ブライアン・グリーン著「時間の終わりまで」を読む ―7― ベートーヴェンの第九に感動したヘレン・ケラー、 頭を冷やして考えれば燃費はよくなる

ブライアン・グリーン著「時間の終わりまで」を読む ―7― ベートーヴェンの第九に感動したヘレン・ケラー、 頭を冷やして考えれば燃費はよくなる

 


 

「第8章 本能と創造性、聖なるものから崇高なるものへ」を読みましょう。

 

 

p360

 

オーケストラが最後のトランペットを鳴り響かせたとき、彼はそうとは知らずに数小節

ばかり遅れて、すさまじい勢いで指揮をしていた。 コントラアルトの歌手がそっと

ベートーヴェンの袖を取って、ぐるりと後ろを向かせた

 

するとそこには、ハンカチを振り、大きな歓声を上げている聴衆がいた。

ベートーヴェンは咽び泣いた。

 

しかし、いったい彼はどうやって、自分の頭の中でしか聞いたことのない音が、人類の

心の中の普遍的な感情に訴えることを知ったのだろうか

 

==>> アインシュタインは言葉では考えずに音楽で考えていたようですが、

     このベートーヴェンもそうだったのでしょうか。

     私はクラシックのコンサートに行くことはほとんどありませんが、

     昔のLPレコードではよく聴いたものです。ベートーベンやモーツアルトも

もちろん聞きましたが、個人的にはチャイコフスキーの管弦楽曲が好みで、

特に「悲愴」などが好きでした。

交響曲第6番《悲愴》(チャイコフスキー)

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団

https://www.youtube.com/watch?v=-QQ5TCNzbcI

     昔はなんと言ってもカラヤンの時代でした。

 

     ところで、音楽が心に訴えるということについて、異存はないのですが、

     私の胸にぐっとくるのは、オーケストラであれば、バイオリンの高音部が泣く

ような音を出すときです。 しかし、それでも涙を流すところまではいきません。

 

     私が涙を堪えられなくなる音楽は、クラシックではなく、ポピュラーでして、

     卑近な例でいえば、つい先日行った「さだまさし」の演奏会でした。

     それも、昔からの懐かしい曲ではなく、エレキギターがギンギンに叫ぶ

     さだまさしとは思えないような新曲でした。

     その詞は、コロナ、大震災、ウクライナなど、最近の大きな問題を書いたもの

     ではあったのですが、それは歌詞カードを見た後に理解できたことで、演奏を

聴いていて涙をこらえようとしたのは、そのメロディ、曲の響きからでした

 

     


      

      音楽は本当に不思議です。

      言葉ではなく、その音で心を揺さぶることができるのです。

 

 

p365

 

先祖たちが、生き残るための現実的な問題から率先して目をそらし、貴重な時間と

エネルギーを費やして、想像力を振るう仕事に取り組んだ理由について、洞察は得られる

のだろうか?

 

 

p366

 

ダーウィンは考え抜いた末に、クジャクのオスの尾羽は、生き残りをかけた戦いでは

足かせになりかねないが、その一方で、クジャクの繁殖戦略にとっては本質的に重要な

一部になっていると結論した。

・・・クジャクのメスにとっても、それは魅力的なのだ。

 

==>> 人間の芸術、動物たちの美しさ、など、一見生存戦略としては無用に思える

     ことが、実は生き残る手段としても意味があるのだということを

     ダーウィンも考え出したようです。

     人間に関していえば、さまざまな好き嫌いの多様性はあるにしても、

     恋愛相手のいろんな要素に惹かれることは間違いのないことですしね。

     それは、進化という連続していく生命の生存戦略としては必要なのでしょう。

 

p374

 

適応に役立たないからといって芸術は何ら恥じる必要はないとわかっても、研究者たちは、

芸術の耐久性と普遍性に対する、直接的な進化論的説明を探すことをやめようとしない。

 

進化論的説明とはつまり、芸術活動を、先祖たちの生き残りに直接結びつけるような説明

だ。 人類学者のエレン・ディサナヤケはその路線で研究を続け、芸術を考えるときには、

古代に実践されていたようなものとして捉えなければならないと力説する。

 

・・・洞窟の壁を装飾するために地下深くに降りて行くにせよ、一心不乱に太鼓を叩いたり、

踊ったり歌ったりして別の世界にトランスするにせよ、芸術は宗教と同じく、古代の生活

様式に織り込まれていた。 そこにこそ、適応に役立つ可能性をはらんだ芸術の役割

があるというのだ。

 

