岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」と「原始の神社をもとめて」を読む ―4(完)― 森だけが神社の本来の姿、 調べるほどに新羅が近くなる神道

 岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」と「原始の神社をもとめて」を読む ―4(完)― 森だけが神社の本来の姿、 調べるほどに新羅が近くなる神道

 


 

 

いよいよ最終章 「第七章 慶州の堂」 に入ります。

 

p202

 

朝鮮半島において、神社に相当する聖地は、一般に堂(タン)と呼ばれる。 堂については、

前著原始の神社をもとめてで・・・・

 

p203

 

このような堂は、神社同様、かつてはどの村にも必ず一つはあったものらしい。

しかし堂信仰を淫祀邪教と断じ、弾圧、排除、冷遇した李朝五百年の儒教体制のもとで

激減、或いは変質し、昭和十一年(1936)、即ち日本の統治時代に朝鮮総督府が調査を

行った時点で、すでに半数近くの村が堂祭を廃止していた。

 

その後、1970年代には、朴正煕大統領が推進し、堂信仰を農村の近代化を妨げる迷信

だとしたセマウル(新しい村)運動が全国的な拡がりをみせ、この信仰をさらに追いつめた。

 

・・・1971年の調査では、堂祭を続けていた村は、調査地域の三割にも達しなかった

という。 それから今日まで42年、キリスト教の韓国における近年の驚くべき普及を

考えると、堂の現況は押してしるべしであろう。

 

==>> この本が出版されたのが2013年ですから、現在はさらにもう十年ほどが

     経過していることになります。

     韓国の宗教的変化の大きさにくらべて、日本のそれは神仏習合が大昔から

     そのまんま大きな変化もなく続いているとみていいのでしょうか。

     もちろん、神道派vs仏教派の争いはあったし、戦国時代のキリスト教の

     大名をまきこんだ布教拡大もあったわけですが。

 

p205

 

私が堂と初めて出会ったのは、済州島でのことだった。 ものの本でこの島の堂のことを

読み、大方が建物のない、森だけの聖地であり、しかも女性が祭祀の中心であることを

知り、私が半世紀以上にわたって関心を持ち続けてきた沖縄の御嶽(うたき)との余りの

相似に驚き、この眼で実際に見ずにはいられなかったのである。

 

==>> 著者は、このように沖縄の御嶽と韓国の堂が非常に似ていることに驚き、

     そこに原始の神社の姿を見ているようです。

     ここまでこの本を読んでくれば、この堂(タン)こそが、日本の神社のルーツ

     であるということを著者は示唆しているのだと思います。

 

p206

 

済州島では、酺祭(ポジュ)と称して男性だけで儒教風の村祭りを行い、そのあと女性

たちが堂に集まって堂祭をする、という二重構造になっているところが多い。

 

堂祭の方は、年に一度行われる、歌舞を伴う有名な迎燈祭(ヨンドンクッ)のような

堂クッのほか、年に何度か、歌舞を伴わない、ささやかな、ピニョム(祈願)と呼ばれる

堂祭が行われる。

 

・・・祭儀の中心が女性であること、もう一つは、堂の大方が森をなしていることである。

 

 

p208

 

・・・新羅第二代の南解王が慶州の奈乙に始祖赫居世(ヒョッコセ)を祀る廟を建てた時

(紀元六年)、主祭者は王の実妹阿老であり、元来祭りは、女性を中心に行われたので

あった。 日本でも事は同様で、伊勢神宮の斎宮制、加茂大社の斎院制を見れば分かる

通り、古代、祭祀は同様に女性が行っていたのである。

 

なお神宮という名称も、斎宮制も、「新羅の祭祀制の影響によるもの」・・・とする論も

ある。

 

p208

 

神社にあって、少なくとも古代においては、森は、神を迎える場所であり、神体であり、

神社そのものであった。 古代の神社には森だけで一般に社殿はなかったとは多くの人々

の認めるところである。

 

==>> ここで、著者は、原始の神社は、女性が主祭するものであり、社殿などのない

     森こそが神を迎える場所であったことを強調しています。

     神道は自然崇拝ですから元々は森や岩などに何か感じるものがあって信仰が

     生まれたのでしょうから、社殿などなかったのは当然だと思います。

     そして、女性が主祭者というのは、まさに卑弥呼を連想させます。

 

p210

 

この島の台川里という村の堂は、その他数十本の古木が鬱蒼と茂る、建物一つない、

畑の中の森であった。 中心となる大榎の下枝に禁縄がかけられていて、ここが聖地で

あることを示していた。

 

とりわけ外羅老島錦里の森は、天然記念物になっていて、大きな森だった。

この森は禁忌が強く、みだりに立ち入ることができず、帽子を被ったまま入った男が即死

したとか、森の木の実をとった人間が罰を受けた、といったたぐいの話が伝えられており、

周囲には金網がめぐらされ、入り口には禁縄が張られ、扉には鍵がかかっていた。

 

==>> 神が降りるところが大きな森であり、そのような場所はみだりに立ち入ること

     が許されないという意味においては、日本最古ともいわれる大神(おおみわ)

神社のご神体である三輪山が頭に浮かんできます。

     この本の文脈的なところでは、著者はそれを暗示しているのかなと感じます。

 

p219

 

