伊藤比呂美著「作家と楽しむ古典:日本霊異記・発心集」を読む ー エロい、グロい、仏教説話

 

伊藤比呂美著「作家と楽しむ古典:日本霊異記・発心集」を読む ー エロい、グロい、仏教説話

  

「作家と楽しむ古典」の中に、古事記、竹取物語、宇治拾遺物語、百人一首

とともに日本霊異記と発心集が収録されていまして、伊藤比呂美さんが入門者向け

に書いています。

「日本霊異記・発心集」の章だけを読んでみます。

 

 

 

p047

 

学校で教わる古文はクソおもしろくないんですよね。 「源氏物語」も「方丈記」も

さわりしかやらないし、仏教説話は毒にも薬にもならない話ばっかりだし。 だから、

大人になって「日本霊異記」を読んだとき、ひっくり返って驚きました。

なんとエロい、そこらのポルノ小説より、ずっとエロくておもしろい。

 

・・・これを高校のときに知っていたら、どんなに楽しく古文の勉強がはかどっただろう

と思います。

 

p048

 

お経の中にもセックスにかかわる話がいろいろと出てくる。 お経というのもまた、

語り物の一つですから。 景戒さんには、セックス話はみんな生きる死ぬるの根源的な

話だと思えるわけです。 それで、ついメモをとって書きとめる。 そのうちに、

セックス話の入った説話がたくさん集まった。 それを一冊の書物にしたのが

「日本霊異記」です。

 

==>> ちなみに私も古文はさっぱりダメでした。漢文は面白かった。

     でも、こういう紹介文を読んでしまったら、受験勉強のふりをして、きっと

     「日本霊異記」を読んでいたでしょうね。

     もっとも、試験に出るはずもないところばっかり読むでしょうけど。

 

 

p056

 

さて、「くながひ(婚、愛婚)」の他に、セックスを意味する言葉に「とつぐ(交通)」

という言葉もあります。 これらの語源を前に調べて感激したんです。 

 

p057

 

「くながひ」は「杭を交える」「つっかえる」という動作をあらわしています。

「とつぐ」は「戸を継ぐ」です。 言葉の奥に、まるでオノマトペのような動きが

見えますよね。 単にセックスを指し示すだけじゃなく、音とイメージで遊ぶように

してセックスを表現しているんです。 昔の日本語って、すごい。

 

==>> さて、ここに来て、この著者伊藤比呂美って何者だ?と思ったわけです。

     プロフィールを確認します。

     Wikipediaによれば:

     「1975年、大学在学中より新日本文学会の文学学校にて阿部岩夫に学ぶ。同年、

詩人の岩崎迪子らと詩誌『らんだむ』を創刊。1976年から『現代詩手帖』に

投稿をはじめる。1978年、第一詩集『草木の空』でデビューする。同年に

16回現代詩手帖賞を受賞。性と生殖、そして死に関する言葉を多用し、『姫』

『青梅』『テリトリー論』などで80年代にかけての女性詩ブームを

井坂洋子とともにリードし、女性による詩のイメージを革新した。」

 

・・・つまり、基本は詩人なんですね。言葉に関する感覚が鋭い人のよう

だったので、なるほどなと思いました。

 

p057

 

景戒さんの頃は、今の我々が言葉を使う感覚とずいぶん違ったんですね。 言葉が呪術

に近かったんじゃないかと思うんです。 それをいちばん感じたのが「日本霊異記」の

はじまりのお話です。 天皇と后のセックスから始まります。

 

==>> 「天皇と后のセックス」のお話は、実際に本を読んでいただくとして、

     ここでは景戒さんについてチェックしておきましょう。

     https://kotobank.jp/word/%E6%99%AF%E6%88%92-1070622

     「奈良後期から平安時代初期の僧。「けいかい」とも読む。日本最初の仏教説話

集である『日本霊異記』(正式書名は『日本国現報善悪霊異記』)の著者。同書の

上中下各巻の巻首や下巻末尾の署名から,薬師寺の僧で伝灯住位の僧位を有して

いたことが知られる。」

「同書には紀伊国名草郡(和歌山県)に関する説話が多いため,同地の出身であろ

うと推測されている。自分の根拠地(これもおそらく名草郡)私堂を持ち,妻子

を養い,馬を持ち,半俗の生活を営んでいた。

 

「彼の説く教えの中心は,三宝(仏法僧仏像・経典・出家者)を信心すれば利益

が得られるというものであった。また五性各別説(修行者を五種にわけ,成仏可能

な者と不可能な者とがあるとする説)を説いており,当時の法相宗の教学にも

ある程度の理解は持っていたらしい。道教,陰陽道の影響も認められる。」

 

・・・平安時代初期の僧だとすれば、空海さんと同時代の半僧半俗のような

感じだったのでしょうか、妻子もあったと書いてありますから、ガチガチの

僧侶ではなく、親鸞さんの先駆けみたいな感じだったんでしょうか。

最澄さんや空海さんが僧侶の制度を確立していったようですから、

景戒さんはまだゴチャゴチャしていた時代の人だったのかもしれません。

 

 

p060

 

一字一句、一文ごとが、呪術である。

これには理由がありました。 あたしはまったく見落としていたのですが、この原文

は漢文だったんです。 考えてみたら、景戒さんの時代の人たちは、日本語でぺらぺら

話すけど、読み書きは日本語でできなかった。 漢文で書いていたんです。

 

・・・景戒さんは、日本語的には、書けない人であった。・・・なんと景戒さんの漢文

もまた、ブロークンでした。 むちゃくちゃ下手くそな漢文なんです。 でも読めば

読むほど、天皇と后の話がまったく呪術に見えてくる。 

 

