上田正昭著「渡来の古代史:国のかたちをつくったのは誰か」を読むー2(完)― 大伴家持が詠んだ「海行かば」?、坂上田村麻呂と清水寺、外交文書は渡来人に任せた? 聖徳太子の渡来系ブレーンたち、行基も最澄も渡来系、

上田正昭著「渡来の古代史:国のかたちをつくったのは誰か」を読むー2(完)― 大伴家持が百済王敬福に関連して詠んだ「海行かば」?、坂上田村麻呂と清水寺、外交文書は渡来人に任せた? 聖徳太子の渡来系ブレーンたち、行基も最澄も渡来系、

 

 


 

 

「第I部 第五章 百済王氏の軌跡」から読んでいきます。

 

 


 

p115

 

ヤマトの朝廷は斉明天皇6年(660)の9月に百済滅亡の情報を入手、同年10月には

福信の使者が救援を求め、舒明朝に渡来していた王子豊璋(ほうしょう)を国王にするため

帰国させるよう要請した。

 

豊璋はその要請にこたえて帰国したが、豊璋と共に渡来していた王族余善光(よのぜんこう)

は倭国にとどまり、持統朝に百済王という氏の名を与えられた

 

p116

 

『日本書紀』の天智称制度3年3月の条に「百済王善光らを以て難波に居べらしむ」と

あるとおり、難波を本拠とし、百済郡が設置されたりもした。 

・・・百済王氏がひときわ政界で活躍するようになるのは、良虜の三男であった敬福

(きょうふく)のおりからである。 

 

==>> この百済王善光についてはこちらで確認しましょう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88%E7%8E%8B%E5%96%84%E5%85%89

     「舒明朝に百済国王・義慈王によって兄・豊璋と共に百済から人質に出され宮家

に近侍した。その後、斉明天皇6年(660年)の百済の滅亡や、天智天皇元年

662年)の豊璋の百済帰国、天智天皇2年(663年)の白村江の戦いなどが

あったが、善光は帰国せず日本に留まる。白村江の戦いにより帰国が不可能

となった善光は、天智天皇3年(664年)居住地を難波に定められた。」

     「日本において廷臣化し、既存の主要豪族並の待遇を受けていた様子が見ら

れる。」

 

     また、百済王氏をチェックすると、下のような記述があります。

     (urlが長いので百済王氏で検索してください)

     「百済最後の国王・義慈王は倭国と同盟し、その王子豊璋と善光(扶余勇・禅広

王・余禅広)を倭国に送った。日本に残った善光が百済王族の血統を伝えること

となった。」

「平安時代初期には、桓武天皇の母(高野新笠)が百済系渡来氏族の和氏出身

あったため天皇の外戚とみなされ厚遇を受けた。一族の娘を桓武天皇・嵯峨天皇

らの後宮の宮人とした。」

 

これらの関連で、天皇陛下がどのような発言をされたか、確認しておきます。

http://www.toyo-keizai.co.jp/news/society/2010/post_4151.php

「◆「渡来人が文化発展に寄与」天皇陛下の発言一部抜粋◆

 

 平城京について私は父祖の地としての深いゆかりを感じています。そして、

平城京に在位した光仁天皇と結ばれ、次の桓武天皇の生母となった高野新笠

(たかののにいがさ)は続日本紀によれば百済の武寧王(ぶねいおう)を始祖と

する渡来人の子孫とされています。

 我が国には奈良時代以前から百済を始め、多くの国から渡来人が移住し、我が

国の文化や技術の発展に大きく寄与してきました。

 仏教が最初に伝えられたのは百済からでしたし、今日も我が国の人々に読ま

れている論語も百済の渡来人が持ち来ったものでした。」

 

 

p118

 

第二次世界大戦中にラジオでさかんに放送された“海行かば”の歌詞が、大伴家持が陸奥国

より百済王敬福が黄金を献上したことを知って詠んだ長歌のなかの「海行かば水漬く屍

山行かば草むす屍」にもとづいていることを知っている人は少ない。

 

敬福の功績は日本の現代にまで形をかえてうけつがれたといってよい。

天平21年4月23日、黄金9百両(総計)を献上した百済王敬福の名は一世を風靡する

こととなった。

 

