D.L.エヴェレット著「ピダハン : 言語本能を越える文化と世界観」を読む ― 2 ― 経験していない出来事については語らない、夢も直接体験である

D.L.エヴェレット著「ピダハン : 言語本能を越える文化と世界観」を読む ― 2 ― 経験していない出来事については語らない、夢も直接体験である

 


 

「ピダハン : 言語本能を越える文化と世界観」の

「第七章 自然と直接体験」に入ります。

 

 

 

p165

 

ピダハンにとって宇宙はスポンジを重ねたケーキのようなもので、それぞれの層はビギー

と呼ばれる境界で区切られている。 空の上にも世界があり、地面の下にも世界がある

 

p167

 

最初の大きな驚きは、どうやら物を数えたり、計算したりしない、数がないらしいこと

だった。 

 

・・・ピダハンが指であれ体のどこであれ、あるいは棒きれなど自分の体以外のもので

あれ、何かを使って数えたり計算したりするという光景を目にすることがなかった

 

p168

 

八か月かけても、ピダハンはひとりとして10まで数えられるようにならなかった。

誰ひとり、3足す1を、それどころか1足す1も計算できるようにならなかった。

 

==>> 数がない、計算が出来ない。

     何歳ぐらいのピダハンに計算の仕方を教えたのでしょうか。

     もし、生まれたばかりの赤ん坊を都会で育てた場合は、どうなるのでしょうか。

     もちろんその場合は計算が出来るようになると思うのですが・・・

 

p169

 

模様がどれも同じで区別できないことも、書き方には正しい書き方と間違っている書き方

があるということもまったく意に介さない。 こちらがある記号を二回描いてくれと頼ん

でも、まったく同じ模様が描かれたためしはなかった。

 

彼らには自分の模様も、わたしが用いる記号も同じようなものだと考えていた。

授業では、かなり真剣に「教え」こまなければまっすぐな線を引かせることができなかった

し、さらに特訓しなければ、身に付いたと思った技能を繰り返させることもできなかった。

 

・・・ひとつには「正しい」線の描き方なるものは彼らにとって、まったく無縁の未知

なる概念だったからだろう。

 

==>> 模様の違いが区別できない。

     これに似た体験は、私が日本語を教えていた時にありました。

     ひらがなやカタカナを教えていた時に、これらの形をほとんど認知できて

     いないのではないかと思うぐらい、書けない学習者がいたのです。

     しかし、その学習者は、不思議なことに、耳で聞いて音声で言うことに

     ついては、普通以上に上手だったのです。   

     聴いて話す能力と、読んで書くという能力は、ほとんど別物と考えても

     いいのではないかと思ったものでした。

     そこで私が不思議に思うのは、「意味とは何か」ということです。

     音からくるのか、何らかのイメージからくるのか。

     

 

p174

 

物語の話題にもヒントがあった。 人々は経験していない出来事については語らない

――遠い過去のことも、未来のことも、あるいは空想の物語も。

 

わたしがいつも楽しく耳を傾けたのはカアブーギーから聞かされた物語で、パンサー

(黒いジャガー)を仕留めたときのことだ。 ・・・カアブーギーは籠に頭と前肢を入れ、

私に見せるために村に持ち帰ってくれた。

 

p175

 

たんに言葉の意味を正確に把握すればいいというものではない。 一語一語はほぼ

完璧に訳せても、物語をつかむことはなかなかに難しい。 なぜならわたしたちの物語

には言葉では表されない前提となる世界があって、その世界は自分たちの文化によって

作られているものだからだ。

 

==>> ここでパンサーを仕留めた時の物語が4ページほどに渡って書かれているの

     ですが、上に説明されているように一行一行の短い文は理解できても、

     それを繋いでストーリーとして理解するのは非常に難しい文章です。

     ストーリーとしての意味の繋がりが理解できなければ、そこに意味は無いと

     思うしかないと言えるのかもしれません。それが話し手にとっては意味が

     あるとしても、聞き手にとっては意味がない。

 

180

 

物語はずいぶん繰り返しが多用されているように聞こえるだろう。最初のほうはパンサー

が犬を殺したことが何度も再現されている。

 

p181

 

「パンサーを仕留める」は直接体験であり、その意味で典型的な語りだ。この直接体験

であるというところがピダハンの語り全般を限定する決定的な要因である。

 

p184

 

