福井直樹著「自然科学としての言語学:生成文法とは何か」を読む ― その1 「普遍文法」とは脳の初期状態? 言語学は今や理系の学問
福井直樹著「自然科学としての言語学:生成文法とは何か」を読む ― その1 「普遍文法」とは脳の初期状態? 言語学は今や理系の学問
福井直樹著「自然科学としての言語学:生成文法とは何か」を読んでいきます。
そもそも、この本を読もうという気になったのには、私にとって二つの意味があります。
その一つは、「意味とは何か」「志向性とは何か」ということを知りたいということで、
「意味論」に関する本を読んでみようと思ったことです。
それで、下のような本を買ってみました。
しかしながら、特に真ん中の「意味論」という本は、まったく期待外れに終わりました。
そして、左の「言語を生み出す本能」は、パラパラとめくってみたものの、私が
読みたくなるような内容ではなく、唯一右の「認知言語学への誘い」が、元日本語教師
としての私にとっては懐かしさを含めて、興味深い内容が書かれていました。
そして、二つ目の意味に繋がるのですが、この言語学で世界的に有名なチョムスキーの
「生成文法」について書いてあったので、興味を引かれたのです。
「生成文法」については、十数年前に一冊買ったのですが、その時は、「この本は日本語を
教える現場では使い物にならないな」という感じだったので、「ツンドク」本になって
しまったのです。
しかし、チョムスキーの本をいきなり読んでも、相当難解だろうなと思い、この
福井直樹著をまずは読んでみようと思ったわけです。
しかし、読んでみて驚きました。 現場の日本語教師が読むような内容ではまったく
ありませんでした。
「ツンドク」本になっていたのは当たり前のことでした。
言語学者であるノーム・チョムスキーについては、既に読んだばかりの
「誰が世界を支配しているのか?」の感想文を書きましたので、そちらも参考と
してください。
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/02/blog-post_18.html
それでは、「生成文法とは何か」という視点から、この本を読んでいきたいと思います。
「まえがき」
piii
生成文法理論の根幹をなす主張は、言語の研究とは人間が言語を獲得し話せるようになる
「(認知)能力」(そしてその「(認知)能力」をつかさどる脳内メカニズム)の科学的
研究である、というものである。 「言語生物学」的アプローチとでも呼ぶべきこの
視点は、生成文法理論を従来の伝統的言語研究からもっとも尖鋭に分け隔てる点である
と同時に、様々な分野の研究者の興味を言語に引きつけ、二十世紀後半における言語研究
を真に学術的なものとした原動力であったと言えよう。
==>> そして、この後に「自然科学としての言語学」という生成文法であると
書かれているんです。
その意味は、まだここではピンとこないのですが、おいおい分かってきます。
少なくとも、元日本語教師が思っていた言語学では全くないということです。
pvii
現在、日本の大学は、国立大学を中心にして、大変革の最中のようであるが、この改革
の動きの中でも、言語学者が自らの分野の将来について深く思索を巡らし、慎重にかつ
勇気をもって対処しないと、日本における理論言語学の未来はあまり明るくないのでは
ないかと憂慮する。
言語と科学について幅広い興味を持った若い世代の学生・研究者が、理論言語学という
分野に多く参入し、その人達が伸び伸びと自由に研究を続けられるような教育・研究体制
と学界(および社会)の雰囲気が、日本に生まれてくることを切望する。
==>> さて、この著者がどういう立場で「日本を憂いている」のかなんですが、
2001年にこの本が発行された時の立場は、
カリフォルニア大学アーバイン校言語学科教授、理論言語学、認知科学専攻
となっています。
経歴をみると、その前、1986年からずっと、マサチューセッツ工科大学や
ペンシルベニア大学での研究を続けているようです。
「第一章: 自然科学としての言語学―生成文法理論とそれを取り巻く知的状況について」
p004
生成文法理論の内容を真に納得しながら理解するためには、実際の(言語)データ
に触れながら、ひとつひとつ段階を追って理論を学んでいくことが不可欠である。
従って、限られた紙数で中途半端に専門的内容に立ち入ることは、思わぬ誤解を
生じさせる要因にもなり得るし、かえって有害であると思われるので、ここでは一切
行わない。
p005
生成文法理論が主張する「自然科学としての言語学」という考えが具体的にどのような
