村井康彦著「出雲と大和」を読む ― 1 ― 邪馬台国・大和朝廷非連続説、九州からの神武東征が出雲系の邪馬台国を滅ぼした

村井康彦著「出雲と大和」を読む ― 1 ― 邪馬台国・大和朝廷非連続説、九州からの神武東征が出雲系の邪馬台国を滅ぼした

 

 


 

iv

 

話を王朝時代に戻せば、この時代、国守(受領)は任国へ下ると「神拝」――具体的には

国内の主要な神社を「巡拝」――するのが任初の大事な国務とされていたが、平安末期に

なると、その煩を省くために、国衙(こくが)のそばに神々をまとめて祭るようになった。

それが惣社である、というのが通説である。

 

vi

 

毎月一日朝に行われる「朔旦(さくたん)」神事は、その都度、一国内の神々が招かれる、

国衙にとってもっとも重要な神事であった。 国庁神社に用意された祭壇は、平素は空虚

な空間であったが、神事の際は神々で満たされたのである。

 

それはちょうど出雲(杵築)大社の「神在月(かみありづき)」の如きものではなかった

だろうか。 出雲大社には諸国の神々を迎え入れる宿所として本殿の左右に設けられた

「「東十九社」と「西十九社」があり、神在月には全国の神々がこの長大な建物に迎え入れ

られるのである。

 

==>> 惣社については、こちらで確認。

https://kotobank.jp/word/%E6%83%A3%E7%A4%BE%28%E7%B7%8F%E7%A4%BE%29-847925

     「国・郡・郷など一定地域内にある神社の祭神を1ヵ所に勧請し祀った神社

総社とも記す。国ごとに設けられた一国の惣社が最もよく知られる。これは国司

が管内の諸社に巡拝し幣帛を奉る行為(神拝という)を省くため,平安時代後期

に至り,諸社を国衙(こくが)・国府近くに合祀したものとされ,第一義的には

国衙における神事執行施設であった。」

 

・・・確かに、あちこちの神社の境内には、いろんな神様たちのお社が

同居していますね。 このような意味があったんですね。

 

 

viii

 

それがもつ機能を現存惣社のなかでもっとも端的に示してくれるものが、多賀城跡

(宮城県多賀城市)にある陸奥国惣社であろう。 鳥居の左右に国内三十一郡の神々

の名が書きあげられており、いかにも惣社だと実感させられる。

 

==>> そこで、この陸奥国惣社のサイトを見てみたところ、下のページに現在も

     惣社としての形になっている神社のリストがありました。

     https://sousyanomiya.jp/souja/

     このリストの中で、私が行ったことがあるのは、「武蔵国     大國魂神社

        東京都府中市宮町」だけでした・・・・

   https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/01/blog-post_18.html

 

     武蔵国一之宮とされる大宮氷川神社はリストには入っていませんでした。

     由緒をみると、「第十三代成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝廷の命に

より武蔵国造となって当社を奉崇し、善政を敷かれてから益々当社の神威は

輝き格式を高めたと伝わります。第四十五代聖武天皇の御代には武蔵一宮と

定められ・・・」

又、大國魂神社の方は「孝徳天皇(596-654)の御代に至り、大化の改新(645

ののち、武蔵の国府をこの処に置くようになり、当社を国衙の斎場とし、国司が

奉仕して国内の祭務を総轄する所にあてられた。」

とありますから、タイミング的な違いなのでしょうか。

 

p002

 

三輪山の神の奉祭者、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓と伝える

箸墓(はしはか)古墳も近くにあり、最初の本格的な前方後円墳とされるこの箸墓古墳

こそ三世紀半ばに没した卑弥呼の墓とする見方も古くからあった。

 

その纏向遺跡(まきむくいせき)の一角から近年整然と並ぶ柱穴群が発掘された。

 

==>> この本を読んで、纏向遺跡、箸墓古墳、百襲姫の神御前神社、そして

     三輪山の大神(おおみわ)神社を見に行きました。

 

     奈良県 纏向遺跡・箸墓古墳と三輪山・大神神社、百襲姫の神御前神社

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/11/blog-post_22.html

     「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が御祭神なんです。

大物主神(=大国主命?)の奥さんになったという話もあり、卑弥呼なんじゃ

ないかという噂もありで、なかなか興味深い姫さまなんですねえ。」

 

p004

 

