この神社は、ご神体である三輪山のまさに「御前」という感じです。
卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命説
「従来、上記の箸墓古墳の築造年代は古墳分類からは3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼の時代とは合わないとされてきた。しかし最近、年輪年代学や放射性炭素年代測定による科学的年代推定を反映して、古墳時代の開始年代が従来より早められた。箸墓古墳の築造年代についても、研究者により多少の前後はあるものの卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が最近では一般的になっている。」
「現在では畿内説論者でも、卑弥呼を具体的に記紀の登場人物にあてはめようとする説は多くないが、記紀の登場人物にあてはめる場合には倭迹迹日百襲媛命とされることがもっとも多い。」
そして、稲刈りの風景を眺めながら、三輪駅で線路を渡ります。
三輪まで来たら、やっぱり本場の三輪そうめん。
お好みで「流しそうめん」を楽しむこともできます。
そして、この大鳥居のバカでかいこと・・・
この大鳥居の由来は:
https://oomiwa.or.jp/keidaimap/26-ootorii/
「昭和59年10月13日の、昭和天皇ご親拝を記念、また御在位60年を奉祝して建立され、昭和61年5月28日に竣功しました。
高さ32、2メートル、柱間23メートルの偉容を誇る、日本一の大鳥居です。材質は耐候性鋼板であり、耐久年数1、300年と言われています。」
ということですので、境内マップにもある大鳥居の右にある「一の鳥居」から「二の鳥居」
へと歩くことにしました。
これが「一の鳥居」です。
この「一の鳥居」の奥には、大神教本院なる建物がありましたが、いろいろ検索したところ、
下のサイトの説明が一番分かりやすいようでしたので、ご参考まで。
隠れた一の鳥居と大神教会(大神教本院)について探る
https://yamap.com/activities/775945
「もともと大神神社と大神教会は一体だった。
それが、明治政府の方針により、神道の国民教化が推し進められた結果、1881年2月
18日、大神神社内に大神教会という名称で講社(こうしゃ)が結成。神楽(かぐら)や祈祷(きとう)、冠婚葬祭を行うほか、御神符(ごしんぷ)や守札(まもりふだ)の授与、それに講社の業務を一手に担うことになる。
ところが、それから間もない1883年1月24日、突如、明治政府から社教分離令(しゃ
きょうぶんりれい)が下り、全国の神社は神楽はもちろんのこと、祈祷や御神符の授与など
の宗教活動がいっさい禁止されてしまったのである。
これは神社にとって死活問題であった。
事態を重く見た大神神社の小嶋盛可禰宜(ねぎ)は、有志とともに神職を辞任。宮司の了解
の下、大神教会を分離独立させることで難局を乗り切るという策に出た。幸い、これは見事
に成功。以後、大神教会は隆盛を極め、一時は大神神社をしのぐほどに成長し、1891年
4月20日には、昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)が立ち寄るという栄誉も得た。
やがて、社数分離が解かれると、大神教会は「下の宮」と呼ばれるようになって、今日に至っている。同様の例は出雲大社にもあり、出雲大社教として知られる。」
・・・神仏分離は仏教のお寺だけがひどい目にあったのかと思いきや、神道の方でも
いろいろと苦労があったんですねえ。知りませんでした。
詳しくはこちらでどうぞ:
「その目的は以下のものであったと考えられます。
祭政一致・国家神道の確立
国家をまとめる宗教の体系化、国家を精神的に一つにまとめる(神仏判然令の数日前に布告されたものにも見られる)
徳川の時代の否定
徳川幕府の時代に人民の管理をする役所のような働きをしていた寺院からの支配権の奪取や、思想的な改革」
「廃仏毀釈で最も有名な逸話に興福寺の三重塔や五重塔の話があります。
興福寺は春日大社の神宮寺と言う、神仏習合の中で生まれた神道と仏教の混ざる寺院です。
その興福寺では、僧侶が全て春日大社の神官になり、寺領は召し上げられ、寺内の建物や仏像が破壊されました。」
そして、線路を渡った先にあるのが「二の鳥居」です。
参道はこんな感じです。なかなかの雰囲気です。
二の鳥居の手前の参道は工事中でした。
こちらが拝殿です。
拝殿の手前が「三の鳥居」かと思ったら、そうではありませんでした。
単に「大注連縄」と呼ぶそうです。
拝殿の奥に「三ツ鳥居」というのがあるそうです。
https://oomiwa.or.jp/jinja/mitsudorii/
「大神神社拝殿の奥は禁足地として普段は神職さえ足を踏み入れない神聖な場所で、禁足
地と拝殿の間には結界として三ツ鳥居と瑞垣が設けられています。三ツ鳥居の起源は不詳
で、古文書にも「古来一社の神秘なり」と記され、本殿にかわるものとして神聖視されて
きました。この鳥居は明神型の鳥居を横一列に三つ組み合わせた独特の形式で「三輪鳥居」
とも呼ばれています。中央の鳥居には御扉があり、三輪山を本殿とすれば、三ツ鳥居は本殿
の御扉の役割を果たしていると言えます。」
また、wikipediaには以下の解説があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E7%A5%9E%E7%A4%BE
「大神神社は三輪山(三諸山)を神体山として直接、拝するようになっているため本殿を
もたず、山中には上から奥津磐座(おきついわくら)・中津磐座(なかついわくら)・辺津
磐座(へついわくら)の3つの磐座がある。大神神社は拝殿から三輪山自体を神体として
仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。」
そして、拝殿の向かって右には、こんな杉の木の説明がありました。
つまり、大物主神は蛇神さまであるという話です。
磐座信仰といい、ご神体が山であることや、蛇神さまという話などは、
神道以前の古代の宗教の臭いがするというべきなのでしょうか。
岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」と「原始の神社をもとめて」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/09/blog-post_27.html
「p205
私が堂と初めて出会ったのは、済州島でのことだった。 ものの本でこの島の堂のことを
読み、大方が建物のない、森だけの聖地であり、しかも女性が祭祀の中心であることを
知り、私が半世紀以上にわたって関心を持ち続けてきた沖縄の御嶽(うたき)との余りの
相似に驚き、この眼で実際に見ずにはいられなかったのである。」
「p208
神社にあって、少なくとも古代においては、森は、神を迎える場所であり、神体であり、
神社そのものであった。 古代の神社には森だけで一般に社殿はなかったとは多くの人々
の認めるところである。」
「p230
神社にあっては森だけが本来の姿であり、社殿は、仏教寺院などの影響によってあとから
設けられたものであり、社殿、即ち人工のたくらみは神の嫌うところと人々は堅く
信じてきたのであった。 実際式内社の中には、社殿を建てたために神の怒りにふれ、
火災や落雷に遭ったという言い伝えを持つところがあちこちにあるのだ。」
「p085
柳田国男は・・・・
「・・・神は御祭の折のみに降りたまふものと信じて居たことであります。 神を社殿の中
に御住ませ申さず、大和の三輪の山と同じやうに、天然の霊域を御嶽(おたけ)として
尊敬して居たことであります」」
そして、私が最後に見ておきたかったのが、その磐座神社です。
囲まれた磐座が御神体ということのようです。
そして、こちらが三輪駅の正面です。
無人駅になっています。
これで、「社殿の無い」三大神社をすべて詣でることができました。
さて、この経験が、今後の私の読書にどんな影響を与えるのでしょうか。
ちなみに、今現在は、邪馬台国に関しては、畿内説でも九州説でもどちらでも
いいと思っているのですが、九州出身の私としては九州説であったら嬉しいなという
程度です。
何年先に考古学的な決着がつくのでしょうね。
===== 完 =====
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