村井康彦著「出雲と大和」を読む ―2(完)― 邪馬台国は出雲勢力、霊石信仰から神鏡信仰・社殿へ、出雲の高層社殿

村井康彦著「出雲と大和」を読む ―2(完)― 邪馬台国は出雲勢力、霊石信仰から神鏡信仰・社殿へ、出雲の高層社殿

 

 


 

p119

 

大国主神が葦原中国を天津日継(あまつひつぎ)(天皇家)に献上するのと引き替えに、

天皇の宮殿のような立派な宮の造営を要求したことは知られる通りである。 これも

国譲りであったからこそ得られた成果であったろう。

 

・・・しかしこの天孫降臨の話で不可解なのは、葦原中国の統治権を得た天孫の降臨先が、

なぜ大和ではなく、九州日向の高千穂の峯(鹿児島県霧島、又は宮崎県高千穂峡とする)

であったのか、である。地上全土を譲られたのであれば一挙に本拠地の大和に降ってしかる

べきではないか。

 

==>> これに関しては超高層の建物が出雲大社にあったということが分かってきて

     いるようです。

     https://www.kokugakuin.ac.jp/article/53888

     「この巨木は3本を束ねて一柱とし、かつての出雲大社の棟を支えていた可能性

が高い。というのも、大社には古代の巨大な本殿の設計図とされる「金輪御造営

差図」が伝わるが、そこに描かれた柱と類似。出雲大社の本殿は高さ16

(約48m)という社伝があり、その一部とも考えられる。」

     「実は歴史書『古事記』にも、出雲大社の成り立ちとして巨大神殿の逸話が出て

くる。出雲大社に祀られる大國主神(おおくにぬしのかみ)は、国土の開拓で

活躍した〝国づくりの神〟として登場する。だがある時、アマテラスオオミカミ

の命を受けたタケミカヅチ(茨城県・鹿島神宮に祀られる)から「国を譲って

ほしい」と交渉されると、大國主神は了承する代わりに一つの条件を出した。

それは「天皇と同じ立派な宮殿をつくってほしい」ということ。それができれば

そこに静かに鎮まると。具体的には「宮殿の柱を太く立て、立派な千木を差し上

げてほしい」と言ったという。それこそが出雲大社である。」

 

・・・そして、なぜ日向なのか、ですね。

     確かに不思議です。

 

 

p122

 

天照大神から与えられたとされる「十種神宝」とその呪法は、実際には大国主神が正妻と

ともに得た力であり、出雲王家の間で伝えられていたのである。

それが神武に献上された。 とくに呪法の献上=放棄は重い決断であったにちがいない。

 

・・・呪術を伝えた物部氏が大和朝廷になってからも重用され、献上されたはずの呪術

がその後も物部氏に保持された理由と考える。

 

==>> まず「十種神宝」とはなんでしょうか。   

https://kotobank.jp/word/%E5%8D%81%E7%A8%AE%E7%A5%9E%E5%AE%9D-104725

     「『旧事本紀』にニギハヤヒノミコトが天つ神の命を受けて,大和に天降るとき

授かったとされる 10種の神宝をさす。おきつ鏡,辺都 (へつ) 鏡,八握 (やつ

かの) 剣,生玉 (いくたま) ,足玉 (たるたま) ,死反玉 (まかるかえしのたま)

道反玉 (ちがえしのたま) ,蛇比礼 (へびのひれ) ,蜂比礼,品物 (くさものの)

比礼の 10種」

 

これと三種の神器との関連wikipediaでみると、下の記述があります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%A8%AE%E7%A5%9E%E5%AE%9D

「分類すれば、2種、剣1種、玉4種、比礼(女性が首に結ばずに掛け、左右

から同じ長さで前に垂らすスカーフ様のもの)3種となる。これを三種の神器に

対応させて、鏡は八咫鏡、剣と比礼は草薙剣、玉は八尺瓊勾玉であるとする説も

ある。」

 

・・・私が気になるのは、出雲王家のこの呪術が、卑弥呼が使ったとされる

鬼道と同じものなのか、という点です。

こちらのサイトでは、下のような説明があります。

日本の呪術の歴史~シャーマニズム

https://www.yurubossa.com/jyujyutu/#i-2

「物部氏は古代からの原始神道を信仰。物部氏は、饒速日命(に ぎはやひの

みこと)伝来の「十種神宝(とくさのかんだから)」を信奉していたといいます。

「十種神宝」はシャーマニックな原始神道ともいわれていますが、その実体は

明らかになっていません。」

 

p125

 