したがって大物主神を祭る三輪山は、当初全山が禁足地であったろう(いまは一部

入山が許されている)。 しかもこの山中には巨石に神の靈が宿るとする磐座(いわくら)

信仰があり、大物主神は山頂の奥津(おくつ)磐座とされている。

 

p009

 

『日本書紀』(神代)は、『古事記』にのせるような因幡の白兎の話をはじめ大国主神に

まつわる逸話の類には一切ふれることはないが、大国主神の事績のうち「国作り」だけは

取り上げている。

 

あらたな支配者となる大和朝廷にとって、それ以前の大国主神による国作りは決して

無関係ではない。 大和朝廷が国内統一の大前提とした「国譲り」を説明するためには、

大国主神による「国作り」を述べておくことが不可欠の手続きだったからである。

 

・・・それは大国主神、すなわち出雲勢力が大和に進出して葦原中国の支配を完了した

ことの証しであったからである。」

 

==>> つまり、大物主神=大国主神ということになるわけですね。

https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E7%89%A9%E4%B8%BB%E7%A5%9E-450980

     「大神神社(桜井市の三輪山)に祭られる。『日本書紀』の諸伝承の中には,

オオモノヌシを大国主神(オオクニヌシノカミ),大己貴命の別名とするものも

ある。」

     「大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名、または幸魂(さきみたま)・奇魂

(くしみたま)とされている(日本書紀)。しかし、実際は三輪(みわ)氏の祖神

である。」

 

p012

 

最後にこの物語の要点は何であったのかといえば、少彦名神の協力もあって大国主神

の「国作り」が成就したことにより、出雲沖の海から来た神を介して、大国主神を

大和の三輪山に祭ることが実現したという点にある。

 

それにより三輪山の神が出雲の大国主神と同神であることを知らしめ、のちの物語で

三輪山の神が登場する際の伏線、条件づくりがなされたのである。

 

 

大和朝廷の歴史を後世に伝えるという重要な役割を担っていた。 その書物に、天皇

勢力以前に出雲勢力が大和進出を果たしていた事実を記述していることの意味を

十分考えてみる必要がある。

 

==>> 上記の中で気になるのはまず少彦名神(すくなひこなのかみ)ですね。

https://kotobank.jp/word/%E5%B0%91%E5%BD%A6%E5%90%8D%E7%A5%9E-541296

     「『古事記』『日本書紀』によれば高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)もしくは

神皇産霊尊の子といい,大国主命(オオクニヌシノミコト)が出雲の海岸にいる

ときに海の彼方から寄りつき,以後2神は協力して各地を経巡り,国作りに

当たる。」

 

もうひとつ気になる記述は「出雲沖の海から来た神」という説明です。

これは少彦名神が朝鮮半島から来たことを暗示しているのでしょうか。

     上のサイトによれば、

     「この神に関する諸文献を総合すると,海の彼方にある常世国という,一種の

ユートピアから,この世に去来する粟の穀霊(穀物を生長させ実らせる力を

神格化したもの)というイメージが浮かび上がってくる。」

としていますが・・・

 

 


 

 

p027

 

磐座信仰は、・・・出雲系の信仰圏に限るものではない。・・・にもかかわらず敢えて

それを出雲系の神々の世界の徴証したのは、その磐座信仰には独自の背景があったと

みるからである。

ひと言でいえば、磐座の発見は、出雲族に顕著な鉱山の開発、ことに鉄生産の仕事

と深い関わりがある

 

大和の場合、三輪山の麓には「金屋」「穴師」などの地名が残るように製鉄が行なわれ

ていた形跡があり、・・・ 製鉄が「国作り」の中核を占めていたことからすれば、

出雲系の神と磐座祭祀=信仰との関係は本質的なものだったといえるのである。

 

==>> 製鉄と出雲の関係については、すでに読んだ本にもそのようなことが

     書かれていました。

 

     岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」 ―2― 敦賀と出雲はほぼ新羅? 

