大角修 訳・解説「法華経」を読む ― 1 初めて「法華経」にチャレンジします

 

大角修 訳・解説「法華経」を読む ― 1 初めて「法華経」にチャレンジします

 

 

大角修 訳・解説「法華経」「無量義経・妙法蓮華経・観普賢経」を読んでいます。

すべて現代語訳になっています。

 


 

私は今まで「法華経」を読んだことはありませんでした。

なぜかと言えば、子どもの頃から浄土真宗で、二年程前に真言宗の準檀家になったもので、

浄土系・浄土真宗、親鸞さんと 真言密教・空海さんの関連を辿ってきたからです。

下のサイトには、宗派ごとに主な経典が書いてあります。

 

13宗派56派の宗祖・教え・教典・唱名など

https://www.yoriso.com/sogi/shuha/

 

浄土宗 ― 浄土三部経(観無量寿経、無量寿経、阿弥陀経)

浄土真宗 ― 浄土三部経(観無量寿経、無量寿経、阿弥陀経)

真言宗 ― 大日経、金剛頂経、理趣経、般若心経

 

以上のように、この中には「法華経」は入っていなかったからなんです。

 

天台宗 ― 妙法蓮華経(法華経) 、大日経、阿弥陀経

日蓮宗 ― 妙法蓮華経(蓮華経)

臨済宗 ― 特定の経典はないが、般若心教、観音経、大悲咒、開経偈などが読まれる。

曹洞宗 ― 特定の経典はないが、般若心経、観音経、修証義、妙法蓮華経などが読まれる

 

つまり、法華経は、主に天台宗、日蓮宗、曹洞宗などで重んじられているようです。

 

それなのに、今になって何故私が「法華経」の本を手に取ったのかといいますと、

先に読んだ「親鸞と聖徳太子」に、「在家こそ日本仏教のあるべき姿」と書いてあって、

その思想的な流れが聖徳太子から親鸞に受け継がれているという説があり、そこに

「法華経」が位置づけられていたからです。

https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/08/blog-post_58.html

 



 

そして、この本の中に、比叡山延暦寺には、最澄の法華堂と阿弥陀堂の二つがあるのに、

なぜ親鸞の師である法然が、法華経を重んじなかったのかが書いてありました。

https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/08/blog-post_25.html

 

     「p211

法然はここで、「法華経」によって仏になることができるとしている。一応は

「法華経」の価値を認めているわけである。 ところが、自分たちの能力は、

この経典を理解するまでには至っていないとする。 「法華経」は、あくまで

菩薩や声聞のためのもので、自分たち凡夫ではとても理解が及ばない。・・・

凡夫のものではないと解釈しているわけである。

 

p212

要するに、「選択本願念仏集」においては、「法華経」よりも、「観無量寿経」

の方がはるかに価値が高く、そこにこそ、釈迦の本当の教えが示されていると

されるのである。」

 

・・と書いてあったことが、私としては非常に気になったわけです。

     では、ちょっと分厚い本なので、ぼちぼち読んでいきましょう。   

     そして、ぼちぼちブログにアップします。

 

 

===

 

p10

 

平安時代には法華経の内容がよく知られるようになっていたのでした。

・・・平安時代の風聞を多く集めた「古事談」には・・・八講で布施に不満の僧が怒って

放言に及んだという話があります。 なんだか堕落した印象ですが、堅苦しいばかりでは

魅力に欠けます。 法会は娯楽の場でもあったので、「枕草子」に清少納言が書いている

ように「なまめき化粧」で浮かれる人もあって仏法が広まっていったのでした。

 

日本での法華経は、飛鳥時代に聖徳太子の「法華義疏」でくわしく解釈されたのを

はじめ、奈良時代には鎮護国家の経典として寺々で日々に読誦されました。

 

p11

 

法華経は死後に地獄におちても救い出してくれる強力な経典として語られました。

そして平安後期には二十八の品(章)ごとに和歌を詠む法会がおこなわれ・・・・

 

==>> これを見ると法華経というのは既にかなりの広がりがあって、少なくとも

     ある程度の地位にある人達にとっては、趣味や娯楽の場にもなっていた

     ようです。

     そこで、奈良仏教の後の平安仏教がどんな感じだったのかをチェックして

     おきましょう。

https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%BB%8F%E6%95%99-867506

     「最澄の天台宗と,空海の真言宗を中心とした,平安時代の新仏教の総称

奈良末期の山林仏教を土壌とし,都市の中で世俗化した奈良仏教への批判から

形成された。奈良仏教と同じく鎮護国家を標榜するが,比叡山・高野山などの

山岳に寺院を建立し,国家とは一定の距離を置きながら,密教修法による祈祷

宗教的色彩を強めた。・・・・山林修行僧の持つ験力に期待する貴族層に応えて,

現世利益(げんせりやく)の密教修法や浄土教が発達。」

 