済州島では、どこへ行っても神木が榎(えのき)だったが、慶州周辺は、十中八九

欅(けやき)だった。 日本では、神木というと、杉や楠を連想するが、とくに古代に

おいて、欅の古名である槻(つき)も逸することはできない。

 

・・・槻が聖樹として大和朝廷においてどれほど大きな役割を果たしたかを語っている。

・・・飛鳥寺の西にそびえる槻の大樹は、「日本書紀」などによく出てきて、知られている。

 

==>> 「槻(つき)」については、こちらで確認します。

     https://kotobank.jp/word/%E6%A7%BB-330366

     「「けやき(欅)」の古名

     樹勢が盛んでしばしば大木になるためか、古来神聖視され、その樹下も聖域と

みなされたらしい。特に、法興寺(飛鳥寺)の槻の木の下では重要な儀式や行事

がたびたび行なわれたことが「日本書紀」に記されている。」

 

     

p222

 

森の下草の中を歩きながら、私は、日本の森だけの聖地、若狭のニソの森や対馬の天道山

の中にいるような気がした。 たしかにこの慶州の森は、神社にも御嶽(うたき)にも

通じているのだった。

 

p224

 

鶏林の広さは約二千坪と言うから、それほど広大なものではない。しかし、欅、槐樹(かい

じゅ)、榎、柳などの古木が繁り合って暗く、ここが新羅最古の聖林であることを感じさせ

る。

 

一本の欅の古木の下には、平石の祭壇が置かれている。 百年ほど前に建てられた詩碑の

ほかに、森の中には建造物と言えるものはなく、それが却って聖なる気配を濃くしている。

 

==>> さて、こういうのを読むと、そこに行ってみたくなりますよね。

     運よく、こちらにNHKの動画がありました。

     若狭の聖域 ニソの杜

https://www2.nhk.or.jp/archives/michi/cgi/detail.cgi?dasID=D0004500521_00000

     「福井県、若狭地方の大島半島には、「ニソの杜」と呼ばれる小さな森が点在し

ています。森には大樹がありホコラが祀られています。」

 

「対馬の天道山」というのは、内容から言って、多分こちらのサイトに紹介され

ている「裏八丁郭(天道法師祠)」のことであろうと思います。

http://syakeassi.xsrv.jp/5011

対馬固有の「天道信仰」の聖地で、古来より禁足地とされていた「オソロシ

ドコロ(恐ろし所)」と呼ばれていた場所」

「当時、立入りができるのは仏僧や山伏に限られていて、俗人が間違って入った

時には、裸足になって赦しを乞う呪文があったいう。」

「天童法師は嵐をまとって空を飛ぶことができ、上京して文武天皇の病を治し

「宝野上人」の菩薩号を賜ったとされるなど数々の伝説・伝承が残されている。」

天道信仰は伝承では7世紀が起源とされているが、平安時代から中世にかけ

て神仏習合により形成された対馬固有の修験道の一種で、その祭祀形式や行事

には古神道の要素が多く伝承されているという。」

 

・・・特に「ニソの杜」の動画を見ると、まさに朝鮮半島の堂によく似ているな

と感じます。

 

沖縄の御嶽についても、こちらのサイトでどういうものかを見ておきましょう。

沖縄7大御嶽

https://tmc-okinawa.jp/sefautaki/

「琉球の神話では、開闢の神アマミキヨによって作られた聖地のうち7つが

琉球開闢七御嶽として語り継がれています。」

「琉球王朝時代は、神に仕えるのは女性であるとされていたため、完全に男子

禁制とされていました。管理をしている南城市は休息日の発表と同時に”本来の

形を今に残す慣習として、男子禁制の実施を検討していく”としています。

現時点ではまだ検討段階ですが、近い将来、男子禁制実施の可能も・・・」

 

・・・この沖縄の御嶽の写真をみると、上記の「ニソの杜」や「天童山」に

比べるとかなり規模が大きいように見えます。多分、韓国の堂は、「ニソの杜」

に一番近いのではないかと見えます。

 

p230

 

神社にあっては森だけが本来の姿であり、社殿は、仏教寺院などの影響によってあとから

設けられたものであり、社殿、即ち人工のたくらみは神の嫌うところと人々は堅く

信じてきたのであった。 実際式内社の中には、社殿を建てたために神の怒りにふれ、

火災や落雷に遭ったという言い伝えを持つところがあちこちにあるのだ。

 

慶州の堂に堂舎のない事実は、このような神の怒りへの人々の畏怖と無関係ではないだろ

う。いや、この畏怖は、新羅系の渡来人によって日本に伝えられたのだとさえ言い得る。

 

==>> 社殿のない神社ということで検索してみました。

     検索にひっかかってきたサイトをリンクします。

 

     本殿のない金鑚神社

https://www.photo-saitama.jp/geography/kanasa.html#:~:text=%E4%B8%80%E8%88%AC%E3%81%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%81%AB%E8%A6%8B%E3%82%89,%E3%81%84%E3%82%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82

   

     若狭 社殿のない神社をめぐる

     https://ameblo.jp/zentayaima/entry-12554862274.html

     河原神社:福井県三方上中郡若狭町上野木53-8

泉岡一言神社:福井県三方上中郡若狭町中野木16

彌和神社:福井県小浜市加茂19-11

 

