岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」を読む ―3― 三輪山の磐座こそが本来の神社、新羅=出雲=邪馬台国vs大和朝廷? 宇佐八幡vs大和朝廷? 伊勢神宮は大神(おおみわ)神社に遠慮したのか?

岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」を読む ―3― 三輪山の磐座こそが本来の神社、新羅=出雲=邪馬台国vs大和朝廷? 宇佐八幡vs大和朝廷? 伊勢神宮は大神(おおみわ)神社に遠慮したのか?

 

 


  

さて、私が一番読みたかった大神(みわ)神社、三輪山信仰の章に入ります。

 

p144

 

奈良県桜井市にある三輪神社(大神(おおみわ)神社)は、三輪山(三諸(みむろ)山)を

神体とし、本殿がなく、神体山を直接拝するという太古の神社のありようを今に伝えていて

名高い。

 

朝廷からは伊勢神宮と並ぶ崇敬を受け、見る者をたちまち古代へと誘う三輪山の山容や、

広い禁足地を含む閑寂で清らかなその社域とは、多くの人々の心を捉えてきた。

 

三輪神社が、神社の原初のありようを考えようとする時決して逸することのできない存在

であり、神社の典型の一つであることを否定する者はいないだろう。

 

==>> まずは、大神神社の公式サイトで確認しておきましょう。

     https://oomiwa.or.jp/jinja/goyuisho/#linktop

     「ご祭神の大物主大神(おおものぬしのおおかみ)がお山に鎮まるために、古来

本殿は設けずに拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し三輪山を拝するという原初の

神祀りの様を伝える我が国最古の神社です。」

     「『古事記』によれば、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が出雲の大国主

神(おおくにぬしのかみ)の前に現れ、国造りを成就させる為に「吾をば倭の

青垣、東の山の上にいつきまつれ」と三輪山に祀まつられることを望んだとあり

ます。

また、『日本書記』でも同様の伝承が語られ、二神の問答で大物主大神は大国主

の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」であると名乗られたとあります。」

 

・・・ここでは、ご祭神が大物主大神=大国主神であることが述べられています。

 

p144

 

三輪山には山頂から麓にかけて三つの磐座(いわくら)群があり、山頂の奥津磐座に大物主

中腹の中津磐座に大己貴(おおなむち)、麓の辺津(へつ)磐座に少彦名(すくなひこな)

を祀っているのである。 ・・・・大物主と大己貴は同神とされることが多い。

 

p146

 

大国主も大物主も大己貴も同神とする。 実際古事記では、大国主を、時には

葦原色許男(あしはらしこを)とも大穴牟遅(おおなむち)とも呼びかえている。

ただ同じ日本書紀の中でも、第二の「一書」には、・・・・ここでは大己貴と大物主

は別神である。

 

==>> 大国主については、上記のように別名がいろいろとあるようですが、

     Wikipediaには、めちゃくちゃ多くの別名がリストアップされています。

     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E4%B8%BB

     「大国主は多くの別名を持つ。同名の記載順は『古事記』、『日本書紀』、『風土記』、

その他祝詞や神社とする。」

 

・・・当の三輪神社では一応「大物主大神が出雲の大国主神の前に現れ」と

いう表現で解説していますので、二人ということなんでしょうが・・・

 

p148

 

それにしても、出雲の神がどうして遠く離れた大和の三輪山に祀られることを望んだ

であろうか?

 

p149

 

大物主神はもともと三輪地方の根生いの神であり、大和朝廷が勢力を得るにつれてその

信仰が全国にひろがり、出雲国造とともに出雲へと移り、大己貴神と合体して出雲大社

に祀られた、とする意見も有力になってきている。

 

一方では千田稔氏のように、「出雲の神を大和の三輪山でおまつりになるということは、

出雲の勢力が大和に進出するということ、出雲と大和の関係が深いという歴史的な伝承

として定着していくということになります。これは時代的には弥生時代のころであろう

と思います」・・・と説く人もあって、私自身はこちらの方が自然だと考える。

 

==>> ここでは二つの説が紹介されています。

     まあ、それぞれの説を根拠づけるものがなにかしらあるのでしょうが、

     そういう論争に決着をつけるような資料は出てくるのでしょうか。

 