狭井川沿いの辺りは、現在でも「出雲屋敷」と呼ばれており、姫の屋敷にふさわしい雰囲気

を残している。 この一帯には祭祀遺跡もあり、この姫が三輪山(大物主神)を祭る巫女

的性格をもっていたことを暗示する。 神武の后として、大物主神の巫女が選ばれたのは、

出雲勢力の奉祭する出雲の神の力を取り込み、大和に残る出雲族の服属を意図したもので

あったといってよいであろう。

 

==>> この出雲屋敷に関しては、こちらのサイトに下の記述があります。

     https://www.zero-position.com/entry/2022/03/21/174500

     「『我が国の建国にかかわる極めて重要な場所』と書かれているように、

イスケヨリヒメ(古事記)は、初代・神武天皇(イワレヒコ)の皇后で、二代目

の綏靖(すいぜい)天皇(カムヌナカワミミ)の御母上。

ヤマト創世の古代史(弥生時代)において、重要人物の一人で、彼女の宮が

出雲屋敷と称されていました。

なお、イスケヨリヒメは、古事記では後にヒメタタライスケヨリヒメとされ、一

方、日本書紀ではヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛)とされ、古代製鉄

(刀剣)および銅精錬(銅鐸=鈴)を暗示するタタラの名を持つ姫様です。」

 

・・・この解説を読むと、出雲族の呪術も大切ですが、製鉄技術の

重要な要素としてあるみたいですね。

 

 

p131

 

鏡は人を写すだけでなく、人の霊を込めるうつわだとする観念が記紀の時代にはすでに

生まれており、天照大神の依代を鏡として祭る意味を示すために、この天の岩戸の話を

作り出したのではないだろうか。 天照大神が、鏡を自分と思って奉祭するよう求めた

のがまさにその表れであり、それが「同殿共床」の慣習を生んだのである。

 

==>> ここで思い出すのは「その1のp028」に出てきた、霊石と霊鏡の違いです。

     つまり、ご神体を「石」とするか「鏡」とするかですね。

     「霊鏡」という言葉は、インターネット検索に出てこないので、近い意味

     と思われる「神鏡」の解説を読んでみます。

     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%8F%A1

     「神鏡(しんきょう)とは、神聖な鏡という意味の一般名詞である。神霊の

ご神体として神社の本殿に祀られている鏡もあれば、または拝殿の神前に置か

れている鏡もある。」

「日本神道では太陽神である天照大神(アマテラスオオカミ)を最上の神として

崇め祀るので、太陽を象徴する鏡で以て御神体とし、神社に祀るとされている。

『日本書紀』においては、天照大神は孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に、

「これらの鏡を私の御魂として、拝するように常に奉りなさい」と記述されて

いる。」

 

神鏡の発祥は中国に遡ると言われる。中国では日本以上に多数の古代神鏡が

出土されており、日本で一番古いと言われる「青龍三年銘方格規矩四神鏡」が

西暦235年とされるものであるのに比して、中国で最古とされる神鏡は

「葉脈文鏡」であり、紀元前1600~770年と日本と桁違いに古い。」

 

・・・この内容であれば、神鏡=霊鏡と考えてよさそうです。

     この神鏡の思想が中国から来たと考えれば、霊石が日本古来のもので、

     霊鏡は渡来系と考えていいんでしょうか。

     もちろん、霊石が縄文時代からのものだとしても、それがさらに古い

     渡来系と考えるのも自然なことなんですが。

 

     つまり、石を神とみて信仰することも、世界で広くみられるようですからね。

     https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E7%A5%9E-30477

     「石神(いしがみ)・・・ある種の自然石や人工を加えた石棒・玉石(たまいし)

などに宿る神霊に対する信仰。石神(しゃくじん)ともいう。原始土俗宗教の一種

であり、世界各地にみられる。」

 

p132

 

降臨した天皇は代々、鏡を天照大神と思い、住居の床に飾り祭って寝所を共にしたの

である。 つまり同殿共床のはじまりは、天孫降臨したことで天照大神との(天上界に

おける)日常的な次元での関わりがなくなったのがきっかけであった。

 

・・・それにともない鏡の非日常の場での奉祭が求められることになる。

 

==>> このような神話的な話を読んでいて、いつも思うのですが、

     どのような人物がこういう物語と天皇家での慣習を作ったんでしょうね。

     それを真面目に何百年もやってきたということ自体が、私には信じられ

     ません。

             

p133

 