     三重・熊野 社殿のない自然信仰の神社 花の窟神社

     https://hino0526.hatenablog.com/entry/2016/09/17/115151

 

     諏訪大社~本殿がない神社

     https://ameblo.jp/eiji-hira/entry-12467616302.html

 

     富士山が御神体!社殿がなく富士山を直接拝む!『山宮浅間神社』

     http://syakeassi.xsrv.jp/5972

 

     愛宕神社・社殿のない山頂神社 

兵庫県川辺郡猪名川町にある、町内最高峰の大野山。

     http://sazanami217.blog.fc2.com/blog-entry-1484.html

 

     そして、きりがないので、もちろん、こちらですね。

     奈良桜井の本殿が無い大神神社は日本最古!

     https://www.travel.co.jp/guide/article/19393/

 

 

p231

 

対馬の天道山は、対馬全土に散在する聖地で、原始的な太陽神信仰、穀霊信仰に中世、

密教が習合して、天道法師なる人物を祀るとされる。

「対州神社誌」が、「神体社無之」と記すように、社殿のない森だけの聖地で、れっきと

した式内社もその中にまじっている。 

 

p232

 

神社の原始の姿である森だけの聖地が、日本海沿岸、壱岐・対馬など、朝鮮半島に近い

地域にだけ分布していることは、かつて半島の方にもど同様の信仰があったことを暗示

していよう。

 

新羅人は、・・・日本の原始神道と相通じる神を持っています」という司馬遼太郎氏

言葉を引用したが、上田正昭氏も・・・「日本の原神道と朝鮮の古代の信仰との間には

密接な関係がありますね」・・・と語る。

 

==>>「対馬の天道山」という言葉で検索すると、ほとんどが登山サイトの

     情報しか出てきません。

     天道信仰という意味では八丁郭という言葉の方が近いようです。

     八丁郭(ハッチョウカク)

     https://www.nagasaki-tabinet.com/islands/spot/792

     「対馬では天道信仰の盛んな時代がありました。

天道山、天道地、天道茂などと呼ばれるもので、その古い磐境の跡が見られます。

浅藻の八丁郭もその祭祀の場所で、天道山の南側の麓、千古の神秘をたたえた

森の中に苔むした石積みの塔があります。」

 

・・・この本の大雑把な流れから考えると、日本海の自由な交易ルートで

対馬海流にのって繋がっている敦賀や若狭や出雲などの地域、そして、

黒潮で繋がっているとみえる沖縄から対馬、済州島、朝鮮半島のルートで

原始の神社と呼べそうなものがあるのではないかということですね。

 

 

p233

 

「神社も神宮も新羅から入ってきたのです」(「神社と神宮をめぐって」)―――

故金達寿氏のこの言葉に対し、神社を日本固有のものと信じている多くの日本人は、

驚きや、強い反発、異和感をおぼえるであろう。

 

金氏は韓国人だから、そこに我田引水の匂いをかぐ人もいるだろう。

しかし私は今、この言葉は多くの真実を含んでいると思っている

神社の成り立ちに、古代朝鮮、とりわけ新羅―伽耶の地域が或る役割を果たしたとだけは

断言できる。

 

私たちにとってもっとも身近な神社であるお稲荷さんや八幡様が、最初渡来人が祀った

神であったことは、すでに多くの人によって論じられている。

このことだけでも、神社と古代朝鮮とが無関係とは言えない。

 

==>> 私は、小学生の時から、日本の文化の多くのものが、中国大陸、朝鮮半島

     を通じてもたらされたものだと教育されてきましたから、特に驚くことも

     ないと思うのですが、今回、この本や、他の関連本を読み、また、

     邪馬台国から大和朝廷への切り替わりの時期などに、どのようなことが

     あったのかを読むにつれ、原神道や原始の神社というのもそうあっても変では

     ないなと思います。

     

     元々、人類の進化をみれば、アフリカから延々と流れて、ユーラシア大陸の

     東の端に辿り着いたのが日本人だというだけの話ですから、その小さな島の

     入口に半島があるとすれば、そこからさまざまな文物が入ってくるのは

     当たり前だということです。

 

     ちなみに、私自身がどうなのかが気になって、いわゆるDNA検査をやって

     みました。 その祖先解析結果は、私のハプログループは「A」でして、

     Aグループは約23千年前にロシアのバイカル湖周辺で誕生したと考えら

れています。その後東アジアに広がり、またシベリアやベーリング海峡を通って

アメリカ大陸にも進出しています。」

・・・とされていますので、私もれっきとした渡来人だということになり

ますね。

 

 

====

 

ところで、この著者がこのシリーズの最初に書いたのは、こちらの

「岡谷神社学I」の「原始の神社をもとめて」という本です。

 

 


 

 


 

この本は、シリーズそのIIである「神社の起源と古代朝鮮」を図書館で見つけて

読んだ後に知ったので、順序が逆になりましたが、一応読んでみました。

シリーズとしては、「好評の既刊『原始の神社をもとめて』『神社の起源と古代朝鮮』

『伊勢と出雲』の3作からなる岡谷神社学がついに完結!」と言うことだそうです。

 

簡単にそのIの「原始の神社をもとめて」の感想を言えば、

よほどのマニアの人でない限りは、そのIIで十分かなと思いました。

 