単語イビビーオはこのようにして、それまでわたしが個別に取り組んでいたピダハン

の価値観に共通するひとつの顔をもたらしてくれたのだった。 その価値観とは、

語られるほとんどのことを、実際に目撃されたか、直接の目撃者から聞いたことに

限定するものであるらしかった。

 

・・・・精霊なども生きた目撃者から得られた情報を元にしていることになる。

直観的にはまさかと思う話だが、階層宇宙をこの目で見たと主張する目撃者はたしかに

いる。 階層そのものは肉眼で見られるーー大地と空だ。そしてこれらの階層の住民

も見ることが出来る。 異階層の存在は上の境界線を越えて降りてきて、つまり空

から降りてきてわたしたちのジャングルを歩き回るからだ。

 

p185

 

ピダハンにとって夢は、直接に体験される現実世界の延長だ。 ひょっとしたらほかの

階層の居住者も夢の中で移動しているのかもしれない。

 

==>> ここでは直接体験ということについて説明をしています。

     そして、その中での鍵になる言葉がイビビーオという言葉だというのです。

     このコトバが意味するのは「知覚の範囲にちょうど入ってくる、もしくは

     そこから出ていく行為、つまり経験の境界線上にあるということだ」

     説明しています。

     そして、そのことが、物事を直接体験したのかという判断基準になって

     いるようです。

 

     いわゆる純粋な経験をその本人がしたのかという点が、問題になっている

     ようです。 しかし、これがいわゆる「クオリア」ということかどうかは

     よく分かりません。

     クオリアの場合は、今、ここ、質感のある感覚・経験だという理解なのですが、

     夢がそのようなものとは考えにくいので、ちょっと違うのでしょう。

 

     「繰り返しが多い」というのは、文章を読むと確かにそのとおりです。

     それは、原始仏教あるいは初期仏教においても同じであったようです。

     元々、お釈迦様の時代には、経典なるものはなく、その場その場で

     説法する相手によって、口頭での説法や口頭での問答が基本だったようです。

     そして、それを代々口承で伝えられていたものを経典という形にしたと

     されていますが、その内容が、実に繰り返しの多い書き方なのです。

     このピダハンの物語と同じで、口で伝えることが基本だったからではないか

     と思います。

 

p186

 

夢は、直接体験されたことだけを語るというイビビーオの法則からはずれていない。

実際にはさらなる補強証拠でもある。 夢と覚醒のどちらも直接的な体験として扱う

ことで、ピダハンは、わたしたちにとってはどう見ても空想や宗教の領域でしかない

信仰や精霊という存在を、直接体験として扱うことができるわけだ

・・・夢のなかの精霊はわたしにとって直接的な体験であり、イビビーオなのである。

 

p187

 

数や勘定がないということもこれで説明されるだろう。 数とか勘定とは、直接体験

とは別次元の普遍化のための技能だからだ。 数や計算は定義からして抽象的なものだ。

・・・抽象化は実体験を超え、体験の直接性という文化価値を侵すので、これは言語に

現われることが禁じられるということだ。

 

==>> ここでは、著者は、精霊というものをピダハンの夢の中での直接体験

     だろうと書いているのですが、この本のプロローグのところに書いてあった

     エピソードでは、真昼間の河岸での見える見えないということでしたから、

     夢に限定することはできないだろうと思います。

     まあ、これは、トトロや猫バスが見えるかどうかというジブリの世界のことに

なってしまいますが・・・

 

p189

 

この原則は歴史や創世神話、口承の民話などが欠如している理由も説明してくれる。

人類学ではおよそどの文化にも、自分たちやそれ以外の世界がどこから来たかを説明する

物語、創世神話があると仮定する。 

 

・・・だが成果は何ひとつ得られなかった。  ・・・創世神話や昔話、おとぎ話など

を聞き書きできた者はひとりもいなかった。

 

p190

 

ピダハンが神話に「実証」を要求するという点で、大きな違いだ。 物語が語られるとき

には、その時点で生存している証人が必要なのだ。

 

