岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」を読む ―2― 日本海は自由な交易ルート、敦賀と出雲はほぼ新羅? 出雲にランドマーク・タワー?? 素戔嗚尊(スサノウノミコト)は新羅の神か?
岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」を読む ―2― 日本海は自由な交易ルート、敦賀と出雲はほぼ新羅? 出雲にランドマーク・タワー?? 素戔嗚尊(スサノウノミコト)は新羅の神か?
「第三章 敦賀という場所」
p080
伊奢沙和気(いささわけ)=天日槍説は、すでに本居宣長が『古事記伝』の中で、気比神宮
の祭神について「異国の事に故ある神なるべし、其に就いて、書紀垂神巻の都怒我阿羅斯等
が事、又天日槍が事に、いささか思ひ依れる事もあれど、詳ならねば云いがたし」と、・・・
==>> ここでは敦賀の気比神宮の祭神に関して、本居宣長を含む複数の学者が
伊奢沙和気(いささわけ)=天日槍説を支持している旨を述べています。
そこで、気比神宮(けひじんぐう)のサイトで確認しましょう。
「伊奢沙別命は、笥飯大神(けひのおおかみ)、御食津大神とも称し、2千有余
年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承され今に
神籬磐境(ひもろぎいわさか)の形態を留めている。」
Wikipediaでは、以下のように「日本書紀」に記載されているとしています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%A3%E6%AF%94%E7%A5%9E%E5%AE%AE
「神宮の祭神は上古より当地で祀られた在地神、特に海人族によって祀られた
海神であると解されている。一方、『日本書紀』[原 9]に新羅王子の天日槍の
神宝として見える「胆狭浅大刀(いささのたち)」との関連性の指摘があり、
イザサワケを天日槍にあてて新羅由来と見る説もある。」
また、上記の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)に関しては、
本居宣長の文脈は分かりませんが、以下のwikipediaの記述があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E6%80%92%E6%88%91%E9%98%BF%E7%BE%85%E6%96%AF%E7%AD%89
「『日本書紀』では別名を「于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)」と
する。
意富加羅国(大加耶/大加羅、おほからのくに、現在の韓国南部)の王子で、
地名「敦賀(つるが)」の由来の人物といわれる。」
「『日本書紀』では垂仁天皇2年条の分注として2つの所伝が記載されている。
1つ目として崇神天皇の時、額に角の生えた都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲
国を経て笥飯浦に来着したという。そしてこれが「角鹿(つぬが)」の語源で
あるとしている(角鹿からのちに敦賀に転訛)。」
p085
この辺はどこへ行っても渡来人の痕跡につき当たる、と橋本さんは言われた。
白木の村については、国号を鶏林と称し、鶏を神聖視する新羅にならって、鶏を飼わず、
卵も食べない風習がある、という噂があって、ものの本にも記されているので、その真偽
を訊ねてみると、今ではそんなことはないが、それでも年寄りにはそういう人がいますよ、
という答えが返ってきた。
==>> この白木の村というのは、敦賀半島の原発からさらに峠を一つ越えたところ
だとの記述があります。
地図でみると、若狭湾に面し、もんじゅ発電所の南西に白木という地名があり
ます。
p091
「延喜式」にはすでに信露貴彦(しろきひこ)神社として出ているが、シラキヒコと
読み、シロキもシラキおもちろん新羅だ。 この式内社にはおうひとつ論社があり、
それは・・・今庄の新羅神社なのである。
・・・「日本の神々」第八巻の筆者はもう一歩踏み込み、沓見(くつみ)には、山を越えた
西側の菅浜同様「洗濯物を朝鮮のキヌタに似た木棒で打って洗ったり足で踏んで洗うと
いった古い風俗が多く残っていた」のであり、「そうした風俗や社名、社家の姓などから
みて、当社は古代の新羅系渡来人と深いつながりがあったものとみられ、同じ敦賀半島
の白城神社と同系の氏族が奉祀した神社である可能性がきわめて高い」と書くのである。
==>> まずは信露貴彦(しろきひこ)神社をチェックします。