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/09/blog-post_23.html

 

     「p108

伊賀多気神社・・・「式内社調査報告」・・・・「当社近傍には、石斧や鉄滓等が

出土し、あた彌生時代後期と思はれる土器も検出されてゐるので、渡来人を指導

者とする製鉄集団があって、その奉祀社であったのではないかとの推測もなされ

てゐる」

p109

現在出雲には、・・・近江や敦賀、・・・お隣の石見のようには、新羅、或いは

それに類する白木、白城といった名のつく神社は一つもない。伴信友の記述に

よって、少なくとも江戸期までそうした神社が出雲にもあったことが分か

。 ・・・出雲では、或る時期から出雲国造家の意向によって、新羅色、

ひろく言って朝鮮半島色が次第に消されていったのではないかと思われる。

 

==>> 出雲地方には鉄に関する歴史がみられるので、新羅色は濃いと書い

てあるのですが、一方で現在の出雲からはそれらしき気配が消され

たような感じがあるようです。

 

p028

 

「霊石座」とは「霊石を以て神体と為す也」の意であり、つまり典型的な磐座祭祀=信仰

であったことがわかる。 それに対して伊勢神宮の神々はいずれも「霊鏡」と記されて

おり鏡を御神体としていた。

 

==>> 私の個人的イメージとしては、この「霊石」による磐座信仰は

     いわば縄文時代の古来からの信仰の在り方であって、「霊鏡」は

     弥生時代的、渡来系の臭いがしますね。

 

p052

 

つまりここで『出雲国風土記』は、大国主神による国譲りで葦原中国は譲ったが、

出雲国まで手放したわけではないと明確に主張しているのである。

そのことを『風土記』の最初に記したのは、後の世までも記憶に留めて忘れないよう、

出雲国人はもとより、朝廷に向けても訴え続ける意図があったと考える。

 

==>> さて、葦原中国とはどういう範囲のことを言っているのでしょうか。

https://kotobank.jp/word/%E8%91%A6%E5%8E%9F%E4%B8%AD%E5%9B%BD-25324

     「記紀の伝承において,この地上が高天原(たかまがはら)から見て地下の黄泉

国(よみのくに)との中間に位置しているためにつけられた神話上の名称。」

「だからこそ〈天孫〉によって平定されるわけであるが,その際にこの中国を

代表する舞台として〈出雲〉が選ばれたのは,出雲国が聖なる中心地である大和

からみて日の没する西の辺境に位置したからであり,神話的には黄泉国に接す

るとされたからである。」

・・・・この説明からすると、この世が葦原中国(あしはらのなかつくに)と

いうことになって、その中で西の辺境である出雲国という位置づけになって

いるようです。

 

 

p053

 

出雲の外に対しても、各地の豪族と支配・被支配の関係、というよりは横のつながりが

重視され、いってみれば出雲連合が実現されていた、とみる。

・・・そうした出雲文化圏を特徴づけるのが、方形墓の四隅がヒトデのように突出する、

いわゆる「四隅突出型墳丘墓」の存在である。

 

==>> 古代出雲の王が眠る!「出雲弥生の森」で巡る四隅突出型墳丘墓

https://www.travel.co.jp/guide/article/45146/

     「「出雲弥生の森」の入口から、最初の立ち寄りポイントは、小型の四隅突出型

墳丘墓である「6号墓」です。」

「「よすみ」は、弥生時代に山陰地方を中心に流行したお墓で、四角の隅が突出

した特別な形をしています。全国に100基ほど発見されていますが、大きさ

トップ5のうち4つが、西谷墳墓群にあり、今回散策する「出雲弥生の森」には

そのうち3つがあります。」

 

この四隅突出型墳丘墓の分布については、こちらのサイトにその分布図が

ありました。

https://nihon-rekishi.net/rekishi-6-rule-3-4/

 

p059

 

こうした四隅突出墓が出雲から高志(越)まで見られるのであるが、ほぼその中間に位置

する丹波(京都府)地域には存在しなかったというのが、こんにち考古学界の定説になって

おり、四隅突出墓をめぐる議論では自明の事実とされている。

 

その理由として、大和朝廷が大陸からの鉄材の受容ルートを確保するために早くから

この地域を押さえたからであり、前方後円墳がこの地域に早く出現しているのはその証拠

である、といわれている。

 

p060

 

丹波の墳墓から出土する土器類が他地方の四隅突出墓のそれと共通していることをはじめ、

磐座祭祀=信仰のひろがりを検討するなかで明らかになったように、丹波の雄族であった

海部氏の奉祭する神が出雲系であったこと、などを考え合わせると、丹波はむしろ

出雲の影響を強く受けていた地域とみるべきであろう

 

==>> ここで著者は、定説に対して疑問を持ち、いずれ四隅突出型が丹波でも

     見つかるはずだという自説を持っているようです。

     そして、実際にその候補地を 峰山町図書館の郷土資料室で発見したと

     書いています。

     「幻の権現山遺跡は実は四隅突出墓だったのだ」としています。

 

