倉橋日出夫著「古代出雲と大和朝廷の謎」を読む ―2― 山の辺の道、箸墓古墳、纏向遺跡、卑弥呼=百襲姫=天照大神=大日孁貴神=神功皇后?? 『日本書紀』に出ない邪馬台国
倉橋日出夫著「古代出雲と大和朝廷の謎」を読む ―2― 山の辺の道、箸墓古墳、纏向遺跡、卑弥呼=百襲姫=天照大神=大日孁貴神=神功皇后?? 『日本書紀』に出ない邪馬台国
p077
邪馬台国の女王卑弥呼の墓が、じつは日本で最初の前方後円墳だった。
こんな話が現実味を帯びて語られるなどと、誰が予想していただろうか。
p078
大和盆地東南部にある山の辺の道、静かな小道を天理市側から大神神社(おおみわじんじゃ)
の方向に歩いていくと、行燈山古墳(あんどんやまこふん・伝崇神陵)や、渋谷向山古墳
(しぶたにむこうやまこふん・伝景行陵)にさしかかるあたりで、眼下にこんもり繁る
小さな森のようなものが見えてくる。 これが箸墓である。
箸墓があるのは、JR桜井線の小さな駅「巻向(まきむく)」から歩いて5分ほどのところ
だ。
p080
この箸墓に葬られているのは、『日本書紀』によれば、倭迹迹日百襲姫(やまと・ととひ・
ももそひめ)という女性とされている。
・・・箸墓の場合は異例の扱いで、築造についての記述だけでなく、不思議な伝説も
残されている。
p081
倭迹迹日百襲姫(以下百襲姫)は、その崇神天皇の近くで霊感にもとづいた助言を
与える巫女のような存在だったようだ。
p082
箸墓にたいする宮内庁の扱いは、現在でも「倭迹迹日百襲姫の大市墓」である。
・・・陵墓参考地に指定されているため、発掘どころか、自由な立ち入りができない
状態だ。
==>> 百襲姫に関する詳しい情報は、wikipediaで見ていただくとしましょう。
ここでは、ちょっと箸墓古墳がどのような状況なのかをチェックしておき
ましょう。
桜井市のサイトです。 案内動画もあります。
箸墓古墳(桜井市箸中) 陵墓
「邪馬台国の女王卑弥呼の墓という説もある箸墓古墳は、我が国,最初の巨大
古墳として知られ現在は、倭迹迹日百襲姫命の大市墓として宮内庁で管理され
ています。 箸墓古墳は3世紀始めごろに出現した当時国内最大の集落跡、纒向
遺跡にある全長約276mの巨大な前方後円墳で、当時としてはもちろん、我が国
最大の墳墓です。」
「橿原考古学研究所は2019年1月9日、箸墓古墳で、物質を透過する宇宙線
「ミューオン」を利用し宮内庁の敷地外から内部の様子を探る調査を実施して
いることを明らかにしました。」
・・・このミューオンでの透視調査の結果については、インターネットで
検索しましたが、それらしきものは出てきませんでした。
p083
箸墓イコール卑弥呼の墓説が、本当の意味で、多くの研究者の射程圏内に入ってきた
のは、やはり年輪年代法によって年代観が決定的に変わってからである。
p088
ところが、箸墓に葬られた百襲姫という女性は、邪馬台国の女王とは描かれていない。
記紀でみるかぎり、彼女はそれほど大きな影響力と権力をもっていたようにはみえない。
崇神天皇の大叔母として巫女のように存在し、最後は三輪山の大物主神(おおものぬしの
かみ)と結婚し、不可解な死を遂げる。 そういう扱いの女性にすぎないのだ。何より
百襲姫の時代には、すでに支配者として崇神天皇が存在している。
このあたりに古代史の大きなミステリーと謎がひそんでいる。
==>> 箸墓古墳と百襲姫などについて、こちらの動画サイトでは、記紀に書かれて
いることも含めて、詳しく解説しています。
箸墓古墳 卑弥呼の墓?