ピダハンが見ているのが目には見えない精霊ではないことがわかる。 われわれを取り巻

自然のなかに実在するものの形をとった精霊なのだ。

ピダハンはジャガーを精霊と呼び、木を精霊と呼ぶ。

・・・「聖霊」はわれわれが想像するものとは違っていて、ピダハンが口にすることは

すべて、実際に体験できるものでなければならないのだ。

 

p191

 

ピダハンのなかにも、これがたんに猛獣との出会いを語っているにすぎないと考える者

もいるが、多くのピダハンは精霊ジャガーとの遭遇であると解釈している。

 

==>> ここで著者が言っている「われわれが想像する」精霊というのは、

     なんとなくディズニー映画に出て来そうな人型の精霊をイメージしてしまい

     ますが、一方で日本人的にイメージすると、山や海、岩や川など八百万の神々

     を連想するものの方に近いような気がします。 まさに、ジブリの世界かも

     しれません。

 

p196

 

ある事物や人間がいまこの瞬間と一分前とで同一であるというのはどういうことなのか。

いまの自分とよちよち歩きのころの自分とが同じ人間であるとどうして言えるのか。

体内にある細胞は全部入れ替わっている。考え方も変わっている

 

ピダハンでは、人は人生の区切りごとに同じ人間ではなくなる。 精霊から名前をもらう、

ということが精霊を見ると時々あるが、そうなるとその人はかつてのその人とまったく

同じ人物ではなくなるのだ。

 

==>> これは非常に興味深い話です。

     著者が言葉の勉強をする時にいつも世話になっていたピダハンの一人が、

     いくら声を掛け質問をしても返事をしなくなったことが書かれています。

     そして、その相手は、以前の名前の人間ではないと言うのだそうです。

     そして、同じように、著者自身が以前からの人間と同一人物なのかどうかさえ

     疑われることもあったのだそうです。

 

     これは現代の素粒子論で突き詰めて考えれば、ある意味、ピダハンの言っている

     ことは真実だと言えるかもしれません。

     そしてそれは、一方で、すべては「空」であると言った仏教に通じる話かも

     しれません。

 

 

p199

 

わたしたちが目にしたのはシャーマニズムではなかった。 ピダハンには、精霊に代わって、

あるいは精霊に話かけられる人物はただひとりではない。 ほかの者より頻繁に精霊と

やりとりする者はいるけれども、ピダハンなら誰もが精霊と話すことができるのだ。

 

p200

 

あれは本物の精霊なのか、芝居なのか あとからこのときの録音を聞いたピダハンも、

ほかの村のピダハンも、これは精霊だと断定した。

 

またピーターとわたしが「聖霊ショー」を見ている最中、隣に座っていた若い男が、

あれはイサウーオイではなく精霊だ、とわざわざ実況解説してくれた。

 

さらに、ピダハンが私のことをいつも同一の人物かどうか疑っていること、白人は

みんな精霊で自分の意思で姿を変えられると信じていることなどを考え合わせると、

ピダハンがあの出来事をまぎれもなく精霊との交感としか考えていない、と結論する

ほかはなかった。

 

==>> これは実に不思議な光景というしかなさそうです。

     猛獣も、「聖霊ショー」をしているピダハンの人間も、そして著者自身を含む

     白人も、「聖霊」というものに含まれるというのですから。

     現実の存在である猛獣やピダハン人や白人が、時々刻々現実の存在になったり

     精霊になったりするという話のようです。

     そして、その精霊も「直接経験」の対象であるかぎりにおいて、信用できる

     という実に「実証的」な世界になっているようです。

 

 

p201

 

もしピダハンの神話が直接経験の法則に従わねばならないのならば、世界の多くの聖典、

つまりキリスト教の聖書も、コーランも、ヴェーダも、ピダハン語に訳したり、ピダハン語

で論じたりすることができない。

 

なぜならそうした聖典には生きた証人の存在しない物語が数多く含まれているからだ。

だからこそこれまで300年近くかけても、伝道師たちがピダハンの信念を少しも

揺るがすことができなかったのだ。アブラハムの物語に現存する目撃者はいない。

 

==>> 確かに実証的という意味では、ピダハンの考え方の方がずっと科学的だと

     言えそうです。 それに、何かを文字にして残すということは、歴史は

     勝者によって書かれると言われるように、勝者に都合の良いことしか

     残されていないということもあるでしょう。 その意味でも真実とは

     限らない。 一方で、科学的な論文などは、それが積み重なっていくことに

     よって、何十年という時代を重ねることによって、さまざまな謎が解かれて

     進歩があることも事実です。

 

