ブライアン・グリーン著「時間の終わりまで」を読む ―6― 科学を信じるか、神を信じるか、外なる神と内なる神、世界宗教が生まれた時代

ブライアン・グリーン著「時間の終わりまで」を読む ―6― 科学を信じるか、神を信じるか、外なる神と内なる神、世界宗教が生まれた時代

 

 


 

「第7章 脳と信念、 想像力から聖なるものへ」

 

 

p317

 

もしかすると、こうした絵を残した先祖たちは、狩りの成功を祈って魔術的なセレモニー

行ったのかもしれない。 これは1900年代初頭に、考古学者ソロモン・ライナッハが

提唱した説である。

セレモニーを執り行うことで、美味しくて生存に必須の夕食が保証されるなら、洞窟を

進んだり絵を描いたりする苦労ぐらいは、たいしたことではなかったかもしれない。

 

==>> ここでは、この前段として、洞窟壁画が、真っ暗闇の狭い通路を1キロメートル

     以上も這いつくばって入った先の、濡れた岩場という過酷な環境に描かれて

いたことを、なぜそこまでして・・・と不思議に考えられることが述べられて

います。

 

 

p319

 

 

われわれはそんな推論システムのひとつに出会っている。「心の理論」がそれだ。

われわれは心の理論を使って、自分の心の中で経験している主体性を、外の世界で

出会うものたちも持っていると考えるのだった。 周囲に主体性を与えすぎるぐらいの

ほうが、適応上は有益だ。

 

 

p320

 

人は学校で習うまでもなく、自分の心と体には何ができるかを、おおよそ把握している

そうしたさまざまな推論システムに、「最小限に直接に反する」考え・・に興味を引かれる

傾向が加われば、人が、精神や神・・・をあっさり受け入れるのも不思議はない。

 

==>> 脳が推論するという機能をっもっているということに関しては、

     先に読んだこちらの本で詳しく学びました。

     乾敏郎・阪口豊著「脳の大統一理論、自由エネルギーとはなにか」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/08/blog-post_11.html

     「p001

私たちは、特に意識せずとも、仕草や表情、話し方などから(直接は知ることが

できない) 相手の心のうちを推測している。 このように自分が得た情報から

わからないものを推測する人間あるいは脳の機能は「推論機能」と呼ばれる。

・・・いま目にしているこの世界(これを自分の外の環境という意味で「外環境」

と呼ぶことにしよう)もまた、私たちの脳が推論した結果であるといえる。

p002

一般に、網膜像から物の形状や色、物までの距離や物の配置などを理解し

「見えている」という感覚・意識が生じる機能は「視知覚」と呼ばれるが、

まさに視知覚は、網膜の情報をもとに外環境を理解しようとする推論機能に

よってもたらされているのである。」

 

・・・つまり、自分が実際にもっていると思い込んでいる主体性なるものを、

他者も持っているだろうと推測するシステムが人間にはあると考えるんですね。

そうなると、そのシステムがいわば勝手に働いていろんなものを見せてくれる

という話のようです。

そして、そのような傾向があることによって、適応するという意味では

メリットがあるんだそうです。相手がどう動くかという予測がある程度は

できるから、生き残りにも便利ということなんでしょうか。

 

p333

 

紀元前1000年紀に、インド、中国、ユダヤ(今日のパレスチナ南部)にわたる地域で、

粘り強くて創意豊かな思想家たちが、それまで語り継がれてきた神話と生き方の見直しを

行った。 

 

・・・「今も人類とともにある、世界宗教の始まり」である。

 

・・・もっとも初期に書き残された記録の中に、インド亜大陸でサンスクリット語で綴られ

たヴェーダがある。 その一部は、紀元前1500年という古い時代に描かれたものだ。

 

==>> ここでは、いわゆる世界宗教が始まる以前の時代を語っています。

     少し時代がずれるかもしれませんが、こちらのサイトの地図で大まかな

     状況をつかんでおきましょう。

 

     世界各地に思想家現る...(紀元前500年前後)

     https://note.com/rieto283/n/n3332ba508186

     「中国:諸子百家が活躍  

インド:ウパニシャッド哲学や仏教、ジャイナ教 

イラン:ゾロアスター教が独自の世界観を説く

パレスチナ:イザヤ、エレミヤなどの預言者があらわれる

ギリシャ:ホメーロスやソクラテス・プラトン・アリストテレスらが登場」

     「■ なぜ、紀元前500年頃だったのか?

