ブライアン・グリーン著「時間の終わりまで」を読む ―5― 音楽で考える? 八万年前から言語で考えはじめた? 物語・神話はパイロットのシミュレーション?

ブライアン・グリーン著「時間の終わりまで」を読む ―5― 音楽で考える? 八万年前から言語で考えはじめた? 物語・神話はパイロットのシミュレーション?

 

 


 

さて、今日は第6章から読んでいくんですが、上記の目次を見てお分かりのように、

物語、心、想像力、信念、聖なるもの、崇高なるもの、神話、宗教、詩的不死性、などなど

なんだか物理学の世界から一気に神秘的世界に迷い込むような雰囲気になっています。

 

そこで、ちらっと「訳者あとがき」に飛んでみますと、下のようなことが書いてありました。

 

p527

 

・・・ちょっと心配になる人もいるかもしれない。 科学者や宇宙飛行士やサイエンス・

ライターの中には、歳を重ねるうちに科学の領分から踏み出して施策を自由に解き放った

結果、スピリチュアル方面に飛んだり、トンデモ方面に転んだりする人がときどきいるけれ

ど、もしかしてブライアン・グリーンもそれ?と。 正直言うと、本書の企画書を読み始め

たとき、私も一瞬そこを懸念した。

 

しかし、安心してほしい、彼に限ってそれはなかった。

 

p529

 

芸術や宗教の話までは勘弁して、と腰が引けてしまう人もいるかもしれない。

しかし、心配はご無用。 グリーンの記述はあくまでも「入れ子になった自然主義」の

観点からのもので、やみくもに宗教や芸術に深入りするのとは別である

むしろ特筆すべきは、それらについて語る章のそれぞれが、その階層の物語への優れた

案内になっていることだろう。

 

==>> 訳者も企画書を読んだ時から、それを懸念したけれども、それは杞憂に終わった

     とわざわざ書いているんです。

     ちょっと笑ってしまいました。

     確かに、過去に私が読んだ本の中にも、れっきとした科学者である筈の人なのに、

     こんなにスピリチュアルなことを書いてしまっていいのかと違和感を感じた

     ものもありました。 個人的にそのような分野で信じるところがあっても

     まったく構わないのですが、科学者として書いて出版している本に、そのような

     個人的な志向や趣味を持ち込まれても困るよなあと感じました。

     そんな話は近所の居酒屋で顔なじみの人たちを相手にやってください。

 

     ・・・と、一応安心したところで、次に入ります。

 

 

「第6章 言語と物語、 心から想像力へ」

 

 

p264

 

太陽は上り、石は落下し、水は流れる。 これらのパターンや、時の流れとともに次々

と出会う同様のパターンは、われわれの振る舞いに深い影響を及ぼしている。

本能が生死にかかわるほど重要で、記憶がものをいうのは、パターンが継続するからなのだ。

 

==>> はい、これは確かにそうですね。

     決まりきったパターンがなかったら、毎回見るもの、経験することが、その時

     一回きりであったら、驚きの連続で落ち着かないし、次にどうなるかという

     判断もできませんからね。 まさに生死にかかわります。

 

p265

 

アインシュタインの遺産は、数学の言葉ではほんの数行で書けるとはいえーー数学の言葉

は、簡潔にして正確、水も漏らさぬ緻密なものだーー、実在の奥深くに踏み込む彼の

冒険旅行は、つねに方程式とともに始まったわけではなかった。

それどころか、言葉とともに始まったものですらなかったようである。 彼はそれを、

「私はしばしば音楽で考える」と表現した。 「私はめったに言葉では考えない」とも

 

==>> 「音楽で考える」「言葉では考えない」とはすごいことですね。

     私がいままでに読んできた中では、言語(音声)で考えるか、映像で考えるかの

     二つしか知りませんでした。 

     映像の中には、実物の映像、手話、文字が含まれるかもしれません。

     私はもっぱら音声で考えているようですが、世の中にはフォトグラフィック・

     メモリーという映像で考えている人も実際にいるようです。

 