内実を持ち、またいかなる類の証拠に支えられているのかに焦点を当てて、生成文法
理論が目指している知的プロジェクトの全体像を描き出してみたい。
==>> 正直に言って、十数年前に買った一冊の「生成文法」に関する本は、
なんだか異次元の世界だったので、こういう方針でこの本が書かれている
ことは私にとっては有難いアプローチです。
専門的内容に入るつもりは、私にはありませんので。
p007
「意味のある」概念と一定の仕方で結び付け、「言語」たらしめているのはあくまでも
「人間の頭」なのである。 こう考えてくると「言語」学が実体を持つ対象に関する
学問であるためには、その対象は、存在そのものが決して明らかとは言えない(常識
敵な意味での)客体としての「言語」ではなく、「音声」(音連続)と「意味」とを
明確に定義されたやり方で結び付けている、話者の頭のなかに存在している「言語
能力」でなくてはならないであろう。
・・・「言語」を本質的に「心理現象」として捉える考え方は、むろん生成文法理論
が初めて提出したわけではなく・・・・
p008
しかしながら、「心理現象としての言語」という考え方を徹底的に押し進め、
「言語能力」を言語学の研究対象として明確に措定し、そのことによって言語学と
いう学問を人間の「こころ」の研究の中核部分を成すものとして位置づけたのは、
やはり生成文法理論をもって嚆矢としよう。
・・「言語能力」を母語話者の脳(の特定の部位)がある一定の発達段階に達した
状態(「安定状態」とよばれる)として捉えることを主張したのである。
・・・多くの「異なった」言語能力が存在することは自明であるが(英語の「言語能力」
と日本語の「言語能力」は明らかに異なっている)、もしこれらの異なった言語能力が
ヒトの脳(の特定の部位)が安定状態に達した姿であるとするならば、そのような状態に
達する前の、特にヒトが生まれたばかりの「初期状態」にある時、将来「言語能力」
に発達するはずの脳の部位はどのようになっているのであろうか。
==>> ここで次第に「自然科学としての言語学」という意味が明らかになって
きました。 要するに、言語学というのは一般的にいわゆる「文系」
の学問と見られているわけですが、ここでは、言語能力を脳の作用として
「理系」の対象として研究しようということのようです。
p009
「言語獲得」の問題を真正面から考察することによって、生成文法理論は・・・
それまでの言語学思想にはない、きわめて強い心理学的・生物学的(あるいは「認知科学」
的と呼んでもよい。・・・・)色彩を持つことになる。
・・・ヒトはその生物学的特性として脳の一部に「言語機能」と呼ばれる器官を持って
生まれ、この言語機能が異なった安定状態に達した結果が母語話者が脳内に持つ言語能力
であるという仮説を生成文法理論は提出している。
言語刺激を受ける前の、言語機能の初期状態(に関する理論)のことをUG(Universal
Grammar、「普遍文法」という訳語は「深層構造」とか「表層構造」とかいう用語と
同様に、誤った含意を持ち得るので好ましくないと思う。本書で「普遍文法」という
言葉を用いる時は、あくまで「UG」と同義の概念としてもちいることにする。)と呼び、
言語機能が適切な言語刺激にされされて安定状態に達した段階のことを、今まで用いて
きたように「言語能力」あるいは「I言語」(IはInternalized(内在化された)等の
頭文字)と呼ぶ。
UGはヒトの生物学的プログラムの一部であるから、ヒトが持つ他の諸器官と同様に種に
「普遍的」である。
==>> ここでは「普遍文法」のこの本における定義が書いてあるのですが、
「普遍文法」とは「言語刺激を受ける前の言語機能の初期状態」であると
理解しておくのが良さそうです。そして、それはどの国に生まれようが同じで
「普遍的」であるということになりますね。
つまり、英国に生まれて英語脳になろうが、日本に生まれて日本語脳になろうが、
その前の段階では人類としてみな同じ普遍的な言語脳を持っているという
ことのようです。
p012
生成文法理論が提出した研究プログラムは、言語研究を伝統的な言語学という枠を
超えて、広く人間の精神・脳の研究のなかに位置づけ、1950年代における、いわゆる
「認知科学」誕生の中心的勢力として多くの分野の研究者に熱狂的に受け入れられた。
それまで言語研究にはほとんど関わりのなかった計算機科学、(認知)心理学、生物学、
神経・脳科学、応用数学、等の分野の研究者たちの興味を言語学に引き寄せて、この分野
をかつてない規模で活性化させたのである。
