上田正昭著「渡来の古代史:国のかたちをつくったのは誰か」を読むー1― 百済・伽耶系の漢氏(あやうじ)、百済・新羅系の秦氏(はたうじ)、新羅のアメノヒコボ、高麗(狛)氏、 “日本版中華思想”、 「お山」信仰の稲荷神社
上田正昭著「渡来の古代史:国のかたちをつくったのは誰か」を読むー1― 百済・伽耶系の漢氏(あやうじ)、百済・新羅系の秦氏(はたうじ)、新羅のアメノヒコボ、高麗(狛)氏、 “日本版中華思想”、 「お山」信仰の稲荷神社
今まで読んできた、神道や神社、そして邪馬台国と大和朝廷関係の本の中に、
どうしても渡来人というものが出てきまして。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/06/post-0915f1.html
なので、どのような人々がどのような文化を持ち込んできたのかが気になったので、
この本を読んでみようと思います。
人類はアフリカから出て、世界中に移住して拡がり、ユーラシア大陸の東の端にある
日本列島に辿り着いたわけですから、すべてが渡来人ということにはなるわけですが、
その中でも、どのようなグループが、どのような文化とともに、いつ頃渡来したのかを
知りたいと期待しながら読んでみます。
p011
延暦八年(789)の12月28日、桓武天皇の生母高野新笠が亡くなるが、その崩伝
に、高野新笠が「百済武寧王の子純陀太子」の子孫であり(『続日本紀』)、わが国の皇統
には百済王族の血脈がまじわっていることを明記した。
そして百済・伽耶系の漢人(あやひと)、百済系の秦人(はたびと)がどのように登場
して活躍し、高句麗系の高麗(狛・こま)人もまた文明の導入に大きな役割を果たした
ことを史実にもとづいて叙述した。
p012
平成14年(2002)の日韓共催のサッカーW杯の前年の12月、天皇みずからが
宮内庁記者クラブでの会見で、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の
子孫であると『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と
語られたことを、改めて想起する。
p013
朝鮮半島南部の新羅の王子と伝えるアメノヒコボ(『記』は天之日矛、『紀』は天日槍、
・・・)の渡来伝承について、『古事記』は応神天皇の条に「又昔、新羅の国王の子
有りき、名は天之日矛と謂いき、是人(このひと)参渡来(まゐわたりきつ)」と
「参渡来」と書き、『風土記』たとえば『播磨国風土記』は(揖保郡・粒丘(いいぼおか)
の条)「天日槍命、韓国より度来(度り来て)」としるす。
==>> これらの記述は日本の国史ともされる日本書紀などに書かれていること
ですから、もちろん天皇を始めとする有力な人々についての記録ということ
になります。 そして、そのことを現代の天皇自らが認めているという話
です。
ところで、上記のアメノヒコボとはどんな人物なのかを確認しておきます。
Wikipediaによれば:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%83%92%E3%83%9C%E3%82%B3
「アメノヒボコは、記紀等に伝わる朝鮮半島の新羅からの新羅人(渡来人)また
は渡来神。『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」、・・・」
「そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見
(さきつみ)を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を
儲けた。そして多遅摩母呂須玖から息長帯比売命(神功皇后:第14代仲哀天皇
皇后)に至る系譜を伝える(系図参照)。また天之日矛が伝来した物は「玉津宝
(たまつたから)」と称する次の8種、・・・」
・・・つまり、アメノヒボコとは、神功皇后につながる祖ということのようです。
p028
ここで留意すべきは、朝鮮諸国を「蕃国」視した観念との対応関係において、「日本国」の
観念が成立したことである。