・・・ということは、法華経は、平安時代は天台宗の最澄さんから、鎌倉仏教

では日蓮宗の日蓮さんに繋がっていったようです。

 

 

p12

 

日本での法華信仰は、平安時代には浄土教や密教、神祇とも融合して民衆にも広まり

ました。 その法華信仰を土壌として鎌倉時代には日蓮があらわれ、「南無妙法蓮華経」

の題目を本尊とする法華宗(日蓮宗)をひらきました。

 

==>> 妙法蓮華経を依拠経典とする宗派の広義の名称として法華宗というのが

     あって、その中に日蓮宗があるようです。日蓮門下の流れの総称としても

     法華宗という呼び方がされているそうです。

 

 

p13

 

この法華経をはじめ、漢訳経典が日本の歴史と文化に与えた影響には計り知れないもの

があります。 今の日常語にも、人間・世界・観念・大衆など、もとは経典の言葉

非常に多いのですから、それらがなければ、そもそも日本語がなりたちません。

 

==>> 他にもたくさん仏教由来の言葉がありますが、こちらでチェック。

     「意外な仏教由来の言葉」

     https://hobbytimes.jp/article/20170807b.html

     「【皮肉】

これは仏の道の表面を撫でただけで、真髄まで達していないという意味です。

禅宗の祖、達磨大使は弟子たちが何をどう悟ったのかを聞き出し、あまり深く

悟っていなかった弟子たちに対し「お前は皮を手に入れたに過ぎない」「肉を手

に入れたに過ぎない」と言ったとされます。

【退屈】

暇という意味でつかわれますが、本来の意味は修行に耐え切れずに逃げ出して

しまうこと。それほどに、悟りを目指す仏道の修行は厳しい物なのです。」

 

・・・キリスト教が欧米の歴史・文化にしっかりと根付いているように、

仏教は日本の歴史・文化に、気づかないところでも根を張っていると

いうことでしょうかね。 日本人はあまり意識しないんですけど。

 

 

p14

 

サンスクリット経典は、漢訳される以前の内容がどうであったのかを知るうえでも

重要です。 しかし、サンスクリット経典からの訳では二つの点で見落とされることが

あります。 ひとつは、・・・日本の歴史と文化が欠落してしまうことです。もうひとつ

は、思想・教義の探求に力点がおかれて、祭儀のなかで唱えられたであろう法華経の

性格、いわゆる儀礼テクストとしての経典の意味が無視されがちなことです。

 

 

p15

 

経典では、しばしば、同じフレーズがくりかえされます。・・・・こうした語句があまりに

多いので飽き飽きして、法華経を読みすすめる気力を失わせる原因にもなっています。

 

頻出する「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」という言葉も、

日常には目にしない漢字で特別の響きがあるところに力強さがあります。 「この上なく

正しい完全な悟り」という原意から、いったいそれは何かと考えてもよくわかりません。

おそらく古代インドでも、ブッダを讃えて「アヌッタラーサムヤクサムボーディ」と

高らかに唱えられた聖句なのでしょう。

 

==>> おそらくこの部分は、日本における仏教研究について述べているのだと思い

     ますが、以前読んだ本では、日本仏教が元々の仏教とはかなり異なった発展

     をしてきたために、最近の研究対象が日本国内のものよりもインドに向かって

     いるという趣旨であったと思います。

     つまり、日本に現存する宗派よりも、仏教のルーツにその思想の原点を見出そう

     ということかもしれません。

 

     そういう観点で探し出したのが下のサイトです。

     (ちなみに、私はこの著者がどういう方かは知りませんが、仏教の専門家という

      ことがプロフィールに書いてあります。)

     https://true-buddhism.com/learning/studies/

 

     「それに対して、伝統的な仏教学は、経典に基づいて、仏教の教えの通りの修行

をし、体で知らされる体験を通して教えを理解します。つまり、西洋的な研究

態度では実践なしに頭だけで考えるのに対し、伝統仏教では理論と実践に

よって仏教を理解しようとするのです。」

 

「西洋から来た文献学的な仏教研究は、文献や、書かれている言葉の語源、当時

の文化などを考え合わせて仏教を否定し、自分の考えでこのお経はお釈迦さま

の説かれたものではないとか、この部分は後からつけ加えられたものだなどと

お経を否定します。」

 

「現在の大学では、この西洋由来の仏教学が行われています。国立大学は

もちろん、伝統的な宗派の作った大学でも大きく影響を受けているので注意が

必要です。なぜなら、西洋由来の仏教学では、実践なしに、頭で考えるだけ

なので、仏教は分からないのです。」

「ところが、そんな伝統的な仏教といっても、伝統的な教団は、現代の日本では、

教えを説かずに葬式や法事などの儀式に力を入れる葬式仏教になってしい、

本来の仏教はなかなか学ぶことができなくなってしまいました。」

 

