ソフィア・レクチャーズ「ノーム・チョムスキー:我々はどのような生き物なのか」を読む ― 音と観念が結び付けられる方法、普遍文法は生物学的なもの、 言語は内的対話の道具?
ソフィア・レクチャーズ「ノーム・チョムスキー:我々はどのような生き物なのか」を読む
― 音と観念が結び付けられる方法、普遍文法は生物学的なもの、 言語は内的対話の道具?
この本は、上智大学で行われたノーム・チョムスキーの講演を翻訳収録したものです。
翻訳・編集は、福井直樹氏と辻子美保子氏が行なっています。
私は先に、チョムスキーの生成文法を知るために、この福井直樹氏著の
「自然科学としての言語学:生成文法とは何か」を読みました。
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/03/blog-post_25.html
今回はいよいよ、チョムスキー氏本人による講演の内容を読むことにします。
=====
p004
ノーム・チョムスキーは「心の科学におけるガリレオ」であるといった類のものです。
これは正しい評価だと思います。 心の科学に対してチョムスキー氏が成遂げたことは、
ガリレオが物理科学(自然科学)の発展に対して行ったことに、まさに匹敵するものです。
・・・チョムスキー氏は言語学に革命を起こしたのです。 つまり、厳密で精確ではある
ものの分類学的で記述的だった言語学という学問を、人間の心に関する真の科学へと
転換させたのです。 生物言語学と(後に)呼ばれる視座を導入することによって、
1950年代の認知革命において、言語学は決定的に重要な役割を果たすことになりま
した。
==>> ここで編者である福井氏は、チョムスキー氏を褒めちぎっているわけですが、
まずはこちらで再確認しておきましょう。
https://kotobank.jp/word/%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC-98445
「アメリカの言語学者。1961年よりマサチューセッツ工科大学教授。1950年代
中期より、一連の著述によって文法学界に革命をもたらしたといわれている。
1988年(昭和63)認知科学分野での貢献により第4回京都賞(基礎科学部門)
を受賞。」
「とくに、子供の言語習得能力を生得的なものと仮定し、その習得能力の解明
こそが言語理論の終極的な目標であるとしている。チョムスキーの影響力は
言語学界のみならず、哲学、コンピュータ科学、心理学、そして社会学にと広範
囲に及んでいる。」
「なお、彼は反戦運動その他の市民運動にも積極的で、この方面の著述活動も
活発であり、思想家チョムスキーとしても知識人一般に広く知られている。」
・・・これを読むだけでも、言語学から広く他の分野にも影響を与えた
学者であることが分かります。
そして、活動家・思想家としての部分については、既にこちらの本を読み
ました。
チョムスキー著「メディア・コントロール: 正義なき民主主義と国際社会」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/05/blog-post.html
ノーム・チョムスキー著「誰が世界を支配しているのか?」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/02/blog-post_18.html
内容は、凡々たる日本人である私にとっては、さまざまな事を懐疑的に
考えることの大切さを教えてくれるものだと思いました。
p007
「言語の構成原理再考」
p009
言語の場合、言語とは何かを明確に決定づけるべきさらに根本的な理由が存在するのです。
その理由とは、我々がどのような生き物なのかという、より一般的な問いに極めて直接的
に関係するものです。 「下等動物が人間と異なっているのは、ひとえに人間がまさに
千差万別な音と観念を結び付けるほとんど無限に大きな能力を持っていることにある」
[Darwin 1871]という結論に到ったのはチャールズ・ダーウィンが最初ではありませんが、
人間の進化に関する萌芽的説明の枠組みにおいて、この伝統的な概念を表明したのは
ダーウィンが最初でした。
・・・通常、言語は音声によって話されるもので、便宜上私も以下では音声言語に絞って
話をしていきますが、言語を使用するときの様式(モダリティ)は大した問題ではないこと
が最近わかってきました。 聾者の手話(サイン言語)もその構成原理、獲得、使用に
関してーーさらには驚くべきことにその内的精神表示においてもーー音声言語と根本的に
同じなのです。
しかし最も重要なことは、言語において音と観念が結び付けられる方法は、明らかに人間
に固有であるということです。 それに相当するものは動物の世界では見つかっていま
せん。
==>> おそらくこの辺りの話が、生物言語学というものに繋がっているのでしょう。
「音と観念が結び付けられる方法は、明らかに人間に固有である」という点
については、「シジュウカラの文法・言語」の発見について、チョムスキー氏
がどのような見解なのかが知りたいところです。
「文法を操るシジュウカラは初めて聞いた文章も正しく理解できる」
https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research-news/2017-07-28
p011
この無限の能力は明らかに有限の脳の中に存在しています。