鏡を神とみる観念は、さらに鏡を祭るための、よりふさわしい形を求めるに至る。

それが「社殿」祭祀であった。 ただしその建物は、隔離された非日常の場所になければ

ならない。 これが伊勢神宮の創始へと連なることは、もはや説明を要しないが、実現

するまでにはなお歳月を要した。

 

==>> なるほど、社殿(本殿)のある神社とはそういう流れでできたんですね。

     ということは、やはり「社殿のない」神社、「山や石を御神体とする」神社は、

     大和朝廷とは一線を画する歴史を担ってきたということなのでしょうか。

     それを感じたくて参拝したのが、三つの神社でした。

 

     本殿がない三大神社を巡る: その3 奈良県 三輪山・大神神社

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/11/blog-post_22.html

     「本殿がない三大神社のうち、金鑚(かなさな)神社と諏訪大社にはすでに詣で

たので、今回は最後の大神(おおみわ)神社に行きました。」

 

 

p136

 

『日本書紀』垂仁天皇二十五年三月の記述によると、「天照大神を豊耜(鍬)入姫命

(とよすきいりひめのみこと)から離し、その奉祭を倭姫命に託した

・・・伊勢の国に到った時、天照大神が「この神風の伊勢国は美しい国だからここに

居たい」と教示なさったので、その祠を伊勢国に建て、斎宮を五十鈴川のほとりにたて

られた」とある。

・・・こうして天照大神=鏡は伊勢の地に祭られ、これが伊勢神宮の創始となった。

 

==>> この辺りの事情については、wikipediaに書いてあります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E9%8D%AC%E5%85%A5%E5%A7%AB%E5%91%BD

     要するに、崇神天皇の時に「百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった」    

     原因が、「天照大神(のちの伊勢神宮祭神)・倭大国魂神(のちの大和神社祭神)

2神を居所に祀った」ことにあると考えて、「天照大神は豊鍬入姫命につけて」

一方「倭大国魂神は渟名城入姫命につけて」、分けて祀らせたけれども

失敗してしまった。

その後、垂仁天皇が「天照大神は豊鍬入姫命から離され、倭姫命(垂仁天皇皇女)

に」託した、となっています。

 

・・・そして、考証のところに、「豊鍬入姫命を邪馬台国における卑弥呼宗女の

台与(壹與/臺與)に比定する説がある」という記述があります。

その暗示するところは、天照大神が古い時代の邪馬台国の台与を嫌ったと

いうことなんでしょうか。

邪馬台国と大和朝廷の確執があったってことなんでしょうか。

 

 

p140

 

巡行は最後に伊勢国に入る。 ・・・注目されるのは、出雲系の神々が登場し、結構活躍

していることである。

・・・ちなみに、伊勢系の神々がいずれも「鏡座」(ご神体が鏡であるの意)であるのに

対して、こられ出雲系の神々が「石座」(同じく磐座)とされていた・・・

 

“伊勢の出雲”が伊勢神宮の創建に関わっていたことに留意しておきたいと思う。

・・・出雲系の神々は伊勢神宮の内外でいまも祭られているのである。

 

==>> この辺りが何やら複雑ですね。

     邪馬台国が出雲系で、日向を発した大和朝廷と争ったという構図ならシンプル

     で分かりやすいんですが、どうもそう単純ではなさそうです。

     だから古代の歴史は面白いんでしょうが・・・

 

p144

 

そして一方が、土地に住む人々によって祭られる土着神であるのに対して、他方は国家の

社稷(しゃしょく)、天下の宗廟であった。 その点で伊勢神宮と出雲大社とは祭祀=信仰

における二つの型を示してくれているといえよう。

 

p166

 

同じ出雲系でも、中央の政治に関与した氏族は、葛城氏や蘇我氏のように、いっときの

栄光のあとに無残な没落が待っていた。これに対して出雲氏・海部氏・尾張氏などは、

神を奉祭する祝(はふり)の道を歩んだことで存続し、長く血族を伝えている。

 

そのなかで少し特異な生き方をしたのが物部氏であろう。

・・・本宗家は滅びるが、・・・天武天皇に仕えて昇進した物部麻呂の流れは、石上朝臣

(いそのかみのあそん)と名を改め、中央で官人を出す家筋となった

むろん石上神宮(奈良県天理市)の神宝を守り、国譲り以来の十種神宝を今の世に伝えて

いる。

 