 

p151

 

三輪山の周辺には、出雲に関する地名もあちこちに残っている。

三輪山の南西麓、大和川に沿って出雲という村があり、また東麓、纏向遺跡の低地部は

かつての出雲庄であり、遺跡からは、出雲を含む山陰系の土器が多量に出土するという。

 

大和における出雲のこのような色濃い痕跡は、一朝一夕のものとは思われず、千田稔氏

の言うように弥生時代まで遡るのは確かだ。

 

==>> 著者は、ここで纏向遺跡のこととか弥生時代まで遡るなどと述べています。

     そこで、こちらのサイトで、三輪山と纏向遺跡の関係、あるいは邪馬台国との

     繋がりがなにか見えないかをチェックしてみましょう。

     奈良・三輪山の麓、大神神社と纏向遺跡へ!

     https://reki4.com/00128.html

     「奈良盆地の神域、三輪山の麓に鎮座する大神神社の周辺には、箸墓古墳をはじ

めとする古墳が密集しています。そしてその傍の纏向遺跡は大和王権に関わる

遺跡とされ、かつての「邪馬台国」があった地ではないかと言われます。」

「三輪山の北西麓には「箸墓古墳(はしはかこふん)」があります。全長278m

初期古墳の中でも最古級とされる3世紀半ば過ぎの前方後円墳です。つまりは

日本最初の巨大墳墓ということ。」

「箸墓古墳の周辺、三輪山の北西麓に広がる「纒向遺跡(まきむくいせき)」は、

弥生時代末期から古墳時代前期にかけての遺跡。ここは初期の大和王権の墓制

(※墓の作り方)、前方後円墳発祥の地ともされます。」

 

・・・著者が述べている弥生時代にも遡るということになれば、おそらく

三世紀ごろのことを言っているのでしょうから、邪馬台国が「邪馬台国(やまた

いこく/やまとのくに)は2世紀 - 3世紀に日本列島に存在したとされる国

(くに)のひとつ。」とされていますので、邪馬台国にも関係することを

示唆しているのでしょうか・・・・

 

p152

 

村井康彦氏の出雲と大和―古代国家の原像をたずねて(岩波新書)・・・

 

p153

 

『出雲と大和』の骨子は、このように大和に進出した出雲勢力が、三輪山をはじめ四囲の

山々に出雲の神々を祀り、奈良盆地中央部に王宮を持つ国をたて、それが邪馬台国だった

のであり、そしてこの国はやがて、神武東征の説話に痕跡をとどめる東遷してきた勢力に

よって滅ぼされ、この勢力がそのあとの三輪王朝の中心となった、とするものである。

 

==>> これはなんだか分かりやすい説で面白そうですね。

     さっそく岩波新書を買いました。後日感想文を書くかもしれません。

 

 

p157

 

大田田根子が実在の人物であるとするなら、渡来人、乃至渡来系の人間だった可能性が高い。

紀によれば、母活玉依媛は陶津耳の娘だったというのだから、なおさらそう思われる。

 

松前健氏は、太田田根子の裔とされ、歴代三輪神社の神職を務めた豪族大神(おおみわ)氏

(三輪君)は渡来系の豪族であったと断ずる(「渡来氏族としての大神氏とその伝承」)。

 

p158

 

それならばなぜ三輪王朝の人々は、いわば異族の神を祀ったのであろうか?

 

垂仁(すいにん)天皇の代、天照大神を豊鍬入姫(とよすきいりひめ)から離して倭姫命

(やまとひめのみこと)に託け、こちらは諸国を経めぐった末、伊勢に至って、

「是の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪帰(しきなみよ)する国なり。是の国に居らむと

欲ふ」という天照大神の言葉に従って、ここに大神を祀った。

これはよく知られた伊勢神宮創祀の話である。

 

この話を信じるならば、三輪王朝の人々は、本来三輪山に祀るべき皇祖神を国の外へ

出してまでも出雲の神を祀り続けたことになる。

 