==>> 敬福が金を発見したことに関しては、下のwikipediaに記載があります。

     (百済王敬福で検索してください)

     「天平21年(749年)になって、敬福は朝廷に対して陸奥小田郡で産出した

黄金900両を貢上した聖武天皇は狂喜して東大寺大仏殿に行幸し、仏前に

詔を捧げると共に、全国の神社に幣帛を奉じ、大赦を行っている。この功労に

より敬福は従五位上から従三位へ七階級特進し、産金に貢献した他田舎人部

常世・小田根成も十階以上昇進して外従五位下に叙せられた。・・・

歌人・大伴家持は次のように黄金産出を寿ぐ。

すめろぎの 御世栄えんと 東なる みちのく山に 黄金花咲く

「確かな文献はないが、黄金を発見したのは敬福配下の百済系鉱山師ではない

かとも言われている。日本最初の産金地である小田郡の金山は現在の宮城県

遠田郡涌谷町一帯であり、同町黄金迫(こがねはざま)の黄金山神社は延喜式内

社に比定される。」

 

なお、上記にある「海ゆかば」が敬福と関連して詠まれたというのは

ややすっきりしないのですが、こちらのサイトでは、敬福の名は一切出ず

大伴氏と佐伯氏の業績となっているようです。

大伴家持「海行かば」の成立まで

https://tankanokoto.com/2022/08/umiyukaba.html

「海行かば」は、天皇へのお祝いの歌として、と書いてありますので、

敬福の金の発見と関連するのは、やはりその意味を直接的に詠った

「すめろぎの 御世栄えんと 東なる みちのく山に 黄金花咲く」の方では

ないかと思います。

「この言葉は部門として皇室に仕え、天皇の警護をする立場の大伴氏の

誓いの言葉、あるいは一族のスローガンのようなもので、・・・」

 

p119

 

蝦夷征討で活躍する坂上田村麻呂(渡来系の東漢氏の出身、・・・)も敬福の孫にあたる

百済王俊哲が陸奥鎮守副将軍だったおり、同時に副将軍に任じられている。

 

敬福以前から百済王氏と陸奥の地域とのかかわりはあったが、敬福以降いっそう蝦夷地

経営とのつながりは密接となる。

 

 

p122

 

百済王氏出身の女人が後宮に入った例は、嵯峨朝廷や仁明朝廷にもあるが、そのもっとも

顕著な例は桓武朝廷においてであった。 百済王氏に出自を有する桓武朝廷の後宮に

入侍した女人は少なくとも9名にのぼる。

 

p123

 

桓武天皇とその側近が、朝鮮文化のみならず中国文化につながる思想の保有者であった

ことは、桓武天皇即位の年が辛酉(しんゆう)革命の辛酉(かのととり)年であり、天応

という改元もそれにもとづく。 平城京から長岡京への遷都の年が甲子(かつし)革令

の甲子(きのえね)年であって、長岡京から平安京への遷都の日が辛酉革命にちなむ

辛酉の日であったことも偶然ではない。

とりわけ注意すべきは、わが国の王者で郊祀を確実に執行した最初の天皇が桓武天皇

あったことである。

 

==>> これを読めば、百済王氏が朝廷にかなり入り込んでいたことは明白で

     あるように見えます。

     そして、初耳の「郊祀」(こうし)なんですが、wikipediaには下のような

     説明があります。

     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%8A%E7%A5%80

     「郊祀(こうし)とは、中国において天子が王都の郊外において天地を祀った祭

円丘を築いて併せて皇祖を祀ったことから、円丘祭(えんきゅうさい)とも

称する。」

「日本では『日本書紀』において神武天皇が即位後に鳥見山にて霊畤(まつりの

にわ)を設置して郊祀を行ったとされる(神武42月甲申条)が後世の脚色

であり、かつその祭礼の記述内容も中国の郊祀とは異なるものである。

中国の影響を受けて行われた郊祀の最初は、桓武天皇の漢風化路線の一環とし

て延暦41110日と同6115日に長岡京の南郊にあたる河内国交野

郡の柏原(交野柏原)にて郊祀が行われたものである。」

「これは、中国文化の導入を通じた律令政治の再建を意図するとともに、天皇の

母方である渡来人系の和氏一族を通じて中国文化に親しんでいたこと、壬申の

乱以来の天武天皇系皇統が断絶して天智天皇系皇統が再興されたことを

「新王朝」創業に擬え、「新王朝」の都である長岡京で天に対してその事実を

報告する意図があったと言われている。」

 