そのIは、2009年出版で、日本、琉球、済州島とタイトルに書いてあるとおり、それら

の地域の原始的スタイルの神域、御嶽や堂を巡る旅がほとんどです。

かなり具体的なことまで知りたい読者であれば興味を持てると思いますが、私のような

大雑把な歴史の流れ、構造を知りたいだけの読者であれば、ここで感想文を書いた

2013年出版の「そのII」「神社の起源と古代朝鮮」を読めば、十分納得できる内容

だと思います。

 

以下には、「そのI」「原始の神社をもとめて」から気になった部分だけを抜き書きします。

 

p008

 

沖縄では、どの島に行っても、村には必ず一つ以上の、一般に御嶽と称する聖地がある。

本土の神社に相当するもので、実際、御嶽とその信仰が古神道の俤(おもかげ)を伝えて

いるとは、柳田国男、折口信夫以来の定説である。

 

・・・堂同様、その中には、原則として建物はなく、そして祭の主役はやはり女性であり、

男性は脇役にすぎない。

 

p034

 

韓国における近年のキリスト教、・・・・いったんキリスト教に入信した者は、もう堂

には足を踏み入れない。そればかりか、済州島できいた話では、キリスト教信者の中には、

堂の木を伐ったり、幹に十字架を刻みつけた者もいたという。

 

==>> 朝鮮半島の堂は、沖縄の御嶽とどうように、古神道を思わせるのだが、

     残念ながら韓国においては歴史的に弾圧されてきたので、歴史を掘り起こす

     こと自体が難しいようです。

     日本におけるいわゆる隠れキリシタンのような感じでしょうか。

 

 

p082

 

教会の目と鼻の先に大石垣御嶽があり、・・・古びた木造の、吹き放しの建物のほかには、

賽銭箱も狛犬も鳥居も何もない。  ・・・小さな森。 その清らかで、透明で、静かな

空間に私は深く惹かれた。

 

==>> 韓国と異なり、日本ではキリスト教会の前であっても御嶽は守られてきた

     ということのようです。

 

p084

 

キリスト教の多くの聖堂を見た。 そして天を摩するゴシックの大聖堂に代表される、

自分たちの信仰を形あるものにせずにはいられない西欧人の信仰のありようと、

その対極をなす、形あるものを忌み、眼に見えないものを信じる日本人の信仰のありようと

の相違について、長いこと考え続けてきた。

 

p085 

 

柳田国男は・・・・

「・・・神は御祭の折のみに降りたまふものと信じて居たことであります。 神を社殿の中

に御住ませ申さず、大和の三輪の山と同じやうに、天然の霊域を御嶽(おたけ)として

尊敬して居たことであります」

 

 

p087

 

熊野灘に面した花窟(はなのいわや)神社は、大岩窟「花の窟」を御神体とし、その裾に

祭壇を設け、白石を敷き、玉垣をめぐらしている。

 

総じて熊野は社殿のない神社の多いところで、・・・・七十もの例をあげている。 その中

みは矢倉神社という名前が多く、全体の三分の一近くを占める。

 

==>> 「形あるものにせずにはいられない西欧人の信仰」というのは、私自身は

     あまり腑に落ちるものでもないのですが、「眼に見えないものを信じる日本人の

信仰」と言うのは現代人としては、そうでもあるような、そうでもないような

感じがします。

 

     花窟(はなのいわや)神社

     http://hananoiwaya.com/hananoiwaya/iwaya_index.html

     「花窟神社は古来社殿なく、石巌壁立高さ45米。

南に面し其の正面に壇を作り、玉垣で周う拝所を設く。此の窟の南に岩あり、

軻遇突智神の神霊を祀る。」

 

熊野の矢倉神社で検索してみたのですが、公式サイトのようなものは

見つかりませんでした。

https://www.mikumano.net/meguri/yaguramine.html

 

 

 

p093

 

社殿の造営は世俗的な動機から出たことであって、信仰上の動機はそこには全く見られ

ない。それゆえ信仰の篤い人々からこのような命に対して抵抗があったことは、当然考え

られることである。

 

実際、お膝下の春日大社にあっても、本殿が創建されたのは、社殿造営令が出されてから

百年近く後の神護景雲二年(768)とされており、・・・・

 

==>> 確かに元々は森そのものが御神体であって、人工的な建物などを作っちゃ

     いけないとなれば、もちろん神職の人たちがまっさきに反対するでしょうね。

     しかし人間というものは、仏教においても、お釈迦さんが偶像崇拝みたいな

     ものはいけないと言ったのに、仏像を作っちゃったし。形が欲しいので

     しょうね。 その意味では、イスラム教は徹底しているようで凄いですね。

 

p116

 

済州島には、朝鮮半島から当然人が渡って来たであろうし、五島列島や対馬とは距離的に

近いのだから、倭人とのかかわりが深かったであろうし、黒潮の流れに洗われていたの

だから、南方からも人々はやって来たであろう。

 

p117

 

済州島と日本との関係についていうならば、古代から両者の間に移住や混血が繰り返され

てきたことはまちがいない。 どくに、距離的にもっとも近い五島列島、対馬では

そのようなことは日常茶飯事だったとさえ思われ、韓半島南海、西海の島々と、玄界灘

の島々は、かつては同一文化圏に属していた可能性もある。

 

