島田裕巳著 「親鸞と聖徳太子」を読む ― 1  親鸞も聖徳太子も存在しなかった ??

 

島田裕巳著 「親鸞と聖徳太子」を読む ― 1  親鸞も聖徳太子も存在しなかった ??

 

 

島田裕巳著 「親鸞と聖徳太子」―「在家こそ日本仏教のあるべき姿である」という

本を読んでいます。

 


 

つい2年ほど前に、浄土真宗から真言宗に宗旨替えした、不真面目な門徒です。

終活の都合で、うちの隣のお寺でお墓を買ったら、そこが真言宗だったというお粗末。

両親が浄土真宗だったので、物心つくころから、朝ごはんの前には必ず、チーンと

叩いて「ナンマイダ~~」と唱えて育ちました。

 

ああ、それなのに、それなのに、 親鸞さんと聖徳太子さんの関係なんて、今の今まで

これっぽっちも知りませんでした。

たまたまテレビでみていた美術展の紹介の番組で、親鸞さんと聖徳太子さんの関係に

ついて話が出て来たので、驚いて、この本を買いました。

 

この本については、一言で感想をいえば、こういう歴史ものは実に推理小説みたいだなあ

という感じで、面白く読みました。

著者は宗教学者ですが、歴史小説のような面白さがあると思います。

 

では、さっそく、気になった部分を抜き書きしながら、勝手な感想を書いていきます。

 

====

 

p14

 

親鸞の和讃のなかでは、後に「三帖和讃」と称されるようになるものが名高く、

そこには「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末和讃」が含まれる。

そのうち、「正像末和讃」には、11首、聖徳太子の徳を讃えた「皇太子聖徳奉讃」

含まれる。

 

「仏智不思議の弥陀の誓願を聖徳太子のお恵みによって知らせていただいたおかげで、

万人共に正定聚不退の位に帰入して、次世に成仏すべき一生補処の弥勒の如くである」

と訳している。

 

正定聚とは、浄土真宗では他力本願の信仰を得たもののことをさす。

一生補処は、菩薩の最高位のことで、とくに弥勒菩薩について使われる。

 

==>> この辺りは私はまったく知りませんでした。

     親鸞さんが和讃を残したというのは何かに書いてあったことを覚えていますが、

     中身などは今回が初めてです。

     著者は、親鸞さんが何故和讃にだけ聖徳太子のことを書き残したのか

     そのミステリーを解き明かしていきます。

 

 

p16

 

親鸞が聖徳太子を讃える和讃を作っていることが、浄土真宗において聖徳太子が信仰対象

とされることに結びついている。 その背景には、親鸞の聖徳太子に対する高い評価、

さらに言えば、聖徳太子崇敬が存在する。

 

・・・ここで取り上げる場面は上巻の第3段、「六角夢想」である。

 

p17

 

建仁3年は1203年のことで、その年の4月5日の夜に、親鸞が夢で見たことを告げた

というのだ。 ・・・・六角堂は京都市中京区堂ノ前町にある頂法寺のことで、そこに

救世菩薩が容姿端麗の僧侶の形をとって現れ、白い色の袈裟を着て、広大な白蓮華の上に

端座して、親鸞に次のように告げた。

それは、「もしそなたが宿業によって女性と交わらなければならないなら、自分が玉の

ような美しい女性になって犯されよう。そして、生涯にわたってそなたを助け、臨終の

ときには極楽へ導こう」というものであった。

 

 

p22

 

親鸞は、後に恵信尼と結婚するわけで、それは僧侶のあり方からは逸脱している。

僧侶が戒律を破って女性と結ばれることは、「女犯」と呼ばれる。親鸞の妻帯、女犯に

つぃては、近代に入ってからはさまざまな形で強い関心が寄せられてきた。

 

==>> 私が過去に読んできた親鸞に関する本からの理解では、親鸞の師匠である

     法然までは戒律と修行の人であり、親鸞になって初めて阿弥陀一神教の

     信仰になったように思います。

     その中でも一番の課題がこの女犯であり妻帯であったろうと思います。

 

     ちなみに、不邪淫については、こちらで確認しましょう。

     https://kotobank.jp/word/%E6%B7%AB%E6%88%92-32780

     「出家者のためには不淫戒といい,在家者のためには邪淫戒ともいう。」

 

