熊谷公男著「大王から天皇へ」を読む ―6― 天孫思想は推古朝にはあった 神話は借り物か 廃仏vs崇仏と言うけれど 神仏調和の時代 作法知らずの倭王だったけど
熊谷公男著「大王から天皇へ」を読む ―6― 天孫思想は推古朝にはあった 神話は借り物か 廃仏vs崇仏と言うけれど 神仏調和の時代 作法知らずの倭王だったけど
「第四章 王権の転機」を読んでみます。
p199
『書紀』によれば、仏像・経巻を目の当たりにした欽明天皇は、群臣にその受容の可否を
問うた。 蘇我稲目は「西蕃諸国(西隣の朝鮮諸国)はこぞって礼拝しております。
倭国だけが拒絶するわけにはいきません」と答えたが、物部尾興(もののべのおこし)と
中臣鎌子(なかとみのかまこ)は「わが国の王が蕃神(あだしくにのかみ、外国の神)を
礼拝されれば、きっと国神(くにつかみ、 わが国古来の神)の怒りをうけるでありま
しょう」といって反対した。 いわゆる崇仏論争のはじまりである。
p200
本来、仏教は個人の解脱を主題とする超世間的な宗教であるが、伝来した仏教は、まず
“外国の神”の教えと受け取られ、人々が仏教に求めたものは治病延命などの現世利益
と死者の供養であった。 これは現代の日本人の宗教に対する接し方に、基本的には
そのまあ通じるといってよい。
==>> まあ、中国経由で渡ってきたのが大乗仏教ですし、いろんな仏様が入って
きたわけですから、外国の神と思われても仕方なかったんでしょう。
密教になるとほとんど仏教というよりヒンドゥー教みたいな感じですし。
そのあたりは、こちらのサイトでサラッと見ておきます。
仏教とヒンドゥー教は同じ神々を祀っている⁈
密教についてはこちらで:
https://kotobank.jp/word/%E5%AF%86%E6%95%99-138847
「大乗仏教の『般若(はんにゃ)経』や『華厳(けごん)経』の思想や中観(ちゅうが
ん)派、瑜伽行(ゆがぎょう)派などの思想を基盤とし、さらにヒンドゥー教の
影響を受けて成立したものであり、・・・」
「今日では一般に,ヒンドゥー教におけるタントラ教と区別して,中国で発展し
た天台宗や真言宗の,法身大日如来の身,口,意の3密を説く教理を密教と
いい,それらは純正なものであるとして純密などともいう。」
p201
『書紀』編纂当時には、物部・中臣両氏が廃仏派の中心であったことは、周知の事実で
あったとみてよい。 両氏は、守旧派の中心的存在であり、改革派の蘇我氏とは政治的に
対立していた。
p203
蘇我氏とともに草創期の仏教に関係が深いのは、司馬(鞍作、くらつくり)氏である。
司馬氏は、六世紀半ばに半島から渡来した司馬達等にはじまる一族であるが、やがて
鞍作と名のり、馬鞍(うまぐら)の制作を本業としながら・・・・飛鳥に坂田寺・・・を
氏寺として建立するなど、一貫して仏教と深いかかわりをもつ渡来系氏族であり、
蘇我氏との関係も密接であった。
p204
蘇我氏は、元来、渡来系氏族と密接な関係をもつ氏族であった。
・・・とくに倭漢氏は長年にわたって蘇我氏と密接な関係にあり、その私的武力となって
いる。
p205
587年(用明2)、用明天皇は新嘗祭(にいなめさい)の当日に病におちいる。
痘瘡(とうそう、天然痘)だったようだ。 天皇は重臣を召集して仏教への帰依を表明し、
その可否を重臣に協議させた。 天皇みずからが崇仏の意思を表示したのはこれがはじめ
てであるが、それは用明が蘇我氏の血を引く初の大王であったことと関係しよう。
重臣たちの会議の席上で、崇仏派と廃仏派の対立が再燃する。
p206
『書紀』によれば、馬子方の軍勢には厩戸皇子(聖徳太子)も加わっていた。 一時、討伐
軍が守屋の反撃にあって苦戦におちいったとき、厩戸皇子は四天王の木像を彫って、戦いに
勝利したならば必ず四天王のために寺塔を建てると誓願し、また馬子も寺塔を建立する
ことを誓願したため、ようやく守屋らを討伐することができた。
==>> この戦いに勝利した後、聖徳太子は四天王寺を建立し、また蘇我馬子も
飛鳥寺を建てたと書いてあります。
仏教は半島経由で入ってきた外来の宗教ですから、そこに渡来系の氏族が
関係していても不思議ではないのですが、少なくともこの場面においては、
古来からの列島の神々を祀る廃仏派が、外国の神に負けた形になったと
いうことですね。
それにしても、「誓願」して勝ったから寺塔を建てたとかいうのは、本気で
仏法の力というのを信じていたということなんでしょうね。
用明天皇の病についても、おそらく仏教での平癒祈願などをやったんでしょう。
この崇仏・廃仏論争については、異論もあるようです。
「有働智奘は、「崇仏論争」という概念自体が明治期以降に誕生したとする説を
提唱した」
「物部氏は百済との交流に関わっていた者も多く見られるため、仏教を知らな