同時に、生成文法理論はその誕生から現在に至るまで常に様々な反発にさらされてきた。
==>> ここで、「生成文法」の全体像をwikipediaでチェックしておきましょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E6%88%90%E6%96%87%E6%B3%95
「生成文法(英: generative grammar)は、ノーム・チョムスキーの
『言語理論
の論理構造』(The Logical Structure of Linguistic Theory、1955/1975)、
『文法の構造』(Syntactic Structures、1957)といった著作や同時期の発表を
契機として起こった言語学の理論である。」
「チョムスキーの示したドグマ・ドクトリンとしては、脳の言語野に損傷を持た
ない人間は幼児期に触れる言語が何であるかにかかわらず驚くほどの短期間に
言語獲得に成功するが、これは言語の初期状態である普遍文法(英: universal
grammar, UG)を生得的に備えているためであると考える。」
「生成文法以前には、生得的構造を仮定せずに類推によって言語は獲得される
と考えられることも多かったが、類推の基礎になるデータがないにも関わらず、
自由に構造が生成されるという事実がある。」
・・・「生成」という言葉の意味が、いまひとつピンとこないのですが、
私的な理解としては、 個別言語にたいする構造を生成する普遍文法という
初期状態をもっている脳の言語的状態・・・とでもしましょうかねえ。
p014
人間の「わかり方」には様々な種類があり、「科学的わかり方」はそれらのうちの一種類
にしか過ぎない。 例えば、我々は文学によって与えられる、これらの事柄に対する
理解の仕方は本質的に「非科学的」であろう。 だからと言って「文学的認識」の価値が
「科学的認識」に比べていささかも劣るものではないことは言うまでもない。
p015
生成文法理論は過去五十年近くにわたる着実な経験的研究成果を積み上げることによって、
「(近代)科学的」アプローチが、少なくとも人間の「言語機能」・「言語能力」の解明に
当たっては他のアプローチではおよそ考えられもしなかった類の「発見」を可能にすること
を示しているのであるから・・・・ただ先験的に「(近代)科学的」アプローチが人類言語
(ひいては人間一般)の研究にはそぐわないと主張することは、やはり公平とは言えないで
あろう。
・・・「人文・社会系」の伝統に基づいて言語研究を行なっている研究者が生成文法に
敵意・反感を持つ理由は(少なくとも学問的には)全く存在しないと思う。
さて、生成文法理論は、いわゆる「理工系」の研究者からは、(「人文・社会系」の研究者
の場合と異なり)反感・敵意はあまり持たれないかわり、不満および軽侮の念をもって
見られることが多いようである。 物理学を中心とする「中核的自然科学」に較べて
生成文法が科学として未成熟な段階にあるのはまぎれもない事実であるから、この点に
関して言うべきことはなにもない。
==>> ここでは、いわゆる「文系」と「理系」の研究者の間にある、生成文法を
挟んでの心のわだかまりみたいなものが述べられています。
つまり、いままでは言語学といえば純粋に「文系」であったものが、
チョムスキーさんが「生成文法」というものを自然科学に持ち込んだがために、
言語学が「理系」の領域に入っていったからであるようです。
理系的考え方と文系的考え方の違いと言えば、おそらく前者が実証的であり、
後者が非実証的であるということなのではないかと思います。
ただし、考えてみると、手に取れる多くのものは実証的な科学によって
作りだされたものであるのに対し、政治、宗教、文化芸術のようなものは
ほとんど手に取ってみることができない非科学的なものであると言えるの
かもしれません。 そして、新型コロナのパンデミックで認識されたのは、
実証的な科学によって情報が確定されなければ、情報が不安定な間は
いかようにでも人々の心は操られてしまうということのようです。
そして、そのことによって、人々の心が政治的に分断されるということも
実際に起こっています。
非科学的な情報というのは、どんな情報であろうともそれを根拠づける
実証的なものはないわけですから、人々がひとつにまとまろうとするのが
平和なのだとするならば、実証的な科学的な情報に根拠を求める以外には
ないのだろうと思います。
あるいは、まったく逆に、あるひとつの妄想にすべての人々が心を預けて
しまうしかないのでしょう。