     女犯(にょぼん)については、こちら。

     https://kotobank.jp/word/%E5%A5%B3%E7%8A%AF-593444

     「仏語。僧侶が不淫戒を犯して女性と交合すること。

〔法然消息文(1212頃)熊谷入道へ遣はす御返事・五月二日〕」

 

親鸞の場合は、非僧非俗と言っていますから、僧の地位を剥奪されたという

意味では、問題なかったとも言えるのかもしれません。

 

 

 

p24

 

親鸞の主著である「教行信証」・・・・これは、独特の書体で記され、多くの修正箇所が

ある。 それと同じ書体でつづられたものとしては、「観無量寿経註」や「阿弥陀経註」

・・・がある。 ・・・・字で埋め尽くされた、この二つの経註を見ると、圧倒される。

また、親鸞がかなり執拗な性格の持ち主であったことが想像される。

 

==>> 私自身はこの「教行信証」の入門書を2011年によんで、感想文を書き

     ました。 その内容はこちらでどうぞ。

     山折哲雄著 岩波新書、「『教行信証』を読む、親鸞の世界へ」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/06/post-8b94.html

     その時に思ったことは、親鸞さんはずいぶんとグダグダとした文章を書く人

だなということと、法然さんに随分遠慮していたんじゃないかという感じで

した。 少なくとも「教行信証」は超難解な本なんだそうです。

 

     こちらのページにはこんなことまで書いてありました。

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/06/post-ce90.html

     「p194

師の法然が『選択本願念仏集』で示した論理明晰な手法とは、あきらなに質を

異にしている。 あるいは源信の『往生要集』に展開されているような、みごと

に整理された浄土・往生論の手法とも似てはいない。 そこに見出されるのは、

苦渋にみちた親鸞自身の思考と背中合わせになっている、重層的で螺旋状の

論理としか言いようのないものではないか。」

 

 

p25

 

発見したのは鷲尾教導という浄土真宗史の研究者だった。 鷲尾は、その2年後の1923

年に「恵信尼文書の研究」(中外出版)を刊行した。 これによって恵信尼の手紙の存在

が広く知られるようになる。

実は、この手紙が発見される前のことだが、明治時代には、親鸞は歴史上実在せず、架空

の人物であるという議論があった。 ・・・・親鸞在世当時の公家の日記などにいっさい

記載がなく、親鸞自身も自らの生涯について書き残していないということで、村田は

その実在を否定したのだった。  その後、東京帝国大学の教授などが、「親鸞抹殺論」

を唱えたりもした。

 

==>> まあ、歴史とは恐ろしいですねえ。

     実在した親鸞は記録がないということで歴史から抹殺されようとし、この後に

出てくる聖徳太子については、日本書紀に書いてあるのに、実在しないという

論が出てきたり。 まあ、日本書紀の場合は、かなり盛られているという話

もたびたび聞きますが。

 

 

p27

 

親鸞の聖徳太子に対する信仰ということを考える上で、恵信尼の手紙の中に、親鸞が

法然のもとへ向かったのは、「しやうとくたいしのもん」が示現されたからだとされて

いることの意味は大きい。 しかも、晩年の親鸞は、聖徳太子を讃える和讃をいくつも

作っていた。 親鸞のなかに、「聖徳太子信仰」と言えるものが生みだされていたことは

間違いないのである。

 

しかし、そうなると、そこには大きな矛盾が生じてしまうことになる。

親鸞の師はあくまで法然であり、信仰対象は阿弥陀仏に限られるはずだからである。

・・・特に、法然の専修念仏の教えは、念仏による往生以外の信仰の価値を否定する

ものである。

 

p29

 

したがって、夢のなかで「しやうとくたいしのもん」を示されたということについて、

親鸞が、それをたんに夢のなかの架空の出来事ではなく、重要な意味を持つ事柄として

とらえていた可能性は高い。 その体験が、生涯にわたる聖徳太子信仰に結びついたもの

と考えられる。

 

p29

 

親鸞には、法然だけでは十分ではなかった。 実際、親鸞が法然と交わりをもった期間

は、数年にしかならない。 宗教家としてどう生きるべきなのか、親鸞は、その理想を

聖徳太子に求めたのかもしれないのである。

 

 