==>> つまり、人間は共同体なしでは生きられない。 その共同体を維持するため

     には、人びとの心を束ねるなにかがなくてはならない。 そこに、神話などの

     物語や音楽や踊りなどが求められる、ということになるのでしょうか。

     ただし、そのような考え方が、どのように展開されたら科学的説明と言えるのか、

     そこが気になるところです。

 

p377

 

何が真実かを突き詰めて考える心は、その世界の中で、よく制御された領域を探検する

心だ。 ・・・・型にはまったものの見方をするりとすり抜ける。 そういう心が

独創性を発揮して新しいアイディアを打ち出すのだ。

 

・・・科学技術の分野のもっとも大きなブレイクスルーの多くは、何世代にもわたり

人びとを悩ませてきた問題を、それまでとは異なる観点から柔軟に考えることができた人

たちによって成し遂げられたのである。

 

==>> 独創的であることが評価されるのは、芸術の分野と科学の分野でしょうか。

     宗教の分野では独創的解釈はおおむね異端とされるでしょうし、検証不可能

     あるいは検証不要な新解釈でしょうから、議論は堂々巡りで、決裂するという

     運命にあるのでしょう。

     その点、科学であれば、新仮説が実証されることで認められるわけですから、

     誰もが認めざるを得ないということになります。

     それじゃあ、芸術はどうなのか。 それは、より多くの人々を惹きつけること

     ができるかどうかという結果で証明されるのかもしれません。

     そして、普遍的な良さを持っている芸術は、世代を超えて生き残るということに

     なるのでしょう。 ベントーヴェンの音楽のように。

 

 

p380

 

芸術は、独創性を磨き、創造性を鍛え、ものの見方を拡張し、団結を強めることによって

自然選択に関係しているという考えが、私はとても気に入っている。

 

この観点に立てば、芸術は、言語、物語、神話、宗教と並び、人間の心が象徴的にものごと

を捉え、事実ではない状況を想定し、自由に想像力を羽ばたかせ、他の心と協力して

働くための資源になる。

 

・・・人類の歴史を通じ、実に多様な芸術形態が価値あるものとしてつねに存在していた

ということだ。 それはつまり、内的生活と社交において、言語に媒介される事実情報を

それほど重視しない取り組みが受け入れられてきたということだ。

 

==>> 「自然選択に関係している」そして「言語に媒介される事実情報をそれほど

     重視しない取り組み」がずっと受け入れられてきている。

     それはどういうことを意味しているのか。

     事実ではない、いわば幻想の世界を必要とする人間、とは何なのかという

     話なのでしょうか。

     人類の歴史は幻想の上に成り立っているという論もありますし、共同幻想論

     という本などもあります。

     人間は、事実は見えなくても生き続けているらしい。

 

 

p385

 

言語がそれほど重要ではない視覚作品と聴覚作品の経験は、より印象主義的なものになる。

それでも、文学作品以上にとは言わないまでも、文学作品と同じぐらいには、視覚作品と

聴覚作品もまた、コンラッドの言う「知恵を超えた感情」に火をつけることができる

 

ベロ―が言うところの「本物の実在」が宿る声は、さまざまなかたちでわれわれに語り

かける。 私は本能的に死を予感することなしに、フランツ・リストの「死の舞踏」を

聴くことができない。

 

==>> 文学作品ということでいえば、近年の作品では、カズオ・イシグロの一連の

     作品が非常にインパクトがありました。

     事実ではない、まさに空想ともいえる小説ではあるのですが、近未来の

     人類社会のあり方に警鐘をならす内容に満ちていて、まさに将来の人類の

     生き残り戦略に示唆を与えるようなものだと感じます。

 

     映像作品でいうならば、私にとっていつまでも印象に残っていたのは

     映画「2001年宇宙の旅」でした。

     最初に観た時は、「なんじゃ、これは?」という印象しかありませんでした。

     その余韻がいつまでも残り、その後も何度か観ることになりましたが、

     最初の印象は何十年も残ったままでした。

     そして、今思うのは、あのモノリスは、宇宙の歴史、人類の歴史を記録する

     神なる意識なのだろうかと思ったりもするのです。

 

p386

 

