末木文美士著「仏典を読む」を読む ― 1 大乗仏教は多宇宙? 阿弥陀仏はおかしな仏

  

末木文美士著「仏典を読む」を読む ― 1 大乗仏教は多宇宙? 阿弥陀仏はおかしな仏

末木文美士著「仏典を読むー死からはじまる仏教史」を読んでいます。

 

 


 

この本は、ある方からお薦めいただいた本なんですが、

なかなか面白い内容が詰まっていました。

一部、私には理解不能な章もありましたが・・・・

 

読後の感想を一言でいうならば、

いままでいろいろな仏典に関する本を読んで来たんですが、

仏教史とはいいながら、かなりユニークで、どんな文献を元にしたら、

ここまで教祖と言われる人たちの背景に迫れるのだろうという感じです。

 

では、例によって、気になる部分を引用しながら、勝手なコメントを

書いていきます。

 

===

p28

 

いよいよ仏は弟子たちに最後の説法を行なう。

だから、比丘たちよ、放逸になるな。 私は放逸でなかったからこそ、

正しい悟りを得たのだ。 あまたの、無量の善も、放逸でないことによって

得られる。 一切万物、常住のものはない。 これが如来の最後の言葉である

 

==>> これが釈迦の最後の言葉とされているようです。

     放逸の意味は、辞書によれば、「勝手気ままに振る舞うこと。

生活態度に節度がないこと。また、そのさま。」とあります。

要するに、節度を持った生活をしないと、悟りには至らない

と言うことでしょうか。

私は一月に一回だけの阿字観に参加していますが、生活態度を

改めないとなかなか難しいようです。

 

 

p31

 

仏の生涯は修行者の手本でこそあれ、仏自身が崇拝の対象となるわけではない

修行はあくまで自らするものであり、仏ではなく、真理そのものが基準である

「自らをよりどころとし、理法をよりどころとしなさい」(第三部)という箇所

は他の経典では、「自らを灯明とし、法を灯明とせよ」(自灯明、法灯明)とか、

「自らを島とし、法を島とせよ」(自洲、法洲)などという言い方で知られている

ところである。 それゆえ、修行者にとってはあくまで自分自身と理法(真理)

だけが頼りとすべきものであって、仏は問題とならない

仏の葬儀が在家者に任されるというのも、修行者はあくまで修行に専念すべき

だからである。

 

==>> 原始仏教を伝えると言われる「スッタニパータ」には以下のような

     ブッダの言葉が書かれています。

 

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-4c5c.html

     「11. 釈迦にあっては、信仰は「理法に対する信頼」を意味

しており、個人に対する熱狂的服従ではない。

32. 釈迦は徹底した自力の立場を表明した。

わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ

得ないであろう。 ただそなたが最上の真理を知るならば、

それによって、そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。」

・・・

「仏は問題とならない」というのは、このことでしょう。

 

 

p33

 

原始仏教では、抽象的な思弁にふけらず、修行に専念することを理想とする

ため、「無記」といって哲学的、形而上学的な問題に対しては解答を拒否

する。 悟りを開いた仏が死後も存続するか否かということも、そのような

解答不能の問題のひとつとされる。

 

==>> 釈迦は形而上学について語らなかったということに関しては、

     このような本にこう書いてありました。

 

     「宮坂宥勝著「空海密教の宇宙―その哲学を読み解く」」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/08/post-2f3924.html

     「p133

     最初期の仏教では、形而上学的問題に対する関与を避けた

ので、真っ向からアートマン(我)の実在を否定したのではない。

我執を否定し、我執を超越するために、「これは私のアートマン

ではない云々」という間接的な言い方で、釈尊は実体我である

アートマンの存在を排除した。つまり直接否定のいい方ではない。」

 

 

p34

 