==>> 私は2012年に山折哲雄著「法然と親鸞」という本を読みました。

     そこで思ったことは以下のようなことでした。

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/09/post-bcc9.html

     「つまり、法然や親鸞は、この末法の時代、戒律を守る僧はいなくなり、いわゆ

る「破戒」や「無戒」の坊さんだけになっている時代にあるということです。

さて、お立合い。ここで、少なくとも法然さんは「持戒」、すなわち戒律を

守っているんだけど、念仏をやればいいんだよって言った本人ですから、

弟子たちに対しては割と「破戒」を大目にみていたらしいんです。その一人が

親鸞さんってわけですね。親鸞は「破戒」しまくっちゃったわけです。それも

確信犯。その辺りに、私は「信仰」の意味が出てきたんじゃないかって気が

しているんです。」

 

     「p26 

ー 法然は、・・・その生涯を終えるまで「持戒」の出家僧という立場を崩す

ことがなかったからだ。 それにたいして弟子の親鸞は妻をめとって子を儲け、

「破戒」の人生をまっすぐに歩きはじめる。」

「第一章       法然臨終・・・・

ー 親鸞は師の臨終の場に駆けつけることのできない弟子だった

  ほとんど弟子の資格を奪われたにひとしい流人として、仲間たち

  のもとにもどることのできない破門同然の弟子だった。」

「第二章・三章 七箇条起請文

ー 法然におけるもっとも正統的な伝記とされる知恩院蔵「法然上人行状

絵図」・・・においては、その綽空の名があらわれない。 あるいは消されて

しまっている。この伝記では 署名した者は88人になっている。

ー その時点で、親鸞が正統的な門弟の順列のなかでその地位を失ったこと

を意味するだろう。

・・・親鸞さんは、かなり微妙な位置にいたようです。」

 

==>> 綽空というのは親鸞さんのその当時の名前です。

     つまり、今でいうなら、同窓会名簿に名前がないって感じでしょうか。

 

「親鸞さんが晩年に書いた「西方指南抄」には何がかかれているか:

「私は、わが師・法然上人のいわれることであれば、だまされて 念仏を唱え、

たとえ地獄に堕ちたとしても、すこしも後悔はいたしません。

 

==>> と書いていますから、師・法然に対する崇敬、あるいは念仏に対する

     信念は強かったと見えます。

 

「ー 一念義の門流が急進派セクトとして、天台、真言などの旧仏教

  (聖道門)と対立し、妥協をこばむ勢いを示していた

・・・つまり、親鸞は、法然さんを困らせた過激なセクトの

一員だったってことですね。」

 

さらに、山折哲雄著「法然と親鸞」のページを読み返してみると:

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/09/post-b3a2.html

「ー 「恵信尼文書」という史料は、・・・・・解読が試みられ、

  親鸞研究は飛躍的な発展をとげてきた。

ー 恵信尼がそこで、夫・親鸞にかんする二つの思い出を語っている

  のである。

・・・その二つというのは、

ー 親鸞29歳の時山を降りて六角堂に籠り、夢のお告げを受けた。

  そして、その後、法然の門に入った。」

 

==>> はい、六角堂の夢が出て来ました、ここで今回の本に戻り

     ましょう。

 

     要するに、この六角堂で親鸞がみたものが何だったのかという

     点が、重要なんじゃないかってことですね。

     「しゃうとくたいしのもん」(聖徳太子の文?)という

     のが何だったのか・・・・

          夢の中に聖徳太子が出て来たのか、あるいは法然上人だったのか。

 

p34

 

「日本書紀」は、よく知られているように、歴史書であるとともに神話であり、神々に

ついての物語が神武天皇をはじめとする代々の天皇の事績についての記述に続く形態を

とっている。

 

したがって、そこに記されたことがどれほど正確なのか、どこまで歴史的な事実を記した

ものなのか、その判断は難しい。 厩の戸にあたって母が聖徳太子を出産したという話

などは、「ルカによる福音書」にあるイエス・キリストの生誕の話を思い起こさせる。

 

p35

 

生まれたとたんことばを話すことができたという話は、誕生した直後の釈迦が、7歩

あるいて、「天上天下唯我独尊」と言ったという伝説が下敷きになっている。

 

==>> まあ、ほぼ作り話としか見えませんが、神話というのはそういうものでしょう。

     

 

p38

 

太子が「法華義疏」を執筆していたとき、師である恵慈に尋ねても分からないところに

ついては、夢のなかで金人に教えられたという。 金人とは、釈迦のことをさしている。

太子は夢の中で釈迦から直接教えを受けたというのである。

 