 

p122

 

琉球は、李朝になってからもしばしば倭寇にされわれた朝鮮の人々を送り返している

倭寇は、さらった朝鮮人を沖縄に来て奴婢として売っていたらしい。

 

 

p127

 

「晴天の日、漢拏山頂にのぼりたち、はるか西太平洋をみわたせば、うっすらと沖縄島

が望まれる」という島の古老たちの言い伝えが紹介されている。

済州人が沖縄に抱くこの慕情というべき感情は、かつて彼らの原住民の一部が、黒潮に

乗り、南方から沖縄を経て渡来してきたことから来るのかもしれない。

 

p129

 

済州島の人々は古来から多く琉球に漂着した。 一方で、琉球人の済州島漂着も珍しい

ことではなかった。

 

==>> この部分を見て、さっそく済州島、対馬、沖縄の位置関係を地図上で

     確かめてみたんですが、まさに、済州島と五島列島の真南に沖縄があるんです

ねえ。

     沖縄から五島列島や済州島への黒潮の流れはよく知られているので、

     琉球から済州島に漂着するのは理解が簡単なんですが、その逆はどうかと

     おもって、東シナ海の海流をチェックしてみました。

     こちらのサイトです。

     https://ameblo.jp/umi-kaishixyou-ken/entry-11675851687.html

     これをみると、九州の南西海上を中心にして、海流が左巻きに回っているのが

     分かります。 済州島からはこの左回りの海流で南下して、沖縄の西海上から

     東方向へ廻る海流にのるのかなと思います。

 

     漢拏山(ハルラサン、かんなさん)はこちらです:

     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E6%8B%8F%E5%B1%B1

     「韓国の済州島にある山。標高1,947 mであり、韓国の最高峰。」

     

 

 

p140

 

神社や神道に関する本は、汗牛充棟といった趣だが、その大方は、戦前まで神社をとり

まいていたタブーにとらわれているか、そこから解放されておらず、著者たちはいまだ

にきわめて自閉的で、彼らが日本固有のものと考えている神社という聖地を、他国との

比較の場に引き出すのを嫌う。それを冒瀆だと感じているかのようだ。

・・・さから、神社と朝鮮半島との関係についても、それを正面切って論じた研究は

皆無に近い。

 

==>> ここで著者は、神社をとりまくタブーについて述べています。

     2022年の今はどうなのかは知りませんが、研究者でなければ

     神社は日本固有のものだと思ってしまいますね。

     ちょっと古代史を勉強すれば、おのずと分かってくることなのでしょうが。

 

p141

 

「播磨国風土記」・・・に、「衣縫(きぬぬひ)の猪手(ゐて)・漢人(あやひと)の刀良等

が祖」といった百済からの渡来人たちが「此処に居らむとして、社を山本に立てて敬ひ

祭りき」という一節があり、また「古語捨遺」・・・にも、応神天皇の部分に「秦・漢・

百済の内附(まゐしたが)へる民、各万を以て計ふ・・・皆其の祠(やしろ)は有れども、

いまだ幣例(ぬきたてまつるつら)に預からず」とあって、渡来人が神社を設けた事実を

伝えている。

 

p150

 

神社で出している「八坂神社由緒略記」の一節を引用する・・・

「・・・八坂神社の創立については諸説があるが、斉明天皇二年、高麗より来朝せる副使

の伊利之使王が新羅国牛頭山にます素戔嗚尊(すさのおのみこと)を八坂郷に祀り、八坂

造の姓を賜ったのに始まるとの説は、日本書紀に素戔嗚尊が御子五十猛神と共に新羅国に

降り曾尸茂梨(そしもり)に居られたとの伝、また新撰姓氏録に八坂造は狛国人万留川麻

乃意利佐の子孫なりとの記録と考え合わせて、ほぼ妥当な創立と見てよい」

 

==>> そしもり【曾尸茂梨・曾尸茂利】を確認。

https://kotobank.jp/word/%E6%9B%BE%E5%B0%B8%E8%8C%82%E6%A2%A8%E3%83%BB%E6%9B%BE%E5%B0%B8%E8%8C%82%E5%88%A9-2057198

     「「日本書紀」神代巻の別伝で、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が高天原を追われ

て行ったという古代朝鮮の地名。今の大韓民国江原道春川郡牛頭山かという。」

 

・・・つまり、イザナギとイザナミの子であるスサノウノミコトが

ここに降臨したということに繋がっているわけですね。

https://kotobank.jp/word/%E7%B4%A0%E6%88%94%E5%97%9A%E5%B0%8A-541600

「この神には新羅への天降(あまくだ)など、朝鮮関係の記事が多い。その信仰

は、韓海人(からあま)を含む紀伊水軍によって朝鮮より運ばれ、渡来文化と結び

付く蕃神(ばんしん)的色彩を残しつつ、しだいに複雑な祖霊的神格として紀伊

より出雲に展開したと推定される。」

 

 

では、京都祇園の「八坂神社」の公式サイトで確認してみましょう。

https://www.yasaka-jinja.or.jp/about/history/

渡来人が神様をお祀りしたのがはじまり

斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した伊利之(いりし)新羅国の牛頭山(ごず

さん)に座した素戔嗚尊(すさのをのみこと)当地(山城国愛宕郡八坂郷(やまし

ろのくにおたぎぐんやさかごう)に奉斎したことにはじまる。」

 