     アインシュタインさんの場合は、音楽で考えて、数式が出来上がるってこと

     なんでしょうか。

     前回書いた湯川秀樹博士の夢の中で数式をもらってノーベル賞になったという

     話も凄いんですが、音楽というのはそれ以上じゃないかと感じます。

     音符の代わりに、五線紙の上に数式が踊るように現れるんでしょうか。

 

p266

 

私はよく独り言を言う。 ふだんは声に出さずに自分に話しかけているのだが、

ヴィトゲンシュタインは、「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する」と言ったが、

さすがにそれは話が大きすぎるとはいえ(私は、言語の外側に思考と経験に関係する重要

な特質があると信じて疑わないのだが・・・・)、言葉がなければ頭の中である主の操作

をする私の能力は失われるだろう。

 

・・・とてつもない天才を別にすれば、そしておそらくはそんな天才ですら、想像力を

解き放つためには言葉が必要不可欠だ。

 

==>> 私は、この著者やヴィトゲンシュタインが私と同じ方式で音声言語で考えて

いるということに安心しました。 それと同時に、同じ方式で考えているのに、

なんでこんなに考えているものごとの深さや理解度が違うのだろうと落ち込ん

でしまいそうにも思います。

ちなみに、私はいままでに何冊かヴィトゲンシュタインの入門のような本を

2~3冊読んでみたんですが、さっぱり理解できませんでした。

     完全に思考回路が違うという感覚です。

 

 

p269

 

初期宇宙の発展のほうが、よほどコンセンサスがあるほどだ。 そうなるのも無理はない。

宇宙誕生の出来事は立派な化石を残してくれたが、言語誕生の出来事はそんな化石を

残さなかったからだ。

 

==>> さてここから言語誕生の話になっているんですが、

     私が最近読んだ本の中では、こちらの本がいろいろと考えさせてくれる本

     でした。 やや、科学的とは言えないような偏りも感じましたが。

     

     高田英一著「手話からみた 言語の起源」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/07/blog-post_74.html

     「p147

獲物に対して共通認識となる「指差し」という対象指示が発端となって、初めて

食料確保がより確実となり、独占と分配という二つの対立物をこの時点では

矛盾なく統一できるようになってきます。 この価値判断の正しさこそ人間と

動物を分かつ分水嶺であり、今日の知性の芽生えではなかったでしょうか。

・・・しかし、ポイントは、音声はただちに対象を具体的に特定できないことで

す。「指差し」によって対象を特定した後の命名によって、音声による特定が

可能になったのが順序です。」

 

・・・もちろん、音声にせよ、身振りにせよ、化石になるわけじゃないです

から、科学者のコンセンサスが得られるわけがないですね。

     可能性があるのは、人類の骨格でしょうか。 でも、声を出せる骨格だから

     それが言語が発生した証拠には結びつかないでしょうしねえ。

 

 

p271

 

現代でもっとも影響力のある言語学者のひとりであるノーム・チョムスキーは、人が

言語を身につけるのは、ひとりひとりの脳に物理的に組み込まれた普遍文法のおかげ

だと論じた。

 

・・・ベーコンは、世界の言語の多くに、ある構造的基礎が共有されていると結論

づけた。 

 

・・・この学説は、われわれが生得的に持つ神経性生物学的構造の中に、言語の

プライマー(元になるもの)になるような何かが存在するという提案である。

 

p271

 

チョムスキーは、神経生物学上の特異的な出来事、おそらくは八万年前に起こった

「わずかな脳の再配線」の結果として、われわれの先祖たちは言語を学習する能力を

獲得し、その結果として、人類に普遍的な言語を爆発的に発展させた認知上の

ビッグバンが起こったのではないかという考えを示した。

 

==>> チョムスキーさんの生成文法、普遍文法については、いくつか読みました

     ので、こちらで詳細をごらんください。

     

     福井直樹著「自然科学としての言語学:生成文法とは何か」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/03/blog-post_25.html