(公式サイトが見当たらないので、こちらで失礼します)
https://www.genbu.net/data/etizen/siragihiko_title.htm
「創祀年代は不詳。
周囲には多数の古墳が存在し、古代から存在していたと考えられている。
近世には、「白木大明神」「志呂気神社」などとも呼ばれ、同じく沓見に鎮座して
いる久豆彌神社を女ノ宮、当社を男ノ宮として崇敬されている。
元は現在地の南方「神所・下の森」と呼ばれる地にあったと伝えられている。
社名や福井という場所を考えると、新羅の男神を祀っているとしか思えないが、
祭神は、天孫・迩迩藝命。」
念のために、上記にある白城(しらき)神社も確認しておきます。
http://www.komainu.org/fukui/turugasi/Shiraki/siraki.html
「御祭神 鵜茅葺不合尊(うがやぶきあえずのみこと)
昔、朝鮮半島に栄えた新羅の国の人たちがはるばる日本海を渡ってこの白木の
浜に上陸して住んだとの説や、あるいは敦賀に来た新羅人達が越前若狭湾近江
路へと分かれていった時代にこの白木にも来て住んだのではないかといわれ、
白木(シラキ)の地名はこれに起因するといいます。しかしながら新羅人の上陸
したという時代よりもはるかに古く、縄文時代後期の土器破片などの発見に
よって既に古代人が住んでいたことが確認されています。」
・・・おお、このご祭神は先に読んだ本に詳しく書いてありました。
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/09/blog-post_19.html
「p207
子供は鵜の羽の屋根が葺き終わらないうちに産まれた、という意味で
ウガヤフキアヘズと名づけられた。 この子は成長し、トヨタマビメの妹つまり
叔母にあたるタマヨリビメと結婚する。 そしてこのヒメとの間に初代の
神武天皇が産まれることになる。」
・・・つまり、神武天皇のお父さんなんですね。
p091
因みに信露貴彦神社の社職は代々龍頭家が務め、金達寿氏の一行が訪ねた時、当時の
宮司は「龍頭さんて、おもしろい苗字ですね」と言われて、「そうかもしれない。
わたしは朝鮮系ですからな。 先祖は向こうから来たものです」と答えている。
もう一つ私が注目するのは、沓見に堂山という地名があることである。
堂(タン)、あるいは神堂(シンダン)と総称される、日本の神社に相当する聖地が
朝鮮半島のどの村にもかつてはあったし、今も一部には残っている。
p093
近年、湖南の守山町に伊勢遺跡という三世紀の大型遺跡が発掘されるや、「邪馬台国
近江説」という表題の本がたて続けに二冊も出版されたけれども、渡来人を中心と
する敦賀=近江の重要性は、今後一層大きくなってゆくであろう。
==>> ここで、信露貴彦神社の宮司ご本人が朝鮮系と語っているのですから、
そのようなルーツの神社であることは確かなのでしょう。
そして、著者は、堂(タン)というものが、日本の神社のルーツなの
ではないかと説を展開していきます。
p095
今庄には新羅神社を上の宮として、下の宮に白髭神社があり、さらにもう一つ荒井地区に
新羅神社がある。 このあたりは地名にも新羅の色が濃く・・・・・
今庄自体もかつては今城と書き、「此れ白城の誤転する乎」と「福井県南条郡誌」には
記されている。 今庄一帯が、敦賀辺と同様、古くからの新羅系渡来人の住んだ土地で
あるのはまちがいないだろう。
==>> 今庄の古代史関連はインターネットでは見つかりませんでしたが、
「福井県史」には関連すると思われる目次がありました。
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/1-00.htm
「『福井県史』通史編1 原始・古代 目次 」
「第二節 継体王権の出現
一 継体天皇の出自 越前か近江か 継体天皇の父系 息長氏の性格 気比
大神 継体天皇の母系 三尾氏と三国氏 三国の意義 二つの三尾氏
皇親か否か
二 継体天皇進出の背景 越前における農業の発展 越前・若狭の塩業 鉄と
馬の問題 海外との交流・交易 地方豪族連合 茨田・和・阿倍氏
三 継体天皇の治世 倭彦王説話の意味 継体天皇は平穏に迎えられたか
妥協による継体朝 相次ぐ「遷都」 継体朝の紀年と治世 百済との交渉
筑紫の動乱」
p108
伊賀多気神社・・・「式内社調査報告」・・・・「当社近傍には、石斧や鉄滓等が出土し、
あた彌生時代後期と思はれる土器も検出されてゐるので、渡来人を指導者とする製鉄
集団があって、その奉祀社であったのではないかとの推測もなされてゐる」
