前野隆司著 「脳はなぜ「心」を作ったのか」 を読む ― 2 小びとが分散処理するニューラルネットワーク

 

 前野隆司著 「脳はなぜ「心」を作ったのか」 を読む ― 2 小びとが分散処理するニューラルネットワーク

 

前野隆司著 「脳はなぜ「心」を作ったのか ― 「私」の謎を解く受動意識仮説」

を読んでいます。

 


 

 

p37

 

MITのミンスキー教授は、著書「心の社会」の中で、脳の無意識の自律分散的処理の

ことを、心とはたくさんのエージェントから成る社会だという比喩を使って説明した

脳の中にたくさんの小びとがいて、それぞれ自分の仕事をせっせとこなしている様子を

イメージしてもらえばいい。

 

p38

 

・・・それぞれ独立して、おのおのの処理をこなすモジュールが存在するということの

たとえだ。 それぞれが意識を持つわけではない。

 

・・「小びと」=ニューラルネットワーク、と考えていただいて差し支えない。

 

==>> さて、いよいよ、この著者のシステム・デザインの専門家としての考え方

     が披露されます。

     ミンスキー教授のアイデアをかみ砕いてシステムとして説明しようと

     するようです。

     

p39

 

・・・「私」、つまり「意識」だ。 「意識」について考えるときキーになるのは「注意」

だ。 ・・・注目するといってもいい。

たとえば、「知」(外界の認識や記憶の想起)に「注意」が向けられている時には「知」が、

悲しいときには「情」が、自分が何かしようと意図するときには「意」が、それぞれ

意識される。<私>について考えるときには<私>が意識される。

 

==>> 私自身がこれを読んで思うのは、最後の「<私>について考えるときには

     <私>が意識される」には賛成なのですが、「知」とか「情」とか「意」を

     意識するということは特段にはないように思います。

     「注目する」というよりも、「勝手に湧き上がってくる」あるいは「勝手に

     意識に登ってくる」という方が近いように思います。

 

p42

 

しかし、脳内のたくさんの小びとたちが行う「知」「情」「意」の処理に「注意」という

サーチライトを当てるためには、「意識」は、たくさんの小びとたちすべてが何をやって

いるのかをトップダウンに把握している万能かつ巨大なシステムでなければならない

だから、「私」が脳の中の一部分に局在するとは考えにくい。

 

この問題を、脳のバインディング問題、という。 バインディングとは、結び付けること、

という意味だ。

 

p43

 

そもそも「意識」が主体的に小びとたちの仕事を結びつける、と考えること自体が

間違っていると思う

 

==>> はい、これには賛同します。

     脳の中のここが心だと言えるものがあるとは思えません。

     バインディング(結びつけ)問題というのは、独立して仕事をしている

     小びとたちを束ねるにはどうするかという問題のようです。

     それは巨大なシステムが必要になるので無理だと、著者は考えている

     ようです。

 

p44

 

「離人症」の患者は、自分の精神状態、特に喜怒哀楽に対して実感が持てない、自分の

身体に対して実感が持てない、外界に対して実感が持てない、という三つの症状を

訴えるといわれている。 これらの実感のことを、「クオリア」という(「脳とクオリア」

茂木健一郎)。

 

・・・「私」たちが、意識の中で、「ああ、質感だ」と感じることのできるしっとりとした

感じを「クオリア」という。

 

 

p45

 

脳の巨大なニューラルネットワークは、何かの計算によって「私」の中にクオリアを

作り出しているのだ。

 

==>> はい、これがp34で述べたクオリアです。

     記憶喪失をした人の手記で、そのクオリアが描写されていました。

     ただし、その人の場合は、「私」も未分化であるように思えます。

 

 


 

p50

 

これまでの常識とされていた自分の身体や心についての考え方を見直すことによって、

「心とは何か」に迫ってみたい。

 

p51

 

ミトコンドリアは、今では人の「自分」の一部だが、昔はそうではなかったといえそうだ。

・・・今の人類にとっては「自分」だが、昔の生物にとっては他人だったなんて。

では、シロアリにとって、腸内のバクテリアは「自分」だろうか

 

p52

 