     お釈迦さんは、文章にすると意味が変化するから、相手をみて口頭で

     問答することを旨としていたと何かで読んだことがあります。

     科学的な内容であれば、論文を重ねていくことによって、真実に収斂していく

     ようですが、実証が難しい内容のものについては、書くことがさまざまに解釈

     されて、収斂どころかバラバラに拡散していくようです。

 

p213

 

わたしたち一家はそれまで、何年もの時間をブラジルで過ごしていた。そこで、博士号

をとったあとの一年はアメリカに戻り、言語学研究の中心であるマサチューセッツ工科

大学の言語哲学部で研究を続けることにした。

 

マサチューセッツ州ケンブリッジにあるMITの言語学科はノーム・チョムスキーの

学科であり、彼の文法理論がわたしの研究生活に大きな影響力をもつようになっていた

のだ。

 

p260

 

ピダハン語には五つのチャンネルがあって、それぞれが特別な文化的役割をもっている。

五つとは、口笛語り、ハミング語り、音楽語り、叫び語り、それに通常の語り、つまり

子音と母音を用いた語りだ。

ピダハン語を知るにはこのチャンネルと役割を知らなければならない。

 

p261

 

膝の上で一心に乳を吸っている赤ん坊にリズムよく何ごとか口ずさんでいた。

わたしはしばらくその光景を見つめていたが、やがて彼女のハミングが、見ている

クジラやエスキモーを描写していることに気がついた。 赤ん坊が時折写真のほうに

目をやると、母親は写真を指差し、ハミングが大きくなった。

 

==>> ここでは、著者の言語学者として研究内容の一部が描かれています。

     そして、アメリカにおいては、あの生成文法で言語学を大きく変えたと

     いわれるノーム・チョムスキーとの接点があったことも書かれています。

     そして、著者のこのピダハン語の研究が進むにつれて、チョムスキーの理論

     に対する批判がどんどん出てくることになったようです。

 

 

p262

 

クウビオが叫んだ。

「カアー、 カアーアカカアーア、カアーカアー」

ふつうのピダハン語に訳すと、「コー、イアーイソアーイ、バオーサイー

(おい、イアーイソアーイ、服)」となる。

驚いたことに、たいがいの音が雨音にかき消されていたのに、クウビオの叫び語りは

見事に届いていた。

すぐに・・・返事が響いた。「わかった、行くときにシャツを持って行くわ」

 

==>> これは「叫び」をコトバのひとつとして使っている例です。

     ほとんど、カラスの鳴き声かと思うような「叫び語り」です。

     これ以外に、音楽語りについても説明が書いてあります。

     「まず新しい情報を伝達するのに使われる。さらに、精霊との交渉に使われる。

     (・・・精霊自身も音楽語りで話す)。 だが主として踊りを踊っているときに

     用いられる。」との説明があります。

 

p263

 

わたしの耳に、男たちの交わし合う口笛が聞こえてきた。「おれは向こうへ行く。おまえは

あっちへ行ってみろ」などなど、狩りにつきもののやりとりだが、意思が通じ合っている

のは間違いなかった。・・・・口笛は長く尾を引き、ジャングルのなかをはっきりと

伝わっていく。

 

==>> これらの様々な意思伝達手段の説明を聞くと、いわゆる先進国といわれる

     国に住んでいる現代人が、実に限られた手段しか使っていないことを

     思い知らされます。 あるいは、そのような特殊な伝達能力は、ごく一部の

     特殊な能力を持っている人たちの間でしか使われなくなったということ

     なのでしょうか。 例えば、音楽家の間だけ、詩人の間だけ、というような。

 

 

p265

 

ピダハン語の調査を進めるにつれーーわたしの手法が正しいとするならばーー、ピダハン

語という特異な領域から、このパラメーターの境界線を越えるような音声体系が帰納的

に導きだされてきた。

 

この論争のおかげで、わたしは大変な大物訪問者をブラジルに迎えることになった。

・・・ピダハン語の音声体系についてわたしは音声学の主流に喧嘩を売るような説

打ち出した。

・・・高音質の機材でピダハン語を録音し、それが最終的には私の見解を支持することに

なり、音声構造の理論と調査にピダハン語がもたらした革新を推し進めることになった。

 

