島田裕巳著 「親鸞と聖徳太子」を読む ― 4 師・法然ではなく、聖徳太子こそが、親鸞の生き方のモデルだった?
島田裕巳著 「親鸞と聖徳太子」を読む ― 4 師・法然ではなく、聖徳太子こそが、親鸞の生き方のモデルだった?
島田裕巳著 「親鸞と聖徳太子」―「在家こそ日本仏教のあるべき姿である」という
本を読んでいます。
p201
恵信尼の夢には観音菩薩は登場しても、観音菩薩の化身とされる聖徳太子のことは
出てこない。 他の手紙でも、恵信尼は、六角堂のこと以外、聖徳太子については
言及していない。
そうなると、親鸞と聖徳太子との関係については、親鸞が作ったとされる和讃に述べ
られていることを見ていくしかないということになる。
p202
「皇太子聖徳奉讃」・・・その11首のうち、聖徳太子の電気的な事柄に言及している
のは2首である。
救世観音大菩薩
聖徳皇と示現して
多々のごとくすてずして
阿摩のごとくにそいたまふ
・・・ここでは、救世観音が聖徳太子として示現したこと、聖徳太子が日本の教主で
あるということが説かれている。 恵信尼の手紙で、六角堂での出来事に言及された際
にも、「示現」と言われていた。
ただ、ここでは聖徳太子が救世観音の生まれ変わりとされているのであって、親鸞の
前に現れたというわけではない。
==>> 著者は親鸞の和讃を検討しているわけですが、かなり慎重に進めていることが
分かります。
親鸞の主著には聖徳太子のことはいっさい出てこないのに、なぜ和讃にだけ
このようなことをいくつも書き残しているのか・・・そこが謎である
わけですね。
p206
「皇太子聖徳奉讃」のなかでももっとも注目されるのは、代34首である。
用明天皇の胤子にて
聖徳太子とおはします
法華・勝鬘・維摩など
大乗の義疏を製記せり
p207
ところが、実はそれはかなり重要な意味を持っている。 というのも、親鸞は、
数多く存在するその著作において、「法華経」については一度も言及していない
からである。
==>> 上の和讃の中の胤子(いんし)という言葉について、チェックしました。
https://kotobank.jp/word/%E8%83%A4%E5%AD%90%E3%83%BB%E8%83%A4%E5%97%A3-2009541
「あとつぎ。嗣子。また、子孫。多く身分の高い人の場合に用いられる。
皇太子聖徳奉讚(1255)「用明天皇の胤子(いんし)にて聖徳太子とおはします」
〔書経‐堯典〕」
・・・ここで、著者は、和讃にだけ「法華経」の話が出てくるのかという点
に注目しているわけですね。
実際、とド素人が言うのもなんですが、原始仏教から浄土真宗にいたる
浄土系の道筋をいろいろ調べてみたのですが、その道筋に「法華経」というのは
見当たりませんでした。
私が2005年以降読んだ本の中にあった仏教関係の本は、
原始仏教の「スッタニパータ」「龍樹」「浄土三部経」「教行信証」、そして、
その後「般若心経」や密教関係の本でした。
私の本棚・感想文・紹介文 2005年から今までに読んだ本 ー させ たもつ の「ツンドク」:
高原都市バギオ。 雲にのって、心のままに・・・
(cocolog-nifty.com)
そういう意味では、親鸞と法華経というのは、私にとっても連想できない
ものだということになります。
p209
では、親鸞の師である法然は「法華経」についてどのようにとらえていたのであろうか。
親鸞が法然に師事していたのであれば、法然の「法華経」についてのとらえ方に影響を
受けていても不思議ではない。
p210
・・・「念仏往生要義抄」がある。 これは、念仏の教えにかんする疑問に問答形式で
答えたもので・・・・
p211
法然はここで、「法華経」によって仏になることができるとしている。
一応は「法華経」の価値を認めているわけである。 ところが、自分たちの能力は、
この経典を理解するまでには至っていないとする。 「法華経」は、あくまで菩薩や
声聞のためのもので、自分たち凡夫ではとても理解が及ばない。・・・凡夫のものではない
と解釈しているわけである。
p212
要するに、「選択本願念仏集」においては、「法華経」よりも、「観無量寿経」の方が
はるかに価値が高く、そこにこそ、釈迦の本当の教えが示されているとされるのである。
p214
「選択本願念仏集」では、末法の時代においては、称名念仏だけが救いに至る正しい道で
あり、自分の力で成仏をめざす「聖道門」を捨て、もっぱら称名念仏を実践する「浄土門」
に帰することが肝要であると説かれている。 これが専修念仏の教えである。
==>> ただし、著者はここでも慎重です。
この「選択本願念仏集」は、「誰か社会的に高い地位にある人物から依頼されて