==>> ここで、まず石上(いそのかみ)神宮をチェックしておきましょう。

     https://isonokami.jp/about/index.html

     「当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として

古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の

守護神として信仰されてきました。」

当神宮にはかつては本殿がなく、拝殿後方の禁足地(きんそくち)を御本地

(ごほんち)と称し、その中央に主祭神が埋斎され、諸神は拝殿に配祀されて

いました。明治7年菅政友(かんまさとも)大宮司により禁足地が発掘され、

御神体の出御を仰ぎ、大正2年御本殿が造営されました。」

・・・・つまり、大正時代以前は、大神(おおみわ)神社や諏訪大社などと

同じように、本殿を持っていなかった神社だったんですね。

 

十種神宝については、wikipediaには以下の記事があります。

なんだか微妙な雰囲気です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%A8%AE%E7%A5%9E%E5%AE%9D

「石上神宮の祭神である布留御魂神は十種神宝のことであるとする説もある。

石上神宮に伝わる鎮魂法では「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱える。

本物か不明であるが、大阪市平野区喜連6丁目にある式内楯原神社内の

神寶十種之宮に、偶然、町の古道具屋で発見されたという十種神宝が祀られて

いる。石上神宮側から返還要請があったにもかかわらず、返していないという。」

 

その十種神宝のゴタゴタについては、こちらにいきさつが書かれています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%8F%E5%86%85%E6%A5%AF%E5%8E%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE

・・・石上神宮は、それが本物であろうと考えて返還要請をしているの

でしょうか??

 

     それはともあれ、物部氏がどのような呪術をやっていたのか、興味が

     湧いてきます。 いろいろ検索してみても、ほとんど謎のようですが。

 

 

p184

 

『出雲国風土記』には記紀に見る出雲神話が取り上げられていない、というのが通説

であるが、私はまったくそうは思わない。随所に連動する話題が出てくるではないか。

記紀神話をあくまで出雲の立場で受けとめ、土地に即した物語として再構成している

のであって、むしろそれこそが望ましい姿というべきである。

 

p204

 

出雲(杵築)大社がいつ創建されたのか、さまざまに語られているがいまだ定説はない。

壮大な社殿の造営は「国譲り」の条件であったはずであるが、その伝承を跡づけること

はできないまま、こんにちに及んでいる。

・・・これは天下の宗廟、伊勢神宮につぃてもいえることであって、すべてを語って

くれる史料があると思う方が欲張りなのかもしれない。

 

==>> この著者の話の進め方から感じるのは、『出雲国風土記』のほうが『古事記』

     や『日本書紀』よりも、事実に近いことを書いているのではないかと

     いうことなんですが、結局その風土記にしても、しっかりとした

     政治体制ができてから書かれたものですから、その起源の時代まで

     遡った史実にまでは届かないということなのでしょう。

 

p205

 

磐座祭祀から社殿祭祀への発展といった問題もあり、“創建”を明らかにすること自体、

実は困難な課題であることを考えておかねばならないだろう。 

 

==>> まあ、文字を使って歴史を伝えるということが、そのような創建の時代には

     できなかったことなのでしょうから、よほどの考古学的史料が発見されない

     ことには無理な話なんでしょうね。

     ましてや、石や山が御神体という時代ならなおさらですね。

 

 

p230

 

重要なことは、存在形態のいかんを問わず、国司神社のあるところには必ず近辺に

鉄生産の痕跡や伝承があったという事実である。 大国主神信仰は、原始古代から中世、

さらには近世に及ぶ鉄生産との関わりのなかでひろがった。

大国主神(大己貴神)を祭る国司神社=国主神社がその微証である。

 

==>> この鉄生産と時の政権との関係については、その1のp027にも

     出てきましたし、過去に読んだこちらの本にも、下のような記述があり

     ました。

     岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/09/blog-post_30.html

     「p164

それでは新羅=伽耶系の出雲の勢力は、なぜ大和へ、とりわけ三輪地方へ進出

したのであろうか? 一言で言って、鉄のためだと私は考えている。

たとえば河上邦彦氏は「三輪山と邪馬台国」・・・という一文の中で、「三輪山の

麓になぜ古代の王権」が生まれたかの理由として、「三輪山で鉄が採れる」から

だと書いている。

実際、山麓を流れる狭井川では良質の砂鉄が採れるし、「三輪山の山頂から三分

の一くらいの高さの所までは、角閃斑糲岩という岩の層であり、これは大量に

鉄分を含んだ岩」だという。」

 

p231

 

この辺りには東西に鉱脈が走っていた。 近辺にその名も金持(かもち)神社があり、

鉄山(かなやま)(鉄山川)といった地名があるのもその証左である。

 

・・・その両村それぞれに鴨神社――美甘(みかも)神社と御鴨神社――が存して

いる。

 

p234

 