 

p075

 

以上のことから、帯方郡から郡使が来訪した時には「刺史」がまず接遇し、ついで国王

の宮殿に案内する。 そこではしかるべき儀式や饗宴が催されたことであろう。

大事な点は、そこでの伊都国王は、大倭王邪馬台国言女王卑弥呼の役割を代行して

いたということだ。 これは郡使にしてみれば、伊都国にぴてすべての“公務”が果たされる

ことを意味しており、したがって郡使は邪馬台国まで赴く必要はなかったことになる。

 

==>> 急に話が飛びますが、ここでは伊都国と邪馬台国との関係について

     ひとつの説が述べられています。

     伊都国が邪馬台国の出先機関みたいな役割を行なっているので、

     伊都国から遠いところにある邪馬台国まで行く必要性はあまりないと

     いうことを述べています。

 

p081

 

『魏志倭人伝』の時代、邪馬台国への道とは、北九州から日本海沿岸を東へ進むことで

あった。 「東水行二十日」の投馬国というのはおそらく出雲辺りのことであり、そこから

さらに東の「水行十日」は丹波辺りと考えるが、その根拠は久美浜湾がこの上ない良港

の条件を備えていたからである。

 

ここで上陸し、陸路をとること(記載にはないがここからは「南」である)一か月

にして到達したのが、邪馬台国であったーーといった道程が考えられるであろう。

 

・・・この道程にことさら意味を認めるのは、このルートこそが、これまで私が探索して

きた出雲と大和をつなぐ道にそのまま重なり合うからである。

 

==>> ここでは著者の説によって、出雲と大和の繋がりを解説しています。

     海路はともかく、陸路一か月というのは日数がかかり過ぎではないかとも

     思えるのですが・・・

     ともあれ、こちらのサイトにある「畿内説」の赤いルートがこの著者の説に

     近いようです。

     http://blog-imgs-26.fc2.com/h/a/s/hashibee/20070222205010.jpg

 

 

p083

 

では邪馬台国の王都、卑弥呼の宮殿はどこか。 ・・・注目されるのが、「唐古・鍵遺跡」

(奈良県磯城郡田原本町)ではないか。 纏向遺跡からは北西にあり、まさしく

奈良盆地の中央部の微高地に位置する環濠集落だったからである。

 

==>> ここで著者は纏向遺跡は卑弥呼の宮殿があった場所としては条件が

     揃わないとして否定しています。

     ひとつは環濠集落がなければならないこと。

     纏向遺跡で発見された桃の実は道教と結びつけられるので、時代的に合わない

としています。

     卑弥呼が道教的な呪術を行なっていたというのは時期尚早ではないかとみて

     いるのです。

 

p089

 

注目されるのは、そのなかで四つの神社を皇室の「近き守神」とすることを述べている

事実である。 四つの神社とは三輪の大神神社、葛城の高鴨神社、飛鳥の伽夜奈流美

(かやなるみ)神社、宇奈堤(うなて)の川俣神社をいうが、これらを皇室の守神とする

という出雲国造の発想は、こられが大和朝廷の設立以前から出雲系の神、出雲系の神社と

して存在していたことを前提としてはじめて理解できるものである。

 

==>> 高鴨神社のサイトには、下のようなことが書かれています。

     https://takakamo.or.jp/about/

     「阿遅須伎高日子根の命の御魂を 葛木の鴨の神奈備に坐せ

~皇孫の命の近き守り神と貢り (出雲国造神賀詞)

「この地は大和の名門の豪族である鴨の一族の発祥の地で本社はその鴨族が

守護神として祀った社の一つであります」

 

また、こちらの伽夜奈流美(かやなるみ)神社のサイトには、以下の記述があり

ます。

https://jun-yu-roku.com/yamato-takaichi-kayamori-kayanarumi/

「『延喜式』祝詞に所載されている『出雲国造神賀詞』(新任の出雲国造が天皇に

対して奏上する祝詞)によれば、

大穴持命が自身の和魂を倭大物主櫛厳玉命として大御和の神奈備

(現在の「大神神社/ 桜井市三輪に鎮座)に、

命の御子である阿遅須伎高孫根命の御魂を葛木の鴨の神奈備

(現在の「高鴨神社 / 御所市鴨神に鎮座)に、

事代主命の御魂を宇奈提(式内社「高市御縣坐鴨事代主神社」

 / 橿原市雲梯町に鎮座の「河俣神社」に比定)に、

賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に、

それぞれ鎮座させて皇孫の守護神としたとあります。」

 