==>> この著者の業績に関する記述ですが、これはフィールドワークの成果という

     ものの大切さを物語っているのだと思います。

     著者の音声学にかんする説の詳しい内容については説明はありません。

     書いてあったとしても、素人の私には理解できないものでしょう。

 

p271

 

ピダハン語の文法は、チョムスキーの仮説では用意に割れない、とりわけ堅い木の実である

と感じはじめている。 文法法則が生得的なものであるという仮説によっても、あるいは

文法の構成成分がいかに働き、適合し合っているかを示す彼の理論をもってしても、

ピダハン語の文法をすべて説明しきれないのではないか、と。

 

この問題の結論は、人間の言語や思考を理解するためにあまりにも重要なので、あくまでも

注意深く手順を進めていかなければならない。

 

p275

 

当初わたしはピダハン語の文法を、チョムスキーの生成文法の枠組みのなかで考えて

いたのだが、時間が経つにつれて生成文法理論ではピダハン語について多くを明らか

にできないことがはっきりしてきた。

 

p276

 

ことに、文化が文法に大きな影響を与えているらしいことがわかったとき、それは

鮮明になった。

 

文法知識は人間の言語能力に不可欠だ。 だが互いに何か伝え合う生き物が人間だけで

ないとしたら、伝達それ自体には文法は不可欠というわけではないことになる。

生きることは伝え合うこと、生き物はすべて、植物も動物もバクテリアも、伝達を

する。

 

・・・情報伝達は何によって可能になっているのだろうか。 その答えはたったふたつ

の単語で済むーー意味と構造だ。 偉大なスイスの言語学者フェルディナン・ド・

ソシュールが言語記号の概念で強調したかったのも、つまるところそういうことだ

――言語の単位は構造(つまり形)と意味である

 

==>> なんだか、この辺りで一気に、私が知りたいところに入ってきた感じです。

     「意味とはなにか」という私のテーマに、近づいてきたような気がします。

     そして、チョムスキーの生得的な文法論に対して、この著者は文化が

     文法に大きな影響を与えていることが重要だと考えているようです。

 

     そして、文法は不可欠ではないということの例として、

     ハチや蟻や犬などの情報伝達方法を述べています。

     今までに何度も例として私が挙げてきたのは、最近脚光を浴びている

     シジュウカラの文法の話です。

     世界初! 「鳥の言葉」を証明したスゴい研究の「中身」

https://www.nhk.jp/p/zero/ts/XK5VKV7V98/blog/bl/pkOaDjjMay/bp/p0XWGW8MX7/

 

     このシジュウカラのケースは文法という言葉で説明されていますが、

     上記のように「構造と意味」という表現でも同じことかもしれません。

     チョムスキーの場合は、人間に特徴的なものとしての普遍文法などを

     前提としているようですが、この著者の場合はソシュールの考え方に

     基づいて「構造と意味」という説を挙げているようです。

 

     ソシュールの言語学については、こちらでご覧ください。

     【構造言語学とは】ソシュールの言語学

     https://liberal-arts-guide.com/structural-linguistics/

     「、ソシュールが指摘したのは、世界ははじめから個別の事物があるのではなく、

言葉によって世界の区切り方は異なるという点です。

ふつう日本人は、世界が「山」「川」「犬」などの事物からできあがっていると

信じています。しかし、それは日本語を使うからです。フランス語や先住民の

言語を使って生きると、世界は別々に区分されることがわかります。」

 

「ソシュールの考えた言語体系とは、

·                  個々の実体や意味は、もともと存在しない

·                  あるのは、隣接項との対立関係だけ

·                   その対立関係から意味は生まれる 」

「たとえば、日本語には「あいうえお」という母音の区別があります。

    それらはお互いが対立関係にあるから「あいうえお」となる

「あ」という音を説明するのにためには、「いうえお」でない、という関係を

もってしか説明できない

シニフィエ・・・言葉が意味をもつという側面を指す。たとえば、「猫」という

単語なら、「にゃんにゃんと甘える生き物」と考えが私たちの頭の中にうかぶ」

 