・・・私の感じでいえば、仏教を学問として学ぶのか、信仰として修するのかの

根本的な違いがあるようにみえます。

私は、一応形だけは真言宗の準檀家として阿字観会、写経会、写仏会などに

出来るだけ参加し、いろいろと本も読んでいますが、まったく信仰というには

及ばず、頭だけで学んでいる程度です。

このサイトの方がいっているのは、おそらく「本来の仏教」はそれなりのお寺に

入って修行をするしかないと言いたいのではないかと見えます。

 

     多分それと似たようなことは、空海さんが最澄さんを受け入れなかった理由

     でもあったのではないかと思えます。次元はまったく異なると思いますが。

     空海さんは、経典を読むだけでは真理は体得できない、としたようですから。

 

p17

 

読経や写経では、経文の意味は考えずに、ひたすら読み、書写すべきだといわれるのも、

人はその行為によって仏の近くにいることができるからです。

 

儀礼テキストとしての性格は仏教経典にかぎらず、「聖書」や「コーラン」などの聖典

の本質にかかわることです。 それを無視して思想・教義の面のみで解釈するならば、

仏の国は瑠璃の大地に七宝の樹木が並び立っているとか、十方の諸仏や神々が参集する

といった記述は解釈の埒外になり、法華経が伝えようとする広大な諸仏の宇宙は消滅

します。

 

なかでも、法華経のなかで「法華経というすばらしい経典がある」とくりかえし説かれて

いるのが奇妙です。 しかも、すばらしい経典だという法華経の中身は最後まで明かされる

ことなく終わってしまいます

 

・・・このため、法華経は効能書きだけで中身のない薬袋のようだとも言われてきました。

 

==>> 「法華経」の難しさについては、先に読んだ本の中でも下のような

     記述がありました。

 

     「末木文美士著「仏典を読む」」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post.html

     「p59

大乗経典は原始経典に比べてはるかに読みにくく、理解しにくい。・・・よほど

信心深い人ならともかく、そうでなければいきなりそんな話を持ち出されても

拒絶反応を起こすだけだろう。

・・・そのことは、「法華経」においてもっとも典型的に見られる。

・・・「法華経」は序文とあとがきだけで本文がない、などと悪口を言われるが、

それももっともと肯きたくなる。

しかし、ただそれだけでもなさそうだ。 もうちょっと違う問の立て方をすれば、

もっと違うなにかが引き出せそうだという可能性が惹きつけるのだ。」

 

・・・つまりは、すでに信仰に入ってしまった人じゃないと、この「法華経」

の素晴らしさを理解できないということのようです。

 

p18

 

法華経のサンスクリット教本には「オーム、すべてのブッダとボーディサットヴァ

(菩薩)に礼拝したてまつる」という開経の唱句が冒頭に置かれ、続いて法華経は

「最高の心理に導き入れる教えである」と記されています。

漢訳法華経でも「この経を受持し読誦し書写し解脱すれば無上のさとりに至る」と

くりかえされて、文字に記された法華経は究極のさとりの世界への通路であることが

示されています。

 

・・・「南無妙法蓮華経」の題目は、その扉を開く鍵であるということができます。

キリスト教の「アーメン」、イスラム教の「アッラーフ・アクバル」も同様に、通常の

人の言葉では語ることのできないものに心を開く言葉です。

 

==>> ここに書いてあることだけを頼りに妄想するならば、お題目はドアの鍵で

     あって、経典には中身は無いけれど、ドアを開けることによってその実体

     が心の中に浮かんでくるってことになるのでしょうか。信仰していれば

     という条件付きでしょうけど。

     真言宗の瞑想会にしても、座って瞑想し、月輪観や阿字観で宇宙をイメージし、

     宇宙あるいは仏と一体化するという話ですので、経典に書いてあるものは

     その指南書だということであれば同じ位置づけになるのかもしれません。

 

p21

 

法華経は、紀元一世紀頃からの初期大乗仏教の時代に成立した経典である。

・・・釈迦の滅後百年くらいたったころから「アビダルマ(法について)」とよばれる

論議のなかで生まれたさまざまな用語が呪文のように列記されていたり、すでにイメージ

が失われた神々の名も列記されて、現代の読者にとっては、あまりに長々しい箇所が

ある。 また、繰り返し同様のことが説かれている。・・・定型化された慣用句の

リフレーンも多い。

 

 

p25

 

万物は性相空寂、すなわち無相(空)であり、本来、善悪はありません。 それなのに、

人々は不善の思いをなして多く悪業(悪いおこない)をなし、苦悩の六道に深く迷いこんで

います。 それゆえ世尊は、人々の性格と求めに応じて種々に法を説かれました

 

==>> ここで「空」という言葉と「種々に法を説かれました」という、相手に応じて

     話をするという方便を予想させる話が出てきました。

     初期大乗仏教の中身がどんなものなのか、中身があるのか、興味津々です。

 

 

== その2 に続きます ==

 大角修 訳・解説「法華経」を読む ― 2 初七日などの法要もバラモンの葬送儀礼を起源とする (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

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