・・・「日本天皇」の称は、大事を「蕃国使に宣する」際に用いられることになっている。
「日本」に対する「蕃国」の「古代法」における国際感覚をみても、日本という国号は
対外的に用いられたものであることがわかる(国内に対しては、大八洲天皇を用いること
になっていた。・・・・)
p030
すなわち高句麗・百済・新羅らを「外蕃」とみなしていたのである。
・・・・「古記」が「隣国は大唐」としたように中国を指す。
「化外の人」を夷狄(いてき)・蕃国(外蕃)・隣国(唐国)と類別したその対外意識にも、
古代支配者層の朝鮮差別観は明らかである。
その対外意識には、中国を「隣国」とし、しかも「大唐」とする東夷のなかでの
“日本版中華思想”があらわである。
==>> つまり、当時の唐がやっていたのと同じように、日本を大国であると
位置づけて、朝鮮半島の諸国を野蛮な国々であるとしていたようです。
要するに、大唐と張り合うために必要だったということなのでしょう。
p036
この『新唐書』の文によれば、咸亨元年(天智天皇9年)から「後稍(のちやや)」
に日本という国号を用いたことになる。
・・・こうした史料によって、日本国の具体化の上限は670年であり、その下限は
700年ということを見定めることができる。
==>> この『新唐書』については、下のリンクで確認します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%94%90%E6%9B%B8
「『新唐書』巻二二〇、東夷日本伝に「咸亨元年、遣使賀平高麗、後稍習夏音、
悪倭名、更号日本」とあり、咸亨元年すなわち670年に「倭」をあらためて
「日本」と号したとの記述がある。『旧唐書』では倭と日本が並立した状態で
書かれているが、『新唐書』では「日本伝」としてまとめられている。」
p049
ところで秦氏の祖先の人々はいつごろ日本列島に渡来してきたと古文献は伝えている
のであろうか。
p050
『古事記』の伝承が素朴でかえって原伝承に近く、新羅・百済からの渡来伝承のなかに
秦造の祖先の渡来を位置づけ、『日本書紀』もまた朝鮮半島南部からの渡来としている
点は共通している。 そしてその渡来の時期は、第II期の段階の五世紀前後ころで
あろう。
京都市の伏見深草遺跡からは弥生時代の柄が付いたままの木鍬が出土して話題をよんだが、
古墳時代中期になるとその農耕技術は大きく変化し、V字形刃先を装着した風呂鍬ならび
に畜力耕具としての馬鍬(まぐわ)が登場する。
これは4世紀末から5世紀のころに渡来した人びとが秦氏としてあらたにもたらした
ものと考察されている。
p051
・・・新羅をその直接のふるさととする秦氏が居住した深草の地域は、・・・
4世紀末から5世紀の段階になると、韓式土器を残した渡来の人びとが宇治市の
あたりに居住し、さらに深草あたりへと勢力を伸長させたと推定されている。
==>> 秦氏については、さまざまな話がありますので、ここでちょっとだけ
動画サイトを覗いてみましょう。
【神社のお話】稲荷神社② 秦氏の来日
https://www.youtube.com/watch?v=uM11LuuoCQc&t=62s
秦氏(はたうじ)
https://kotobank.jp/word/%E7%A7%A6%E6%B0%8F-114605
「応神(おうじん)朝に秦(しん)の始皇帝の後裔(こうえい)の弓月君(ゆつきの
きみ)が120の県(こおり)の人民を従えて移住したと記すが、中国系ではなく
新羅(しらぎ)系の渡来人で、渡来時期も5世紀以降と想像される。」
p058
伊奈利の社が創建される以前に伊奈利山の信仰が存在し、神体山としての「お山」の
信仰を前提に「お塚」の信仰が稲荷信仰を多彩にしたことは、享禄・天文年間(1528
―55)に、稲荷の祀官秦長種(はたのながたね)が描いた「稲荷山旧跡図」にも
うかがわれる。 こうした「お山」の信仰を母体として秦氏が伊奈利の社を創建した
とみなすことができよう。
p059
稲荷山が古くからカミの鎮まる神奈備(かんなび・神体山)として信仰されていたことは、
御膳谷の御饌石(みけいし)をはじめとする磐座(いわくら)があり、近時古墳の副葬品