それは、おそらく、リチャード・ドーキンス著の「神は妄想である」に
描かれている内容かと思います。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/03/post-5d9d05.html
p017
物理学の歴史を見てみると、ニュートンによる、落体の法則とケプラーの三法則の統一
を始めとして、現象論的法則をたばねる、より一般的で説明力の高い法則を求める
努力、すなわち説明理論への希求が分野の発展を動機付けていることがよくわかる。
この点では生成文法理論も全く同じであって、「言語の説明理論」の構築がその究極的
目標である。
・・・生成文法理論がその誕生初期において広く科学者の興味をひき共感を得たのも、
「言語能力」に関する理論を二十世紀前半に開発された帰納関数論等の数学的道具立て
を用いて明示的に示してみせたのが大きな要因となっていよう。
この分野の研究は「形式言語理論」として独自の発展を遂げ、現在では情報科学系の
カリキュラムの基礎課目に組み込まれている・・・・
==>> ここでは物理学と数学が互いに支え合いながら発展したことと比較して、
生成文法理論が数学的表現を十分には出来なかったことが今一つ
勢いに乗れなかったことを述べているようです。
ただし、その一部は、形式言語理論として情報科学系の中にはすでに
その足跡を残してもいると書かれています。
従って、チョムスキーという人の名前が、文系の言語学関連の学生では
なく、理系の学生・研究者に広く知られていることが述べられています。
恥ずかしながら、元日本語教師の私も、いろいろと日本語教育に関連して
日本語文法などさまざまな本を読みましたが、生成文法という言葉は
知っていながら、チョムスキーという人の名前は知りませんでした。
p019
脳科学系の研究者や情報科学を中心とする「工学系」の研究者から生成文法理論に
向けられる不満に対して・・・・あえて一般的に論じると・・・、「生成文法で
言われていることはわかりにくい」というのが最大公約数的な不満なのではないかと思う。
ヒトの「言語機能」は自律的な独自のシステムであり、その諸特性はそれ自体を綿密に
観察して発見するしかない(と生成文法は主張している)。
・・・他の分野の研究者がちょっと覗いて、自らの分野とのアナロジーで簡単に
わかろうとしても、なかなかそうはいかない程度には生成文法も「難しく」なって
きている。 量子力学と同じように扱ってほしいとはいわないが・・・・
==>> ここでは、生成文法の分野は、すでに五十年近くの研究の集積があるので、
ちょっと覗いたぐらいで理解できるとは思わないでくれという話です。
p020
筆者の見るところ、生成文法研究者(の部分集合)に当てはまる最も深刻な問題は、
彼らが(「我々が」と言うべきか?)生成文法以外の知的活動(学問・科学)にほとんど
興味を持たないことにある。
p021
科学者が有している知識はすべて「新たな知」(すなわちオリジナルな提案・発見)の
創造にどれだけ役に立つかという点から評価されるべきであり、単に並列的に蓄えられた
「もの知り」的知識そのものは、科学者にとっては何の意味もない。
==>> ここで筆者は、生成文法の研究者の一人としての危機感を語っているのですが、
多くの分野にまたがって広がっている生成文法であればこそ、狭い視野では
発展が停滞してしまうということを警告しているようです。
p024
「言語機能」そのものに即した実証的研究の膨大な積み重ねを通してほの見えてきた
根本的原理が「経済性・最適性」であるとすると、この概念は他の諸科学において
発見・展開されてきた様々な法則と呼応し、成分文法を全く新しい形で他の分野と
結び付ける鍵になるかもしれない。
なぜ生物現象の中で「言語機能」のみが物理諸科学における根本原理である「経済性・
最適性」の原理に支配されている(ように思われる)のか、を問うことは、いわゆる
「認知科学」にとっての大問題になるであろう。
==>> この部分は、自然科学のひとつとしての生成文法が秘めている発展性の
根拠について語っているようですが、内容は私には分かりません。
しかし、この文脈から感じるのは、おそらく、他の文系の学問と違って
生成文法というものは理系の学問と同じような法則を発見できる分野である
可能性を述べているのかなと思います。
では、次回は「第二章: 生成文法の目標と方法」に入ります。
=== 次回その2 に続きます ===
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