互いに情報交換をしていた訳ではないのに、世界で同時期に「人間とは何だ、

世界を変えなければならない」という信念を持った人たちが誕生しました。」

 

・・・諸子百家は紀元前770年以降、ウパニシャド哲学は紀元前800年以降、

そしてキリスト教やイスラム教の元であるユダヤ教は紀元前1280年頃から

ということのようです。

 

なぜ、世界思想・宗教が同じような時期に生まれたのかについては、

こちらのサイトに興味深い意見がありました。

(探せばあるもんですねえ・・・びっくり)

「仏教・儒教・旧約思想」が同時期に生まれた理由

https://toyokeizai.net/articles/-/325711

それ以前の農耕文明社会においては、まず「宇宙的神話」と呼べるような段階

があり、それがより合理化・抽象化されて「哲学的宇宙論」と呼べるような段階

へと進化し、そしてそれがさらに「個人の内面的倫理」へと展開したところに、

上記のような枢軸時代/精神革命の諸思想が生まれたのである。」

「つまりここで(先の「リグ・ヴェーダ」のような)宇宙的なレベルの議論が

個人のレベルにつながっていくことになり、そしてさらにその先に、ブッダの

説くような、「慈悲」に収れんする個人の内的倫理(としての仏教)が生まれた

のである。」

 

「しかしそうした農耕社会ないし農耕文明が、先述のように人口増加や経済の

拡大に伴って資源的・環境的制約にぶつかるようになったのがその後半期であ

り、そこにおいて、以上のような「共同体の倫理」を乗り越え、それまでに存在

しなかった「個の内的倫理」をうたう形で生まれたのが、枢軸時代/精神革命に

おける諸思想であったと考えられるのである。」

 

・・・つまり、人間を集団としてとらえる思想から、個人としてとらえるものへ

と変化したってことでしょうか。

 

p336

 

ヴェーダにルーツを持ちながらも、仏教はそれを離れて、存在の根底には時間が経っても

変わらない基層があるという考えを否定し、人間の苦しみの根源は諸行無常を悟れない

ことにあるとする。 仏陀の教えは、真実をより鮮明に見るための生き方の指針を与え

ようとするものだ。

 

 

p337

 

ヒンズー教と仏教は、日常の知覚が与える幻影を超える実在を探求するが、過去100年間

に起こった驚異的な科学的進展の多くもまた、同じことをやろうとしてきた。

 

そのため、これらの宗教と現代物理学にはつながりがあると考え、そのつながりを明らか

にすると称する記事や本を書いたり、映画を作ったりする人たちがいる。

これらの宗教と科学にはものの見方や用いる言葉に似たところがあるのは確かだが、私は、

あいまいなメタファーとしての共鳴以上のものに出会ったことがない

 

==>> これは良いことを書いていると思います。

     確かに私も、仏教と最先端物理学が似ているという論調を読んだり聞いたり

     してきました。 しかし、つまり、似ているってだけでしょうという感じが

     していて、今一つ科学的に踏み込んだ分析をみたことはありません。

     他人の空似ってことですかね。あるいは「空耳アワ~~」。

     でも、まあ、私は一応仏教徒なんで、そういうのを科学的に論じて欲しいなと

     思ってはいるんです。

     そこで思うのは、哲学というものが基本的な根本的な仮説を作って、それに

     相前後して最先端物理学が動いていく、というような連携があるのだったら、

     宗教が哲学的なアプローチをすることで、物理学との連携も可能なんじゃない

     かと思ったりもするんですけど・・・ダメかなあ。

     哲学者であり物理学者であるって天才もいますからね。

 

p338

 

私は、現代物理学は極東で何千年も前に見いだされた教えを要約したものだとする本が

非常に多いことに注意を促して、ダライ・ラマに対し、あなたはそういう主張を正しいと

思われますかと尋ねた。

これに対する彼の率直な答えは、私の大きな感銘を残した。

「意識に関しては、仏教には語るべき大切なことがあります。 しかし、物理学的実在

については、私たちは、あなたや、あなたの同僚のみなさんの仕事に目を向ける必要

があります。 あなたたちのほうが、より深いところを見通しているからです」

 