p109
現在出雲には、・・・近江や敦賀、・・・お隣の石見のようには、新羅、或いはそれに類する
白木、白城といった名のつく神社は一つもない。伴信友の記述によって、少なくとも江戸期
までそうした神社が出雲にもあったことが分かる。 ・・・出雲では、或る時期から出雲
国造家の意向によって、新羅色、ひろく言って朝鮮半島色が次第に消されていったのでは
ないかと思われる。
==>> 出雲地方には鉄に関する歴史がみられるので、新羅色は濃いと書いてある
のですが、一方で現在の出雲からはそれらしき気配が消されたような感じ
があるようです。
なぜなのか、その文脈が私にはまだ分かりません。
p109
水野氏は、スサノヲノミコトの本来の名はスサヲノミコト、或いはスソウノミコトである
とし、このスサヲ・スソウは古朝鮮語のススング・スサングであって、いずれも巫を意味
する・・・・ この神が新羅の神であることはますます確実になる・・・・
p110
素戔嗚尊(スサノウノミコト)は、新羅の神だとする水野氏の説は、大方の支持を得て
いるようで、それを否定したり、疑問視する所論は、管見の範囲ではあまり見当たらない。
もしこの説が正しいとするならば、日本には素戔嗚尊を祭神とする神社が全国にわたって
八千あるというのだから、この一事を以てしても、神社と新羅の関係を無視することは
できない。
==>> その素戔嗚尊をこちらで確認しておきましょう。
https://kotobank.jp/word/%E7%B4%A0%E6%88%94%E5%97%9A%E5%B0%8A-541600
「伊弉諾・伊弉冉尊(いざなぎいざなみのみこと)二神の子として(日本書紀)、
また伊弉諾尊の禊(みそぎ)のとき(古事記)などに日月神とともに出現した、
記紀神話の重要な神。出雲(いずも)系神話の始祖でもある。」
「この神の本質は根国にあって、そこから去来するところに求められる。また
その神名は地名須佐(すさ)と関連をもつとともに、さらに「すさ」は、根源には
新羅(しらぎ)の巫覡(ふげき)王・次次雄(ススン)に淵源(えんげん)をもつもので
あろう。この神には新羅への天降(あまくだ)りなど、朝鮮関係の記事が多い。
その信仰は、韓海人(からあま)を含む紀伊水軍によって朝鮮より運ばれ、渡来文
化と結び付く蕃神(ばんしん)的色彩を残しつつ、しだいに複雑な祖霊的神格とし
て紀伊より出雲に展開したと推定される。」
・・・上記のとおりで、日本大百科全書(ニッポニカ)「素戔嗚尊」の解説でも
この水野氏の説を是認しているようです。
「祇園信仰は,京都府の八坂神社や愛知県の津島神社をはじめとして,素戔嗚尊
を祭神とする神社を中核にひろまっており,神社の名称にも〈八坂〉〈祇園〉を
冠する例が多く,その祭礼も多くは〈祇園祭〉〈天王祭〉といい,夏祭である。」
・・・上記のとおりで、新羅の神が、スサノウノミコトとなって、日本の多くの
神社の祭神として、また祇園信仰の祭神として祀られているということのよう
です。
ここで思い出したのが、先に読んだこちらの本です。
ムーギー・キム著「そっか、日本と韓国って、そういう国だったのか」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/08/blog-post_18.html
「p110
私の幼少期の思い出のなかで印象深いのが「祇園祭」だ。
・・・しかし大人になり、山鉾巡行に祀られているなかでも重要な「御神体」が
「神功皇后」であり、その神話が両国間の集団的記憶に落とした甚大な影響を
知るにつれ、無邪気な気持ちで祇園祭を楽しめなくなっていくのであった。」
・・・・この著者は、京都生まれの在日3世なんですが、スサノウノミコトが
新羅の神様だと知ったら、少しは心が穏やかになるんじゃないかと思います。
p111
『出雲風土記』において新羅の名が出てくるのはここ一か所だけであり、新羅どころか、
韓国、韓人、漢人など朝鮮半島を思わせる言葉も、出雲郡の韓銍(からかま)の社という
神社の名前くらいのものだ。
『播磨国風土記』にあっては、新羅の王子天日槍についてのものを含めると、新羅に関する
言及は十二か所、韓国、韓人、漢人などへのもの十一か所、朝鮮半島を思わせる記述は、
全体で二十三か所に達するのである。
==>> 著者は、出雲と播磨を比較して、同じように渡来人がいた筈なのに、出雲
風土記では、かなり意図的な新羅関連を抹殺するような書き方になって
いることを示唆しています。
p111
『出雲風土記』は記紀より後に勘造され、勘造者たちは記紀の存在を知り、それらを
読んでいた可能性が強いにもかかわらず、とくに出雲神話についての記述は、全くと