 

 

=====

 

「第II部 渡来文化の諸相」

 

 

p134

 

多くの研究者は「渡来人の影響」というが、それはたんなる影響にとどまらない。

古代日本の文化そのものの担い手として活躍し、文化の創造にも注目すべき役割を

果たしたというべきであろう。

 

p135

 

古代の東アジア文化圏を特徴づけるひとつに漢字とその文化のひろまりが存在する。

 

 

漢字の受容とその使用の歴史的なプロセスは多様であったが、漢文とは文体を異にする

和風式漢文体(亜漢文体)が創出され、漢字の音と訓をまじえ用いて、倭語(日本語)を

表記した。・・・いわゆる史部(ふひとべ)流とよばれる書法がそれである。

 

==>> 史部(ふひとべ)というのは、wikipediaでは、

「古代朝廷において文書や記録の作成など文筆にかかわる職務に奉仕した

氏族。」 「史部のほとんどが中国大陸や朝鮮半島よりの渡来人の系譜をひく

ものとみられる。」

となっていて、これらの中国語などをよく理解している渡来系の人たちが、

その当時の倭語のルールに合わせて、変則的な漢文の書き方を編み出した

ようです。 そして、それらが万葉仮名につながっていったりしたらしい。

 

p136

 

助詞などを字音仮名で表記して助辞として用いる真仮名まじりのいわゆる宣命体の創出

も独自の工夫であった。

 

==>> 宣命体の説明はこちらのものでよいかと思います。

     http://www.historist.jp/word_j_se/entry/033700/

     「「続日本紀」のなかの宣命を書き記す際に顕著にみられるのでこの名がある。

小書きされる文字は,活用語尾や助詞・助動詞などの付属語に多く,中心の概念

を表す文字は通常の大きさに書かれるのがふつうであることから,文法上の

弁別意識がみられるとする考えもあるが,漢文の記録形式との対比から区別が

うまれたと考えるのが妥当。」

 

サンプルとしては、下のようなものかと思います。

http://www.lib.ehime-u.ac.jp/SUZUKA/216/002.html

http://wosi.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_15be.html

 

 

p138

 

これらの出土例から、日本列島の倭人たちが漢字文化とふれあったのは、現在のところ、

弥生時代のころからであったと推測される。

 

p139

 

弥生時代の遺跡から漢代の鏡や貨泉などの文字のある資料が出土していることはたしか

だが、こうした文字資料の存在と文字の使用とを短絡的に結びつけるのは尚早であろう。

 

==>> いつから、日本列島で文字が使用されるようになったかについては、

     こちらのサイトでは、やはり慎重な判断をしています。

     「文字の歴史がさかのぼる?」

     https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/700/372037.html

     「日本列島で文字が広く普及したのは、飛鳥時代以降のことです。官僚機構や

法律が次第に整備され、行政には文書が欠かせなくなりました。

そこからさかのぼって巨大古墳が作られた古墳時代を見てみますと、5世紀

ごろには文字が確実に使われていたことが分かります。古墳から出土した鉄剣

や大刀(たち)に銘文が刻まれた例があるからです。」

 

 

p141

 

もっともこれらの「文書」による外交は、魏王朝の使者を通じての「上表」であり、

邪馬台国の文も、邪馬台国の人びとによってではなく、魏側の使者を通じての「上表」

であり、邪馬台国の人びとが使用した上表文ではなかったとみなす見解もありうる。

 

・・・当時の邪馬台国の外交関係者・・・に渡来系の人びとが加わっていたことは

充分に推測しうる。

 

邪馬台国の外交の使者として活躍する「大夫(たいふ)難升米(なしめ)」などもそうした

人びとであったと思われる。

 

==>> 言葉が理解できなければ外交などは成り立ちませんから、おそらく外国人の

     通訳か、あるいは帰国子女みたいな人たちを使ったのでしょうね。

     ちなみに、ここに出ている大夫難升米がどんな人物なのかを確認してみます。

     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E5%8D%87%E7%B1%B3

     「3世紀の人物。邪馬台国の卑弥呼が魏に使わした大夫。」

     「京都大学教授だった内藤湖南の説では、難升米を垂仁朝に常世の国に使者とし

て赴き景行朝に帰朝した田道間守としている。」

 