芸術が引き起こす感動は、意識の下で湧き上がる思考の海に、さざ波を立てながら広がって

いく。 言葉を使わない芸術作品の場合、こうした経験にはさほどの明確な方向性はなく、

引き起こされる感覚に制約は少ない。 しかし、すべての芸術は、われわれに

「思考を感じさせる」力をもっていて、意識的な考察や事実分析からでは予想できそうに

ない真実に気づかせてくれる。 そんな真実は、たしかに知恵を超えたところにある。

 

それは、純粋な理性を超え、論理によって到達できる範囲を超え、証明の必要性を超えた

ところにある真実なのだ。

 

誤解しないでほしいが、われわれはみな「粒子の詰まった袋」であることに変わりはない

――心と体のどちらもがそうなのだ。

 

==>> ここで著者は、ちゃんと最後に締めているんです。我々は粒子集団なのだと。

     しかし、その前の部分は、まるで空海さんの密教の話を聞いているような

     感じです。 密教と顕教の違いを語っているような雰囲気です。

     つまり、本で勉強できることは顕教の範囲であって、実感を伴う体験は密教の

     世界だということではないかと思います。

     著者がここで、スピリチュアルな世界に飛ばないところが偉い。

 

p387

 

数学と実験は、何世代ものあいだ誰も見たことのなかった実在の層があることを明らかに

、見慣れたランドスケープを衝撃的なほど斬新な方法で見られるようにした。

 

・・・それを知るためには、そしてより一般に、科学の力を利用するためには、人間と

いう分子と細胞の集まりがこの世でまとっている個別の衣には目をつぶり、確固とした

方針に従って、実在の客観的な特質に焦点を合わせなければならない。

 

p388

 

強力な望遠鏡を使えば、肉眼で見るよりずっと遠くの天体の数百万年前、あるいは

数十億年前の姿が見える。 そんな天文学的な光源の中には、とうの昔に死んでいるもの

もあるだろう。 それでも、天体から出た光が今もこちらに向かっているため、われわれは

その姿を今も見続けているのだ。 光は、星が今も存在しているかのような幻影を与える。

 

==>> 「誰も見たことのなかった実在の層がある」、それを見つけるのが科学なんで

     すね。 そしてそのことが、幻影を見ている人間に真実の存在を教えてくれる

     ということになります。だから、「分子と細胞の集まりがこの世でまとっている

個別の衣」を脱いでみなくちゃいけない。

一方で、粒子の集団である一人ひとりにはクオリアという主観の世界が

広がっていて、体内の「小びと」たちが一所懸命働いてくれているわけですね。

それこそ、意識の下で働いていて、芸術の感動も作り出してくれている

「小びと」たちです。 粒子のひとつぶ一粒の働きですね。

 

p396

 

1924年2月1日、・・・ニューヨーク交響楽団によるベートーヴェンの第九交響曲の

演奏を生放送した。 自宅にいたヘレン・ケラーは、覆いをはずしたスピーカーの振動

膜に両手を置き、膜の鼓動を通して、その音を聞くことができた

 

彼女は、自分が「不朽の交響曲」と呼んだものを経験し、楽器の違いを感じることも

できたのだ。

 

・・・暗闇と旋律、影と音に満たされた部屋でその曲を聴きながら、私は、これほど

甘やかな音の奔流を世界に注ぎ込んだ偉大な作曲家は、私と同じく耳が聞こえなかった

のだという事実を思い起さずにはいられなかった。

 

==>> これは、ヘレン・ケラーが、鼓膜の代わりに両手の被膜を耳にして、

     ベートーベンの第九を聴いたことが書かれています。

     そして、第九の中での「人間の声」も分かったと言っているのです。

     そして、感動しているのです。

 

     感動するというのはどういうことなんでしょうか。

     生まれて初めて体験して感動をすることが多いように思いますが、

     それは単なる驚きとは違うように思います。

     そして、「琴線に触れる」という言葉がありますが、辞書での意味は

     「《琴線は、物事に感動しやすい心を琴の糸にたとえたもの》良いものや、素晴

らしいものに触れて感銘を受けること。」となっています。

つまり、そこに「物事に感動する」琴線なるものがないといけないわけです。

そして、それに反応している琴線を操っている小びとはどんな進化をして

きたのでしょうか。

 

================

 

「第9章 生命と心の終焉、 宇宙の時間スケール」

 

 

p400

 