大腸菌は、人間の消化を助け、ビタミン類を合成して人間を助ける。

 

p53

 

胃の中のものは少しずつ消化されていくから、食べ物は徐々に「自分」になっていく

ということになる。

 

==>> まず、自分の身体は自分なのかというお話です。

     最近流行りの腸内フローラもそうだし、コロナでいろいろ調べていったら

     ウイルスも大昔の人類に潜り込んだものもあるそうだし。

     進化の過程で、元々は微生物だったものが、長屋の大所帯になってしまったと

いう感じですね。

     今後もいろんな環境の変化に応じて、微生物との共生関係を築きながら

     人類は進化していくのでしょう。

 

 

p56

 

「剣玉の動かし方」は、「手の動かし方」同様、自己の内部にあるといっていいだろう。

もちろん剣玉という物体は自分ではないが。

 

このように現象として考えてみると、バクテリアやミトコンドリアの例と同様、やはり、

「自分」と外との境界はあいまいだということができる。

 

p59

 

実際に運動をすることは、小びとたちから見ると同じような体験でしかない

自己と他者、内と外、という分け方は生命現象としてはそもそもナンセンスなのだ。

 

==>> ここでは、「剣玉の動かし方」が人間の脳の中にあるモデルとして、

     「手の動かし方」のモデルの延長上にあることを述べています。

     それは、いうならば、腕を無くした人の脳の中に、そのモデルがあって、

     義手を動かす時の内部モデルにもなるということを意味しているようです。

     ニューロンネットワークの中にいる小びとたちから見れば、その現象は

     内も外もない情報として同じように処理されるということです。

 

p62

 

私たちが「赤いリンゴを見た」ことを「意識」するとき、実は、私たちは、素の画像

だけを見ているのではなく、脳で加工された結果作り出され、画像に合わせて表示

された、生き生きした「赤いリンゴ」のクオリアを同時に感じているというわけだ。

 

p67

 

つまり、「私」たちが主体的に行なっていると思っている「思考」という行為は、実は

無意識下の小びとたちが行っている自律分散計算だと考えられるということだ。

 

p69

 

感情というものはそもそも受動的なのだ。 怒りたいと思って怒ったり、笑いたいと

思って笑ったりすることは、ないとはいえないが、普通ではない。

 

==>> 私たちの五感から入った情報が、小びとたちによって、分散処理され、

     さらに脳の中で何段階もの処理をされて意識に登るということは、

     いつも不思議に思っている「湧き上がってくる」思考や、感情や、意識が

     彼らによって作られているってことになりそうです。

     そしてその時、例のクオリアなるものも現れる。

 

 

p71

 

笑った顔をすると、そのときの筋肉の状態が感覚受容器から脳にフィードバックされ、

こんな顔をしているときはうれしいはずだ、といううれしさの内部モデルが働く

 

==>> 「笑う門には福来る」と言いますが、意識的に笑うと、笑い顔を作ると、

     精神的にも、身体的にも良い効果があるという話も聞きます。

 

     「笑い」でがんへの免疫力向上 大阪の医療機関が発表

     https://digital.asahi.com/articles/ASL5Y52NRL5YPTIL01P.html

     「大阪府立病院機構「大阪国際がんセンター」(大阪市中央区)は29日、

漫才や落語による「笑い」によって、がん患者の免疫力向上のほか、緊張や

疲労といった心身の状態も改善したことなどが確認されたと発表した。今後、

研究結果を論文にまとめ、さらに詳細な分析も進めるという。」

     「その結果、笑いの舞台を鑑賞した患者の1人は、免疫細胞の一つである

「NK細胞」の血中の割合が実験前の約1・3倍に増えたことなどが確認され、

鑑賞した患者全体でも免疫細胞の増加傾向がみられたという。また、患者の気分

の変化などもアンケートし、緊張や抑うつ、疲労などの6項目全てで改善がみら

れ、がんの痛みについても改善があったという。」

 

 

p76

 