私はそれを聞いて、世界中の宗教指導者や霊的指導者たちが、ダライ・ラマの簡潔で

恐れを知らない誠実な言葉を手本としてくれるならどんなにいいだろうと思った。

 

==>> さすがにダライ・ラマですねえ。

     日本のどこかの坊さんたちも、このような態度であって欲しいと私は思います。

     でも、仏教=物理学だ、という幻想も一方で持ちたいんですけどね。あはは

 

 

p345

 

「あなたは神を信じますか」と私に質問してくる人たちのほぼ全員が、量子力学に

対する私の考えを問うときとまったく同じ意味で、「信じる」という言葉を使う。

 

・・・私は信頼度の観点に立って話をすることが多い。 量子力学に対する私の信頼度

は高い。それはこの理論が、電子の磁気双極子モーメントといったこの世界の特徴を、

小数点以下9桁以上の精度で予測するからだ。 それに対し、神の存在に対する私の

信頼度は低い。 なぜなら、神の存在を支持する厳密なデータが足りないからだ、と。

 

この例からわかるように、信頼度は、感情をまじえない、本質的にはアルゴリズムに

従う証拠の検討から生じる。

 

==>> 「信じる」という言葉に関しては、私も、いろいろと考えてはいたのですが、

     ここで著者が書いている「信頼度」という表現はなかなかいいなと思います。

     私が今まで思っていたのは、科学と宗教のどちらを信じるのか、という問いです。

     どうも次元の違う話だよなと思いながら、それでも一応、検証できるという

     意味で科学のほうを信じると思ってはいたのですが、なんとなく座り心地が

     よくないんです。

     

     私が「信じる」という言葉で必ず思い出すのがこちらの親鸞さんの話です。

     島田裕巳著 「親鸞と聖徳太子」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/08/blog-post_58.html

     「親鸞さんが晩年に書いた「西方指南抄」には何がかかれているか:

「私は、わが師・法然上人のいわれることであれば、だまされて 念仏を唱え、

たとえ地獄に堕ちたとしても、すこしも後悔はいたしません。 

==>> と書いていますから、師・法然に対する崇敬、あるいは念仏に対する

          信念は強かったと見えます。

 

・・・つまりこれも法然さんを信じるということなんですが、ちょっと視点を

変えて考えてみると「法然という人物を信頼しているから、その言葉も信頼

できる」ということかなと思います。

その信頼度がどこから来るかと言えば、おそらく法然さんの下で日々修行を

したということがあるのでしょう。

いわば、その日々の積み重ねがデータであり証拠ということなのでしょう。

 

一方で、いわゆる原始的な民族の文化に、このような「信じる」もありました。

D.L.エヴェレット著「ピダハン : 言語本能を越える文化と世界観」

https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/07/dl_23.html

「p186 

夢は、直接体験されたことだけを語るというイビビーオの法則からはずれてい

ない。実際にはさらなる補強証拠でもある。 夢と覚醒のどちらも直接的な体験

として扱うことで、ピダハンは、わたしたちにとってはどう見ても空想や宗教の

領域でしかな信仰や精霊という存在を、直接体験として扱うことができるわけ

。・・・夢のなかの精霊はわたしにとって直接的な体験であり、イビビーオな

のである。」

「p190 

ピダハンが神話に「実証」を要求するという点で、大きな違いだ。 物語が語ら

れるときには、その時点で生存している証人が必要なのだ。 

ピダハンが見ているのが目には見えない精霊ではないことがわかる。われわれ

を取り巻く自然のなかに実在するものの形をとった精霊なのだ。

ピダハンはジャガーを精霊と呼び、木を精霊と呼ぶ。・・・「聖霊」はわれわれが

想像するものとは違っていて、ピダハンが口にすることはすべて、実際に体験で

きるものでなければならないのだ。」

 