・・・これを読んだだけでは、著者がいう人間以外の生きものにおける

「構造と意味」というものを理解することはできません。

なにか、他の本でも探さないといけないようです。

 

      こちらのサイトでは、非常に興味深い議論が掲載されています。

      「人間以外の動物に「文法」は使えるのか?」

 http://mind.c.u-tokyo.ac.jp/Sakai_Lab_files/Staff/KLS_PaperJ/KLS2014Jd.pdf

      「動物との連続性

チョムスキー階層以外の観点を採用すると,動物と人間の間に共通点を見出すこともできる。Lipkind研究は,人間の乳幼児と鳥(ジュウシマツとキンカ

チョウ)を比較した。いくつかの音が連なった音列の産出を学習する際に,人間

の乳幼児も鳥も,いきなり正しい音列を産出できるわけではない。この研究は,

音列の正しい組み合わせを産出できるようになるまでの発達段階が,乳幼児と

鳥で共通していることを見出した。

大局的に考えると,文法学習において,人間と動物の間に越えられない壁を設け

ることは,人間言語の進化を考えるうえでは得策ではない。」

 

・・・これは実に面白いですね。人間だけの言語という垣根はなくなりそう

な感じです。

 

 

p279

 

言い換えると、言語とは意味なのである。 われわれは意味から始め、それを文法に

はめていく。 文法はすべて意味によって導かれる。

 

それでは意味とは何なのか?

この命題は何世紀にもわたって思索家たちを悩ませてきた。 自分には消化しきれない

ことを覚悟の上で、わたしなりに問題の核心を述べてみようと思う。

 

==>> いよっ!! まってました、大統領!!

     それですよ、私が求めてきたのは・・・・・

 

 

p279

 

哲学者と言語学者は意味をふたつの観点で論じるーーsense(意義)とreference(指示的

意味)だ。 Referenceとは話し手と聞き手が自分たちの話題にしている特定の事柄に

ついて一致していくために使われる。 

 

一方、実在する何ものも指し示すことのない名詞もある。 たとえば「ジョンがユニ

コーンに乗った」と言った場合、「ユニコーン」は現実世界に実在するものを示しては

いない。

 

p280

 

意味のもうひとつの基本的な要素はsenseだ。 Senseはふたつの側面に分けて理解する

ことができる。 ひとつは物や行為、質など発話のなかで用いられる事物に対する

話し手の考え方だ。・・・ふたつめは単語同士の関係性とその使われ方という側面である。

 

・・・各々の文でbreakがどのような意味になるかを知る唯一の方法は、使われ方

を知ることだ。 

 

p281

 

簡単に言えば意味とはそういうことだ。 ひとつの語や文が使われるその使われ方、

他の語や文との関係、そして、その語や文が世界のなかでどのような事物を指し示して

いるかを話し手がどう捉えているかということである。

 

ピダハンも、世界じゅうのすべての人々と同じように、何かを語るとき、何らかの

意味を伝えている。 だが全員が同じ意味で使っているとはかぎらない。

・・・ピダハンの語る意味も彼らの価値観、彼らの信念に厳しく制約されているのである。

 

==>> う~~ん。 来たぞ~~~、とぬか喜びしましたが、やっぱり

     「この命題は何世紀にもわたって思索家たちを悩ませてきた」というだけ

     あって、私が望む表現にはなっていません。

     やっぱり言語学者や哲学者が考える「意味」の意味と、私が漠然と期待している

     表現とはかなりズレがあるような気がします。

     私が期待しているのは、意味とは脳の中にどのような形で、どのようなプロセス

     で発生してくるのか、あるいは脳の中の出来事ではないのか・・・というような

     ことなんです。

     そうなると、脳科学・神経科学なのか、あるいはどうしても形而上学的なものに

     なってしまうのか。

 

 

さて、いい感じのところまで迫ったような気もしたのですが、今回も今一つの

ところで肩透かしという感じになりました。

まあ、そのものズバリという答えがあるとも思えないのですが。

 

では、次回は「第十三章 文法はどれだけ必要か」から読んでいきます。

 


 

==== 次回その3 に続きます ====

 D.L.エヴェレット著「ピダハン : 言語本能を越える文化と世界観」を読む ― 3(完) ― サラダを食べる人間にはピダハンは理解できない、誰の経験なのか、証拠はあるのか (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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