執筆したものだということが示されている。」ので、これが法然の真意であるか
どうかは疑問であるとしているんです。
p214
・・・法然は、九条兼実に一種の祈禱である授戒を行うなど、必ずしも称名念仏だけを
実践したわけではなかった。 また、延暦寺や興福寺から念仏停止の奏上が提出された
ときには、「七箇条制誡」を著し、他の教えを批判しないなど、門弟に自重を促し、それを
誓約させている。 この法然の穏健で保守的な姿勢と、「選択本願念仏集」に示された
かなり過激な専修念仏の教えとは齟齬を来す部分もある。
あるいは、専修念仏の強調は、「選択本願念仏集」を作り上げる上でその作業に加わった
弟子たちの考えであったのかもしれない。
==>> なるほど、そういうことも推測ができるわけですか。
大学内で、過激な学生たちに取り囲まれて、穏健で保守的な学長が
過激な主義主張にサインをさせられてしまった可能性があると・・・・
そして、もしかしたら、その過激なカルト集団の中に親鸞がいたかも
しれないってことになりますか。
p216
ここでは、法然の教えに従う念仏者と、そうでない人間とが区別され、前者に対して
後者を誹謗中傷することがないように促している。 法然としては、「法華経」を読む
ことはまったく必要のないことととらえているが、それを望む人間には勝手にさせて
おけばいいというわけである。
p217
親鸞は、自らを法然のもとに赴かせた聖徳太子が、「法華経」の熱心な信奉者であること
を認識していた。
p218
親鸞に葛藤はなかったのだろうか。 「法華経」を読むことに価値がないのなら、
聖徳太子の業績も意味のないものになってしまうのではないだろうか。
・・・「法華義疏」や「維摩経義疏」についてはたった一度しかふれていないのに、
「勝鬘経」(しょうまんぎょう)や「勝鬘経義疏」、そして勝鬘夫人のことについては繰り
返し言及しているのかもしれない。 法然は、「勝鬘経」については何も語っていない
からだ。
==>> 私がここで思い出したのは、「教行信証」の本を読んだときの感想です。
親鸞の主張することがどこにあるのか訳が分からないほどに難解なものと
言われているのは、法然さんという師に対しての遠慮なのではないかと
思ったのです。
一応師弟関係にあるんだけど、師匠の考えとは私はちょっと違うんだよな。
でも、それをはっきり明瞭に書いてしまうと、師匠に悪いしな・・・という
ような感じ。
おまけに、それが、本当の心の師は聖徳太子だなんて言っちゃったら、
そりゃあ法然さんの面目丸つぶれだしなあ。
p221
親鸞にとって、非僧非俗になるということは、自らが望んだことではない。
法難によって、その立場に追い込まれたのだ。 それは、親鸞にとって大きな挫折
の体験にもなったはずである。
しかし、俗人に近づくということは、聖徳太子の立場に近づくということを意味する。
p222
親鸞は、法難に遭遇し、僧侶の地位から追われたことで、その時点で、聖徳太子の
信仰の本質に目覚めたのではないだろうか。 「教行信証」の後序では、聖徳太子
についてはまったくふれられていない。 それは「教行信証」全体についても言える。
==>> 私は過去に「教行信証」に関する本を読んだのですが、聖徳太子のことは
何も書いてなかったと思います。
また、わが家の相棒も私と同じく、両親が浄土真宗の割と熱心な門徒で
あったのですが、聖徳太子信仰があったというのは、今まで全く知りません
でした。 また、相棒によれば、観光で西本願寺に行っても、ガイドさんから
そのような説明は無かったそうです。
p223
敬愛する聖徳太子の仏道と、師事した法然の仏道を、そのような形で、いわば弁証法的
に統一し、止揚する。 弁証法は、相反する二つの考え方を、より高い次元で統合し、
新たな道を切り開くものである。
それは、「法華経」に対する信仰と浄土教信仰という、日本の仏教の歴史において
極めて重要な信仰の潮流を統合することでもある
p226
日蓮は・・・・「法華経」を重視した聖徳太子を高く評価していた。 ・・・評価すると
いう点で、親鸞と考えを共通にしていた。 もし親鸞が、「法華経」を評価していたと
したら、日蓮の法然一門に対する批判は激烈なものではなくなり、日蓮が世に出る
きっかけも失われていたかもしれない。
そうなれば、その後の日本仏教の歴史は、大きく変わっていたはずだ。
==>> 弁証法的に統合する。 ここの弁証法の短い解説は、分かりやすくて
いいですね。 先日、「はじめてのヘーゲル「精神現象学」」という本で、
やっと弁証法というものが分った気になったところでした。
(まだ、感想文を書いていなかったので、もう一度読まなくては・・)
この本の著者は、この後、もし親鸞と日蓮が「法華経」を通して繋がって