と考えられてきた三ノ峰出土の・・・出土品は、かつてカミまつりの祭祀遺物とみなされた
ように・・・、その出土地は祭祀遺跡であったとみなす説が有力となっている・・・。
==>> この神体山を拝むいうのは、「本殿のない神社」という本来の形を
表していると思うですが、それに関しては、今まで読んで来た本の中に
沖縄の御嶽(うたき)や朝鮮半島の堂(タン)、そして、日本本土は
私が気になっているアラハバキ神やミシャグジ神などがあったように
思えます。
岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/09/blog-post_20.html
「p040
「神社も神宮も新羅から入ってきたのです」とは金達寿氏の言葉・・であり、
円仁が比叡山の山麓に祀った新羅明神に関して、司馬遼太郎氏は「新羅人は当時、
日本の原始神道と相通じる神をもっています」と語る。
日本の神社に相当する聖地は、朝鮮半島では、山神堂、ソナン堂、コルメギ堂、
堂山などと呼ばれる堂(タン)だが、仏教、儒教をそれぞれ国教とした高麗、
李氏朝鮮の下で弾圧、あるいは排除されて消滅するか、儒教化してしまって、
日本の「延喜式」に当たるような文献も皆無にひとしく、その古代でのありよう
は把握できない。」
岡谷公二著「原始の神社をもとめて」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/09/blog-post_27.html
「p008
沖縄では、どの島に行っても、村には必ず一つ以上の、一般に御嶽と称する聖地
がある。本土の神社に相当するもので、実際、御嶽とその信仰が古神道の俤
(おもかげ)を伝えているとは、柳田国男、折口信夫以来の定説である。
・・・堂同様、その中には、原則として建物はなく、そして祭の主役はやはり
女性であり、男性は脇役にすぎない。」
p070
秦氏は九州から東北まで、面的に分布しそのなかには官僚となった人もいるがどちらかと
いえば、在地の豪族として活躍した人びとが多い。
それと対照的なのは漢氏であって、点的に散在し、その多くは内外の記録を担当したのを
はじめとする官僚化した人びとが多い。 そして高麗氏はどちらかといえば点的に分布
するが、官僚や豪族となった人びとがすくない。
p071
豊前国(大分県)に秦氏のグループが集団として居住していたことは、『豊前国風土記』
逸文の「鹿春郷」の条に「昔者、新羅の国の神、自ら度り到りて、此の河原に住みき。
便即(すなわ)ち、名づけて鹿春の神と曰ふ」とみえているのが参考史料となる。
新羅の神が「度到」というのは、新羅の神を信奉した人びとが豊前の地域へ渡来した
ことを象徴する伝承である。
==>> この神社を「鹿春郷」で探したところ、「香春(かわら)神社」のことのよう
ですが、残念ながら神社の公式サイトが見つからないので、
下のサイトとwikipediaをチェック。
香春神社
【豐前國田河郡鹿春郷】
https://ameblo.jp/toyonosanpomichi/entry-10414450049.html
「豐前國の西部に位置する田川郡鹿春郷。現在の香春町のシンボルのひとつ
香春岳(かわらだけ)を御神体とし、その南麓に鎮座する香春神社。延喜式神名帳
に挙げられる式内社のひとつ。」
「昔、この田河郡鹿春郷に、新羅國(しらぎのくに)の神が渡来し住まわれた。
その神の名を『鹿春神』とよぶと伝わる。香春岳の三座の鎮座を伝えるもの
だろうか?」
香春神社(かわらじんじゃ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%98%A5%E7%A5%9E%E7%A4%BE
「『豊前国風土記』逸文には、辛国息長大姫大目命は、昔神羅より渡って来た
神であると書かれている。」
「古来より宇佐神宮と共に豊前国を代表する大神社だった。 辛国息長大姫大目
神社と忍骨神社に正一位の神階が与えられたのは、承和10年(843年)で、
これは奈良の大神神社(859年)、石上神宮(868年)、大和神社(897年)が
正一位になった年よりはるかに早い。」