牛頭天王(ごずてんおう)とは何かといえば:

https://kotobank.jp/word/%E7%89%9B%E9%A0%AD%E5%A4%A9%E7%8E%8B-64901

本来はインド祇園精舎の守護神だが,わが国では祇園社(京都市東山区の

八坂神社)に祭られ,素戔嗚尊(スサノオノミコト)に同一視されている。祇園社は,

貞観18(876)年に藤原基経が疫病を鎮めるために牛頭天王を祭って造営したも

ので,その祭礼は祇園祭として有名。仏教の牛頭天王がスサノオと習合したのは,

牛頭天王が道教系の武塔神と同一視されていたためで,この武塔神は『備後国

風土記』によれば,蘇民将来に一夜の宿を借り,その礼として疫病を免れる茅の輪

を与えて「自分はスサノオノミコトである」と名乗ったという。」

 

スサノウノミコトを祀る神社については、こちらの動画でどうぞ;

https://www.youtube.com/watch?v=KNq444VeAzA

 

 

p151

 

伊勢神宮も朝鮮半島との関係があると考えられる。 長い歳月の間に、そうした事実は

消されるか、隠されるかして、今ではほとんど目につかないが、今後の研究によって次第に

明らかになってゆくだろう。

 

神宮司所に長く勤め、退職したあと地方史の研究に打ち込んでいる人の家を訪ねると、

その人が「調べてみればみるほど、いまあなたがやっているそれなのですよ。」といい、

・・・「つまり、なにもかも朝鮮くさいというわけです。 しかしそれをいうと、神宮

司庁が困るというのですよ」と答える興味深い場面がある。

 

==>> ここで伊勢神宮と朝鮮半島、そして天皇家との関係をチェックしてみます。

 

     天皇家とつながる古代朝鮮半島の残像

     https://plaza.rakuten.co.jp/bluestone998/diary/202001260000/

     「実は「神宮」の名称が使われ始三ぬたのは8世紀以降である。それ以前は

「伊勢・大倭(やまと)・住吉(すみのえ)・紀伊(きい)の大神(おおかみ)」

(『日本書紀』持統(じとう)天皇の条、692年)とあるように、伊勢大神は

他の神社と並列され、特別の地位にはなかった。」

 

 「神宮」という呼称を歴史上初めて使ったのは、紀元前から朝鮮半島南東部に

あった国・新羅(しらぎ)だとされる。半島に現存する最古の歴史書『三国史記

(さんごくしき)』の「新羅本紀」第21代および22代王の条に<始祖の誕降の

地、奈乙(ナウル)に神宮を創立>とある。5世紀後半のことだ。」

 

     「一方の伊勢神宮は7世紀後半(673年)に即位した40代「天武(てんむ)」

が現在につながる形に整備したとされる。「神宮」の称号だけでなく、「斎宮制」

も新羅から来たとする説がある。」

 

「そもそも、歴代天皇で最初に伊勢国を「行幸」したのは「持統」で、『日本書

紀』によれば692年のこと。以後、1869年に明治天皇が「参拝」するまで

1200年近く、歴代天皇は誰も訪れていない。」

 

ところで、これは伊勢神宮とは関係ないのですが、埼玉県日高市にある

高麗(こま)神社に2022年9月26日に行ってきました。

 高麗神社について - 高麗神社 (komajinja.or.jp)

若光の渡来から半世紀を経た霊亀2(716)年5月16日、大和朝廷

は駿河(静岡)、甲斐(山梨)、相模(神奈川)、上総・下総

(千葉)、常陸(茨城)、下野(栃木)の七国から高句麗人1799人

を武蔵国に移し「高麗郡」を創設(続日本書紀巻第7の記述)。


そこには、こんな天皇家からの参拝の記録が掲げてありました。

天皇・皇后両陛下も参拝されています。

 


 

そして、高麗神社の由緒はこのようなものでした。

 


 

ここで、素朴な疑問がわきましたので、確認しておきましょう。

高麗は「こうらい」と読むんじゃないのか、なぜ「こま」と読むのか、という

疑問です・・・・

高句麗と高麗の違い

http://www.st38.net/chigaino-zatugaku/z0182.html

「高麗とは、「こま」と読むか、「こうらい」と読むかによって意味が異なる。

「こま」と呼んだ場合は、高句麗の後期の呼び名である。埼玉に「高麗(こま)」

という地名があるが、ここは高句麗の人々が移り住んだため、「高麗(こま)」と

呼ばれるようになったと言われている。

「こうらい」と呼んだ場合は、高句麗が滅ぼされた後、朝鮮半島を統一した国家

の名前を「高麗(こうらい)」と言う。「高麗(こうらい)」は918年に建国、936

年に朝鮮半島を統一して1392年まで存在した。」

 

 

p153

 

天武天皇は、その出自を新羅の王族とする説が出るほど、新羅に近い天皇であった。

壬申の乱を、天智天皇の実弟と第一皇子との皇位継承をめぐるものとする従来の説を否定

し、新羅の勢力をバックとする大海人皇子と、百済の勢力をバックとする大友皇子との

戦いとする大和岩雄氏の説・・・は、きわめて説得力がある。

 