いたら、今の日蓮系は今ほど盛んにはなっていなかっただろうとも書いて
います。
p227
だが、浄土真宗の場合、宗祖が浄土教信仰へ向かう契機に聖徳太子との出会いが位置
づけられていた。 また、親鸞に対する信仰を広める上で極めて重要な役割を果たした
「本願寺聖人伝絵」でも、「六角夢想」の段で聖徳太子のことが取り上げられ、親鸞が
太子を崇めていたとされていた。 宗祖が聖徳太子と直接なかかわりを持ったという
伝承を持つ宗派は、浄土真宗以外には存在しない。
東西の本願寺の余間に聖徳太子の16歳のときの像が掲げられている・・・東本願寺では
毎年4月1日に、七高僧とともに聖徳太子の遺徳をしのぶ「師徳奉讃法要」を営んでいる。
「太子講」・・・「太子堂」・・・太子像を祀ったり、掛け軸を掲げているところもある・・・
==>> 浄土真宗のお寺で、どのように聖徳太子が祀られているのか、その写真を
探してみたら、こちらにありました:
http://onkoshya.sakura.ne.jp/joukyouji/1747/
「淨教寺では、第24代島田義昭前々住職が聖徳太子のご安置場所を、通常で
あれば本堂お内陣の右余間にご安置するのですが、奈良にゆかりがあり、親鸞
聖人が大変尊ばれたということでご本尊阿弥陀如来の左側・御代前に聖徳太子
様をご安置しております。ぜひ本堂のご参詣いただきご確認ください。」
また、こちらのお寺では、親鸞さんの和讃を使って、下のように書いています。
http://syozenji.or.jp/word/2540
「和国の教主聖徳皇
広大恩徳謝しがたし
一心に帰命したてまつり
奉讃不退ならしめよ
(「皇太子聖徳奉讃」『真宗大谷派勤行集(赤本)』121頁)
日本には聖徳太子が、仏教を伝え弘めてくださいました。聖徳太子は日本の国
のお釈迦様。その広大な恩徳はいくら感謝しても感謝し尽くせません。
聖徳太子様に一心に帰命したてまつります。
どうか阿弥陀様、聖徳太子を奉讃する心が退転しないようしてください」と。
親鸞聖人は、この心で聖徳太子像を傍らに奉安していたと伝えられています。
と親鸞聖人は聖徳太子をほめ讃えておられます。」
・・・次回、浄土真宗のお寺に行くことがあったら、探してみます。
p229
浄土真宗は、聖徳太子信仰を取り入れている以上、「法華経」に対する信仰を、そのなか
に組み込んでいても不思議ではなかった。 にもかかわらず、宗祖である親鸞が「法華経」
に対して沈黙を守ったことで、日本の仏教では極めて珍しいことなのだが、「法華経」には
無関心な態度を貫いてきた。
親鸞の浄土教信仰は、法然から教えられたものではあったが、非僧非俗の道を歩みはじめ
た親鸞にとって、あくまで出家の立場を保ち、しかも戒律を厳格に守った法然は自らの
生き方のモデルにはなり得なかった。
・・・聖徳太子こそが、親鸞の生き方のモデルであり、だからこそ非僧非俗の道に
踏み出したとも考えられる。
==>> やっと読み終わりました。
私は推理小説は苦手ですが、この本は推理小説のような面白さがありました。
そして、過去に読んできた浄土真宗関連の本のどれにも書かれていなかった
聖徳太子との関連について、初めて知ることができました。
私のようなエセ浄土真宗門徒(元ですが)でない真面目な門徒の方であれば、
もちろん常識であったでしょうが、もし知らなかった方がいらっしゃれば、
是非お薦めします。
私は、今は真言宗の準檀家ですが、この本を読んで、法然さんや親鸞さんが比叡山で
密教もやっていた、そして、念仏行は密教の修行のひとつでもあった、ということを
この本で知り、真言宗では阿弥陀如来を本尊とできることもあり、未練がましく
阿弥陀如来に心を寄せながら、うちのお寺さんは本尊が地蔵菩薩であるという
なんでもありの真言宗をありがたく感じているところです。
そして、過去にはなかなか体験することもなかった、瞑想会(阿字観会)や「般若心経」
の写経の会にも参加させてもらって、楽しくやっています。
宗教はそういう意味ではエンターテインメントだなあと思う今日この頃です。
「邪馬台国サミット」みたいなものは既にあるんですが、いろんな説をただ平等に
扱って多くの専門家があ~だ、こ~だ、と言いっぱなしじゃなく、
例えば、聖徳太子実在説vs聖徳太子虚構説のトップランナーを二人だけ呼んで、
徹底的に論争をさせ、両者に与しない複数の歴史・考古学専門家たちを裁判官にして
「歴史最高裁判所」みたいなことで、論点ごとに両陣営の採点をして、説の優劣を
決めるという番組です。
いかがでしょうね、ディレクターさん?
=== 完 ===
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