==>> まず、活玉依媛(いくたまよりひめ)とは何者なんでしょうか。

     こちらで確認しましょう。

https://kotobank.jp/word/%E6%B4%BB%E7%8E%89%E4%BE%9D%E5%AA%9B-1052349

     「『古事記』『日本書紀』崇神天皇の巻に語られる女性。河内の陶津耳の娘で,

大田田根子の母(『古事記』では4世の祖)。」

タマヨリヒメとは,神霊()の依り憑く女性の意。子孫の大田田根子はのちに

崇神天皇により捜し出され,祖神大物主神を祭る神主を勤めたと伝えられる。」

 

・・・この「よく知られた伊勢神宮創祀の話」は、私は全く知りませんでした。

伊勢神宮がどのように創られたのかが気になっていたので、手がかりが

できてよかった。

 

 

p159

 

大和朝廷は神々の世界の事柄に関しては、出雲に一歩も二歩も譲るところがあったから

である。

このような怖れの背後には、政治的に支配したあとでも、出雲そのものに対する怖れが

あったように思われる。

 

 

出雲には早くから新羅・伽耶の人々が入り込み、鉄産業、須恵器から医薬に至るまでの、

いわば先進文化の一つの根拠地であった。 因みに、出雲は「後々まで呪い(まじない)と

か薬の発達した地域であり、中世以後大都市となった奈良や京都では、出雲から来た薬屋が

多かった」と門脇禎二氏は言う。

 

p160

 

大和朝廷の出雲への怖れは、やや後の、古代豊前地方にあったとされる、宇佐八幡を

中心とした「秦王国」の先進文化圏への怖れとよく似ている

かつて豊国と呼ばれた地域に、朝鮮半島から秦氏系の人々が多く移り住み、宇佐八幡

中心として、「秦王国」ともいうべき文化圏を作り出していた・・・・

 

 

大田田根子に話を戻すならば、祀る人が渡来系でなければならないとするなら、祀られる

神もまた渡来系なのではあるまいか?

・・・・大物主は神統からいって渡来系である

 

==>> つまり文脈としては、出雲系はもしかしたら邪馬台国を作っていたかもしれず、

     その源は渡来系の文化であったけど、それを大和朝廷が政治的には排除した

     ものの、呪いや薬が発達していて怖かったんで、出雲系の神である大物主を

     三輪山に祀った。 一方で、大和朝廷としては、ちゃんと自らの神様を

     祀らなくちゃいけないから、あちこち探し回って伊勢神宮を建てたってことに

     なるんでしょうか。

     だから、もともとは神社は社殿などは建てるべきではないけれども、

     それは出雲系の話だから、伊勢神宮系としては社殿を建てちゃうよって

     ことなんですかねえ。

 

     上記p158で、「垂仁(すいにん)天皇の代、天照大神を豊鍬入姫(とよすき

いりひめ)から離して倭姫命(やまとひめのみこと)に託け、こちらは諸国を

経めぐった末、伊勢に至って、・・・」とありましたが、

ここで、伊勢神宮の公式サイトでこのあたりのことを確認しましょう。

https://www.isejingu.or.jp/about/history/

「第11垂仁天皇の皇女倭姫命は豊鍬入姫命と交代され、新たに永遠に神事を

続けることができる場所を求めて、大和国を出発し、伊賀、近江、美濃などの国々

を巡り伊勢国に入られました。」

 

p164

 

それでは新羅=伽耶系の出雲の勢力は、なぜ大和へ、とりわけ三輪地方へ進出したので

あろうか? 一言で言って、鉄のためだと私は考えている。

 

たとえば河上邦彦氏は「三輪山と邪馬台国」・・・という一文の中で、「三輪山の麓に

なぜ古代の王権」が生まれたかの理由として、「三輪山で鉄が採れる」からだと書いている。

実際、山麓を流れる狭井川では良質の砂鉄が採れるし、「三輪山の山頂から三分の一

くらいの高さの所までは、角閃斑糲岩という岩の層であり、これは大量に鉄分を含んだ

岩」だという。

 

 

p167

 

・・・名は富登多多良伊須須岐比売命(ふとたたらいすすきひめ)と謂ひ、・・・」とあり、

この娘の方が神武天皇の妃となったという。

 

母と娘の双方の名の中にあるタタラは、砂鉄製煉に用いられる踏鞴と解されており、実際

日本書紀の方では、娘の名は、媛踏鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)と表記

されているのである。 そして大和岩雄氏は、踏鞴の技術は当然、鉄を産する伽耶から渡来

したものだから、タタラヒメは渡来系であろうとする(「日本にあった朝鮮王国」)。

 