古代史最大のミステリー、邪馬台国候補地の前方後円墳を検証する
https://www.youtube.com/watch?v=8mmeWfbcPtA&t=25s
「この動画は、箸墓古墳について、これまでの調査成果から明らかになったこと
をまとめた動画です。桜井市埋蔵文化財センターの図録『HASHIHAKA-始まり
の前方後円墳- 』の内容に基づいて構成しました。」
「築造年代が3世紀半ばで、卑弥呼の死亡した247、8年ころと矛盾しない。
結局は今後の調査を待つしかないようですが、それにしても、宮内庁が
なかなか考古学的調査を許可しないのは、どのような深慮遠謀があるのか
気になるところです。
p093
纏向遺跡(まきむくいせき)の発掘調査に長年たずさわってきた石野博信さんが
『古代を考える 邪馬台国』に詳しく書いているところによれば、纏向は西暦180年頃
に突如として姿をあらわし、大いに栄えたあと、340年頃、急速に衰退したという。
まさに邪馬台国の時代から、初期大和朝廷の頃にぴったりと重なってくる。
ちょうど倭国大乱期に唐古・鍵の集落が解体し、その後、卑弥呼が邪馬台国の女王に共立
された頃に、纏向には大きな集落が出現するのである。
==>> ここで、高校の日本史教科書では、どのように九州説と畿内説が扱われて
きたかを、こちらの動画で見てみましょう。
ほぼ、畿内説で決まりという雰囲気なのですが・・・・
邪馬台国 畿内説が優勢に【社会人のための高校日本史2022】
https://www.youtube.com/watch?v=omqojKkrZP4&t=111s
youtubeで九州説を主張しているのは、絶滅危惧種の最後のあがきという
感じらしいです。 涙・・・・
p094
活発な交易活動や、人びとの交流を予想させるように、纏向には多くの地域の土器が
入り込んでいる。 纏向式と呼ばれる地元の土器(大和型庄内式土器)だけでなく、
西日本や東海、北陸など各地の土器が豊富に出土し、全体の30%ほどが外来系の土器
だという。
p095
登呂遺跡などでおなじみのあの竪穴住居ではなく、柱で建てた木造の家が纏向には
並んでいたらしい。 奈良県内の同時期の遺跡には、竪穴住居だけの集落があるが、
纏向ではほとんど竪穴住居が発見されていない。
・・・このような纏向遺跡から浮かんでくるイメージは、すでに都市的である。
==>> このような描写からは、邪馬台国が竪穴式のかなり太古の時代だという
イメージがやわらいで、列島の広い範囲を統括する都会的なものであったと
いう感じを受けます。
p097
柳田国男によれば、なんと「市」は「市場」の市ではなく、巫女のことだというのである。
つまり、「小市」の台与にたいして、「大市」の卑弥呼という関係がある。「イチ」とは、
神に一番近づける女性だという柳田の指摘も示唆に富んでいる。
「大市」という名前(地名)には、このように卑弥呼とつながるものがある。
『日本書紀』に記された「大市に葬る」の「大市」、そして「倭迹迹日百襲姫命の大市墓」
の「大市」は、おそらく「大きな市場」ではなく、「大いなる巫女」を意味している。
百襲姫と卑弥呼は、大市によってもつながっている。
==>> こういう意味があったとすれば、「イチ」は「市」ではなく「一」の意味が
基本にあったということになりそうです。
p098
纏向が邪馬台国なのではなく、大和盆地全体が邪馬台国だったに違いない。
河内から大和川をさかのぼってきて、生駒山地と金剛山地の間から広々した大和盆地に
入ったとき、そこからが邪馬台国だったのだろう。
倭人伝に「7万戸」(7万人)とある邪馬台国の人口は、纏向遺跡だけでなく、大和盆地
全体を考えてみると、わかりやすい。
・・・「邪馬台」は「大和」なのだ。
p106
では、邪馬台国と大和朝廷は王朝として連続しているのか、いないのか。
このあたりが重要になってくる。 どうやら邪馬台国と大和朝廷の間には何か不可解な
ミステリーがあり、両者は連続していないように思えるのである。
==>> ここで「連続していない」ように思えるとしているのが、私としては
意外な感じがして、なぜ?という感じになっています。
もっとも、記紀などには、邪馬台国のことは出てこないので、「連続していない」
と考えるのが当然なのかもしれませんが・・・
p109
邪馬台国の女王卑弥呼と、崇神天皇の脇役になっている倭迹迹日百襲姫のこの違いの
なかに、何か重大なことが隠されている。