「仏性」というと、すべての人の中にある悟りの本性ということであるが、

その原語はブッダ・ダートゥである。 ところが、この言葉はもともと仏の

遺骨を意味している。 仏の遺骨とすべての人の中の悟りの本性はずいぶん

違いそうだが、そこに「仏性」の理念が出てくる道筋が籠められている。

すなわち、仏の遺骨への崇拝がやがて仏の永遠性へと発展し、次に、その

永遠性がすべての人の中に内在するものとして理念化されると、それが「仏性」

の概念になるのである。

 

==>> お釈迦さんは、個人崇拝をするな、偶像崇拝もするな、等と

     言ったらしいのですが、後年の釈迦を慕う人たちは、その骨を

     信仰のよすがとし、仏像というものが作られるようになったらしい。

 

     スッタニパータには、以下のようなことすら書いてあるのです。

 

「ブッダのことば」

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-58dc.html

「1146 (師ブッダが現れていった)、

ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去った

ように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。 そなたは死の領域の

彼岸に至るであろう。 ピンギヤよ。

 

・・・「信仰を捨て去れ」 ですよ!!

凄いことが書いてありますね。

そこで、巻末の解説をよみますと:

 

「信仰を捨て去れ」という表現は、パーリ仏典のうちにしばしば散見する。

釈迦がさとりを開いたあとで梵天が説法を勧めるが、その時に釈迦が梵天に

向かって説いた詩のうちに「不死の門は開かれた」といって、「信仰を捨てよ」

という。 

恐らくヴェーダの宗教や民間の諸宗教の教条(ドグマ)に対する信仰を捨てよ

という意味なのであろう。

 

最初期の仏教は<信仰>なるものを説かなかった。 

何となれば、信ずべき教義もなかったし、信ずべき相手の人格もなかったからである。

 

「スッタニパータ」の中でも、遅い層になって、仏の説いた理法に対する

「信仰」を説くようになった。

 

==>> どうも、いろいろと読んでみると、釈迦自身には宗教を作る

     という意図はなかったんじゃないかと思えるのです。

 

p38

 

大乗仏教がどのように形成されたかは、今日の研究でも必ずしもはっきりしない。

というよりも、どうやら単一の運動として出て来たものではなく、紀元前後

頃にさまざまな仏教改革運動が起こり、やがてそのような運動の中から

「大乗」(マハーヤーナ)を名乗るグループが出て来た、というのが真相

のようだ。

最初の「大乗」という言葉を用いるようになったのは、般若経典を保持する

グループであったと考えられている。

 

==>> こちらのサイトで確認をしてみますと、下のようなことが

     書かれています。

     https://www.y-history.net/appendix/wh0201-056.html

     「紀元前後に、インドの北西部で新しい仏教の信仰のあり方が

求められるようになった。それは部派仏教が出家による自己救済

を主眼とし、民衆の信仰から離れてしまったことを批判し、広く

大衆(衆生)の救済をめざす運動であった。そこでは、他者の

ために苦しい修行をするする修行者を菩薩として信仰する

菩薩信仰が広がり、また出家せずに在家のままで信仰することも

認められた。」

 

p39

 

・・・新たに出てきた思想の一つは、仏が同時に多数出現することを認める

ことである。 仏が世界を指導する唯一の指導者であることを維持して、

どのようにして仏の複数性を認めることができるのであろうか

・・・・大乗仏教で用意した答は、この世界を唯一と考えず、世界の

複数性を認めることであった。

 

・・・この宇宙が唯一の世界というわけではない。 宇宙の外に別の宇宙

があり、そこでは別の仏が教えを説いているというのである。

 

==>> なんとまあ、これは最先端宇宙論でいう多宇宙論ではないですか。

     すでに読んだ、というより眺めた本に、このような記述が

     ありました。

 

     「ブライアン・グリーン著「隠れていた宇宙」」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/10/post-8d8ca6.html

     