つまり、各言語は階層構造を持つ表現の無限の配列を提供し、その各々の表現は、
二つの「インターフェイス」(あるいは連結部)と呼ばれているものにおいて解釈を
受けます。 二つのインターフェイスとは、外在化(音声)のための感覚運動インター
フェイスと心的過程のための概念インターフェイスです。 これが言語の「基本原理」
です。
==>> つまり脳というコンピューターの中心部があって、それに二つのインター
フェイス、連結部分があり、ひとつは外部の感覚器官につながり、もう
ひとつは脳の内部の心と呼ばれるものに繋がっているというわけですね。
この喩え方が、先に読んだ本にあったメタファーの逆適用みたいなもの
ですね。
要するに、脳という自然のものを、コンピューターという人工のものに
見立てるというやり方です。
p018
我々が共有している生物学的諸特性を発見することも言語学者の主要な仕事です。
この研究主題は、伝統的な用語を現代の枠組みで捉え直して、「普遍文法」と今日呼ばれて
いるものです。 この問題は、イェスベルセンの説く「全ての言語の文法の根底に横たわる
大原理」を現代的に蘇らせたものであり、生物学的に人間に固有の言語能力を産み出す
遺伝的賦与物に係わる問題として捉え直されている課題なのです。
生物学的枠組みにおいて生成文法を捉えるという、20世紀半ばに起こったことの視座の
転換は・・・・・
==>> ここで、生成文法と普遍文法という考え方を再チェックしておきましょう。
福井直樹著「自然科学としての言語学:生成文法とは何か」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/04/blog-post_2.html
「p164
生成文法でいう「言語の普遍性」とは「言語機能の普遍性」にほかならず、言語
機能が「普遍的」、すなわち全ての人間に(かつ人間のみに)与えられている
ことはほとんど疑問の余地がない・・・・・。
言語機能が真に「普遍的」である状態、すなわちいかなる一次言語データの影響
も受けていない状態を言語機能の「初期状態」と呼び、言語機能の初期状態に関
する理論を「普遍文法」(Universal Grammar, UG)とよぶ。 これらの述語を用
いれば、生成文法理論の目標はUGの構築にあることになる。」
・・・私の理解では、生まれたばかりの赤ん坊は、どこの言語環境に生まれる
かに拘わらず、どの国の言語にでも対応してそれを母語としてしまうわけです
が、その基盤になる言語能力というか普遍的な文法というものが遺伝的に
人間が持つ生物としての能力に含まれているという発想みたいです。
p024
感覚運動器官というのは、言語に特化して適応したわけではないのです。 言語に関係する
部分は、言語そのものが出現する数十万年前から既に存在していました。
・・・チンパンジーは、人間と同じ弁別素性、音韻素性を聞き分けさえするのです。
それでも、類人猿は言語獲得の第一歩を踏み出すことすら出来ません。
・・・つまり、幼児は言語的に関係のあるデータを複雑な環境からどうにかして抽出
しているのであって、このことは、ほとんど奇跡的とも言える偉業なのです。
・・・幼児は単なるたくさんの雑音にさらされることによって、その雑音の中で
何が言語に関係する部分かを即座に聞き分けるのです。
==>> 本当に驚きの能力が人類にはあるってことですね。
しかし、それにしても、チンパンジーとシジュウカラはどう違うのか・・・
p025
この方向での論究が基本的に正しいいのならば、言語を「思考の道具」として捉える
伝統的な考え方に立ち返ること、そして、その伝統的な考え方に従ってアリストテレス
の言明を修正することに対する十分な理由が存在することになります。
つまり、言語は「意味を伴う音」ではなく、「音あるいは外在化の他の形式を伴う意味」
であるということになるのです。 外在化の形式の典型は音ですが、先に述べたように、
他の様式(モダリティ)も可能なのです。
・・・言語の処理は表面的で周辺的な側面であり、言語の中核的特性ではないということに
なります。
p026
・・・コミュニケーションというのは言語の非常に周辺的な側面であって、しばしば仮定
されているような言語の中核的機能ではないのです。
・・・言語が完璧に設計されているのならば、その諸規則は構造依存的でなければならない
のです。
==>> ここはかなり大事なところのようです。 言語の外在化の形式は周辺的で
あり、コミュニケーションという目的論についても中核的ではないと
しているんですね。 では、言語とは何なのか。
構造依存的ということの意味を理解しなくてはいけません。
p032
進化的時間尺度の上では、言語は非常に最近、しかも極めて突然に、創発したということ
です。 これは何を意味しているのでしょう。 このことは、何が起こったにせよ、ある
わずかな変化、脳内のわずかな再配線があったことは間違いなく、その再配線によって
言語のシステムがどうにかして作り出されたということを意味しています。
p039
言語は創発し、そして「思考の道具」として発達したのです。 実際、言語を内観的に
捉えて、何のために言葉を使っているか考えてみてください。 ほとんど常に、内的対話
と呼ばれるもののために言語を使っていることがわかるはずです。 つまり、自分自身
に向けて話すという行為から我々が逃れることはほとんど不可能だということです。