言っていいほど異なる。
一例をあげるなら、素戔嗚尊は風土記の方にも登場するけれども、
記紀のような荒れ狂う神の面影は全くなく、おだやかで、目立たない一地方神にすぎず、
八岐大蛇退治の話も出てこない。出雲神話が記紀において、大和朝廷の人々によって大幅
に書き換えられているのは確かであり、それゆえ風土記の勘造者たちの方針は、そのような
書き換えに対するひそかな抗議であり、「在地首長層による自己主張」(上田正昭)とも
言いうる。
==>> ここには、出雲と大和朝廷の確執が示唆されているのですが、その背景に
なにがあったのかは、まだ腑に落ちません。
p112
水野祐氏によると、大和が出雲地方を征圧するまで、そこには三つの勢力があったという。
それは、最初に島根半島西部に定住し、杵築大社を祀った海人部の人たちと、そのあと
一世紀ごろ、朝鮮半島から渡来し、斐伊川を遡って西出雲の山間部に根拠を置いた、前述
の素戔嗚尊を奉ずる韓鍛冶の人々と、東出雲、意宇(おう)のあたりを根生いとする、熊野
大社を祀る人びとである。
そして韓鍛冶の人々は、・・・現在須佐神社の祀られている須佐に地盤をきずき、・・・意宇
地方を選挙した。 ・・・こうして西出雲の杵築の勢力と東の意宇の勢力が対立する。
・・・そこへ三世紀の末から四世紀の初頭にかけ、・・・・大和の勢力が入りこんで・・・
意宇氏の強力を得て須佐氏を排除・・・
意宇氏は出雲の国造に任じられ、熊野大社だけでなく杵築大社の祭祀権をも手中にし・・・
==>> つまり、3つの敵対するグループがあって、その中に渡来系でスサノウ
奉じる韓鍛冶の人たちいたけれども、熊野大社を祀る意宇のグループに
排除されたという説ですね。
従って、出雲風土記らはその渡来系の痕跡できるだけ消そういう意図が
あったのではないか、というストーリーでしょうか。
出雲国造(いずものくにのみやつこ)の意味を確認しておきます。
https://kotobank.jp/word/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%9B%BD%E9%80%A0-30898
「古代における出雲の豪族。出雲東部の意宇(おう)平野を本拠として台頭し、
5世紀末から6世紀なかばには、出雲全域にわたる地域国家を形成し王として
君臨した。しかし、6世紀後半から大和(やまと)国家の制圧が、まず西部に、
ついで意宇平野の東部から及んでくると、国造の地位を受け入れた。」
ところで、上記の杵築大社というのは出雲大社のことですが、
現在の名称に変更されたのは明治4年のことだそうです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%A4%A7%E7%A4%BE
「古代より杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれていたが、
1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。」
「出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。
・・・・大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に
太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠
れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に
「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)」
この信じられないほど高い立派な宮が、単なる作り話ではなかったと思われる
発見があったようです。
こちらにその想像図などが描かれています。
古代・出雲大社本殿の復元
https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/detail/kikan_27_idea.html
「出雲市に鎮座する日本最古の神社"出雲大社"には古来不思議な言い伝えがあ
った。その本殿が大昔、今の2倍の高さの16丈(48m)あったというのだ。」
「西暦2000年3月末、この境内を調査発掘中だった大社町教育委員会の発掘
チームが、地下1.5mのところで、偶然に不思議な木柱痕を掘りあてた。直径1m
をこえる大木の柱痕が3本組みになって、径3mにもなる形状を現したのだ。
伝説が出土したのである。最初に発見されたのは棟持ち柱で、同年9月には