     「p23

量子力学の基礎となる数学 ―― それを支える、少なくとも

一つの世界観 ―― は、起こりうる結果がすべて起こっていて、

それぞれが別々の宇宙に存在することを示唆する。

p26

第一は、ひも理論によるプレーンワールド・シナリオだ。すなわち、

私たちの宇宙は、もっと大きな宇宙という一斤のパンをスライス

した薄切りパンのように、高次元空間のなかに浮かぶおびただしい

数の「厚板」の一つだと仮定する考え方だ。

 

     ==>> 勿論これは量子力学の数学や宇宙論による仮説ですが、

          宗教の世界で多宇宙論を唱えるというインド人の頭は

          どうなっているんでしょう。

 

p41

 

他方世界がこの宇宙の外にある別の宇宙であるとすれば、僕たちはその

世界とどのように関係できるのであろうか。

・・・ふたつの方法がある。 ひとつは三昧を深め、仏たちと同じ境地に

至れば、・・・仏は他方世界と自由に往来できる。 しかし、ふつうの

凡夫にはそのようなことは不可能である。 その時、他方世界との隔絶は、

死によってのみ乗り超えられることとなる。 他方世界がしばしば死者の

世界として表象されるのはこのためである。

こうして大乗仏教は、否応なく、他者の問題と死者の問題がその中核的

な問題となる

 

==>> ここで他者と言っているのは、大乗仏教が自分だけではなく

     他者も救済するという意味で使われています。

     修行をして仏としての悟りを持てれば、この宇宙に居ながら

     他の宇宙を感じることができるけど、凡夫であれば死んで

     まさしく仏になって阿弥陀仏のいる浄土に行くしかないね

     ということのようです。

     

p49

 

もともと阿弥陀仏はおかしな仏であり、サンスクリットの原語で

アミターバ(無量の光明)とアミターユス(無量の寿命)の二つの名が

いずれも用いられている。 しかも、「無量寿経」の原典ではアミターバが、

「阿弥陀経」の原典ではアミターユスが主として用いられている。

このことは、もともと起源を異にする仏が合体したからと考えられる。

光が共時的に無限に広がるのに対して、寿命は時間的な永遠性を示す。

そのふたつを併せることにほって、阿弥陀仏は空間・時間の無限性を

兼ねることになった。

 

==>> 「阿弥陀仏はおかしな仏であり」ってのが面白いですね。

     無限の空間と無限の時間が合体しちゃったとか。

 

しかし、この部分は、スティーブン・ホーキングさんが

     「ビッグ・クエスチョン」に書いていることとはちょっと

     違っているようです。

 

     「スティーブン・ホーキング著「ビッグ・クエスチョン」」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/05/post-8dfa9d.html

     「p52

ここが決定的に重要なところだが、自然法則に従えば、

宇宙は陽子と同じく何の助けもなく自発的にひょっこり

出現できるだけでなく、ビッグバンは原因がなくても起こり

うる、原因はいらないのだ。

この説明の背景にはアインシュタインの理論があり、

・・・ビッグバンの瞬間には、時間に途方もないことが

起こった。時間そのものが始まったのだ

時計がブラックホールに入ったとしよう。・・・時計は

止まるだろう。・・・ブラックホールの内部では時間そのもの

が存在しないので。 そして時間の消失こそは、宇宙の

始まりに起こったことなのだ。」

 

・・・つまり、「阿弥陀仏の空間・時間の無限性」というのは、

今の宇宙論では否定されるということのようです。

時間と空間には始まりがあり終わりもあるということですから。

 

 

p51

 

もともと仏教は悟りを求める宗教であるから、仏や浄土を外在的に

見るのは、その本筋から外れているともいえる。 後に大乗仏教の

主流となる「空」の哲学からすれば、他者としての仏はあくまでも

仮現的なものとして、「空」に解消されるべきものと考えられる

しかし、注意すべきは、浄土信仰などの「原始大乗仏教」は「空」の

思想が興る以前、あるいは「空」の思想とは無関係のところで成立した

と思われ、仏や浄土を「空」に解消するところは見えないことである。

現行の「無量寿経」には「空」が出てくるが、古い「大阿弥陀経」には

出てこない。

 

