福井直樹著「自然科学としての言語学:生成文法とは何か」を読む ― その3 言語獲得は二歳から八歳まで。 言語学は理系になるのか?
福井直樹著「自然科学としての言語学:生成文法とは何か」を読む ― その3 言語獲得は二歳から八歳まで。 言語学は理系になるのか?
福井直樹著「自然科学としての言語学:生成文法とは何か」を読んでいきます。
「第四章 極小モデルの展開 ― 言語の説明理論をめざして」
p081
まず第一に、根本的な仮定として、ヒトの精神・脳の内部に、他の様々な(認知)システム
と連動し相互作用を引き起こしながらもなおかつ自律的で言語に固有な部門が存在すると
仮定し、これを言語機能と呼ぶ。 生成文法理論とは大まかに言ってしまえばこの言語機能
(の中核的部分)の構造と機能に関する理論である。
p087
もし本当に人間の認知機構の深部にこのような自律的メカニズムが埋め込まれていると
したら、それだけで人間の「こころ」の働きに関するひとつの発見であるが、さらに、
このメカニズムが示す特性が生成文法理論、特に極小モデルが主張しているようなもので
あるならば、それは真に驚くべき発見であり、いわゆる認知科学に対する根本的な
レベルでの貢献をなすであろう。
==>> ここでは、生成文法理論が「仮定」であり、そのために、さまざまな分野から
批判を受けていることが書かれています。
名称があげられているのは、構造主義言語学とその背後にあった経験論哲学、
そしてコネクショニズムです。
しかし、一方では、認知科学に対する貢献は大きいようです。
p091
次々に観察される個別文法の特徴(すなわち個別I言語の諸側面)を記述するために、
この時期の生成文法理論においては数々の句構造規則と様々な変換規則が提案された。
英語という一言語に限っても数十の変換規則と、句構造規則の長いリストが提案された
ことは周知のとおりである。 表面上きわめて多様な特徴を示す他の諸言語の知識も
同様のやり方で記述しようとすれば、必要とされる句構造規則と変換規則の数と種類は
膨大なものになるであろうことは容易に看取されよう。
==>> この辺りは私には内容が良く分かりません。
いずれにせよ、UGと呼ばれる言語の脳の初期状態は、世界各地に
膨大にある言語の多様性つまり従来型の個々の文法の違いを認める形と
して考えることは難しいということのようです。
万能型の脳の初期状態と、多様な言語の間をすり合わせることの難しさ
を述べているようです。
p093
このようにして、個別文法において個々に述べられていた特性のうち普遍的な部分を
UGに「移しかえる」努力を二十年近くも続けた結果・・・、生成文法が1980年
前後に到達した枠組みが原理・パラメータのアプローチ(あるいはモデル)であった。
P&Pモデルにおいては、UGは有限個の原理と各々の原理に組み込まれたパラメータ
からなっている。 原理に組み込まれたパラメータの値が言語環境によってすべて
決定されたときに個々のI言語が定まるわけである。
・・・P&Pモデルによれば、言語獲得とはUGの諸原理に付随しているパラメータの
値を言語資料に基づいて決定するプロセスに他ならず、UGの諸原理は定義上言語機能
の一部としてすでに「与えられて」いるわけだから「獲得」する必要はないわけである。
したがって、言語獲得とはパラメータ値の決定に他ならないことになる。
==>> つまり、UGの原理は所与のものであり、パラメータが赤ちゃんが生まれた
言語環境によって決められれば、それがその赤ちゃんの言語獲得ということに
なるようです。
問題は、その原理なるものが、人間の脳の中にどのように作り込まれている
のか、ということでしょうか。
p102
近代科学の歴史を見てみても、ガリレオの落体の法則とケプラーの三法則のニュートンに
よる統一という古典的な例をはじめとして、いくつかの現象論的法則をより一般的
かつ単純な法則で置き換えるという努力が科学の発展を常に推進してきたことは疑い
ようのない事実である。 よほど穿った見方をしない限り、物理学が対象としている
「自然」が(なぜそうなのかはわからないが)単純でエレガントに作られていることは
確かなことのように思われる。
ところが、この直観は生命現象のような有機体を扱う分野の科学者には共有されて
いない。
p103