 

p091

 

場所は同じ大和でも、邪馬台国と大和朝廷とは繋がらないというケースもありうるの

ではないか。 これを邪馬台国・大和朝廷非連続説と呼ぶなら、私はこの立場をとって

いる。

 

そう考えるに至った根拠はただ一つ、邪馬台国や卑弥呼の名が『古事記』や『日本書紀』

に一度として出てこないことにある。

 

p093

 

『日本書紀』の編纂者たちが編纂の過程で『魏志倭人伝』の内容を精査した様子が知られ

よう。 その仕事を通してかれらは邪馬台国とその女王卑弥呼の存在を知り、その知識

をもって神功皇后紀のなかに先の記事を引用しているのである。 『日本書紀』の注釈書

類をはじめ研究者の多くが、『日本書紀』は卑弥呼を神功皇后になぞらえている、とか、

同一人物と見ている、と理解したのは一向に不思議ではない。

 

==>> 著者はここで、 卑弥呼が『古事記』や『日本書紀』に一切出て来ず、

     その代わりに神功皇后が編纂の過程で挿入されたと考えても不思議ではない

     としています。

     それにしても、なぜ卑弥呼は消されてしまったんでしょうか。

 

p104

 

卑弥呼が没した頃、倭国の争乱に乗じてあらたな勢力が東に向けて移動しはじめ、やがて

邪馬台国は激しい攻撃にさらされたことになる。 『魏志倭人伝』からは知ることの

できない邪馬台国最後の状況は、じつは『日本書紀』が克明に記録していたのである

――。 それがいわゆる「神武東征」に他ならない。

 

p105

 

これを取り上げることは歴史研究や歴史教育を逆行させるものだと非難されたのだった。

そのことを百も承知で神武東征説話を取り上げる理由は二つある。

 

==>> 二つの理由は、短くすると、

     邪馬台国は大和朝廷につながらない、という点と、

     神武勢力の大和侵攻の状況が、邪馬台国の「四官」体制に対応している

     点をあげています。

 

p109

 

しかも大和側の布陣は、・・・『出雲国造神賀詞(かむよごと)』に登場する「皇孫の

命の近き守神」の場所――三輪山・鴨・かやの森――と重なっていることにも注目

したい。 いずれも出雲系の神々であったからで、神武軍の侵攻を阻んだ軍勢が

まぎれもなく出雲勢力であったことを物語っている。

 

==>> つまりは、邪馬台国は出雲系であって、神武軍はその邪馬台国に侵攻

     して大和朝廷をつくったという話ですね。

     しかし、それでも、三輪山の大神(おおみわ)神社などは大切な神社として

     残ったのは何故なのかという疑問が浮かんできます。

 

 

p112

 

当社の祭神の一座、武乳速命(たけちはやのみこと)は、・・・・

地域の人たちはこの武乳速命が長髄彦(ながすねひこ)のことと信じ、神武東征の折の

孔舎衛坂の戦いでは、自分たちの先祖は長髄彦に従い、・・・戦いのさまを昨日のことの

ように語ってくれる古老がいたとのことだった。

 

p113

 

それは神武の軍兵と戦ったことが不敬不遜の行為とされ、その名をもちだすことがタブー

とされてきたからである。古老の言によれば、当社の祭神から長髄彦の名が消えたのは

明治になってからであるという。 近代国家になった時期に消された、この種の神や

人が少なくなかったことを記憶に留めておきたい。

 

==>> 添御県坐神社 【そうのみあがたにいますじんじゃ】

http://soumi.sub.jp/enkaku.htm

     「三柱の神々が祀られています。

建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)

武乳速之命  (たけちはやのみこと)

櫛稲田姫之命 (くしいなだひめのみこと)」

 

・・・なんと、明治になってからも都合の悪いことは、神社からもいろいろと

消されていったわけですね。歴史を調べるというのは本当に困難な作業なのだ

と思います。

     廃仏毀釈で仏教が弾圧されたことは知っていましたが、神社でもいろいろと

     あったんですね。

 

 


 

 

では、次回は「第三章 大和王権の確立」に入ります。

 

==== 次回その2 に続きます ====

 村井康彦著「出雲と大和」を読む ―2(完)― 邪馬台国は出雲勢力、霊石信仰から神鏡信仰・社殿へ、出雲の高層社殿 (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

                                                                                                               

 

 

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