     「p009

「言語獲得」の問題を真正面から考察することによって、生成文法理論は・・・

それまでの言語学思想にはない、きわめて強い心理学的・生物学的(あるいは

「認知科学」的と呼んでもよい。・・・・)色彩を持つことになる。

・・ヒトはその生物学的特性として脳の一部に「言語機能」と呼ばれる器官を

持って生まれ、この言語機能が異なった安定状態に達した結果が母語話者が

脳内に持つ言語能力であるという仮説を生成文法理論は提出している。

 

言語刺激を受ける前の、言語機能の初期状態(に関する理論)のことをUG

Universal Grammar、「普遍文法」という訳語は「深層構造」とか「表層構造」

とかいう用語と同様に、誤った含意を持ち得るので好ましくないと思う。本書で

「普遍文法」という言葉を用いる時は、あくまで「UG」と同義の概念としても

ちいることにする。)と呼び、言語機能が適切な言語刺激にされされて安定状態

に達した段階のことを、今まで用いてきたように「言語能力」あるいは「I言語」

(IはInternalized(内在化された)等の頭文字)と呼ぶ。

 

UGはヒトの生物学的プログラムの一部であるから、ヒトが持つ他の諸器官と

同様に種に「普遍的」である。 」

 

・・・・ここにもあるように、チョムスキーのすごいところは、

言語学を自然科学としてとらえるというスタンスなのでしょう。

つまり、物理学的に説明するという方向性ですね。

 

p273

 

話す能力については、また別の考古学的洞察を組み合わせた丹念な調査から、より

直接的な証拠が得られつつある。 頭蓋骨の空洞の進化や、口腔と咽喉の構造の変化

を追跡している科学者たちは、われわれの先祖が話をしたいと思えば、百万年より

少し前には、そのための生理学的能力は獲得していただろうと言う。

 

p274

 

チンパンジーの場合、FOXP2遺伝子によってコードされているタンパク質は、

われわれのタンパク質とはふたつのアミノ酸が違うだけだ。 

 

一方、ネアンデルタール人の場合、そのタンパク質はわれわれのものと同じである。

われわれに近しいネアンデルタール人は話をしたのだろうか。

 

発話と言語に関する遺伝的基礎ができたのは、われわれがチンパンジーから分かれた

時点(数百万年ほど前)より後で、われわれがネアンデルタール人から分かれた

時点(およそ60万年前)よりも前だったことが示唆されている。

 

==>> 仮説はいくらでも、私のようなど素人でも、立てることができるの

     でしょうが、科学的というためには、そこにしっかりした研究調査と

     データがなくてはならないということですね。

 

     FOXP2遺伝子については、その後の研究によって、評価が変わってきて

     いるようです。

     https://bsd.neuroinf.jp/wiki/Forkhead_box_protein_P2

     「現在では、FOXP2だけによって言語・発話機能の進化がもたらされたとは

考えられていないが、この発見を契機に、主に言語学と心理学が対象としていた

ヒト言語に対して、神経科学の側面からのアプローチが可能となった。」

 

 

p283

 

「ギルガメッシュ」は、書き記されたものとして現存する最古の物語かもしれないが、

もしもわれわれの種が5000年前に物語を描いたのなら、それよりもずっと前から

物語を語っていたに違いない。

 

・・・問題は、なぜそれをするのかということだ。 ・・・怒りっぽい神々との

向こう見ずな冒険や、奇想天外な世界への旅を創造することに時間を費やすのだろう?