進化はみごとな作品を作り上げてきたが、そんな作品のひとつである生命には、エントロ

ピック・ツーステップのメカニズムが体現されている。 生命は、高品質なエネルギーを

消費することで秩序ある粒子配置を維持し、さらに強化する一方で、高エントロピーの

老廃物を環境に捨てている。

 

エントロピーと進化が何十億年ものあいだ力を合わせて働いてきた結果として、精巧な

粒子配置がさまざま生じた。 そんな粒子配置の中には、第九交響曲を生み出した生命

と心があり、そんな作品を崇高なものとして経験することのできる、はるかにたくさんの

生命と心がある。

 

==>> エントロピーが増大して秩序が失われていく大きな流れの中で、

     それに逆らうようにして粒子が集まり星や生命を作り出すという現象が

     起こり、芸術のようなものを崇高なものとして経験できる粒子集団としての

     我々人間が存在するようになったそうです。

 

p413

 

均一に広がる暗黒エネルギーは斥力的重力を及ぼして、銀河が飛び散る速度を大きく

させる 天文学者が観測している加速膨張を説明するためには、暗黒エネルギーによる

押し出しが、銀河同士が集団として引き合う力より大きくなければならない。

 

p414

 

もっとも不吉なのは後者――斥力的重力がどんどん強くなる場合――だ。 もしもそれが

現実なら、われわれは、物理学者たちが「ビッグリップ」と呼ぶ、激烈な終末に向かって

突き進んでいることになる。

 

 

p415

 

今のところ、宇宙の終末がどのようなものになるかは、空間と時間に関する未知の

量子的性質にかかっている。 数学的な厳密性のない大雑把な言い方をすれば、斥力的

重力は、時空そのものの織りなす基本構造そのものをズタズタに引き裂くかもしれない。

実在は爆発(バン)で始まり、‥‥ビッグバンから1000億年後に、ズタズタに

引き裂かれて終わるかもしれない。

 

==>> 銀河同士が重力によって引き合っている一方で、宇宙が膨張していることが

     わかり、それを説明するための力として暗黒エネルギーが想定されている。

     そこで、暗黒エネルギーとは何かを確認しておきましょう。

     

     暗黒エネルギー 宇宙の二大ミステリー

     https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/f_00060.html

     「1999年、二つの研究グループが「約70億年前から宇宙の膨張スピードが加速

している」という観測結果を発表しました。ビックバンで始まった宇宙膨張は、

物質同士の引力によってやがて勢いを失うはずです。この観測事実の不可解さ

を、東京大学カブリ数物連携宇宙研究機構の高田昌広教授は「真上に投げた

ボールが戻ってくるどころか、勢いを増してどんどん空高く飛んで行くような

奇妙な現象」と例えます。この加速膨張の原因とされるのが、暗黒エネルギー

です。」

「現在、観測によって暗黒エネルギーの物理的性質を絞り込もうという計画が、

世界中で進んでいます。注目するのは、宇宙の物質の大半を占める暗黒物質です。

重力で互いに引き合う性質を持つ暗黒物質物質を引き離す暗黒エネルギー

は対極の存在です。」

 

上のサイトに書いてあるように、「アインシュタインが後に「生涯最大の

過ち」と呼んだ宇宙定数」というものが暗黒エネルギーというものに繋がる

ことになったそうです。

 

     今のところは、ビッグバンから1000年後に宇宙は崩壊してしまう

     見積もられるのだそうです。

     今現在はビッグバンから138億年ですから、先は長いのですが・・・

     4分でわかる!? 宇宙138億年

     https://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005410019_00000

     

 

p431

 

1970年代のこと、物理学者のハワード・ジョージアイとシェルドン・グラショウ

は、最初の「大統一理論」を作った。 それは、重力以外の三つの力(強い力、弱い力、

電磁気力)を理論的に結びつける数学的な枠組みだ。 

・・・・距離がどんどん小さくなるにつれて、力の間の違いは消滅する。

・・・これらの三つの力は、実はひとつの基本力の異なる側面なのだと主張する。

 

 

p433

 

統一を目指す研究プログラムは続いたし、今も続いている。

 

統一のアプローチには、ジョージアイとグラショウの大統一理論を直接的に拡張したもの

以外にも、カルツァーークライン系の理論、超対称性、超重力、超ひもがある・・・・。

 

p435

 

もしかすると未来の生物は、われわれが現在用いている生命や心というカテゴリーとは

まったく別の特徴づけを必要とするようなものになっているかもしれず、そんな生物

から見れば、生命や心というのは、大雑把で使いにくいカテゴリーなのかもしれない。

 

・・・もしも基礎粒子が何か別の配置を取り、その粒子配置が生命と心のプロセスを

忠実に実行すれば、そのシステムは生きて思考するだろう。

 

われわれとしてはできるだけ広い観点に立ち、たとえ複雑な原子や分子は存在しなく

ても、なんらかの思考する心は存在するかもしれないと考えるというアプローチを採ろう。

 

唯一絶対に譲れない条件として、「思考のプロセスは物理法則に完全に従う」という

ものだけを課すとき、思考はいつまで存在できるだろうか?