目論見通り岩根御柱の発掘にも成功した。文字通り歴史的大発見であり、すぐに
本格的な学術発掘に切り替えられ、今も新しい発見が続いている。」
p122
出雲神社と、今はそこに合祀されている韓国伊太氐神社(からくにいたてじんじゃ)は、
十六島湾((うっぷるいわん)に注ぐ唐川を二キロほど山の方へ向かって遡ったところに
ある。 現在は諏訪神社と言われ、小祠と言ってもいいささやかな社が立つ。
p123
そのすぐ西方の唐川町、・・・「出雲国風土記」の中の神社で唯一韓の字を冠する韓銍(から
かま)社がある。山中の巨岩内洞穴に祀られていて、祭神は素戔嗚尊だ。
銍は鎌の意、「延喜式」は韓竈神社と表記し、「式内社調査報告」は釜の神を祀るとするが、
・・・・産銅遺跡のまっただ中にあり、カマは窯、即ち溶鉱炉であって、韓銍(からかま)
社は、「韓鍛冶集団がまつった溶鉱炉の神の社」であることはまちがいない・・・。
p124
韓国伊太氐神社は、祭神が五十猛命(イタケルノミコト/イソタケルノミコト)ではない
としても、朝鮮半島、とくに新羅、伽耶(加羅)とかかわり深い神社と考えていいだろう。
出雲国造家の人々が『出雲風土記』からその名を消し去ったのは、そのためだったと
私考する。
==>> 韓国伊太氐神社については、公式なサイトはなさそうなので、こちらを
引用します。
https://anahita-style.com/reading/menousanpo/151316/
「そしてイソタケルを祀る不思議な神社があります。こちら。
曽枳能夜神社(そきのやじんじゃ)境内社、韓国伊太氐神社。
読みは(からくにいたてじんじゃ)。」
「揖夜神社境内社、韓国伊太氐神社。
ご祭神は同じくスサノヲとイソタケル。額束には「式内 韓国伊太氐神社」と
あり「式内(しきない/しきだい)」は「延喜式神名帳」の「式」を指し
延喜式に掲載があることを表しています。」
五十猛命(イタケルノミコト/イソタケルノミコト)という神は
スサノウの子だそうです。
上記の「五十猛命ではないとしても・・・」の意味は、仮にスサノウの子
を祀っていなかったとしても新羅・伽耶系だろうとしているようです。
p129
新羅焼とも朝鮮土器とも言われる須恵器は、出雲では早くから焼かれていて、『出雲風土記』
にも、嶋根郡大井の浜、つまり朝酌町の東北方、中海の西岸の浜の条に、「陶器を造る」と
あり、実際このあたりには古窯址群が残っている。
朝鮮半島の南部、壱岐・対馬、北九州、山陰の一部がほとんど同一文化圏に属し、国境の
なかった本邦の縄文・弥生の時代、朝鮮半島から出雲へもたしかに人びとが渡ってきた
のだ。 ・・・・北九州と出雲とは古くから交渉があり、渡来人も北九州を経由して出雲
へ渡ってきたとみなす人々もいるが、直接の渡来ももちろん多かったであろう。
==>> 上記のような地域が同一文化圏というのは、ほぼ同じ地域が倭寇が活躍した
と言われる地域とも重なっているようですから、さもありなんという感じです。
もちろん、縄文・弥生時代には国境などはなかったわけですから、自由自在に
交流していたものと思います。
須恵器については、こちらで確認。
https://kotobank.jp/word/%E9%A0%88%E6%81%B5%E5%99%A8-83326
「製作技術は、遺物の近似することなどから、朝鮮三国時代の百済(くだら)、
新羅(しらぎ)、伽倻(かや)地域からもたらされたとされるが、時期は4世紀末
から5世紀後半までの間、諸説があり一定しない。文献史料からは『日本書紀』
垂仁(すいにん)天皇3年の一云条に「近江国(おうみのくに)鏡(かがみ)村の谷の
陶人(すえびと)は則(すなわ)ち天日槍(あめのひぼこ)の従人(つかいびと)なり」
とある。」
p133
出雲には、十六島(うっぷるい)湾のようにどうみても朝鮮語としか思えない地名が
あちこちにある。 十六島湾と同じ島根半島の東端、美保関近くの『出雲風土記』に
質留比(しちるひ)とある七類(しちるい)湾も朝鮮語と考えられるし、嶋根半島の
西端、新羅から引き寄せられたという杵築の御埼は一名字迦山といい、これまた朝鮮語
とされている。
==>> この十六島の読みについては、いろいろと説があるようです。
出雲観光ガイド 十六島(うっぷるい)
https://www.izumo-kankou.gr.jp/spot/sightseeing/670
「十六島の語源は、海藻を採って打ち振るって日に乾す「打ち振り」がなまった
説、朝鮮語の古語で「多数の湾曲の多い入江」という意等の説がありますが、
十六島の漢字は海苔島が十六あったところからあてられたとも言われてい
ます。」
p134