カリフォルニア大学サンフランシスコ校・・医学部・・神経生理学教室のリベット教授

・・・

 

p77

 

リベットの実験結果を信じるならば、人が「意識」下でなにか行動を「意図」するとき、

それはすべてのはじまりではない。 「私」が「意識」するよりも少し前に、小びとたちは

既に活動を開始しているのだ。 言い換えれば、「意図」していると「意識」することを

人に感じさせる脳の部分は、脳内の小びとたちの活動結果を受けとって、自分が始めに

「意識」したと錯覚していると考えるしかない。

 

・・・ついに、最後の砦、「意」も、「知」や「情」と同様、無意識にいる「運動準備」や

「意」の小びとたちの結果を、「意識」が受動的に見ている作用に過ぎないらしいという

事がわかった。

 

==>> この実験について詳しい説明は本を読んでください。

     ついに、「意図」ぐらいは自分の意志でやっていることだろうと思って

     いたら、その自分の意志すらも「小びと」たちの作用によるものだと

     言うんです。 まあ、冗談としか思えませんが、研究者は冗談とは

     思っていないそうです。

     短く言えば、人間は「小びと」によって操られているって話です。

     どうしましょうか・・・・・

     もしかしてマトリックスでしょうか?

 

p88

 

リベットは、頭蓋骨を切開した人の大脳皮質の体性感覚野に電気パルス列による刺激

を与える実験を行った。体性感覚野に電気刺激を与えると、本来そこが処理するはず

の感覚を感じることが知られている。  つまり、人差し指の感触を担当する体性

感覚野を刺激すると、人差し指が「つるつる」なものや、「ざらざら」なものを触って

いるときのようなクオリアを感じるのだ。

 

p89

 

大脳皮質を刺激したときには、指に刺激を与えたときよりも「意識」されるタイミングが

0. 5秒も遅れるのだ。・・・・説明するためには、こう考えるしかない。

「意識」するタイミングは、錯覚なのだ、と。

 

==>> リベット教授の実験が不思議な結果を示したという話です。

     普通ならば、我々は人差し指で「つるつる」とか「ざらざら」を感じると

     思っているんですが、そのクオリアは実は大脳皮質の体性感覚野という

     ところで処理されている。

     ところがどっこい、その大脳皮質を刺激した時の感覚は、指を刺激した時

     よりも0.5秒遅れて感じられる。理屈でいえば、大脳皮質を直接刺激

     する方が早いはずなのに・・・・

     だから、著者は、「錯覚」だと言っているんです。

     本当かな??

 

 

p92

 

人は、都合のいいように錯覚するように作られているのだ。 自分自身の充実感や、

今の存在感は、自分の脳が自分をだましている結果に過ぎないのだ。

 

「意識」は小びとたちの決定に従っているのに、あたかも「意識」が「自分」を従えて

いるように錯覚していると考えても、なにも矛盾はないのだ。 私たちの直感には反して

いるけれども。

 

==>> この部分は、「(9)心の地動説――地球は太陽にしたがい、「私」は「自分」に

     したがう」という章に書かれています。

     つまり、コペルニクス的転回をしないとダメよということです。

     天動説を地動説に変えないとダメってことです。

     上記に「意識が自分を従えている」とありますが、これが天動説、自分の意識

中心主義。

     それを地動説、すなわち、小びと中心主義に説を変えないといけないってこと

     のようです。

     そうすれば、リベット教授の実験結果も理解できるという話のようです。

 

p97

 

「私」と<私>は、外の世界とつながってさえいない。 小びとたちが教えてくれたこと

を通して外の世界のことを知る監獄の中の囚人であって、世界のほんの脇役に過ぎない。

もちろん、世界の中心になどいない。 地球が、宇宙に広がる無数の惑星たちのうちの

一つに過ぎないのと同じように。 これが・・・心の地動説(受動意識仮説)だ。

 

==>> 「受動意識仮説」。

     これがこの本のサブ・タイトルにもなっています。

     著者が主張するのは小びとたちによる「心の地動説」ということです。

     ますますマトリックスの世界に近づいてきました。

 

p102

 