 

==>> 著者は、人類は、食料を得るというもっと大切な、差し迫った用があるにも

     かかわらず、なぜ物語を作って語るなどという悠長なことをやってきたの

     だろうと疑問を呈しているわけです。

     もちろん、ど素人的には、なんでも言えるんですが、さて、著者はどう

     処理するのでしょうか。

 

p290

 

多くの読者にとって、なんといっても葛藤なしには始まらない。 それと同じことが

フライト・シミュレーターで上映される物語のダーウィン進化論的な有用性についても

いえるのは、単なる偶然ではない。

 

p291

 

葛藤、困難、トラブルなしには、物語に適応的価値はないのだ。 

・・・晴れ渡った空、何のトラブルもないエンジン、行儀の良い乗客が描かれる

シミュレーションは、パイロットの訓練にはならない。 現実世界のリハーサルが

役に立つのは、準備がなければ対応するのが難しい状況に出会うからなのだ。

 

==>> つまり、著者が言いたいのは、人類が物語を作って語るのは、

     パイロットの訓練のように、さまざまなトラブルを想定して、それに対する

     準備ができるようにすることで、生きるということを全うできる

     進化論的・適応的な意味があると言うことのようです。

     なるほど、生き残り戦略として、物語は必要だってことですね。

 

p292

 

とくに驚かされたのが、1950年代の末に、猫の夢の世界を探求したミシェル・ジュヴェ

の仕事だった・・・。 ジュヴェは、猫の脳の一部にメスを入れ・・・、夢の中の

出来事のために身体が動くのを防いでいるニューロンの塊を取り除いてみた

すると、眠っている猫が身体を縮めて背中を丸め、シューッという攻撃音を出しながら、

爪をむき出して前脚を振り下ろしたのだ。

 

==>> この猫ちゃんは、普通ならば、夢の中だけで動いているはずなのに、

     そのニューロンの塊を取り除かれたために、動作が実際に表に出てしまった

     ということですね。

     皆さんは、夢をみている間に実際に行動してしまったことはありませんか。

     大昔、私がまだ幼かったころのことですが、私の妹は、いわゆる夢遊病者の

     ように夜の夜中に廊下をあるいたことがあったようですし、

     私自身は、数年前に、幽霊の夢を見ていて、その幽霊を蹴飛ばす夢だったので、

     実際に壁を蹴飛ばして目が覚めたことが何度かありました。

     その頃、いわゆる霊媒師みたいな小母さんから、このアパート周辺には

     亡霊が彷徨っているという話を聞かされていたもんですから。

     フィリピンでの話です。

 

 

p295

 

我々は集団で暮らし、協力して仕事をすることができる。 完璧な仲良し集団ではない

にせよ、生き残りの見込みをひっくりかえすほどの協力をする。 生き残りの見込みが

高まるのは、単に集団でいるほうが安全だからではない、集団だからこそできる、変革、

共同作業、権限の委譲、コラボレーションが、生き残りの可能性を高めるのだ。

 

そんな集団生活がうまくいくためには、われわれが物語を通して吸収する、人間経験

への洞察が必要不可欠なのである。

 

==>> さて、日本の物語はどうなんでしょうか。

     昔の物語というと、日本神話とかこちらの今昔物語を思い出します。

     ビギナーズ・クラシックス「今昔物語集」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/09/blog-post_12.html

     「p37

すると、ウサギは、「ぼくには食べ物を探し出す能力がないんだ。 だから、

どうかぼくの体を焼いて食べてください」と言うや、たちまち炎の中に躍り

こんで焼け死んだ。このとき、老人に変身していたタイシャク天は、もとの姿に

もどり、このウサギが火に飛び込んだときの姿をそのまま月の中に移して

命あるもののすべてに見せるために、月面に刻みこんだ。」

 

「p47 

同じ盗賊の話でも、本朝部の日本版と読み比べると、まるで異質な印象を受ける。

逃亡にあたって、捕縛されて生き恥をさらさせないためにと決断して、親の首を

はねるなど、日本の盗賊には無理である。 肉親愛の表現のしかたがじつに

ドライだ。」

 