==>> どうも三輪山に鉄が埋蔵されていたので、それを狙って渡来系・出雲勢力が

     邪馬台国という国を創って、三輪山に神を祀っていたような筋になっています。

     おまけに、神武天皇の嫁さんは渡来系のタタラヒメなんでそうです。

 

     ここで、せっかくなので神武天皇をチェックしておきましょう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

     「『日本書紀』によると庚午年(『本朝皇胤紹運録』によると11日庚辰の日)

筑紫の日向で誕生15歳で立太子。吾平津媛を妃とし、手研耳命を得た。

45歳のときに兄や子を集め東征を開始。日向から宇佐、安芸国、吉備国、難波

国、河内国、紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え中洲(大和国)を征し、畝傍山

の東南橿原の地に都を開いた。そして事代主神(大物主神)の娘の媛蹈鞴五十鈴

媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とし、翌年に初代天皇として即位した。」

 

・・・確かにタタラヒメと結婚していますね。

 

p168

 

出雲の人々の東漸の動機について、水野氏は何も触れていないが、やはり鉄が主たる

目的であったろう。 その点で武蔵国、現埼玉県児玉郡の名神大社金鑚(かなさな)神社

は注目に価する。 素戔嗚命(スサノウノミコト)を祭神とするこの神社は、三輪神社

同様本殿がなく、背後の標高300メートルの御室山を神体とし、金砂(かなすな)を

意味する社名からもわかる通り、金属にかかわりがあり、周囲の山々は鉱物資源に富んで

いる。

 

p169

 

国譲りの際、大国主とその子事代主が承諾したのに、もう一人の子建御名方(たけみなかた)

だけが反対し、建御雷之男神(たけみかづちのをの)に力競べを挑み、敗けて逃げ・・・

 

この話は、建御名方が諏訪湖まで逃げてきたのは、決して偶然ではなく、すでに北陸から

信濃へのルートが開かれていて、この地に出雲の勢力が根を張っていたことを暗示する。

 

==>> ここで著者は、出雲が東日本にも広く勢力をもっていたことを述べています。

     埼玉の金鑚神社には是非行ってみたいと思います。

     https://www.kanasana.jp/

     「金鑚神社の創始は「景行天皇41年(111)に日本武尊が東国遠征の折に、

倭姫命より授けられた草薙剣とともに携えてきた 火鑽金(火打金)を御霊代と

して山中に納めて、天照皇太神と素戔嗚尊の二柱の神を祀ったことによる」と

伝えられている。」

     「主要社殿は拝殿・中門からなり、中門の背後には一般の神社に見られる本殿が

なく、 神体山とする御室山(御室ヶ獄)を直接拝するという形式を採っている。

旧官幣社・国幣社でこのように本殿を設けない古例を採るのは、他に 長野県の

諏訪大社・奈良県の大神神社のみである。」

「神流川周辺では刀などの原料となる良好な砂鉄が得られ、御嶽山からは鉄が

産出したという伝承がある。

社名「金鑚(かなさな)」は、古くは「金佐奈」と記載され、砂鉄を意味する

「金砂(かなすな)」が語源とも、 また 産出する砂鉄が昆虫のサナギのような塊

だったため「金サナギ」が語源とも考えられている。」

 

・・・・こりゃあまあ、完全に鉱山開発ですね。それが出雲の力の源と

いうことになりそうです。

 

 


 

p178

 

香春神社には以前から関心を抱いてきた。 それは、この神社の祭神が、新羅から来た

神と豊前国風土記逸文に明記されていたからである。

「・・・・昔者、新羅の国の神、自ら度り到来りて、此の河原に住みき。・・・」

 

香春の神は、香春山の銅を求めて朝鮮半島から渡来した新羅=伽耶系の人々の祀った神

と考えられている。 実際この地方を含め、豊前には秦氏とかかわる人々が多く居住

していて、一種の秦王国をなしていたことは、正倉院に残された・・・の豊前国の戸籍

その他・・・・

 

==>> さて、話が豊前つまり「現在の福岡県東部から大分県北部」へと飛びました。

     ここからは秦氏関係のことになりそうです。

 