p077
672年の壬申の乱においても、漢氏一族は大海人皇子側と近江朝廷側とにそれぞれ
加担し、天平12年(740)藤原広嗣の乱として参加したり、あるいは天平宝字8年
(764)の藤原仲麻呂・・の乱にさいしては、檜前忌寸と共に内裏の守衛に当たった
のも、軍事にひいでていたからである。
p078
『新撰姓氏録』などでは、漢氏の先祖が「後漢霊帝の曽孫阿智王」とするが、これは
中華(大唐)にこじつけた伝えであって、『記』『紀』両書も記述するとおり朝鮮半島
南部から渡来した氏族であった。
西漢(かわちのあや)氏は生駒・金剛山脈の西より具体的には河内の地域を中心に
居住した氏族である。
p079
その西漢氏のなかでもっとも有力な支族が西(かわち)文氏(文首・ふみのおびと)で
あった。 その文首の始祖とするのが百済から渡来してきた和邇吉師(わにきし)(王仁
博士)である。
『古事記』は応神天皇の条に百済国から渡来した「賢しき人」として和邇吉師(わにきし)
をあげ、「論語十巻、千字文一巻」を伝えたとして「この和邇吉師は文首らの祖」としるす。
p090
紀貫之は『古今和歌集』の「仮名序」のなかで、王仁博士が詠んだとしるす“なにはづ”
の歌と『万葉集』(巻第十六)の、“安積香山(あさかやま)影さへ見ゆる山の井の浅き
心を我が思はなくに“の歌の「このふたうた(二首)は歌のちちははのようにてぞ、
てならふ人のはじめにもしける」と手習いのはじめに書く歌としている。
==>> 著者はここで、漢氏の系統の人たちは、どちらかと言えば文武のうちの文の方
で、日本に貢献しているということを言いたいようです。
なお、著者は、これは単なる手習いという現代感覚で捉えてはいけないとも
言っています。 “なにはづ”の歌は呪力を持つ歌であったからというのです。
その説を信じるとしたら、文武の文といっても、あなどれません。
また、王仁博士は、近世儒学の興隆と合わせて、各藩でも学問の始祖と
仰がれるようになったそうです。
p096
五世紀から具体化する窯で焼成度の高い須恵器を造る人びと、馬具の製作者、そして画
かきの人、高級の織物や衣服を作る人など、まさに技術革新の今来の才伎(てひと)の
渡来とその発展に漢氏がかかわりをもったことを示唆する貴重な史料である。
文氏が国内ばかりでなく外交文書の記録にもたずさわったことはいうまでもない。
==>> 漢氏系の渡来人は、このように、国内的にも外交においても、文書作成に
かかわったことが述べられていますので、おそらくは、多くの古文書には
これらの人びとの関与があったのではないでしょうか。
p098
高句麗から渡来して日本列島に居住した人びとを高麗(狛)氏とよぶ。 史料に高麗人
の渡来をはじめてしるすのは、『日本書紀』の応神天皇7年9月の条に「高麗人、百済人、
任那人、新羅人、並に来朝」の文である。
p099
高句麗との国交の確実な例は欽明天皇31年(570)「高麗の使人」が北陸の「越の岸
(石川県・福井県あたりの海岸)」に到着したとする記載である。
難波にも高句麗迎賓館ともいうべき「高麗館」があったけれども、高句麗使は敏達天皇
2年(573)、同3年、天智天皇7年(668)など、その多くは北ツ海ルートで
上陸している。
p100
北ツ海という古代における海の名称が実際に使われていたことは、この『日本書紀』の
崇神天皇2年是歳の条ばかりでなく・・・・・
==>> 北ツ海というのは今の日本海のことだと書いてあります。
この第四章では、高麗氏と船氏をとりあげています。
船氏については、こちらでチェックしておきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E6%B0%8F#%E8%84%9A%E6%B3%A8
「船氏(ふねうじ/ふなうじ)は、「船」を氏の名とする渡来人系の氏族。」
「本拠地は河内国丹比郡野中郷(現在の大阪府藤井寺市野中及び羽曳野市野々上)
と推定され、野中寺は氏寺とされている。」
「鈴木靖民や加藤謙吉は・・・実際の船氏は、中国南朝系百済人であることを
指摘している。」
p103
有名なのは埼玉県日高市の新堀で長く崇敬されてきた高麗神社である。