==>> この話は、親子の盗賊が王家の蔵に泥棒に入って、父が蔵の中から

外にいる息子に宝物を手渡している場面です。息子が警備兵が来る

のに気づいて、このままでは、必ず父が捕まってしまうと観念し、

窓から頭を出した父の首をはねて、その頭を持って逃げるという

お話です。親が捕まって顔が割れ、家族に禍が及ぶ生き恥をかくこと

を恐れてのことだと。 確かに解説者が言うように、今の日本人の

感覚ではドライというよりも発想が凄すぎる結末だと思います。

     ただ、この話は、震旦(中国)の話と語られているものの、その源流

は、インドあるいはエジプトにまでさかのぼるのではないかという

ことです。

 

・・・これらの今昔物語は一応日本のものではあるんですが、仏教に関係する

ものでもあるので、そのルーツはものによっては中国、インド、さらに

エジプトあたりまでつながるものがあるようです。

 

実際に、上記のように、今の日本人の感覚では信じられないものもあり

ますから、その当時のその土地の文化や慣習に沿った物語になっていて、

人々の生活の規範にもなっていたのかもしれません。

     そしてそれが、生き残り戦略ともなっていたのでしょう。

 

==>> もうひとつの日本の物語は、こちらの日本霊異記でしょうか。

     伊藤比呂美著「作家と楽しむ古典:日本霊異記・発心集」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/09/blog-post_14.html

     「p068

気がついたら、日本の文学はすべて仏教文学だったんです。西洋文学とキリスト

教は切っても切り離せないと言われます。 たとえば、スタインベックの

「怒りの葡萄」。小説のつくりも、最後の場面のイメージも、聖書そのものです。

 日本の文学も同じなんです。 文学と仏教的なものと一体にあるのがわかり

ます

仏教説話はもちろん仏教文学です。 男と女のセックスしか書いてないような

「源氏物語」だって、仏教文学です。 ・・・つまり「源氏物語」のバックグラ

ウンドには、浄土教的な考えがある。 」

 

・・・ここで思うのは、やっぱり西欧はキリスト教、日本は仏教からくる

規範に基づいた物語が底流にあるのだなということです。

 

 

p301

 

神話を定義するのは難しいことで知られるが、ここでは、「文化にとって重大な関心事、

すなわちその文化の起源や、その文化の中で長らく実践されてきた儀式や、世界に

秩序を与えるその文化に独特のやり方などを理解するために、超自然的な行為者を

持ち出す物語」としよう。

 

==>> 一応入門書みたいなもので日本神話を読んでことはあるんですが、

     その日本神話が世界の神話の中ではどのような特徴があるのかを

     こちらのサイトでチェックしておきましょう。

 

     世界の神々、日本神話の誕生                                

https://www.gods-of-the.world/japanese-mythology/

     「日本神話は神様が世界を作るのではなく、世界がまず存在して、そこに神様が

誕生していくという、世界でも珍しい成り立ちの神話です。」

「日本の神話の特徴は「神様の多さ」です。八百万(やおよろず)の神々と言わ

れることが多い日本の神様たちですが、これはたくさんの神様がいる、という

ことです。」

「「ムス」というのは「苔生す(こけむす)」という言葉と同様に「」「生まれる」「発生する」という意味です。「匕」というのは「霊」のことです。

日本神話の中では、一見生物などは存在しないような土地から草木が次々に

生えてくるような場面が多く描かれているのですが、まさにこの何もない状態

から生命が生まれる力のことを「ムスヒ」と言います。このムスヒの力で日本の

神々も誕生していったんですね。」

 

上記の日本神話との比較のために、こちらのサイトでインド神話の特徴を

さらっと見てみます。

https://www.sekainosinwa.net/entry/indosinwakiso/

「 インド神話はインドとその周辺国の神話

 輪廻転生を重要視しており、そのためにカースト制度が必要だった

 神と悪魔の対立がインド神話の基本

 神や悪魔以外にも主に4つの種族が存在」

ブラフマーが世界を作る、ヴィシュヌが世界を維持、

シヴァが寿命が来た世界を破壊」

     

     ・・・確かに、ブラフマーという神様が世界を創るのに対して、日本の神様は

     どこからともなくボワッと現れるんですね

     インドからは仏教を通じて、様々な神様たちが日本にも入っていますが、

     日本神話ということに限れば、かなり違いがあるようです。

     