古代の神社には、社、つまり建物はなく、森、或いは巨岩を神の依り代として祀ったこと
については多くの証拠がある。 人工の建物を神域内に設けることは、神意にそむくことで
あった。 社を立てたために神の怒りにふれたとは、あちこちの式内社について言い伝え
られている。
たとえば、本殿がなく、三諸山を神体として拝するので有名な奈良の三輪神社に関しては、
平安後期の歌人藤原清輔の書いた「奥義抄」の中に・・・・・
社殿を含め、形あるものを嫌うとは、神社信仰の一つの大きな特色である。
たとえば神社には、神像というものは存在しない。
p135
今なお多くの人々の心の底に、意識されないながらひそんでいると思われる。
社殿のない、森だけの神社、聖地が点々と存在することは、そのあらわれであろう。
若狭のニソの社、近江の野神の森、蓋井(ふたおい)島(山口県)の森山、対馬の天童山、
壱岐のヤボサ、薩摩・大隅のモイドン、種子島のガロー山、奄美の神山、沖縄の御嶽・・・。
==>> もちろん、初めっから鳥居や社殿があったと考える人はいないでしょうけど、
それがないままに現代まで古代の神域の状態をそのまま維持するというのも
大変なことだと思います。
少なくとも、ここから先は神域だよとわかるような何かがないと
知らない人はどんどん入って荒らしてしまいますからね。
卑近な例でいえば、ジブリの世界のような森が、なにかのもののけのような
ものがいた領域があったのでしょう。
p137
巨大神殿建立の謎
このような出雲にあって、上古には32丈(ほぼ百メートル)、中古では16丈と社伝の
伝える、まさに千木が雲に入るが如き巨大な神殿が建立されたのは、謎としか言いようが
ない。
p138
長いこと一種伝説のごときものとみなされ続けてきた。 ところが平成十二年から
十三年にかけ、大社の域内の発掘により、鎌倉期のものと考えられる巨大な棟持柱の
遺構が数か所で出土し、今や「伝説」が事実と考えられるようになった。
いわば神社の本場である出雲になぜこのような巨大な建造物が出現したのか?
この謎にこれまで多くの人々が挑んできたけれども、解答はいまだ見いだされていない。
==>> この神殿については、こちらのニュース記事でも見ておきましょう。
上に書いた p112でも復元図などのサイトがあります。
「古代出雲大社は、巨大神殿だった!?|出雲大社が海辺に建てられた理由」で
検索してください。
「数十メートルもの神殿は、木造建築としてはケタ外れであり、研究者でも本気
にする人はあまりいなかった。
ところが、平成12年(2000)、大社本殿前の発掘調査中に、直径1メートルも
の丸太を3本束ねた巨大な柱の遺構が発掘された。この3本一セットの柱は、
出雲国造(こくそう)家に伝わる「金輪御造営指図(かなわごぞうえいさしず)」
に同様の図面があることが知られていたが、あまりの大きさから実在性が疑問
視されていた。この発見によって、古代出雲大社は、伝承にある巨大神殿だった
可能性が格段に高まったのである。」
「出雲は、先進地域だった朝鮮半島や中国大陸、そして北九州や北陸からもヒト、
モノが集まる環日本海ネットワークの要だったのだ。各地の進んだ文化に接し
た出雲は、やがて独自の文化をつくり上げ、日本海交易を掌握する強力な勢力に
成長したのである。」
「出雲は日本海ルートにおける最大・最良の港であり、そのランドマークとなっ
たのが出雲大社だったといえるのだ。」
・・・これがその理由だというのもなんだか今一つ腑に落ちませんが、
まあ、経済効果を最優先に実質的利益を期待して、ランドマークタワーを
造ってくれと注文したってことなら、分からないこともないですが・・・・
p140
朝鮮半島にあって、神社ともっとも関係が深いのは、堂(タン)、堂山(タンサン)、
ソナン堂、コルメギ堂などと呼ばれる聖地だ。
・・・神樹、森、巨岩、洞窟から成るのが本来の姿で、巨大な建造物とはまず無縁で
ある。
牟礼仁氏が、古代出雲大社の神殿の高さに仏塔の影響を見る発言をしているが、これは
一考に価いしよう。
==>> 著者は、基本的には、神社には人工的な建物は元来そぐわないという考えが
あるようで、この超高層神殿は、宗教的な意味よりも、政治的意味の方が
強いのではないかということも示唆しています。
そして、そこにプラスして、上記のような仏教寺院の仏塔を意識したことも
述べています。
いずれにせよ、いろんな説が出ているようです。
次回その3では、「第五章 三輪信仰の謎」に入ります。
===== 次回その3 に続きます =====
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