あなたが考え事をしているときに不意に待ち合わせを思い出す、というようなことも

ある。 これは、なんらかのきっかけで、待ち合わせについて考える小びとが大声を

あげたことによる。

 

==>> はい、こういう事がしょっちゅうあります。なにかをしていて別のことを

     ひょいと連想するんですね、思い出すんです。

     これは否定できません。

 

p106

 

川の下流で、流れ込んでくる情報を見ている。そして、注目すべき特徴的な流れ

(声の大きい小びとの言動)に注目し、そのすべてを自分がやったことであるかの

ように錯覚している、というわけだ。

 

==>> これが人の意識の流れだというんです。

     上流の流れの細かいところは知らない。小びとが管理しているから。

     でも、大雑把な流れは漠然と分かっている。

     そして、ふっと、「声の大きい小びと」の声で呼び起こされる。

     そしてそこに意識が向く、注目する。

 

p108

 

新しいパラダイムとは、「私」とは錯覚する存在である。 そして、「私」とは宇宙の

周辺または川の下流にいる受動的な存在である、といった、見かたの逆転だ。

 

p110

 

心のメカニズムも物理法則のように美しいのではないかと期待したくなる気持ちも

わかるが、それは所詮無理な話だ。 物理世界は、そうならざるを得ない結果として

そうなったのに対し、生命情報世界は、そうであれば都合がいいようにデザインされた

結果だ。 カテゴリーが異なる。

 

エントロピーの増大する物理世界と、減少する生命情報世界は、もともとの構造原理が

あべこべだ。・・・無意識下のできごとを単純化して、錯覚し、わかったような気に

なっている井の中の「私」というのが、生命の真実なのだ。

 

==>> ここの論理がさっぱり理解できません。

さて、「エントロピー」という耳慣れない言葉が出て来ました。

     まず、これをお勉強・・・・

     「熱力学において断熱条件下での不可逆性を表す指標として導入され、統計力学

において系の微視的な「乱雑さ」を表す物理量という意味付けがなされた。」

     Wikipediaをみたら、難し過ぎたので、小学生でも分るサイトで学習します。

 

     「小学生でも分かるエントロピーの話」

     https://macasakr.sakura.ne.jp/entropy.html

     「”エントロピー”とは”ゴミ”の事である。」

     「本来のエントロピーとは、熱力学における方向性のある現象の度合いを、

数値化したものです。この方向性のある現象とは、一方向には進むものの、

逆方向には戻らないという事を指します。この元に戻らない現象の事を、難しく

”不可逆性”と呼びますので、これを使って書き直すと、以下の様になります。

本来のエントロピーとは、熱力学における不可逆性の度合いを、数値化したもの

です。」

「熱は温度の高い方から低い方にしか流れず、温度の低い女性の手からは、

温度の高い男性の手には流れないのです。」

 

・・・つまり、「エントロピーの増大する物理世界」とはぐちゃぐちゃになる

方向性をもっており、「減少する生命情報世界」とはその反対にきっちりと整理

されていく方向に行く、ってことでしょうか?

バラバラになっていく方向vs体系化されていく方向??

あるいは、「不可逆性の増大する物理世界と、減少する生命情報世界」?

・・・なんだかしっくりきませんが、とりあえずそういうことにして

おきましょう。

ただし、私としては、すべてが物理法則、自然の法則で統合されるのを

期待しているんですが。

 

p111

 

人間の「意識」も、錯覚だらけで、人工のバーチャルリアリティの世界と同じようなもの

なのだろうか。

技術的な広がり、という点では違うと思う。

脳が人工のバーチャルリアリティーと違うのは、まだいまの技術では、設計変更や

オールクリアはできないという点だ。 人工のバーチャルリアリティーのように

「なんでもあり」ではない。

 

==>> 「技術的な広がり」がどういう意味か分かりません。

     ただ、ここで著者は、今は無理だが、将来、「脳のどこで何が行われているか

     明らかになってくれば」脳もいろいろ出来るようになってくるかもしれない

     と書いています。

     要するに、マトリックスみたいなことが現実になる可能性はあるという

     ことでしょう。

 

p116

 