両社のもとは、近くにある宮座(みやくら)山の磐座祭祀にはじまる。

 

p235

 

ともあれ、この岡山県西北部の山間地域には、おそらく弥生時代に遡るであろう磐座信仰

にはじまり、素朴な社での祭祀をへて、集落の中に営まれる本格的な社殿祭祀へと移行

したいわば祭祀の歴史、ことに鉄生産に関わった人びとの信仰の姿がしのばれる。

いってみればここには“凝縮された出雲”があったのである。

 

==>> ここでは、なんと言っても「金持神社」が気になりますね。

     こちらに地名由来が書いてありました。

     https://www.kamochijinja.jp/history/

     「「金持」と言う縁起の良い地名は、全国を探してもここ日野町にしかありま

せん。かつて、この地は昔人が「黄金にもまさる」と大切にした鉄の産地でした。

狩山(アサカリ)、野谷山(ノダニ)、平畠山(ヒラバタケ)と言う三つの鉄山

あり、これらの鉄山を持つ村と言う意味で「かなもち」と言い、それが略されて

「かもち」となったと言われています。」

 

ふたつのミカモ神社については、こちらにいきさつが書かれています。

https://www.okayama-jinjacho.or.jp/search/19144/

「当社は太古から宮座山(現新庄村)に美甘郷の総鎮守神として味鋤高彦根命を

祭る大宮所があった。 御祭神の別名を御鴨神と申し上げたことから御鴨神社

と呼ばれた。」

「その後火災に遭い、美甘と新庄の2ヶ所に分けて祀られることになり、

三条天皇の長和5年本庄宮原の宮峪に遷座する。」

 

p244

 

訪れた神社の社殿前に置かれた狛犬が、もし前脚を折り曲げてかがみこみ、後脚は

すっくとのばしてお尻を高く持ち上げていたら、その神社は出雲系である。

逆は必ずしも真ならずで、出雲系の神社にすべてこの種の狛犬が置かれているわけでは

ないのだが。

 

==>> 出雲型の狛犬というのがあるようです。

     こちらのサイトにはいくつかのタイプがあるようですが、一番下の写真が

     お尻を持ち上げたタイプですね。

     http://komainuya.com/komainukata/4-izumo/izumo.html

     「島根県松江市近郊から産出する、砂岩来待石で彫られた狛犬が出雲型狛犬

よばれている。」

「明治大正期に滋賀県も狛犬奉納のピークがあり、出雲構え型を写した地元

石工作の狛犬。」

 

別のサイトには、このような解説がありました。

【狛犬の歴史】8-8. 出雲型(かまえ型

出雲地方では、後ろ脚を跳ね上げたり、腰を大きく浮かし前脚をかがめ、今にも

飛びかかろうとする躍動的な狛犬が作られました。これを出雲型(かまえ型)と

いいます。天明年間(1781年〜1788年)になって生産が始まると、江戸時代末

期から明治、大正にかけて大量に造られました。出雲型は北前船によって、北海

道の日本海沿岸や、東北・北陸などの地方に多くの狛犬が運ばれ、今でも日本海

沿岸では多くの出雲型が見られます。」

 

 

p250

 

以上の三つのデータを重ね合わせると何がいえるであろうか。

それは、邪馬台国は出雲勢力の立てたクニであったーー。

 

この結論は我ながら俄かに信じ難かったが、これを仮説として検討を進めるなかで

疑う余地のない実説となった。

 

==>> 著者の結論なんです。

     そこで三つのデータというのは何なのか。

     短い言葉でまとめると、下のような感じです。

1. 三輪山の存在。なぜ大和に出雲なのか。

2. 8世紀のはじめ、出雲国造が朝廷に奏上した神賀詞(かむよごと)の

中に出てくる出雲系の神々。

3. 卑弥呼の名が『古事記』『日本書紀』に全く出てこないこと。

 

     これらの状況証拠を著者の論理で突き詰めていくと、邪馬台国は出雲勢力

     のクニであったということになるそうです。

 

私自身の感想としては、出雲の信仰、卑弥呼の鬼道、大和朝廷の神道という視点から

みて、どういう繋がりになるのだろうという疑問が残ります。

 

つまり、出雲の信仰は霊石的なものだったとすると、卑弥呼が使っていたと思われる

霊鏡との繋がりの部分がどうなるのかなという疑問です。

卑弥呼が鬼道に鏡を使っていなかったとしても、大陸から渡来した鏡などはどのように

使われていたのかが、気になります。

 



==== 完 ====

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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