・・・なぜならば、生物の世界というのは(おそらく)何億年にもわたる偶然および
試行錯誤の積み重ねの結果(自然淘汰の要因ももちろんあるだろうが)現在の
状況があるのであり・・・・、そこに物理現象においてみられるような根本的レベル
での単純性やシステムとしてのエレガントな形式を見出すのは不可能だからである。
p103
「・・・抗体の多様性生成に関して自らが行なった発見に関連して述べた利根川進の
「ネイチャーというのはロジカルではない。特に生命現象はロジカルではない」と
いう趣旨の発言・・・・なども生命体を研究する科学者が自分の研究対象について
持っているこの直観(つまり生物学的現象というものは予測不可能で偶然的特徴を
示すということ)をよく表しているものと言えよう。
==>> ここで、著者は物理学などとの比較で、生命体を扱う科学の偶然的特徴
などを含む難しさを述べています。
しかし、それがあるからこそ、「複雑な生物学的システム」に切り込んでいる
生成文法の考え方の凄さを語っているようです。
私がここで思い出すのは、過去に読んだ生命科学系の学者が書いた本は、
物理系の学者が書いた本にくらべて、かなり宗教的な臭いがするという点です。
そう感じた時に、私は、なぜ宗教的な表現になってしまうのだろうかと
少々不満な感じもしました。 すっきりと科学的に説明してくれよという
気持ちになってしまうからです。
P105
極小モデルにおいても・・・・「言語機能の認知システム」の存在を仮定する。
さらに、この言語機能の認知システムは、二つのインターフェイス・レベルを介して、
「意味」をつかさどる概念・意図システムと「音声」をつかさどる調音・知覚システムと
いう二つの運用システムと触れ合っている。
前者のインターフェイス・レベルを論理形式と呼び、後者を音声形式と呼ぶ。
p106
生成文法理論の目標は、一貫して・・・言語機能の認知システムが持つ特性の解明にある。
p107
すなわち、言語機能(の認知システム)は単純でエレガントなシステムであり、物理学
が対象とする「自然」(非有機体)が示す特性と同種の(あるいは少なくとも類似の)
特性を有しているように思われるのである。
==>> ここで著者は、有機体である人間の脳に関する言語学ではあるけれど、
非有機体を扱う物理学のように、自然科学としての言語学が可能なのでは
ないかという点に期待しているようです。
それで思い出すのが、人間の脳の働きをコンピュータシステムで再現でき
ないかと考えている研究者が書いた本です。
前野隆司著 「脳はなぜ「心」を作ったのか」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/09/blog-post_8.html
著者は、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授です。
「p14
私がこの本で述べる心の考え方には、これまでの哲学者や認知科学者たちの
ものとは決定的に違う点がある。 従来の心の考え方は、心はだいたいこんな
ものだが、核心のところはまだわからない、とか、複雑すぎてすぐには作れない、
というような煮え切らないものばかりだった。 本当にはわかっていなかった
のだ。
これに対し、私の考え方によれば、心が実に単純なメカニズムでできていて、
作ることすら簡単であることを、誰にもわかる形で明示できる。 ・・・だから、
近い将来、心を持ったロボットを簡単に作れるようになるだろう。」
・・・・この前野さんも認知科学の分野をカバーしている研究者のようです
から、おそらくチョムスキーの生成文法とも直接間接に関連があるのでは
ないかと思います。
p108
極小モデルとは、言語機能がどの程度「完璧な」システムであるか、言いかえれば
(A)と(B)の要因のみを用いて(他に余分な概念を一切用いないで)、どこまで
言語機能を説明しつくせるか、を追求する研究プログラムである。
p110
UGの内部には最低限、入力を提供する「辞書」と、辞書によって与えられた・・・入力
を対(π、λ)に写像する「計算システム」の二種類の部門が存在することになる。
p111
生成文法における辞書とは、各々の語彙項目に関してそれに特有の性質を述べた言明の
集合である。 ある語彙項目に「特有」の性質とは、すなわちその項目が持つ特性の