・・・このピダハン族にとっては直接見聞きするものだけが現実であって、

例えば精霊のようなものであっても、それは実際に目に見えているから実在

しているという文化なんですね。

そして、人から聞く話も、その証人が生きていなくてはならないわけです。

まさに実証的な文化です。

「キリストは生きているのか」「仏陀から話を直接聞いたのか」などと言われて、

「いや、彼はもうこの世にはいない」なんて言っちゃったらそれで終わりですね。

それはピダハンにとっては、まさに幻想なわけです。

目の前に現れる精霊の方こそが現実なんですね。

 

・・・ところで、物理学者であれば、科学的なものの信頼度をデータによって

測る能力があると思うんですが、私のような凡人、それも物理的なことを

データで読めない輩はどう信頼度を見積もればいいんでしょうね。

親鸞さんが法然さんを信頼したように、私はブライアン・グリーンさんを信頼す

ると宣言すればいいんでしょうか?

     とくに今時は、医学的なデータに基づく議論を、陰謀論などとどう区別するかと

     いうややこしい問題もありますしねえ。

     陰謀論を発信している「顔なし」を信頼するのか、顔のある医療の専門家を

     信頼するのか、はたまた、宗教家を信頼するのか・・・・

 

 

p346

 

進化は、われわれの脳の働きを、実在と合った信念を形成するようには設計しなかった。

進化は、生き残りに役立つ行動をとらせる信念を好むよう、われわれの脳を設計したのだ。

そしてその二つは必ずしも一致しない。 もしも先祖たちが、カサコソという音に気づく

たびに慎重に調べはじめていたら、自由意志を持つ行為者に訴えるまでもなく、たいてい

のことは説明できると気づいただろう。

 

しかし、環境への適応という観点からすると、真実を知るために苦労の多い調査をしても

得るものは少ない。 何万世代ものあいだ、われわれの脳は、手っ取り早い理解を優先

させて正確さは後回しにしてきた。

 

==>> まあ、つまり、真実を探している間に、喰われてしまうこともあるから、

     さっさと判断するように脳がプログラムされてきたってことですね。

     

 

p347

 

生き残るために必要な能力を獲得しつつある心の内部で、合理的分析と感情的反応の

複雑な兼ね合いから出現したのが、信念だったのだ。

 

p348

 

たいていの人は、信じるに値すると思われる権威のリストをどんどん長くしていく

――教師、リーダー、友人、役人、そのほか、任命された専門家、等々というふうに、

われわれはそうして権威に頼るしかないのだ

 

何千年という時間をかけて蓄積されてきた知識を、自力で再発見したり、検証したり

できるものはいない。

 

==>> まさに、ここですよねえ。

     その点で、宗教はどうかと言えば、何年も経つにつれて、宗派がどんどん

     増えていく、それだけ解釈の幅が大きくなって、ばらばらになっていくって

     ことだと思います。 まさにエントロピーですね。無秩序に向かう。

 

     一方で、科学はどうかと言えば、何年も、何十年も、何百年も研究者が

     調査・研究・実験を進めていく中で、仮説が淘汰されて、絞られていく方向

     ですね。 きっちりと検証されますからね。秩序が出てくる。

 

p349

 

科学の素晴らしさは、継続的な研究によって、ある時代の教義が、次の時代には慎重に

見直され、客観的真理という目的に向かって近づいていくところだ。

しかし、客観性を確保するためにデザインされた学問分野においてさえ、そのあめには

いくつもの段階を踏む必要があり、時間もかかる。

 

 

p351

 

神話は、詩的な枠組みを与えてくれるのだ。 それはいわば隠喩的な思考様式であり、

神話のおかげで解釈できるようになった世界と、分かち難く絡み合っているのである。

 

p352

 

要するに、メタファーは誇張でも修飾でもない。 そのものズバリを表す言葉になるのだ。

おそらくそれと似たプロセスが、神話や宗教に現れるさまざまな概念にも起こっているの

だろう。

 

・・・詩的で、隠喩的な方法として始まった神話が、しだいにその詩的な性格を失い、

メタファーとしての意味を捨て去り、そのものズバリを語っているものとして読まれる

ようになったのかもしれない

 

==>> ここで著者は「直解主義」という言葉を使って説明しています。

     インターネットで検索したところ、このサイトが見つかりました。

     進化論論争は終わらない?