     まず、香春神社(かわらじんじゃ)を確認します。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%98%A5%E7%A5%9E%E7%A4%BE

     「古来より宇佐神宮と共に豊前国を代表する大神社だった。 辛国息長大姫大目

神社と忍骨神社に正一位の神階が与えられたのは、承和10年(843年)で、

これは奈良の大神神社(859年)、石上神宮(868年)、大和神社(897年)が

正一位になった年よりはるかに早い。

平安時代初期における香春神社の社格は非常に高く、現在豊前国の一宮は、

一般的に宇佐神宮とされているが、古い資料の中には香春神社を一宮と記して

いるものもある。」

 

「『豊前国風土記』逸文には、辛国息長大姫大目命は、昔神羅より渡って来た神

であると書かれている。」

「応神天皇の母で三韓征伐を行い、朝鮮半島支配に成功した神功皇后は、

『古事記』において息長帯比売命・大帯比売命と記されている。辛国は三韓征伐

を行った韓国に通じる。辛国息長大姫大目命と神功皇后の同一性が指摘されて

いる。」

 

     ・・・おやおや、辛国息長大姫(大目姫)からくにしなおおひめ(おおめひめ)

     いう人は、新羅から渡来してきた神であって、神功皇后と同一とも考えられる

     のだそうです。

     おまけに、豊比売命(とよひめ)とも同一などと書かれていて、訳が分かり

     ません。

     

p182

 

ここの神主をしている鶴賀だと自己紹介された。 天保十年の「太宰管内志」に香春神社の

宮司について「神官三家あり、赤染家二家、鶴賀一家なり」と書かれているが、その鶴賀氏

であった。 ・・・赤染氏も鶴賀氏も、宇佐神宮で古くから禰宜を務めた辛嶋氏同様、

新羅=伽耶系の渡来人の裔だったようだ。

 

 

p189

 

宇佐地方は池の多いところで、宇佐神宮の池も含め、大方は、灌漑用に渡来人が作ったもの

と考えられている。 

 

p191

 

京都(石清水八幡宮)や鎌倉(鶴岡八幡宮)まで勧請され、今日全国十二万の神社のうち

四万余に及ぶ八幡神社の総社となった宇佐八幡宮の創祀の事情は必ずしも明らかになって

はいない。 

 

p192

 

八幡の歴史に関しては、古代にあっては徴すべき文献がほとんどなく、「宇佐八幡託宣集」

なるものが残っているが、これは中古仏僧が編んだもので、内容に齟齬があって、・・・・

 

・・・宇佐八幡は辛嶋氏によって奉祀されていた。 宇佐八幡の出現についての託宣の

意味は、宇佐の菱形池のあたり、小倉山の麓を占居する鍛冶集団の守護神が、辛嶋氏に

よって韓国から日本に移された、ということであろう。

 

p193

 

辛嶋氏は、巫女として、女の禰宜として古くから宇佐八幡に仕えてきた。赤染氏などと

同様、秦氏系の渡来氏族である。

 

宇佐八幡の奉祀者には、辛嶋氏に次いで大神(おおが)氏、宇佐氏が加わった。 大神氏は、

三輪神社を祀っていた例の三輪氏の流れを汲む者で、新羅=伽耶系の渡来氏族とも考えら

れており、宇佐八幡の奉祀者に加わったことは、こうした説の傍証ともなるだろう。

 

大神氏は、大和朝廷との結びつきが強く、朝廷によって送り込まれたともみなされている。

 

平安末期ごろには、辛嶋氏は神社から排除されてしまう。そして大神氏が主導権を握る

とともに、宇佐八幡は国家権力と結びつくようになるのである。

 

==>> これは、すでに読んだ部分である出雲vs朝廷と似たような構図ですね。

     ここでは北九州vs朝廷という対立です。

     大神氏の読み方は、ここでは「おおが」とありますが、奈良の方の大神氏は

     「おおみわ」と読むようです。

     しかし、上記にあるようにこの「おおが」氏も「おおみわ」氏の三輪氏の

     流れだと書いてありますから、新羅=伽耶系ということになります。

     その渡来系の大神氏が大和朝廷側について、同じく渡来系の辛嶋氏と争った

     ことになりますね。

     ちなみに、宇佐氏の祖は菟狭津彦命(うさつひこのみこと)で、日本の豪族で

     あり、宇佐国造であると書いてあります。渡来系ではなさそうです。

 