もし、この説が正しいとすれば、どんな人物だったのかというと・・・

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E9%81%93%E9%96%93%E5%AE%88

天日槍の後裔で、三宅連(三宅氏)祖。現在は菓子の神・菓祖として、また

柑橘の祖神としても信仰される。」

「『日本書紀』垂仁天皇3年条では天日槍(新羅からの伝承上の渡来人)の玄孫

で、清彦の子とする。」

 

・・・この辺りは、諸説ありの分野でしょうから、いろいろと考えられる

のでしょうが、少なくとも外国語ができる渡来人と考えた方が無難でしょうね。

 

 

 

p149

 

五世紀のはじめころには、すでに上表文をともなう外交が行われていたことはたしかで

あった。 それならこうした上表文の作成者はどのような人びとであったのか

 

『宋書』に「讃、又司馬曹達を遣はして表を奉りて方物を献ず」とあるのが注意をひく。

この司馬曹達も渡来系の人物であったにちがいない。

 

『日本書紀』の雄略天皇8年2月の条に、「身狭村主青(むさのすぐりあお)・檜隈民使博徳

(ひのくまたみのつかいはかとこ)を遣はして呉国に使せしむ」とある記述である。

 

p150

 

大王(雄略天皇)が「唯、愛寵みたまふ所は、史部の身狭村主青・檜隈民使博徳らのみ

なり」とあって、大王の側近にあって記録などにたずさわっていた人物であった・・・

 

・・・ともに大和の高市郡内の・・・居住した朝鮮半島からの渡来系の人であって・・・

 

==>> このように朝廷の文書作成の部署に勤める渡来系の人たちが外交文書を

     作成したり、外交官として出かけたりしていたようです。

 

p151

 

はたしてこの如来坐像がいつごろ対馬に伝わったのか、その時期は不明だが、

仏教文化の伝来が大和よりも対馬や北九州などの方が早かったことは、『日本霊異記』や

『新撰姓氏録』の伝承あるいは福岡県の霊仙寺や大分県の満月寺の開基伝承などからも

うかがわれる。

 

 

p153

 

文字使用のひろまりに古渡(こわたり)や今来(いまき)の渡来人や渡来氏族が大きな

役割をになったことは、こうしたエピソードにも反映されている。

 

==>> ここには、いくつかのエピソードが書かれていまして、文書が残っている

     ということが、必ずしも理解されていたとは限らないし、思わぬところで

     思わぬ人たちが理解してたりすることも述べられています。

 

 

 

p186

 

『日本霊異記』の伝承には、「同族的共同体」の信仰とは異質の「呪術」「呪法」の「修習」

があったとみなければなるまい。

その呪法を「孔雀(王)の呪法」とするのは、仏家の側よりする付会であって、仏呪のみ

ならず道呪があったとみなすべきではないか。 古代の日本の歴史と文化の形成に、

中国のみならず朝鮮の道教が深いかかわりをもっていたことは、・・・

『日本書紀』の推古天皇10年(602)10月の条に、百済僧の観勒(かんろく)

渡来して、暦本・天文地理書だけでなく、「遁甲方術書」をもたらしたとあるように、

飛鳥時代には明らかに「方術書」が伝わり、・・・

 

p188

 

役小角の弟子であった韓国連広足がじっさいに呪禁師の職能を保有していたことは、

『家伝』・・・に・・・と記述されているのに明白である。

 

==>> これは「第II部 第2章 道教と役小角の一節ですが、

     特に呪術の関係を述べています。

     ここで役小角(えんのおづぬ)を確認しておきます。

     https://kotobank.jp/word/%E5%BD%B9%E5%B0%8F%E8%A7%92-38332

     「7,8世紀の呪術的宗教家,役行者の名で修験道の開祖とされる。」

     「孔雀王の呪法を修得し,鬼神を使役して,水を汲ませたり,薪を採らせたりし,

鬼神が命に従わないと,験力で自由を束縛した。役優婆塞とも称されるように,

仏道修行者とされるが,不老長生の神仙となるために,山林に籠もり,穀物を口に

しないで,松の葉や草の根を食料として修行に専心していたので,道教の医術や

方術に習熟した行者であった。 文武3(699),弟子の韓国連広足に妬まれて,

妖術で人々を惑わしていると密告され,伊豆国に流罪にされた。」

のち許されて京に帰ったが以後の消息は不明。山岳信仰と密教とが合流する

ようになって修験者の理想像とされ,平安時代以降一般の信仰を受け,その足跡

を伝える説話は全国の霊山幽谷の地にできあがった。」

 