うち、UGあるいは特定I言語の諸原理・諸特性から導き得ない、各々の語彙項目に
関して独立に述べておかなければならない性質のことである。
==>> ここでは、言語に関する脳の初期状態であるUGの中身がどのような
ものなのかについて述べているようです。
具体的にどのようなものをいうのかについては、私には明確には分かりません。
p116
辞書はその本質からして個々の語彙項目に関しての予測不可能な情報を集めたものである。
したがって、辞書に記載されている情報は、与えられた言語資料に基づいてこともが獲得
しなければならない。 言語機能においてどうしても「学習」に基づかなければならない
部分が辞書なのである。
p117
言語獲得のピーク時(およそ二歳から八歳までの期間)における語彙獲得(主に語彙範疇
の獲得)の驚くべきスピード(ほぼ一時間につき一語と言われている)を見ても、
語彙範疇の獲得が全くの白紙の状態から行われるのではなく、もともと生得的に与えられ
ている「可能な概念のリスト」を与えられた音連続と結びつける過程が語彙範疇領域に
おける語彙獲得の本質であるように思われる。
==>> この辺りは、言語教育を何歳から始めるべきかというような業界の議論に
繋がりそうな部分です。
「語彙範疇の獲得」が1時間に1語というのは凄いですね。
しかし、それがどのように行われるのかは、私が読んでいる範囲では
理解できません。
p130
人間の言語が(ある特定の条件下で)要素の発音と意味解釈を別々の場所で行う
(すなわち移動の特性を有する)ということは疑い得ない基本的事実であり、変換と
いう特定の記述手段を否定しようがしまいが、この基本的事実そのものを否定すること
はできない。
==>> この本の文脈とは関係ないのですが、
言語が音声であるという点が、ちょっとひっかかっています。
もちろん、文字がなかった時代があったのですから、言語は音声であることは
間違いのないことだと思うのですが、私がものごとを考える時には
音声はもちろんですが、どうしても文字を頭の中に浮かべてしまうような
気がするからです。 それはおそらく、漢字文化というか表意文字を使って
いる日本人としての習性みたいなものかもしれませんが。
また、それとは関係なく、世の中には言語ではなく、フォトグラフィック・
メモリーのように画像によってものごとを考える人がいるようです。
そのような場合には、脳が機能する部分も異なるのだろうか、という疑問です。
p155
しばしばチョムスキーが言うように、われわれの分野はいまだに「ガリレオ以前」の
状態にあり、物理学を中心とする自然科学が経験した「科学革命」は、残念ながら
言語学においてはまだ起こっていないのである。
筆者の漢字では、極小モデルは、その来るべき「革命」(すなわち説明理論の構築)の
直前の段階であるような気がする。
p156
もし言語機能と「数機能」が深いところで結びついているとしたら、具体的にどのような
方法によるかはまだわからないが、思いがけない形で派生の経済性が何らかの連続体に
結び付けられるのではないか。 そして言語機能の他の部分に関しても同様なことが
起こり、その結果、数論で蓄積された膨大な成果のうち言語機能に関わる部分が利用可能
になるのではないか。 これが、現在筆者がぼんやりと心に家が居ている夢であるが・・
==>> この著者は、生成文法の現在地をしっかり認識しながら、もしかしたら
数学理論によって言語学が記述できるような突破口が発見できるのでは
ないかと期待しているようです。
ただし、私には、その内容はさっぱり理解できません。
「第五章 言語の普遍性と多様性」
p164
生成文法でいう「言語の普遍性」とは「言語機能の普遍性」にほかならず、言語機能
が「普遍的」、すなわち全ての人間に(かつ人間のみに)与えられていることは
ほとんど疑問の余地がない・・・・・。
言語機能が真に「普遍的」である状態、すなわちいかなる一次言語データの影響も
受け手いない状態を言語機能の「初期状態」と呼び、言語機能の初期状態に関する
理論を「普遍文法」(Universal Grammar, UG)とよぶ。
これらの述語を用いれば、生成文法理論の目標はUGの構築にあることになる。
p164
常識的な意味での「客体としての言語」という概念は成り立たない。