==>> ちなみに、お隣の中国はどうかとみてみたところ、以下のような記述が

     ありました。

     中国神話

https://dic.pixiv.net/a/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E8%A9%B1

     「中国語には本来「神話」という概念はない。

神という概念はあったが、実のところ歴史時代の前に神話時代があったという

世界観ではない。むしろ、人と神と仙人とが混然としたカオスをなしていると

言ったほうがよい。このあたりが、日本神話やギリシャ神話などとの大きな違い

である。」

 

・・・そういえば、中国の神話という話は聞いたことがないですね。

 

こちらのサイトには中国神話に関して興味深いことが書いてありました。

https://mythpedia.jp/chinese-mythology/chinese-mythology.html

「中国は世界有数の長い歴史を持ち、文献史料もまた豊富なのですが、神話に

ついてはあまり充実しているとは言えません。古くから多くの人が生活をして

いたのですから、当然神の概念も発生し、神々についての説話も語られてきた

はずだと考えられます。しかし、その多くが文書に残されることがなく、消えて    

いってしまったのです。そうなった理由の一端を作ったのが、孔子です。」

 

そして、もうひとつの隣国の神話、朝鮮神話はどうでしょうか。

https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%A5%9E%E8%A9%B1_%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81

 

朝鮮の神話の世界観は、北方ユーラシアのアルタイ系諸民族の神話との共通

点が多い。世界は善神の住む天上界、人間の住む地上の世界、悪神の住む地下

世界の3層構造であり、天地万物の主催者として至高神ハヌニムが存在する。

ハヌニムは天・空を意味するハヌルに敬称ニムを付けたものであり、モンゴル系

神話のテングリに近い観念である。」

「文献神話の大部分は、王朝の始祖が天孫の末裔であることを語る建国神話で

あり、日本の記紀神話と同様に王権の神聖性の根源が天にあるという考え方

ある。」

 

・・・これを読むと、日本神話は中国神話とはほぼ関係なさそうですが、

朝鮮神話の天孫降臨あたりは似ていますね。

 

 

p309

 

長い時間が経つうちに、こうした神話的な物語の中でもっとも耐久性のあるものから、

世界を変える絶大な力のひとつが芽生えることになった。 世界を変えるその力とは、

宗教である。

 

==>> さあ、やっと宗教にたどり着いたようです。

     ここで私が気になるのは、日本の神話つながりで、神道というのは

     宗教なのかってことです。

     実際に下のサイトのような議論もあります。

     神道は宗教ではないのか

     https://kibune-gunma.jp/shintou/

     「古代の日本では各地で季節ごとに多くの儀式や祭りが行われていましたが、

それらは土地ごとに独立して行われてきたものであり、キリスト教やイスラム

教のように崇拝対象となる絶対的な神や教祖は存在せず、氏子と呼ばれる人た

ちも、一神教における信者とは異なった存在でした。墓地と結びつかない点も

神道は宗教ではないという理論の背景でもあります。」

「そもそも神道という単語自体、日本に仏教が伝来したことによって昔から

日本に存在する信仰と、新しい大陸から流れきた信仰を区別するために誕生

しています。・・・・そのため「神」という単語で繋げられた日本古来からの

風習と、海外の信仰は同じ「宗教」というカテゴリーのものだという考え方が

主流になっていったのです。」

 

・・・神道には、教義、経典がないというのが他の宗教とは異なるので、

まあ、定義の仕方によって判断は異なるのでしょうね。

     Wikipediaには「神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとづくアニミズム

的、祖霊崇拝的な民族宗教である。」と書いてありますが、これで私は納得

できます。

 

では、次回は「第7章 脳と信念、 想像力から聖なるものへ」に入ります。

 

 

===== 次回その6 に続きます =====

 ブライアン・グリーン著「時間の終わりまで」を読む ―6― 科学を信じるか、神を信じるか、外なる神と内なる神、世界宗教が生まれた時代 (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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