私の興味は、卑弥呼の鬼道なるものがどんな呪術だったのかが知りたいの

ですが、やっぱり時代的にこれと関連づけるのは無理のようですね。

 

卑弥呼の鬼道については、こちらのサイトに「諸説」が書いてあって、

初期道教との関係があるという説もあるようです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E9%81%93

私が興味を引かれるのは、この説なんですが・・・

「神道であるとする説。神道の起源はとても古く、日本の風土や日本人の生活習

慣に基づき、自然に生じた神観念であることから、縄文時代を起点に弥生時代

から古墳時代にかけてその原型が形成されたと考えられている。」

 

・・・まあ、卑弥呼自体が謎ですから、どんな鬼道だったのかが分かるわけも

ないのでしょうが、諸説の中身が知りたいところです。

 

 

 


 

 

p190

 

渤海使節は神亀4年(727)から約200年間に、35回・・来日しているが、

そのなかで上陸ないし到着の地を明記するものは、出羽、能登、加賀、出雲、隠岐、越前、

伯耆(ほうき)、対馬、若狭、但馬、佐渡、長門となっている。

これらによっても判明するように、北ツ海ルートをとっていたことがわかる。

 

==>> 著者が「北ツ海」と言っているのは、古代における日本海の名称です。

     渤海使節は、その後、瀬戸内海ルートで来るように言われても、やはり

     日本海ルートで来たようです。 その方が来やすかったのでしょう。

 

p191

 

儒教は本来儒学として発展したが、儒礼がととのい、祖先の宗廟のまつりあるいは孔子

をまつる釈奠(せきてん)の礼などが行なわれるようになると宗教のいろあいも加わって

くる。

ところで、儒教もまた渡来人によって伝えられた。

『日本書紀』には継体天皇7年(513)の6月、百済からはじめて五経博士の段楊爾

(だんように)が渡来してきた。

 

p192

 

五経博士は前漢の武帝が『易経』・『書経』・『詩経』・『春秋』・『礼記』の五経に詳しい

博士を任命したのにはじまり、後には子弟の教育や科挙の仕事にたずさわるようになる。

 

・・・百済からの仏教伝来のみがとかく強調されがちだが、儒教もまた百済から伝来した。

 

p193

 

律令制度がととのうにしたがって、都には大学を設けて五位以上の子孫や東(やまと)・

西(かわち)の史部(ふひとべ)の子弟を学生として入学させ、各地域に国学(各国々の

学校)を置いて郡司の子弟を入学させた。

 

==>> これはまさに、インターナショナルな大学の設置という雰囲気ですね。

     それに、「史部(ふひとべ)の子弟」とか「国学(各国々の学校)を置いて」

     ということは、渡来人の子弟に大きな門戸が開かれていたということにも

     なりそうですね。

     それだけ、先進文化の導入にあたって、おおいに期待されていたということ

     なのでしょう。

 

p195

 

高句麗に仏教が伝来したのは、『三国史記』の高句麗本紀に、小獣林(しょうじゅうりん)

王2年(372)6月、前秦王符堅(ふけん)が使者と僧順道(じゅんどう)を派遣して、

仏像・経文をもたらしたと書き、・・・伊弗蘭寺を建立したとしるす。

その場合、・・・・「仏法を崇信して福を求む」ことにあわせて、「有司に命じて、国社を

立て、宗廟を修む」と書き、・・・・・儒教と仏教がいわゆる習合の状況にあったことも

みのがせない。

 

p200

 

仏教を高句麗や百済が受容したおりは、両国はともに冊封体制のもとにあった

しかし新羅はそうではなくて、新羅が中国王朝(北斉)の冊封体制に入ったのは

真興王26年(565)からである。 つまり中国王朝の冊封体制下になかったことが、

中央貴族層が仏教拒否の態度を示すことができた大きな要因とみなされたのである。

 