 

p155

 

近江は、渡来人の多く住んだところで、とくに白村江の戦いの前後に、大袈裟にいえば、

百済の国全体が移ってきたほどの多数の移住者があった。 だからここに、阿自岐神社

はじめ渡来人にゆかりのある神社が多いのは当然のことなのである。

 

なにしろ九州、とくに北九州は、弥生人が最初に渡ってきたところであり、

日本の中で朝鮮半島の影がもっとも濃いと思われる地域だからである。

 

金達寿氏は、たとえば筑前11社のうち、半数を超える6社を、豊前は、宇佐八幡を

含め6社すべてを、渡来人とかかわるものとしている。

 

==>> 天武天皇に関する移設についてはwikipediaにも記載があります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

     「主に在野の歴史研究家の間で様々な異説が生まれ、活発な議論が交わされた。

佐々は天武天皇の正体を新羅の皇族金多遂としたが、小林惠子は漢皇子とする

説を提起し、年齢逆転を唱える作家の間ではこれが有力なものとなっている。

漢皇子は皇極天皇が舒明天皇と再婚する前に高向王(用明天皇の孫)との間に

設けた子で、天智天皇の異父兄である。」

 

 

p163

 

祭場に柱を立てることは、いわば神樹の代用である。

・・・これは決して日本の神道だけの特徴ではなく、朝鮮半島も全く同様である。

 

 

p170

 

その神域内、あるいはその近くに古墳のある神社がおびただしい事実からして、神社と

古墳との間に容易ならざる関係が存するのは明らかであり、神社の起源は古墳時代へと、

さらにその先の弥生時代、そして縄文時代にまで遡る可能性もでてくる。

 

==>> さてさて、ここで比比多神社というのが、縄文時代にもかかわるものとして

     例示されていますので、こちらで確認しましょう。

     http://hibita.jp/hibita/

     「御由緒

比々多神社の歴史は大変に古く、神社境内地・近隣より発掘出土した遺跡遺物

(いせきいぶつ)などから推測すると、1万年以上遡(さかのぼ)ることがで

きます。論より証拠、発掘された縄文時代中期の環状配石(かんじょうはいせき

=ストーンサークル)の「立石」(たていし=メンヒール)は祭祀遺跡(さいし

いせき)の御神体として原初的な神社の信仰、古くからの聖地信仰(せいちしん

こう)の指標(しひょう)を現しているといえます。」

 

 

p176

 

白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)や気多神社に限らず、「延喜式」で名神大社とされ

ている神社と縄文遺跡の結びつく例がしばしばみられる

 

p178

 

諏訪大社上社本宮に近い神長官守矢史料館に一歩足を踏み入れるならば、諏訪信仰が、

縄文以来の狩猟民の信仰であることが、あるいはそれが基層にあることが一目で分かる。

 

 

p180

 

ミシャグチ神の信仰は、「縄文中期以来の、自然神の古い相貌を呈して」(藤森栄一)いる

のであり、「諏訪明神進入前に存在した原始信仰ともいうべき信仰で、縄文期のシャーマ

ニズムも色が濃い」(宮坂光昭)のである。

 

==>> ここでミシャグチ神という初耳情報が出てきたので、こちらの動画で

     見ておきましょう。 オカルト系といいながら、結構真面目な分かりやすい

内容です。

     土着神の頂点?『ミシャグジ様』とは?

     https://www.youtube.com/watch?v=UcNSFz6-JOA

 

     石神井公園のシャクジイはこれと関係あるのかな?

     いろいろ検索してみましたが、関係がありそうなサイトもありました。

     https://lamy-trp.hatenadiary.org/entry/20130222/1361543396

     「「石神井」というと、練馬区や杉並区、中野区あたりに住む人ならば非常に

馴染み深い、読めて当然の地名であるが、良く良く考えてみると難読地名の

一つである。」

     「ミジャグジ神の真の御神体は諏訪の遺跡に祀られている「石棒」であるという

のは、かなり有名な話である。石神井の地で石棒が出土した話と通じるではない

だろうか。石棒信仰が登場したのは縄文中期、およそ4000年前の事とされてい

る。」

 

 

p193

 

高取正男氏は、死穢(しえ)という観念が成立したのは、早くても平安時代だと主張し・・・、

新谷尚紀氏は、そこに仏教、とりわけ密教の影響を指摘している・・・。

 

この禁令は「延喜式」が成立した延長五年(927)ころにはすでに死穢の観念が成立

していたことを示すとともに、このころまで、神社の神域に死体を葬る人びとがいたこと

をも暗示していて興味深い。

 

==>> 確かに、そういう人がいなかったら、そういう禁令も出さないでしょうしね。

     大昔は神社にもお墓があったってことですね。

     しかし、密教の影響があるというのはどういうことなんでしょうか。

 

     ところで、穢れ(けがれ)というのは、どういう歴史を持っているんでしょう。

     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%A2%E3%82%8C

     「穢れているとされる対象としては、死・病気・出産・性交・女性・怪我・排泄、

ならびにこれらに関するものが代表的である。」

バラモン教の穢れ観念は現代のヒンドゥー教に受け継がれ、また仏教にも

影響を残した。月経や女性を穢れとするのは古代インドの思想とその影響を

受けた仏教由来のものである。」

「日本神話では、天つ罪・国つ罪との言葉で大祓詞に示されている。天つ罪を

例にすると、畔放(あはなち)、溝埋(みぞうめ)、樋放(ひはなち)、頻蒔

(しきまき)、串刺(くしざし)、生剥(いきはぎ)、逆剥(さかはぎ)、屎戸

(くそへ)である。これらは須佐之男命が行った行為であるが、いわゆる禊ぎ

と祓いと八岐大蛇退治によって名誉を挽回した。」

 