8世紀前半に成立した記紀、つまり『古事記』と『日本書紀』は、もともと政治的潤色
が多いといわれ、書いてあることをそのまま鵜呑みにはできないという見方がすでに
定着している。 記紀に描かれる神話の多くも、アジアの北方や南方など各地の民族の
要素が複雑に絡んでいるといわれる。
p110
とくに『日本書紀』(30巻)は、中国を強く意識して、国家の史書としての体裁を
整えるために、中国の史書や仏典から多くの借用があるといわれる。
編纂や執筆を担当したのは帰化人系の人が多かったのではないかという指摘もあり、
そのため各巻ごとに用語の使い方が違っていたりする。
==>> ここで、なぜ卑弥呼の名が日本書紀に出てこないのかについて、参考になる
動画がありました。 卑弥呼=神功皇后説が、ちょっとだけ出してあります。
卑弥呼が『日本書紀』に登場しない本当の理由!
https://www.youtube.com/watch?v=1bx61VW7VeI&t=253s
「卑弥呼がいた時代は、どの天皇の治世でもない・・・」
「卑弥呼が日本書紀に登場しないのは、日本書紀の歴代天皇の時代が、
卑弥呼の時代に該当しないからである・・・」
「天照大神は「247年前後に年すでに長大にして亡くなった卑弥呼」像に
ぴったりと重なります・・・」
「(天照大神の)日本書紀本文での名前は登場時から大日孁貴神(おおひるめの
むちのかみ)です。 ・・・・「みこ、かんなぎ」を忌する「靈」(れい/りょう)
という文字の下の部分を「巫」(みこ)から「女」に改めることによって、
女性の巫であることを、日本書紀の筆者が意味的に示そうとしたものと
思われるとされています・・・」
・・・ここでは、動画制作者の説として、天照大神=大日孁貴神=卑弥呼
であるとしています。
ちなみに、wikipediaの天照大神では、
「別名、大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)。神社によっては大日女尊
(おおひるめのみこと)、大日孁(おおひるめ)、大日女(おおひめ)とされ
ている。」
・・・神話の神々の名前は別名が多くてこまります。
p111
崇神天皇は、初代の神武天皇から数えると第10代目の天皇だ。
・・・初代の神武天皇は九州から遠征して大和を征服した伝説の人物だが・・・
2代から9代までの8人の天皇は、いわゆる「欠史八代」といわれ・・・
百襲姫(ももそひめ)は、この欠史八代に含まれる第7代孝霊天皇の娘である。
このあたりにまず百襲姫の出自をめぐる謎を解く鍵がある。
p116
一方、『古事記』の方には、百襲姫についても、また箸墓についても、何も書かれて
いない。 第7代孝霊天皇の皇女というほかは、百襲姫の記述そのものがない。
・・・あたかも百襲姫を無視するかのように、大田田根子(意富多々泥古・おおたたねこ)
のことだけが述べられている。
p118
百襲姫と三輪山の神の結婚伝説を補うように、大田田根子の祖先、活玉依媛(いくたま
よりひめ)が三輪山の神と結ばれる物語を語っている。
百襲姫の存在は、『古事記』では、ほとんどカットしたといわんばかりなのである。
==>> 活玉依媛(いくたまよりひめ)は初お目見えなので、チェックしておき
ましょう。
https://kotobank.jp/word/%E6%B4%BB%E7%8E%89%E4%BE%9D%E5%AA%9B-1052349
「「古事記」では活玉依毘売とかく。妊娠したことから父母が毎夜かよってくる
男の衣につけた麻糸をたぐると,大和三輪山の社に達していたので,男は大物主
(おおものぬしの)神とわかったという。
「日本書紀」にも大物主神の妻とあるが,大物主との婚姻伝承に登場するのは
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)。」
・・・つまり、古事記ではこの名前、活玉依毘売で出てきて、箸墓との関係は
なにもないということですね。
日本書紀では、百襲姫という名前で出てきて、箸で大事なところを刺して
箸墓に葬られるという話になっているわけです。
・・・ここで出て来た大田田根子なんですが、
先に読んだこちらの本に詳しく書いてありました。
岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」を読む
―3―三輪山の磐座こそが本来の神社、新羅=出雲=邪馬台国vs大和朝廷?