かった可能性は低く、また、物部氏は祭祀や軍事のほか、刑罰も担当していた
うえ、仏教排除の行動は勅命によっているため、廃仏を立場としていたとは言え
ず、その上、崇仏派とされる蘇我氏も神祇を祀っていた。」
「ただし、後に有働智奘は、「崇仏・廃仏」という用語の初見は、江戸時代の
国学者であった谷川士清の『日本書紀通証』であったと訂正した。」
p207
588年(崇峻元)、百済からの使者が、仏舎利・僧侶とともに寺工・鑪盤(ろばん)
博士・瓦博士・画工などの技術者を引き連れて来朝した。 これはおそらく、倭国が
寺院建立のための技術指導を百済に要請し、それに百済が応えたものであろう。
当時の倭国の技術水準では、独力で寺院を建立することは無理だったのである。
==>> 日本最古の寺院としては、飛鳥寺が第一号だそうです。
「飛鳥寺は587年に時の権力者である蘇我馬子によって建立を発し、596年に
完成したとされています」
仏教公伝は538年とされていますが、それ以前の状況としては、
こちらの本で先に読みました。
岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/09/blog-post_30.html
「p195
今日、豊国には、仏教公伝以前に仏教が入り込んでいた、と考えられている。
その仏教は、百済仏教ではなく、新羅の仏教であった。
「神が仏法を悦び、また仏法によってのみ救済されるという神仏習合の教説は、
十世紀には日本全土にひろまり、所在の神宮・神社に神宮寺が建ち、僧による
神前読経が恒式化するが、この画期的な教説が具体化した日本最初の神は、宇佐
八幡であった」
p196
崇仏派の馬子は、排仏派の物部守屋らと戦うために、すでに神仏習合をなしとげ
ていた宇佐八幡の力を借りる必要があったのであろう。豊国は、先端技術の面だ
けでなく、文化の面でも先進の地域だった。」
ここで、前から気になっていたのが、新羅仏教と百済仏教のことです。
確か聖徳太子が学んだのは新羅仏教だったと思うんですが、ここでは
百済仏教が「公伝」として入ってきたとなっています。
そこで、こちらのサイトに少し書いてありました。
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=18375
「新羅仏教と日本仏教
日本に仏教が伝来したのは538年、百済の聖明王が欽明天皇に仏像と経典
などを贈ったことで、百済仏教の影響を強く受けていたとされてきました。
それに対して、新羅仏教の影響の方が強いと主張したのが日本史と仏教史が
専門の田村圓澄(えんちょう)・九州大学名誉教授です。『仏教伝来と古代日本』
(講談社学術文庫)の「まえがき」に、「日本の場合、百済より新羅とのつなが
りの強いことが注意される」とあります。
「神功皇后の三韓征伐」のように古代日本は新羅と敵対関係にあったのは事実
ですが、唐と新羅の連合軍によって滅ぼされた百済から、日本に亡命した人たち
が史書の執筆に加わったことで、ことさらそれが強調されるようになります。
それを変えた一人が聖徳太子で、白村江の戦の後、唐と対立するようになった
新羅から、多くの文物が流入するようになります。」
また、先に読んだ「秦氏の研究」でも、下のように述べられていました。
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2023/01/blog-post_18.html
「p141
弥勒信仰は新羅仏教の特色の一つだが、公式の新羅仏教が飛鳥の宮廷に入ったの
は、推古朝である。
・・・当時、大和政権の都のあった大和飛鳥の仏教は、公伝の百済仏教であった。
この百済仏教に対し、新羅仏教を公式に入れたのは、聖徳太子と太子の寵臣の
秦河勝である。
平野邦雄は、「百済仏教を通じての蘇我―漢―今来漢人の一貫した結合関係に
たいし、同時代の秦氏が新羅仏教への親近性を示すのは、仏教興隆をめぐる蘇我
―漢と、これに対する聖徳太子―秦河勝の勢力的結合によるもの」とみて、
「蘇我氏の伝統的な百済救援と任那復興政策」に対し、聖徳太子の外交政策の
ちがいを詳述している。」
・・・つまり、一旦は百済からの公伝で入ったけれども、その後、聖徳太子が
公伝以前から私的に秦氏によって崇拝されていた新羅仏教を支持したと
いうことでしょうか。
p211
寺塔は、もともと釈迦の遺骨である舎利を納め、供養する施設であるから、死者の
供養という観念と結びつきやすいし、人々のまえに屹立する寺塔は祖霊の依代とも
観念されたであろう。
飛鳥寺の塔の埋納品は、人々が塔の建立に祖先の供養の願いを込めたことを何より
も雄弁に物語るものといってよい。
こうして“前方後円墳の時代”の首長層の祖霊崇拝は、氏寺の中心を占める寺塔へと