『日本書紀』の天智称制5年(666)10月の条には高句麗の乙相(いつそう・官名)
アムスらが派遣されて渡来したことを記載する。
この使節の目的については、唐が・・・高句麗討伐を開始したのに対して倭国に援兵を
求めてきたとする説が当たっていよう。
==>> 高麗神社については、同じ埼玉なので、先日参拝に行ってきました。
埼玉県日高市 巾着田の曼殊沙華 そして 渡来人の高麗(こま)神社
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/09/blog-post_28.html
高麗駅と高麗川駅の周辺は、まさに韓国人観光客向けという案内板などが
立ち並び、渡来人の聖地という雰囲気になっていました。
高麗郡とはなんなのか・・・これも公式サイトに説明がありました。
https://komajinja.or.jp/about/
「若光の渡来から半世紀を経た霊亀2(716)年5月16日、大和朝廷は駿河
(静岡)、甲斐(山梨)、相模(神奈川)、上総・下総(千葉)、常陸(茨城)、
下野(栃木)の七国から高句麗人1799人を武蔵国に移し「高麗郡」を創設
(続日本書紀巻第7の記述)。この時、若光は郡の長官に任命されました。」
p106
『紀』の編纂関係者は、なんらかのかたちで、高句麗の建国神話とふれあっていたのである。
『日本書紀』の編纂関係者ばかりではない。 宮廷の貴族・官僚層もまた、高句麗の建国
神話ないしその関係伝承を知っていたと考えられる要素がある。
・・・問題は「高麗神子奉遣之使」(原文)と表記するところにある。
・・・高麗使ではなく、わざわざ「神子奉遣之使」としるす。 ・・・「神子」と書くのは、
好太王碑文などに高句麗建国の始祖を「天帝之子」と伝えるのと関連する。
p107
これが埼玉県日高市新堀に鎮座する高麗神社の由来であり、その子孫があいついで
高麗を名乗って現在の宮司家におよんでいる。
霊亀2年(716)5月16日には、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野
あわせて高麗人1799人を武蔵国に遷して、初めて「高麗郡」を建郡したことが
『続日本紀』に明記されている。
==>> 高句麗の建国神話にも、天孫降臨のようなものがあったようですし、
日本書紀などの編纂関係者なども、そのような物語を知っていたと
考えられるし、宮廷の中にそのような人びとが大勢いたと思われる
記述になっています。
そして、高麗神社の由来と高麗郡の創設に関しては、神社の公式サイトに
記載されているとおりです。
ちょっと気になるのは、関東の周辺に散らばっていた1799人もの
高麗人を一か所に集めた理由です。
高麗人たちの希望だったのか、あるいは朝廷側の意図だったのか・・・
こちらのサイトには、高麗郡を開拓した若光一族の話が書いてあります。
高句麗から日本に渡来してきた高麗王若光の生涯
https://www.sougiya.biz/kiji_detail.php?cid=765
「『高麗大明神由緒書 上』によると、若光一族は当時未開発であった高麗郡
一帯の開発耕作に精励した。」
「1878(明治11)年に記された『武蔵國高麗郡高麗郷古傳』には、土地の人々
の伝承に、若光は朝鮮半島内の国乱を避け、親族重臣と共に来日し、日本に帰化
した。若光が住居と定めた高麗郡高麗郷周辺には、若光と行動を共にした人々も
群居した。後にそこから離れ、他の土地の開墾に従事する者もいた。若光は村人
たちをいたわったので、次第に彼らの生活を安定させるに至った。若光の死後、
高麗人はあちこちに分散し、村を開いた。その際、若光を祀った「白髭神社」を
自ら移り住んだ場所に遷座し、その徳を称え続けた。そのような中小の白髭神社
は近在に21社存在するという。」
・・・これを読むかぎり、割と自由にあちこちで開墾したようですね。
渡来人といっても、さまざまな氏族の人びとがいるんですねえ。
次回は「第I部 第五章 百済王氏の軌跡」に入ります。
===== 次回その2 に続きます ====
===============================
コメント
コメントを投稿