     https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/8861/

     「1925年にも、有名なスコープス裁判(通称「モンキー裁判」)で、科学と聖書

直解主義が対立。

 生徒に進化論を教えた教師ジョン・スコープスの逮捕が発端となり、『風の遺産』

という映画にもなった裁判 だが、法廷では学校で進化論を教えることの是非が

争われた。」

 

この記事から判断すると、聖書に書いてあることをそのままに解釈して理解する

ということのようです。

具体的には、ここにあるように、進化論を否定し、神がすべてを創造したと

いう説を主張するということになりますね。

日本の神話を直解したらどんなことになるんでしょうかねえ。

 

 

p355

 

デカルトと同じくジェイムズもまた、われわれの内的経験は、われわれにできる唯一の

経験だという点を強調する。 科学は客観的実在を探求するかもしれないが、われわれ

は心が施す主観的な処理を介してしか、その客観的実在にアクセスすることができない

それだからこそ、人間の心は、主観的実在を生み出すことで、客観的実在を執拗に解釈

しようとするのだ。

 

・・・宗教的探求、ないし霊的探求は、何か具体的な外的世界の要素についての探求で

ある必要はない。むしろ探求すべきは、心の内側に広がるランドスケープなのであり、

そこにはジェームズの言う、恐怖と美、約束と声、やさしさと崇高さという光景がある。

 

==>> 上のサイトに書いてあるように、アメリカという国は政治と宗教ががんじがら

     めになっているようですから、昨今の分断の元にもなっているのでしょう。

     日本人的には、なかなか信じがたいことですし、私自身も、信仰は個人の心の

     中のことなので、それが社会的・政治的な組織と密着してしまうというような

     ことは拒否すると思います。実際に信仰と言えるほどのことはやっていません

     から、もし万一そういう時代がきたらどう変節するかはわかりませんが。

 

 

p356

 

もちろん、厳しい罰で脅すこともあれば、人びとをけしかけて戦わせることもあったし、

教えに反した人々を奴隷にしたり殺したりすることを正当化することもあった

宗教は善いことも悪いこともやってきたし、おぞましいと言うしかないこともやった。

 

・・・人生に文脈を与え、よく知るものも見知らぬものも、喜びも苦しみも、より大きな

物語の中に位置づけを与える。そうしてすべてを位置づけることによって、長い歴史の

ある宗教は、その始まりのときから今日までの信者をつなぐ系譜を提供してきたのである。

 

==>> この著者は「私はユダヤ人として育てられた。・・・」と書いていますが、

     宗教と科学の関係については、非常にバランスのとれた書き方をしていると

     思います。 こういうバランス感覚というのは、おそらく、日本人に

     とってはごく普通であるのだろうと思いますが、アメリカにおいては、

     なかなか難しい立場なんじゃないかと思います。

     

     そこで私が一番に思い出すのは、こちらの本です。

     「内なる神」と「外なる神」という考え方を提唱しています。

     村本治著「神の神経学―脳に宗教の起源を求めて」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/04/post-c35641.html

     p265

私は最初、本書を日本人に問うべきか、それとも過去二十年間私自身の文化圏と

なっているアメリカの聴衆に向けるべきかを迷った

結局私は日本語によって私の考えを、先ず日本の一般の方々に問うことを選ん

だ。 その最も大きな理由は、この書の内容が、一神教の伝統を持つ聴衆、特に

原理主義的色彩の強いアメリカのキリスト教、ユダヤ教、イスラム教徒の方々か

ら激昂を買い、一蹴されることを恐れたからだ。

仏教や神道など、汎神論の色彩が強い日本の伝統の中で、「脳に内在する神」の

概念はより受け入れられやすいのではないか、更に言えばもしかしたら歓迎さ

れるのではないか、というのが私の推測である。」

 

 

それでは、次回は「第8章 本能と創造性、聖なるものから崇高なるものへ」に入ります。

 

 

===== 次回その7 に続きます =====

 ブライアン・グリーン著「時間の終わりまで」を読む ―7― ベートーヴェンの第九に感動したヘレン・ケラー、 頭を冷やして考えれば燃費はよくなる (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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