 

==>> 統一理論の話が出てきましたが、さまざまな突拍子もない理論もあって、

     凡人には理解は遠く及ばないのはもちろんなんですが、多宇宙論みたいな

     ものもあったりして、空想は広がるばかりです。

     おそらく、そのような次元の違う物理学の世界の話なのでしょうが、

     その中で、どのような生命が可能なのかという問いなんだろうと思います。

     たまたま今のこの地球上では我々のような生き物が何かを感じたり考えたり

     しているんだけれども、そうではない物質の構成からなる生命体というもの

     もあり得るのではないかという発想なのでしょう。

 

     そして、そういう異質な生命体であったとしても、そこに思考というもの

     が生まれているとするならば、その思考システムはその物質の物理法則に

     したがって進化したものでなくてはならないという話なのかなと思います。

     著者にとっては、それはSF小説の物語ではなく、純然たる物理学の世界の

     話なんだと思います。

 

p439

 

そんなわけで、思考の未来について考えるためには、思考の物理学を理解する必要がある。

「思考する者」は、どれだけのエネルギーを必要とし、思考の過程でどれだけの

エントロピーが生じるのだろうか?  「思考する者」は、どんなペースで廃熱を排出する

必要があり、宇宙はどれぐらいのペースでその熱を吸収できるのだろうか?

 

p442

 

数学が示すところでは、車はゆっくり運転するほど燃費が良くなるように、「思考する者」

の燃費は思考のペースを落とすほど良くなる。 つまり、温度が下がれば下がるほど、

「思考する者」の思考効率は良くなる 

 

p443

 

・・・しかしそのとき、予期せぬ問題が出てくる。 ・・・・コーヒーの温度が低ければ

低いほど、コーヒーが環境に放出する熱は減少するように、「思考する者」の温度が

下がれば下がるほど、考えることで生じた廃熱を排出しにくくなるのだ。

 

・・・この論証で仮定されているのは、「思考する者」は物理法則に従う基本粒子

(たとえば電子など)から構成されているということだけだ。

 

 

p444

 

溜まった熱がすべて排出されるまで、エントロピーの生成を停止させるのだ。 十分に

休みを取れば、目を覚ましたときには廃熱はすべて放出され、オーバーヒートして黒焦げ

になる危険はなくなっているだろう。

 

==>> ここでは、「思考する者」と表現しているのです。そして、説明も

     できるだけわかりやすくする為でしょうが、ふつうの人間が何かを

     考えるときにどのような物理学的現象が起こっているのかを説明して

     いるように感じます。

     その比喩をそのまま受け取れば、効率的に考えたければ、あまりカッカしない

     で、頭を冷やしてゆっくり考えなさい、ということかなと思います。

     しかし、一方で、「思考する者」というのが、宇宙そのものだとしたら

     どういうことになるのでしょうか。

 

さてさて、普通ならば、こういう話は、文学論とか芸術論とか宗教論みたいな

話に入っていくところなのでしょうが、著者はあくまでも物理法則という視点からの

説明を試みています。

 

私は、今までに科学入門、物理学入門、脳科学入門、そして一方では仏教入門みたいな本を

読み漁って来たのですが、この著者のアプローチはなかなかにチャレンジングで気持ちの

よい切り口になっていると思います。

それは、私が、形而上学的な内容をなんとか科学的、物理学的なアプローチで理解でき

ないものだろうかと思ってきたからかと思います。

 

 

では、次回は「第10章 時間の黄昏、 量子、確率、永遠」に入ります。

 

 

===== 次回その8 に続きます =====

 ブライアン・グリーン著「時間の終わりまで」を読む ―8(完)― 大きなブラックホールは優しい、そして誰もいなくなる、 ヒッグス場の絶壁の上にテントを張っている (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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