物理的にはただの音連続に過ぎないものを定まった概念(「意味」)と結びつけ、
「言語」たらしめているものは、話者の脳内に存在する「言語能力」以外には考え
られず、この言語能力こそがまさに(1)における「言語」にほかならない・・・・・。
==>> ここで(1)というのはこちらのような図式のことです:
(1)
一時言語データ ――> ( X ) ――>> 「言語」
また、「言語獲得」の過程は、次の(2)の図式だとしています。
(2)
一時言語データ ――> 言語機能の初期状態 ――>言語能力
p165
(2)は、人間の脳内に生物学的与件として与えられている言語機能が、
一時言語データによる外部刺激を受けることによって母語話者の言語能力に「成長」する
過程が「言語獲得」であると主張していることになる。
==>> そして、ここまではよいとしても、大問題は「言語の多様性」だと
このあと議論が展開していきます。
つまり、この脳の初期状態が普遍的だとすれば、言語の多様性にどう
対応できるんだということですね。
英語と日本語みたいに、言語的に真逆な性質をもったものを、同じ土壌から
どうやって生みだせるんだという話です。
p166
生物学的言語観に建てば、ちょうど人間がどのような環境に育っても絶対に鳥や犬に
成長しないのと同様に、言語機能の変異の幅も生物学的にきびしく制限されているのに
違いないからである。 またそうでなければ、きわめて情報量の乏しい一次言語データ
を基にして短時間で幼児が言語(能力)を「獲得」することもおよそ不可能であろう。
p167
まず、UGは「音」と「意味」を結び付ける一つの計算システムである。
ただし、このシステムが作動するためには計算の対象になる「材料」がなければならない。
この材料を提供するのが「辞書・レキシコン」である。
==>> 「レキシコン」とは、wikipediaによれば:
「言語学における語彙目録(ごいもくろく)、あるいは単に語彙、または
レキシコンもしくはレクシコン(lexicon)とは、言語の知識の一部で、ある言語
の全ての丸ごと覚えている単位(語、形態素、イディオムなど)の形式・意味・
文法的特性についての知識の総体である。」
・・・上に「絶対に鳥や犬に成長しない」と書いてあるんですが、ちょっと
頭に浮かぶのは「狼に育てられた少年」のことです。
Wikipediaの「狼少年」のサイトには以下のような記述があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%BC%E5%B0%91%E5%B9%B4_(%E9%87%8E%E7%94%9F%E5%85%90)
「狼少年に限らず、幼児期に動物からアイデンティティーを受け継いだ子供を
社会復帰させる努力が試みられた科学的な事例があるが、完全な復帰は困難で
あることが確認されている。」
事例がいくつかあるようですが、言語研究の視点から研究されたものは
ないようですね。
狼に育てられた人間は、狼の言語を理解するのかどうかが知りたい。
p177
「言語の多様性」に真剣に取り組みながら、「言語の普遍性」の探求に異議ある貢献
を行なうことである。 聞けば当たり前のようだが、このような態度を実際の研究
において常に保ちつづけることは、それほど簡単なことではない。しかし、それでも
このような態度で研究を続けるところにしか生成文法の未来はないと言えよう。
==>> この本の著者がこの本を出版した目的は、どうも生成文法の研究者あるいは
将来研究者となるべき学生たちへの激励なのではないかと思えてきました。
従って、この本の一番大切な部分は、私には難し過ぎて、理解ができません。
私が全体的な雰囲気として理解できたのは、いわゆる文系とされている
言語学が、脳の機能という自然科学の分野での研究対象となるような
方向づけをされてきたという点です。つまり理系の言語学になったということ
のようです。
そういう意味では、私が知りたいと思っている「意味」とは何かという
問題についても、将来的にはなにかが理系的に見えてくるのかもしれません。
では、次回は「第六章: ノーム・チョムスキー小論」を読んでいきます。
=== 次回その4 に続きます ===
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