引き継がれていくのである。
==>> そして、ここで、古墳時代から律令時代へと変わっていくと同時に、
神仏習合が進んでいくということでしょうか。
こちらのサイトの解説では、神仏習合よりも前の段階として神仏調和が
あったとしています。
https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E7%BF%92%E5%90%88-82502
「日本への仏教伝来以降、聖徳太子の積極的な仏教奨励策、また仏教そのものの
同化性のあったことも影響して、白鳳(はくほう)時代ころより神前で読経
(どきょう)・写経などが行われ、天平(てんぴょう)時代より日本の神は仏道に
帰依(きえ)し、福業を修行しようと欲しているものとみて、そのための場として、
神社に付属して神宮寺を建立したことなどは、神仏調和というべきことである。」
p224
478年に倭王武が南朝宋に遣使して冊封を受けて以来、中国王朝との外交関係は
途絶えていたが、南北朝の統一に成功した隋に600年に使者を遣わした。
これが第一回の遣隋使である。
このように倭国が遣隋使を派遣するまでには、すでに隋を中心とした国際秩序が形成
され、朝鮮三国はいずれも冊封を受けていた。
隋が中国を統一すると、高句麗は隋を警戒し、・・・一触即発の状態が続いた。
==>> この遣隋使については、推古朝の対外関係で特記すべきことだと
著者は述べています。
また、596年(推古3)には、高句麗僧の恵慈(えじ)がやってきて、
厩戸皇子(聖徳太子)の師となったと書かれています。
上記p207のところで、聖徳太子は新羅仏教であるとしたのですが、
ここでその師は高句麗の恵慈ということは、高句麗仏教ということに
なるんじゃないかと疑問が湧くわけです。
そこで、こちらのサイトを読むと:
朝鮮の仏教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99
「『三国遺事』『三国史記』によると、仏教は胡人の僧阿道の手により高句麗と
新羅にもたらされた。」
「新羅への伝搬は諸説あるが、528年(法興王14年)に、高句麗からもたら
された仏教の受容を訴えた異次頓(朝鮮語版)の殉教を経て公認されたという説
が有力である。」
「特に新羅においては、護国仏教としての性格が強いのが特徴」
・・・つまり、高句麗から新羅へ入って、護国仏教の性格が強くなったと
いうことですね。 聖徳太子の師は高句麗の僧だったけれども、同じ由来の
新羅仏教が護国仏教だったから支持したということでしょうか。
p226
第一回の遣隋使は、倭王の独自性を主張することでその存在をアピールしようとした
のであろうが、隋に対してまったく通用せず、逆にあきれられてしまい、中国式の
聴政(政治を執ること)を教えられてかえってくるありさまであった。
こうして倭王権は、自分たちの政務・儀礼形態が国際社会で通用しないものであることを
思い知らされる。
p227
つぎの小野妹子を大使とした607年の使節が、“対等外交”として有名な遣隋使である。
「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。 恙なきや、云々」という書き出し
の国書が煬帝の不興をかい、・・・・
しかし、隋からみて、倭王がみずから「天子」と名のったことは、第一回のときとは
別の意味で、非常識きわまりないものであった。
==>> ここで著者は、中国での中華意識の「天」と、倭国における「天つ神の子孫」
の観念の違いを指摘しています。
つまりは、野蛮な国の奴らが無礼な手紙をもってきた、ということだった
ようです。国際感覚のない田舎者だと思われたことでしょう。
p228
隋は、高句麗が倭国と気脈を通じていることを、当然、知っていたはずである。
その倭国が礼を欠いた国書をもってきたからといって、追い返して高句麗支援に
まわられては面倒だと考えたのであろう。 こうして両国の外交関係は維持されたが、
隋の倭国に対する評価は決して高くなかった。
p229
623年に、建国されてまもない唐から、遣隋使で中国に渡っていた留学生恵日(えにち)
・福因らが帰国するが、そのとき恵日は「大唐国は、法式の整備された立派な国です。
使節を絶やさないようにすべきです」と建言した。 ここに遣隋使と初期の遣唐使の
派遣目的が明瞭に語られている。
もはや倭の五王のときのように、官爵を授かることを目的とはしていなかった。
==>> 中国王朝と倭国は、それぞれの意図・目的をもって遣隋使・遣唐使という
交流を継続したということです。
おそらく、倭国側でのメリットの方が大きかったのだと思いますが。
p236