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/09/blog-post_30.html
「p157
大田田根子が実在の人物であるとするなら、渡来人、乃至渡来系の人間だった
可能性が高い。紀によれば、母活玉依媛は陶津耳の娘だったというのだから、
なおさらそう思われる。
松前健氏は、太田田根子の裔とされ、歴代三輪神社の神職を務めた豪族大神
(おおみわ)氏(三輪君)は渡来系の豪族であったと断ずる(「渡来氏族として
の大神氏とその伝承」)。
p158
それならばなぜ三輪王朝の人々は、いわば異族の神を祀ったのであろうか?
垂仁(すいにん)天皇の代、天照大神を豊鍬入姫(とよすきいりひめ)から離し
て倭姫命(やまとひめのみこと)に託け、こちらは諸国を経めぐった末、伊勢に
至って、「是の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪帰(しきなみよ)する国なり。
是の国に居らむと欲ふ」という天照大神の言葉に従って、ここに大神を祀った。
これはよく知られた伊勢神宮創祀の話である。
この話を信じるならば、三輪王朝の人々は、本来三輪山に祀るべき皇祖神を国の
外へ出してまでも出雲の神を祀り続けたことになる。」
・・・大田田根子という人物が渡来系、出雲系という話になると、
大神神社は出雲系を守って、大和朝廷系を伊勢に移させたということに
なるのでしょうか?
ここで、古事記と日本書紀の基本的な違いについて、こちらの動画で
勉強をしておきましょう。
日本書紀と古事記(三浦佑之「神話と伝承から読み解く出雲世界」)
https://www.youtube.com/watch?v=Z6ESzp3ej28&t=13s
「島根県古代文化センターシンポジウム「神話と伝承から読み解く出雲世界」の
基調講演の1本目です。 講演:三浦佑之氏(千葉大学名誉教授)」
「古事記と日本書紀は、まるで別の歴史書である。
ことに、出雲神話の扱いが異なっており、日本書紀に存在するのは、国譲り
だけであり、出雲神話はほぼ存在しない」
「出雲は60数か国のうちの1つの国、が日本書紀の立場・・・」
「古事記は特別な出雲とヤマトとの関係を描こうとしている」
・・・この動画を見ると、なぜ内容がいろいろと異なるのかの理由が分かります。
p118
崇神天皇は・・・国土を最初に支配した者となる。 ・・・初期大和朝廷、いわゆる
三輪王朝が誕生するわけである。
だが、右の述懐には、一種のうしろめたさが込められている。
崇神天皇の言葉にある「罪をはらい」や「過ちを改めて」とは、何を意味するのだろうか。
p120
もともと、大和内部でもよそ者のような立場だったようだ。彼は大和の神山・三輪山の神
のことをあまり知っていない。彼は最初から三輪山の大物主神を祭ってはいなかった。
崇神天皇の軍勢はむしろ新興勢力である。
では、崇神はいったい誰と戦い、どういう勢力を平定したのだろうか。
倭人伝では、卑弥呼の死後、男王が建ったが国中が従わず、互いに「誅殺しあった」と
いう。 しかし、女王に台与を立てることで国内は平定された。
p121
百襲姫から大田田根子へという関係が、卑弥呼から台与へという関係とよく似ている。
そして、ふたりの間には『日本書紀』では崇神がおり、倭人伝では男王がいる。
==>> ここで、著者の推理がどんどん出てきています。
百襲姫=卑弥呼、大田田根子=台与、崇神天皇=男王、という関連付けです。
p124
唐の時代に書かれた『梁書』(りょうしょ)に、わずかに一行だけ述べられている。
「台与のあと、倭国には男王が立ち中国の爵名(しゃくめい)を受けた」とある。
これがおそらく三輪王朝なのは間違いないだろう。
p128
崇神はおそらく、卑弥呼の死後いったん王として立とうとしたが、国中が服さず、
矛をおさめるしかなかったのだ。 そして、女王として台与が立てられた。