 

p39

 

果たして親鸞が、この「上宮聖徳法王帝説」に目を通したことがあったかどうかは

貞かではないが、もし目を通していたとしたら、この夢の話には大いに注目したであろう。

・・・なにしろ親鸞は夢で聖徳太子から文を示されているからである。

 

==>> この部分が、「恵信尼の手紙の中に、親鸞が法然のもとへ向かったのは、

「しやうとくたいしのもん」が示現されたからだとされていることの意味は

大きい。」と上に書いてあることと繋がるんじゃないかというわけです。

     この「聖徳太子の文」の中身が分からないから、話がややこしくなって

     いるんですが、聖徳太子が親鸞さんに法然さんのところに行きなさいとでも

     書いたんですかね、夢の中の話ですけど。

 

p42

 

それは、「聖徳太子虚構説」であるとも言えるが、その急先鋒となってきたのが、古代

政治史を専門とする大山誠一である。 大山は「聖徳太子と日本人―天皇制とともに

生まれた<聖徳太子>像」において、次のように述べている。

 

「・・・憲法十七条を制定し、「三経義疏」を著したというのは事実ではなく、偉大な

聖徳太子に関する資料は、すべて後の時代に作られたものである。」

 

==>> つまり、日本書紀をはじめとする聖徳太子関連の情報はその当時の権力者に

     よって捏造されたものだということですね。

 

p44

 

たしかに、宗教家の生涯は、偉大な存在とされる人物であればあるほど、後世において

「神話化」がはかられるのが普通である。 私も、拙著「ブッダは実在しない」のなかで、

ブッダが実在しなかった可能性について探ってみた。 当時存在した悟りを開いたと

される複数の人物が、やがて一人のブッダにまとめあげられていったのではないかという

のが、その本での私の見解だった。

これは、キリスト教のイエス・キリストについても言える

 

==>> はい、一般論として、宗教の教祖とされる人については、そのような傾向に

     あると、私も思います。 親鸞の場合も、ほとんどいたのか居なかったのか

     分らないような人だったのに、三代目の覚如上人や「歎異抄」を書いたと

     される唯円などの力によって浄土真宗が実質的に創建されたようですし。

 

 

p45

 

最初の十七条憲法が聖徳太子によるものではないと指摘したのは江戸時代の考証学者、

狩谷液斎(えきは木遍)であった。 聖徳太子虚構説の歴史は意外と古いのだ。

・・・「憲法を聖徳太子の筆なりとおもえるはたがへり、是は日本紀作者の潤色なるべし」

と述べていた。 ・・・「日本書紀」の作者が潤色したものだというのである。

 

 

p46

 

谷沢は、聖徳太子の業績として最後に残ったのは「三経義疏」だったが、これも東洋

学者の藤枝晃の登場によって、そのレッテルが剥がされたとしている。

 

p47

 

藤枝はそこで、中国の敦煌から出土した「勝鬘義疏本義」(しょうまんぎょうぎしょほんぎ)

という勝鬘経の注釈書が、聖徳太子作とされる「勝鬘経義疏」と7割方同文であり、この

二つの注釈書は同系列のものであると主張したのである。

 

==>> 聖徳太子の「三経義疏」については、こちらでチェック:

https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E7%B5%8C%E7%BE%A9%E7%96%8F-70525

     「聖徳太子の著とされる『勝鬘経(しょうまんぎょう)義疏』『法華(ほっけ)義疏』

『維摩経(ゆいまぎょう)義疏』の三疏を一括した呼び名。」

 

つまり、7割方同じ内容だから、これは聖徳太子が作ったもんじゃないと

いうわけですね。

この本の著者、島田さんの反論は後ででてきます。

 

p49

 

聖徳太子虚構説については、政治的な議論にもなっている。文部科学省では、2017年

に中学校における学習指導要領の改定案を発表し、そこでは、教科書において、

聖徳太子の呼称を止め、厩戸王に改めるとしていた。 ところが・・・・

 

結局のところ、小学校では聖徳太子(厩戸王)と教えているので、厩戸王(聖徳太子)

では一貫性に欠け、教えにくいといった意見も出て、中学校でも聖徳太子(厩戸王)

という形を変えないことに落ちつく。 だが、現在でも、この点については議論が

続いている。

歴史をどうとらえるかということは、常に難しい問題をはらんでいる。

 

==>> 一万円札から聖徳太子が消えたのはいつの事でしたかね?