「無意識」の小びとたちの多様な処理を一つにまとめて個人的な体験に変換するために

必要十分なものが、「意識」なのだ。 「意識」は、エピソード記憶をするためにこそ

存在しているのだ。 「私」は、エピソードを記憶することの必然性から、進化的に

生じたのだ。

 

==>> この部分は、納得しそうにもなるのですが、「必然性から、進化的に生じた」

     というところは、今一つ腑に落ちません。

     どういう必然性なのかが理解できないからです。

     生物が生存していくためには、経験を記憶しておかなくてはならない。

     その為にはエピソード記憶がなくてはならない。

     その為には意識が必要だ、ということでしょうか。

     しかし、そう考えると、どういうレベルの生物なら、必然的に意識が進化的に

     生じてくるというのでしょうか。

 

 

p119

 

逆に、「私」がやったこととして感じる「意識」という機能を持つようになった動物には、

おまけがついてくる。 すなわち、そうしていること自体、つまり、「「私」がやったこと

としていま感じている状態」についての意味記憶を持つようになれるのだ。

あらゆる機能には意味があるので、機能が生じた以上、当然、それについての意味記憶が

できるようになると考えるのが自然だ。これが、「自己意識」という概念についての意味

記憶だ。 

 

・・・「意識」する部分と「自己意識」という意味を記憶する部分は別の場所なので、

何も自己言及的ではない。

 

==>> ここでは、途中を省略していますが、書いてあることは、

     自分が自分を内省している自己意識というものは3つの異なる領域での

     小びとたちの働きだから、「自己意識」の意味記憶が「知」に読み出され、

     その思考結果が「意識」の領域に届けられるという流れがあるので、

     自己を見ているのではなくて、他の部分を見ているということのようです。

     それが自己言及的ではないとしているところだと思います。

     脳の中にいるのは一人の私じゃないってことですかね?

     ただし、それぞれの役割を分担している。

 

p120

 

<私>とは、その「私」の中から、自己意識の部分だけを取り出して、さらにその中から

「自己意識についての意味記憶」も取り除いたものだというのだから、「私」にも増して

個性がない。

 

では、その無個性なクオリアである<私>とは何なのだろうか?

 

 

p123

 

子どものころ、<私>とは何だろうかと考えると眠れなかった、その<私>の正体とは、

実は単純で無個性なクオリアの錯覚によってつくり出された幻想に過ぎなかった。

 

==>> ここでは、自己意識としての<私>という存在は、実は仮に人間複製機で

     Aさん1号から2号が複製されたとするならば、<私>は二つになり、

     それまでの記憶は1号と2号は同じだけれども、その瞬間から後は、

     異なる経験をしていくので、記憶は違ってくる。 しかし、<私>そのものは

     それらの記憶や他の機能とは独立した機能をもっていて付属した情報はもって

     いないので、「無個性」であると言っているようです。

     ようするに、自己を意識する機能しかないってことですね。

 

p125

 

小びとたちの最初の人員配置(学習前のニューラルネットワークの初期構造)は遺伝に

よる。 DNAという設計図による。 だから、性格や能力は大雑把にいって親に似る

わけだ。 

そして、ニューラルネットワークのつながり方や発火しやすさは、その後の学習によって

後天的に変わっていく。

 

==>> これに異存はありません。そういうことだと思います。

     だから、複製された2号のネットワークの繋がり方も1号とは異なる

     経験によって小びとたちが異なる経験を溜め込んでいくという話です。

 

p126

 

あなたの意識である「私」は受動的で、そのクオリアである<私>は無個性だけども、

あなたの無意識の中にいる小びとたちは個性的なのだ。

 

==>>  「私」のクオリア=<私>ですか。

      「私」を実感として感じるのが自己意識である<私>であるってことですね。

 

 

=== その3 に続きます ===

 前野隆司著 「脳はなぜ「心」を作ったのか」 を読む ― 3 昆虫の気持ち、「クオリア」の正体、そして臨死体験 (sasetamotsubaguio.blogspot.com)



 

 

 

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