==>> 文字は呪術、文は呪術、というのを読んで、空海さんの密教にかんする

     著書に書いてあったこと、阿字観(瞑想)会で聞いたことを思い出しました。

 

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/02/post-7535b7.html

     「P18

阿字(あじ)はサンスクリット語(インドの古語)アンウトウバーダ(本不生、

本来生せず)の初字で、諸法は本来生ぜず、という教理を内包しています。 

とりわけ阿字はすべての文字の根本であり、他の一切の文字は阿字が変化した

ものと見ることができますから、一切の原初でもあるわけで、大地のように

すべてのものの本になっていると理解すれば、阿字は地大だということも

できるのです。」

 

「p103 

阿字の義とは、・・・阿字はすべての文字の母ともいえますし、すべての声の

本体だともいえますし、つまりすべての存在の源といえるのです。

「大日経疏」巻七にも「最初に口を開いて音を出せば、まず阿の声が出ます。 

もし阿の声が無ければその他のすべてのことばは存在しなくなります。この故に

阿は、すべての声の母となるのです」といっています。この故に、阿字を離れて

一切の言葉は無く、一切の諸法も空無であることが知れます。 これが阿字の

字相であります。」

 

「p105 

訶(か)字の実義を論じます。

「大日経疏」巻七に「訶字の教理というのは、すべての物の生ずる原因は結局は

確定することができない、ということです。なぜならば、すべてのものは変化

しつつ、それぞれの原因が生じた時に結果となって成立するものなのです。 

まさに知るべきことは、最後の最後は原因などつかめないのです。 」

 

「p107 

阿字を観想することによって一切のものが本来的に生じたものではなく、

縁によって生じていることを知るのです。 およそこの世のことばというもの

は名称からはじまります。しかもその名称は字によって示されます。

したがって梵字の書体の阿字も他の字の母とするのです。他の字はすべて阿字

が変化したものだからです。阿字を観想して真実を知る時も同じです。」

 

・・・このように、空海さんは、ひとつひとつの文字に多くの意味が含まれて

いるということを書いています。

そして、密教でいう真言(マントラ)を「漢訳経典では、「真言」の他に「密言」、

「呪」、「明呪」等と訳される」ともありますから、まさに呪術といえるの

でしょう。

 

 

p064

 

「日本霊異記」は、仏教説話のなかでもいちばん古いものです。 ここからいろんな

仏教説話が出てきます。 ・・・その後、「今昔物語」や「宇治拾遺物語」が出てくる。

・・・「宇治拾遺物語」なんて、こんなに描写しなくてもいいんじゃないかというくらい、

言葉が多い。

「日本霊異記」は漢文で書かれたせいか、とても言葉が少なくて、力強い、シンプルな

リズムをもっています。ですから翻訳も、主語・述語、主語・述語、ときどき主語・

目的語・述語、というくらい、文章を削ぎ落してみました。

 

==>> 仏教説話の中でも一番古いっていうんですから、そりゃあ読まなくちゃいけ

     ませんね。 すでによんだ「親鸞と聖徳太子」にも、日本における在家仏教

     が聖徳太子からの大きな影響を反映しているんじゃないかというような中で、

その後の展開に影響のあった日本霊異記ですから、なおさらです。

 

ところで、漢文は確かにシンプルで、日本語のようにごちゃごちゃしては

いないんだろうと思います。 その意味では中国語と英語は近いようですね。

中国人の方が、日本人よりも、英語の上達が速いと何かで読んだ記憶が

あります。

 

 

p068

 

気がついたら、日本の文学はすべて仏教文学だったんです。 西洋文学とキリスト教は

切っても切り離せないと言われます。 たとえば、スタインベックの「怒りの葡萄」。

小説のつくりも、最後の場面のイメージも、聖書そのものです。 日本の文学も同じ

なんです。 文学と仏教的なものと一体にあるのがわかります

 

仏教説話はもちろん仏教文学です。 男と女のセックスしか書いてないような「源氏物語」

だって、仏教文学です。 ・・・つまり「源氏物語」のバックグラウンドには、浄土教的

な考えがある。 

 

 

p077

 

ただ、あたしは仏教の実践者ではないです。 と言いつつ、「発心集」の「宝日上人、

和歌を詠じて行とする事」を心にとめています。 宝日は、朝に和歌を詠い、昼に和歌を

詠い、夜に和歌を詠い、それを行としています。 修行にはいろんなものがあるという

話です。

 

==>> 伊藤 比呂美さんのこの切り口は、さすがに「1985『良いおっぱい

悪いおっぱい』で、「子育てエッセイ」という分野を開拓する。」というだけ

あって、なかなかユニークで面白いですね。

そして、和歌を詠むことが行であるというのも、作務が「禅寺で、僧が掃除など

の労務を行うこと。修行の一つと見なされる。」ということから考えれば、

詩を読むということも詩人にとっては作務みたいなものでしょうか。

 

日本文学が仏教文学であるというのは、振り返ってみれば、確かにそうかなと

思います。 学校で習ったものの中で一番記憶に残っていたのは「歎異抄」

だったし、小説を少しは読まなくちゃいけないと無理やり読んだのは、

芥川龍之介の短編「羅生門」「芋粥」蜘蛛の糸」なんかだったし・・・・

 

そして、敢えて「行」というならば、上記に書いてあることのつながりで

短歌ならぬいい加減な狂歌をたまに読んでいるし・・・

最近は、阿字観会やら、写経会やら、写仏会なんかに通っているし・・・

 

 

と言うことで、「日本霊異記」の入門のイントロを読んでみました。

 

非常に面白そうな内容なので、仏教のことも知りたいし、もう少し「日本霊異記」や

「今昔物語」を、今後読んでみたいと思っています。

 

 

== 続きはありません、終わりです ==

 

 

   

 

 

 

 

 

 

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