     福沢諭吉さんに変ったのは1984年11月だそうなので、この論争とは

     関係ないのかな?

     発行は停止しているようですが、流通は可能のようです。

     たまたまですが、今日のニュースで、聖徳太子の偽札が見つかったと

     やっていました。 釣銭をだまし取る偽1万円札だそうです。

 

 

p50

 

たとえば、日本の縄文時代は先史時代ということになり、文献はいっさい存在しない。

縄文時代を特徴づけるのは縄文土器であり、そのなかでも、火焔土器のことはよく

知られている。 火焔土器と名付けられている以上、土器の上部にある文様は、火が

燃え盛るさまを表現したものと考えられる。 ところが、これは火焔ではなく、水の

流れが作り出す双子渦やカルマン渦がもとになっているのではないかという説もある

 

・・・文献史料のある歴史時代に入ったからといって、歴史上に起こった主な出来事が

すべて記録されているわけではない。

・・・親鸞の生涯は意外なほど明らかになっていないのだ。

たとえ文献史料が存在したとしても、そこに事実が正確に書かれているという保証もない

 

==>> これは歴史に限らず、今現在起こっている政治的な動きをみても

     すぐに納得できることかと思います。 政権の意図、あるいは役所の意図に

     よって、元の記録が消されたり、改ざんされたりすることも度々です。

     記録すらされない、国民には知らされないということもままありますし、

     マスコミや最近のSNSなどに関しても、必ずしも正しく事実を伝えて

     いるとは思えませんし、意図的に歪められている場合もあり、そのような

     情報が記録として残っていくという現状はあると思います。

 

     そのことから考えれば、本能寺の変に関連する様々な人びとの手紙の

     方が、今の時代よりも真実に違いものかもしれません。

     しかし、それですら、様々な説が林立していますからややこしい。

 

p57

 

虚構説のポイントは、・・・・偉大な政治家であるとともに仏教の正統な理解者であると

いう聖徳太子像は、藤原不比等、長屋王、道慈の手によって創作されたもので、さらに

それに光明皇后と行信が手を加えたというのである。

 

この議論の形はサスペンス・ドラマの犯人捜しの過程に似ている。

 

・・・その分、一般の読者には分かりやすい。 虚構説が社会的な影響力を発揮するのも、

この分かりやすさが原因になっている。

 

それに対して、虚構説に反論する側の議論は、学問的には、虚構説よりも厳密であるよう

にも見える。 ところが、学問的に厳密であるということは、議論が詳細なところに

及び、・・・・・専門的な知識のない人間には議論の道筋を理解することが難しくなる

 

==>> はい、そのような意味で、この本の筋立ても理解するのに骨が折れます。

     たしかに、本能寺の変のように様々な説が出ていると、自分にとって

     分かりやすい説に賛同したくなりますね。

     たまたまそういう番組があって、様々な説の立場の専門家が参加した

     「サミット」なるものを観たんですが、いちいちもっともだと思えます。

     しかし、どれかひとつが原因ということでもなく、いくつかの要因が

     複雑に絡まって光秀が行動に出たのでしょう。

 

     ちなみに、邪馬台国論争でも、畿内説と九州説の似たようなサミットが

     テレビ番組でありました。 その時に、座長みたいな人が、

     「これしかない。 これが真実だ。というような専門家がいたとしたら、

     それは偽物の専門家だ。」と言っていました。

     翌日にどんな新たな考古学的な発見があるか、誰にも分かりませんからね。

 

p62

 

・・・不比等などが、どういった形で「日本書紀」の編纂に関与したのか、はっきりと

それを示した史料が存在するわけではない。 詳細は判明しておらず、いわば状況

証拠をもとに、そうした説が立てられている。 聖徳太子の実在を否定することが、

今度は別の人物を「神話化」することに結びついていると見ることもできるのである。

 

==>> これはおそらく、天皇の系譜そして天皇制に関わる問題だから、いろいろと

     歴史上の議論が起こっているのではないかと見えます。

     私自身は、そこには興味がないので、親鸞と聖徳太子の思想的な繋がりの

     部分に焦点を絞って読んでいきます。

 

 

== その2 に続きます ==

 島田裕巳著 「親鸞と聖徳太子」を読む ― 2 法隆寺の独特の世界と聖徳太子 (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

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