崇神は台与の治世中に地盤を固め、台与の死後、新政権を樹立したのではないか。
==>> 著者の推理は、崇神天皇が男王であって、台与の時代を挟むように
政権をとりに行ったということですね。
それが大和朝廷・三輪王朝で間違いない、と。
p132
考えてみるとまったく不思議なことだが、記紀には邪馬台国のことが何も書かれていない。
邪馬台国という名も、卑弥呼も、台与も、男弟の存在も、何も書かれていないのである。
ところが、『日本書紀』には思わぬところに、邪馬台国がすべり込ませてある。
崇神天皇から4代あとの第14代仲哀天皇の后、神功皇后(じんぐうこうごう)のところで、
彼女の治世39年に、・・・・
「景初3年6月、倭の女王が帯方郡に使いを送った」とは、まさしく邪馬台国の女王
卑弥呼が西暦239年、魏に朝貢したことである。
同じような分註が第40年、第43年にもある。 こんな記述が『日本書紀』には、
分註という形で挿入してあるのである。
邪馬台国の名も、卑弥呼の名もださず、邪馬台国そのものには知らんぷりをしている。
しかも、本文ではなく、分註という責任を回避したような扱いで描いている。
『日本書紀』の編者たちは、「邪馬台国の女王卑弥呼とは神功皇后のことですよ」と
やんわり認めているわけである。
==>> なんと、編者たちの未来の人たちへのヒントが、本文の中にではなく
分註という別のところで与えられているんですね。
もしかしたら、編集長の目をごまかす為だったかもしれませんね。
こちらの動画では、卑弥呼=神功皇后の説を詳しく解説していますが、
神功皇后のほうが架空の人物だとしている論です。
謎の女帝「神功皇后」の正体は卑弥呼か?
https://www.youtube.com/watch?v=rT0Grgf92K8
「日本書紀で最もミステリアスな女帝である神功皇后。その69年におよぶ摂政
期間は、西暦では201年から269年に設定されています。」
「日本書紀編纂者は、魏志倭人伝を読んだうえで、卑弥呼になぞらえた
神功皇后像を創り上げ、日本書紀に描き込んだのだと思います」
上記はひとつの説ですが、インターネットで他の動画を見てみると、
卑弥呼と神功皇后を結び付けるような者は「おろかもの」だと一蹴している
サイトもありました。 諸説あり、ですね。
p135
『日本書紀』の編者たちの考えでは、神功皇后の治世がちょうど倭人伝にある邪馬台国
の時代に当たると設定したようだ。 そもそも日本の暦の最初の定点を、卑弥呼と
神功皇后を重ねる地点にとったわけである。 しかし、それでは年代的に合わないのは
いうまでもない。 神功皇后が実在した女性だったとしても、4世紀後半の人である。
卑弥呼は2世紀末から3世紀前半までなので、百年ほど離れている。
p136
自分たちの国の記録にも、記憶にもそれがないのに、歴史を記録することにかけては
本場の中国の史書に「邪馬台国」や「卑弥呼」の名前が述べられている。 そのために
仕方なく、神功皇后という人物を創り上げ、辻褄を合わせておいたということかもしれない。
p137
一方、そうではなく、もっと強い作為があり、邪馬台国や卑弥呼の存在を日本の歴史から
消してしまったと考えることもできる。
大和朝廷のなかに邪馬台国を吸収してしまう、そうやって事実上、邪馬台国の存在を消して
しまったとみることもできる。
==>> 本音としては、後者の「もっと強い作為」じゃないのかなという気がします。
でも、中国の正史に邪馬台国やら卑弥呼やらが書かれているから、突っ込まれ
たら、ああ、それは神功皇后のことですね、とトボケル余地を作っておいた、
ってのはどうでしょうか。
少なくとも、国内的には、邪馬台国を抹殺しておきたかった。
p138
歴史的に見ると、3世紀の邪馬台国の時代には、倭国の軍隊が朝鮮半島に出兵したような
事実はない。
・・・4世紀の後半ごろなら、倭国の軍隊が百済救援のために朝鮮半島に出兵していた