600年の第一回遣隋使のとき、倭王は「姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、
阿輩雞弥と号」したと『隋書』にある。「阿毎」を姓とし、「多利思比孤」を字としたのは
中国人の解釈で、本来は「アメタリ(ラ)シヒコ」というひとつづきの倭王の称号と
みられる。 「阿輩雞弥」は、アメキミ、オオキミの両説があるが、・・・とあるように、
「天児」すなわち天の子の意味ということなので、アメキミ(天君)と読むべきである。
天の子とは天つ神の子孫ということで、大王を天つ神の子孫とする観念がすでに成立
していたことになる。
p237
倭王はすでに高句麗との修好以前から、国内では「治天下大王」と名のっており、
独自の「天下」観を保持していたことは否定しがたい。
アメキミの意味からみて、大王を天つ神の子孫とする「天孫思想」はすでに芽生えて
いたことも確かであろう。
推古朝段階の倭王の王権思想は、天孫思想はすでに形成されていたが、その背景にある
王権神話はまだ記紀神話のように体系化はされていなかったので、倭王と天や日の関係
の説明に高句麗の王権思想を借用した、ということではなかったろうか。
==>> おお、ここには私にとって知りたかった、非常に大事なことが述べられて
います。
推古倭王(まだ、天皇とは呼ばない)の時に、天孫思想はあったけれども、
それを支えるべき神話はまだなかったから、高句麗の天孫神話を借りた
のではないかということですね。
その天孫神話というのは、おそらくこちらで読んだ檀君神話のことではないか
と思います。
吉田敦彦編「世界の神話101」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/09/blog-post_18.html
「p176
漢半島 檀君神話
「今から二千年前、檀君王倹(タングンワンコム)が都を阿斯達(アサダル)に
立て、国を開いて朝鮮と名付けた。 これは中国の尭と同じ時である」(「魏書」)
「昔、恒因の庶子である恒雄は天から降下して、人の世に行きたいと願った。
父は子の願いを聞き入れて、地上に送り、・・ 恒雄は徒三千を率いて太伯山
の山頂にある神壇の樹木の下に降り立った。
熊女は神壇樹の下で結婚相手を探していたところ、天から降臨してきた恒雄と
結婚し、彼の子をはらみ、檀君王倹を生んだ。」
・・ということで、こちらの動画で「檀君神話」の概略を覗いてみます。
ちょっと怪しげなサイトの動画ですが、内容はまともです。
【檀君神話】韓国神話と古朝鮮
https://www.youtube.com/watch?v=4Ts15xptnLM&t=264s
ただし、wikipediaでは、檀君については、
「中国の史書にはまったく登場せず、初めて朝鮮の歴史書に登場するのも13世
紀と遅い。」
とありますので、上記の推古朝の時代にはまだ神話そのものがなかった
可能性もありそうです。
p240
朝庭を場として行われる口頭によるマツリゴトが、もっとも正統で、権威のあるもの
とされたのである。 奈良時代になると、徐々に文書が重んじられるようになるが、
それでも口頭政務の伝統が色濃く残り、重要政務の決裁は依然として朝庭(朝堂院)
で口頭によって行われた。 朝庭のもつ特別な空間的性格は、「治天下大王」、さらには
天皇の統治権の正統化に重要な役割をはたしたのである。
==>> これは朝廷ではなく朝庭という場のことです。
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%9D%E5%BA%AD-1368235
「官司ごとに着座する堂が定められ,818年中国風の呼称になる以前は,各堂は
式部殿,弁官殿のように着座する官司名によって呼称された。朝堂に囲まれた
庭が朝庭で,儀式の際に臣下らが列立する。南面に門(平安宮では会昌門)を開く。」
「天皇の前に官人,百姓などが列立した〈朝庭(ちようてい)〉はこうした庭で
あり,平安時代,官庭,国庭,公庭(底の字が用いられることも多い)などの語に
よって知られるように,太政官,国衙などの公的機関にも,訴訟のさいの対決,
裁判の行われる庭が存在した。」
今回の部分は、p237の
「推古朝段階の倭王の王権思想は、天孫思想はすでに形成されていたが、その背景にある
王権神話はまだ記紀神話のように体系化はされていなかったので、倭王と天や日の関係
の説明に高句麗の王権思想を借用した、ということではなかったろうか。」
・・・というところが、この本を読んできて、一番知りたかったポイントでした。
さて、次回は、「第五章 律令国家への歩み」に入ります。
===== 次回その7 に続きます ======
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