なるほど、バラモン教―ヒンドゥー教とくれば、もちろん密教に繋がります

から、そっちから来たんでしょうかね。

・・・もちろん、葬式の後に塩を撒いて清めたりしますから、仏教に関係が

あるというのは分かるんですが、どちらかと言うと穢れというのは神道系の

考え方なのかを感じていました。「祓いたまえ清めたまえ」という言葉は

神社でよく聞きますからね。

神道での唱えことばについて

https://www.jinjahoncho.or.jp/omairi/osahou/tonaekotoba

「神道では特別な唱え言はありませんが、神社に参拝するときや神棚を拝む

ときには、「祓え給い、清め給え、神かむながら守り給い、幸さきわえ給え」

(お祓い下さい、お清め下さい、神様のお力により、お守り下さい、幸せにして

下さい)と唱える場合もあります。神道では自らの祓い清めが信仰的にも神様に

近づくための大切なおこないとなっているからです。」

 

     

 

p202

 

谷川健一氏の・・・・

神社の境内に古墳が多いという事実である。 神社は聖であり墓地は穢である

という聖穢の観念にわざわいされて、神社の中に墓地があるのをかくしたがる神主や

禰宜もあり、なかなかその実状に触れたがらない。

 

p203

 

仲松弥秀氏・・・

「お嶽」は其の村の守護神を祀ってある神聖な杜であって、筆者の調査では大昔の祖先

の墓所(風葬所)であると考えている。 日本本土の鎮守の森がお獄と原初的に同一の

ものであるとしたならば、おそらく鎮守の森も其の発生は墓所ではなかろうか

 

==>> もし大昔の祖先の墓所が風葬で、それが神社の杜になったとしたならば、

     そりゃあ勿論立ち入り厳禁という話になって当たり前でしょうね。

 

 

p212

 

現在済州島に残る堂と古代の神社と御嶽とには共通するものがあり、互いに通底し合って

いるということだけはたしかだ。 弥生人が朝鮮半島から渡来した人々だとするなら、

堂の信仰がもとであり、それが本土と南島へ波及し、その古い姿が済州島と沖縄とに

残ったと考えることができれば、事は簡単である。

しかしすでに見てきたように、神社の歴史は縄文まで遡る可能性があるのであり・・・・

 

 

p215

 

カムィ焼は、11世紀から14世紀にかけて焼かれ、長崎県西彼杵半島製の石鍋とともに、

当時の沖縄の生活に革命をおこしたとされる類須恵器で、沖縄のほぼ全域の遺跡から出土

する。

「11世紀初頭のカムィヤキの開窯については、製品の流通域を把握し、その生産技術を

有し、海上交通を支えた力を持つ強力な組織が徳之島にあったことを想定せざるを得ない」

 

p217

 

カムィ焼にも高麗人の影がさしている。・・・類須恵器といわれるカムィ焼も、その系統に

属する。

 

p218

 

朝鮮南部と九州西海岸と南島とは縄文時代の前期からひとつづきの文化の流れ

属していた」とは谷川健一氏の言葉である。

 

p227

 

長崎県、佐賀県の松浦地方にヤボサ社が多く分布することを明らかにした。

 

ヤボサは、対馬・壱岐から九州の西海岸ほぼ全域、薩南に至るまで分布しており、

九州の東岸や内陸部にはほとんど見当たらない。

 

・・・沖縄本島知念半島の玉城にある藪薩の御嶽がヤボサと関係があるとするならば、

この分布は、朝鮮半島南部から九州西岸を経て南島に至るコースにおける人々の移動を

たしかに示唆する。

 

==>> カムィ焼というのは初耳ですし、長崎県人ながら西彼杵郡の石鍋も初耳です。

     徳之島カムィヤキ陶器窯跡

     https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/192732

     「カムィヤキは須恵器に類似する色調・製作技法で、窯跡発見以前から南島地域

一円でグスクなどの遺跡から出土することが知られており、「類須恵器」などと

称され注目されていた。」

 

ホゲット石鍋製作遺跡

https://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php/view/19

「西彼杵郡の山中には滑石層の露頭が多く、その中でも本遺跡は最も規模が

大きく、11の製作所が集中しており、第6製作所だけでも、高さ6m、

延長60mの岩壁に石鍋製作の痕跡を見ることができる。」

 

 

 

さて、これで、岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」と「原始の神社をもとめて」

シリーズの2冊を読み終わりました。

 

これらの本に感化されて、少なくとも本殿がない古い神社とされる、

奈良の三輪山・大神(おおみわ)神社

長野の諏訪大社

そして、埼玉の金鑚(かなさな)神社

ぐらいは全部お参りしたくなりました。

 

とりあえず、近場の金鑚神社から始めるとしましょうかね。

 

===== 完 =====

 

 

 

 

 

 

 

 

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