ことは、高句麗の碑文から知られている。 何度か新羅や高句麗との戦いがあったようだ。
ただし、神功皇后に相当するような日本の天皇か皇后に率いられた軍隊が、朝鮮半島に
出兵したという記録はない。
7世紀に斉明天皇という女帝がいて、有名な白村江の戦いの2年ほど前に、百済救援と
新羅攻撃を行うために北九州にまで遠征したケースがある。 神功皇后はこの女帝が
モデルになっているのではないかといわれている。
==>> ここでは、著者はいわゆる神功皇后の三韓征伐は、日本の伝承とはなっているが
皇后が率いた軍隊が出兵したという記録はないとしています。
しかし、こちらのサイトでは、以下のような朝鮮側の試料はあるとしています。
三韓征伐
「倭国が新羅をはじめ朝鮮半島に侵攻した記録は、朝鮮の史書『三国史記』新羅
本紀や高句麗における広開土王碑文などにも記されており、2011年には新羅が
倭の朝貢国であったと記されている梁職貢図が新たに発見されている。」
「直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐と言う場合も
ある。『古事記』では新羅と百済の服属は語られているが、高句麗の反応は記
されず、「三韓」の語も現れない。」
p141
記紀の編者たち、つまり当時の大和朝廷にとって最も重要なことは、大王(天皇)家は、
神代から続く日本で唯一の正当な王統でなければならない、ということである。
国家としての形態をきちんと整えなければならない、歴史もまとめておかなければなら
ない、そういう時期だ。
p142
このようにみてくると、邪馬台国と大和朝廷の関係は少しはっきりしてくる。
大和朝廷は、邪馬台国に対して後ろめたさのような感情をもっている。 中央集権による
国家体制をめざしていた7~8世紀の大和朝廷は、おそらく邪馬台国とは別の系譜にある
だけでなく、政治上、宗教上のポリシーが決定的に違うのである。
==>> ということで、次第に邪馬台国vs大和朝廷という対立の図式が見えて
きました。 列島内を統一しようということは、結局対立する集団を
黙らせなくてはいけないわけですね。
それがどういう戦いになって、特に神道の領域でどのような変化があったのか、
私はそこに興味をもっています。
アラハバキ神とかミシャクジ神とか呼ばれている古い神々への興味です。
p143
河内王朝は神功皇后の物語からもわかるように、九州との関係が深く、朝鮮半島とも
何かつながりがあるようだ。 その後、河内王朝が11代の天皇(神功皇后も加えると
12代)で終わると、今度は、敦賀の方から継体天皇が20年の歳月をかけて大和入り
する。 これも新しい王朝の性格が強いとみられている。
p146
大和朝廷にとっては、むしろ、邪馬台国の影響から脱することが大きなテーマだったの
かもしれない。そのために必要なのは、おそらく新しい神話を持つことだ。 別の神の
体系を構築することである。
記紀の編者たちの時代には、現実の政治は大昔の祭祀政治では立ち行かなくなっていた
のかもしれない。 卑弥呼のような祭司王はもはや必要なく、ただ王権のシンボルとして、
さらには統治の装置として、正当な王統の地位だけが必要だったのだろう。
これは大和朝廷が邪馬台国とはまったく別の系統だったことを物語っている。王統が
違うだけではなく、拠って立つ神の系譜が違うのではないだろうか。
==>> これはなんだか、縄文系vs弥生系の神々の争いのような雰囲気になって
来ましたね。 縄文系=出雲系で、弥生系=大和系、でしょうか?
さて、次第に私が期待している古代の神々の話に突入しそうになってきました。
次回は「第8章 邪馬台国は出雲系か」から読んでいきます。
===== 次回その3 に続きます =====
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