・・・心の中で浮かんできているのは、実際の文ではないことがわかります。 それはもし
望めば文にすることが出来るようなちょっとした断片です。それらの断片を、今度は
思考のための文にーー発話可能な速度よりずっと速く、ほとんど自動的にーー変えていく
のです。
ですから、心の中で起こっていることは意識のレベルを超えていて、意識にのぼる
内的対話の断片であり、それはほとんど全面的に意識のレベルを超えたものなのです。
==>> この思考のプロセスは非常に示唆に富むものだと思います。
言語はJ内的対話のためであり、コミュニケーションを主目的とするもの
ではないということのようです。
そして、心の中に断片として浮かんだものが、次第に思考のための文になって
いく。 そしてそれは、意識のレベルを超えたもの、つまり、意識下で
作用しているということのようです。
ということは、意味というのはどこにあるのでしょうか。
おそらく、言語化される前の段階の断片にあるのでしょう。
ところで、上に「創発」という言葉が出てきましたが、私自身はこの言葉は
あまりにも神秘的な臭いがするので、好きではありません。
p040
言語は進化しません。 言語は変化しますが、進化はしません。
言語というのは有機体ではありませんし、DNAも持っていません。 従って、言語は
進化などしないのです。 進化するのは言語のための能力、つまり普遍文法です。
p053
鳥の歌の類は意味論を持たないということを心に留めておかなければなりません。
つまり、内在的な統辞法―意味論が存在していないのです。人間言語の基礎となって
いるように思われる「思考の言語」というものがこれらには存在しません。
・・・ある種の鳴鳥に見られるものは、人間に固有のものではなく、動物の世界の
ある一部に存在する異なる種に共通の諸特性を反映していると考えることも出来るかも
しれません。 進化の観点からすると、もちろん鳥は我々人間からは非常にかけ離れ
ています。 我々にもっと近い生物、たとえば類人猿はこのような諸特性を示さない
のです。
==>> ここでは、言語自体は進化しないけれども、人類あるいは生き物は進化をする
ことを述べていて、人類が「思考の言語」を持っていることが特殊だと
しています。 鳥の鳴き声、中でもシジュウカラの文法についての直接の
言及はありませんが、仮にそのシジュウカラの文法を認めるとしても、
それが人間のような「内的対話」にはなっていないだろうという点で
異なっているということを言いたいのでしょう。
p056
自分自身に話しかけるとき、実際に自分が何をしているかを考えてみましょう。
その際に心に浮かぶものは断片であって、小さな断片が心に浮かんできているのだと
いうことに気づくと思います。 これまでの研究によっても、そういうことが見出され
てきました。 文を組み立てていることもありますが、たいていは文の形にはなって
いません。 文を組み立てる際も、調音器官に指令を出すことが出来るようになるよりも
ずっとずっと速く断片が浮かんできます。
それはまるで、文がどこかに既に存在して出番を待っているかのような前意識的行為なの
です。 今では、多くの思考や計画の遂行が意識のレベルを超えて行われていることが
わかっています。
==>> はい、これは確かにそう思います。
次から次に頭に浮かんでくる事柄は、なんらかの意味をもった断片が
言葉を探してうろうろしているような感じすらあります。
それが前意識的行為ということでしょう。
そして、そのようなことを「小びとたち」が人体の各所、特に脳の中に無数に
いて、せっせと働いているのだという説を唱えている学者もいました。
前野隆司著 「脳はなぜ「心」を作ったのか」
― 小びとが分散処理するニューラルネットワーク
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/09/blog-post_97.html
「p38
・・・それぞれ独立して、おのおのの処理をこなすモジュールが存在するという
ことのたとえだ。 それぞれが意識を持つわけではない。
・・「小びと」=ニューラルネットワーク、と考えていただいて差し支えない。」
「p42
しかし、脳内のたくさんの小びとたちが行う「知」「情」「意」の処理に「注意」
というサーチライトを当てるためには、「意識」は、たくさんの小びとたち
すべてが何をやっているのかをトップダウンに把握している万能かつ巨大な
システムでなければならない。だから、「私」が脳の中の一部分に局在するとは
考えにくい。この問題を、脳のバインディング問題、という。 バインディング
とは、結び付けること、という意味だ。
p43
そもそも「意識」が主体的に小びとたちの仕事を結びつける、と考えること自体
が間違っていると思う。」
・・・まあ、ひとつの説としては、このような「小びと」説も納得しやすい
と思います。
この後に、第二部として「資本主義的民主性の下で人類は生き残れるか」などの
講演内容が掲載されているのですが、既にチョムスキー氏が書いた社会運動関係の
本は上にリンクしたとおり、読みましたので、ここでは言語学系の内容のみの
感想文にいたします。
今後の読書としては、上記にあった「断片」というべきものがどのように「意味」と
かかわっているのかを、さまざまな本から探っていきたいと思います。
==== 完 ====
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