・・・むしろ仏教の正統を外れたものともいえるのだが、それに固執

したのが中国の善導であり、その善導の説を受け入れた法然であった。

 

p52

 

しかし、その理論的な綻びにこそ、浄土教のポイントがある。

・・・大乗仏教の一つの原点は、他者を根源的な所与として組み込む

ことにあった。

 

・・・日常の生活でも常に他者と関わらなければならない。

・・・仏が、一方で心と同一視されながら、他方で無限大の距離を

隔てるのはそのためである。・・・・

・・・そのことは、浄土が死者の世界とされることとも関係する。

・・・死者の世界には自ら死ななければ入れない。

 

==>> つまり、本来の仏教が「空」の哲学だとするならば、法然さんら

     の浄土教は正統からは外れるけれども、そもそも大乗仏教が

     他者の救済ということで始まったのであるから、根源的でも

     あるということのようです。

     「一見ばかばかしく見える西方十万臆土の距離の持つ意味を

     無視してはいけない」とも書いてあります。

     ・・・なるほど、そういう意味があったのか。

     

     ここでは、浄土教のことを書いてありますが、密教などでも

     それこそ無数の宇宙を想定しているようなので、同じと言える

     んじゃないでしょうか。

 

p58

 

仏教を勉強しはじめて、最初に引っ掛かったのが大乗経典の分かり

にくさであった。 原始仏教はたいてい読んですっと理解できる

・・・中村元訳の「ブッダのことば」(スッタニパータ)、・・・・

 

・・・仏教を信じているか、いないかに拘わらず、誰でも腑に落ちる

ところがある。

 

 

p59

 

大乗経典は原始経典に比べてはるかに読みにくく、理解しにくい

・・・よほど信心深い人ならともかく、そうでなければいきなりそんな

話を持ち出されても拒絶反応を起こすだけだろう。

・・・そのことは、「法華経」においてもっとも典型的に見られる。

 

・・・「法華経」は序文とあとがきだけで本文がない、などと悪口を

言われるが、それももっともと肯きたくなる。

 

しかし、ただそれだけでもなさそうだ。 もうちょっと違う問の立て方

をすれば、もっと違うなにかが引き出せそうだという可能性が惹きつける

のだ。

 

==>> 「法華経」については、私は読んでいませんが、

     司馬遼太郎著「空海の風景」には、このようなことが

     書いてありました。

 

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/06/post-fae92c.html

     「p180

法華経は・・・・・

釈迦の本質を詩的に把握したという点でどの経も

これに及ばないであろう。さらにこの経は最澄の

疑問とする小乗的な教理からまったく離れてしまって

いる。 釈迦の教説として伝承されてきたものを

下敷きにし、体系としては般若経の空観の原理を

基礎としている。 空観を唯一の真理とし、それを

中心に世界把握の体系を構築しているもので、見様に

よっては華厳経よりさらにすすんだものであるかも

しれない。」

 

     また、こちらのサイトでは以下のような解説があります。

     https://kotobank.jp/word/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C-132828

     「詩や比喩(ひゆ)や象徴的手法を縦横に駆使した精妙な

文体で,すべての法はすべて大乗の現れであり(一大乗),

仏とは永遠の生命そのものであること(久遠実成(くおん

じつじょう))を説く。」

 

・・・とありますから、「詩的である」ということが

大乗経典の中でもさらに分かりにくいということになって

いるのかもしれません。

 

== と言うことで、この分かりにくい法華経のことが

   第三章に書かれているのですが、私はギブアップ

   しました。

        以下、第四章に入ります。

 

 

== その2 に続きます ==

末木文美士著「仏典を読む」を読む ― 2 般若心経、理論か実践か、空には二つの意味 (sasetamotsubaguio.blogspot.com)






 

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