     その後は、こちらのサイトにあるように、宇佐氏が最終的には実権を掌握

     したようです。

     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E6%B0%8F

     「当初は大宮司職は和人の大神氏(おおが)が、祭祀は渡来系氏族の辛嶋氏

(からしま)が掌握していたが、道鏡事件が起こると宇佐池守が台頭して宮司に

任じられ、宇佐氏の掌握するところとなった。」

 

 

p195

 

今日、豊国には、仏教公伝以前に仏教が入り込んでいた、と考えられている。その仏教は、

百済仏教ではなく、新羅の仏教であった。 

 

神が仏法を悦び、また仏法によってのみ救済されるという神仏習合の教説は、十世紀

には日本全土にひろまり、所在の神宮・神社に神宮寺が建ち、僧による神前読経が恒式化

するが、この画期的な教説が具体化した日本最初の神は、宇佐八幡であった

 

p196

 

崇仏派の馬子は、排仏派の物部守屋らと戦うために、すでに神仏習合をなしとげていた

宇佐八幡の力を借りる必要があったのであろう。

 

豊国は、先端技術の面だけでなく、文化の面でも先進の地域だった。

 

==>> ということで、なんと神仏習合は宇佐八幡から始まったようです。

     そして、蘇我氏vs物部氏の戦いがあって、「最終的に蘇我氏が物部氏を滅ぼし、

聖徳太子をはじめとする当時の皇族たちが仏教を布教していくことになる」

という歴史になっていくわけですね。

 

     ところで、ここで、新羅仏教と百済仏教の関係をチェックしてみます。

     

     こちらの個人のサイトなんですが、ちょっとヒントになりそうなことが

     書いてありました。

     百済仏像の蘇我氏、新羅仏教の秦氏。

     https://ameblo.jp/tohokei5kazu/entry-11990151098.html

     「蘇我さんの伝えたのは、朝鮮の百済の仏教だという。ルーツは中国南朝仏教。

一方、聖徳太子さんが広めた仏教は、高句麗の流れを汲む新羅の仏教だったのだ。

それは秦氏が導いたのだという。仲介していたのだという。ルーツは中国北朝

仏教。扶余と同じツングース系の高句麗の流れだという。天を祭る、太陽神を

祭る、ツングース系だという。それが新羅に伝わった。新羅の仏教は、弥勒信仰

だという。自然崇拝である新羅固有のシャーマニズムを内包しているという。」

 

秦氏に関してのサイトには:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B0%8F

「新羅系渡来氏族。聖徳太子に仕えた秦河勝は新羅仏教系統を信奉していたが、

これは蘇我氏と漢氏が百済仏教を信奉していたのと対照的である。」と書いて

ありますので、上のサイトと同様かと見えます。

(ただし、百済系渡来氏族などいろんな説があるようです。)

 

一方で、こちらのサイトによれば、聖徳太子が仏教を学んだのは、

百済でも新羅でもなく、高句麗だったようです。

https://rekijin.com/?p=29918

高句麗から来日した僧・恵慈(えじ)を師として仏教を学んだ聖徳太子は・・

・・三つの経典の注釈書を記し・・・」

と述べています。

 

しかし、仏教伝来とか公伝という意味では、どこのサイトでも百済から伝来した

と書いていまして、新羅からというのは、公伝ということではなく、渡来人

自身が私的にもちこんでいたものではないかと見えます。

 

 

今回は、日本最古と思われる神社がいろいろと出てきて、神様たちもぐちゃぐちゃですが、

少なくとも、埼玉県の金鑚神社と奈良の三輪山・大神神社と纏向遺跡は是非見に行きたい

と思います。

 

こういう本を読んでいると、あちこち行きたくなるので困りますねえ・・・

 

 

では、次回は「第七章 慶州の堂」という最終章を読んでいきます。

 

===== 次回その4 に続きます =====

 岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」と「原始の神社をもとめて」を読む ―4(完)― 森だけが神社の本来の姿、 調べるほどに新羅が近くなる神道 (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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