 

p203

 

仏教の公伝年は、あくまでも百済王と倭国王との公的交渉にかんする年次であって、

畿内大和よりもさきに、北九州や北ツ海沿岸(とくに朝鮮半島に近い地域)には、仏教

文化が流入していたとみるのが自然である。

 

福岡県の靈仙寺や大分県の満月寺の開基伝承が、公伝年よりも早いことや対馬市上県町

佐護の廃寺跡から北魏の興安2年(453)の阿弥陀如来像がみつかり、大江匡房の

『対馬貢銀記』には、百済の比丘尼法明が渡来したとしるすことなども参照すべきで

あろう。

 

ところで、倭国の宮廷にあっては、新羅と同じように、崇仏・排仏の論争がおこっている。

・・・6世紀においては、倭国は冊封体制のもとにくみいれられてはいなかった。

 

==>> 中国の冊封体制の下になかったことが、新羅とともに大和朝廷も

     崇仏・排仏の論争があったことの理由のひとつとしていますが、

     著者はさらに、新羅へは高句麗経由であり、大和朝廷へは百済経由で

     仏教が伝えられたことにも留意すべきと書いています。

     つまり、中国王朝から直接入ってきたわけではないという意味です。

 

p209

 

太子とつながりの深い百済の博士覚哿(かくか)僧の慧聡(えそう)・観勒(かんろく)

高句麗の慧(恵)慈(えじ)、さらに新羅使の導者となった新羅系の秦河勝(はたのかわ

かつ)などは、太子の「和」の外交のブレーンたちであった。 厩戸皇子は、あらたに

渡来した学者や僧ばかりでなく渡来系の人びととも密接なかかわりをもった。

 

==>> それぞれの師がどのようなバックグラウンドをもつ人だったのかを

     みておきましょう。

     博士覚哿は儒教、僧慧聡は「三宝(さんぼう)の棟梁と尊敬され,聖徳太子の仏法

の師となった。」、 観勒は「三論宗の法匠であり、成実宗にも通じていた。天文、

暦本、陰陽道を伝える。」、慧慈は「太子の『三経義疏』制作事業に協力し,『法華

経』について問答したり,帰国時に『三経義疏』を持ち帰ったという。」と

されています。

 

秦河勝に関しては、こちらのサイトでご覧ください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B2%B3%E5%8B%9D

「日本書紀の記述では、河勝の先祖にあたる秦氏は4世紀頃に秦国から百済

(もしくは新羅)を経由して日本列島の倭国へ帰化した有力氏族である。」

「河勝は聖徳太子の儕輩(同志)として国造りに大きく貢献したとされており、

当時の秦氏の族長的人物であったとされる。富裕な商人でもあり、朝廷の財政に

関わっていたといわれる。」

大和朝廷の大株主という感じなんでしょうか。

 

 

p219

 

天平の高僧行基上人も、父の高志才智(こしのさいち)、母の蜂田古爾比売(はちだのこに

ひめ)、両親ともに百済系の渡来人であり、その仏教史における業績は偉大であった。

 

p220

 

行基は道場(院)の設立の他、架橋、直道、池、溝、樋(とい)、船息(ふなすえ)(港津の

泊)、堀川など、数多くの土木事業にとりくんだが、行基の信奉者グループのなかには、

渡来系の技術者が参加していたからである。

 

==>> おお、行基さんが渡来人だったとは知りませんでした。

     確認しておきましょう。

     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%9F%BA

     「『大僧上舎利瓶記』に、「俗性は高志氏にして、その考(ちち)の諱は才智、

字は知法君の長子なり。もと百済国の王子・王爾のすえなり。その妣(はは)は

、蜂田氏にして、諱は古爾比売、河内国大鳥郡の蜂田首虎身の長女なり」とあり、

父母の出自、名前が記されており、中国系帰化人(百済に帰化していた中国人)

の氏族である。」

 

     昔のお寺というのは、坊さんたちもほとんどが中国語でやっていて

修行していたそうですから、中国との外交的な窓口にもなっていたと

なにかで見たか読んだ記憶があります。

そういう意味では、中国語ができないと無理だったんでしょうね。

その点では、空海さんは天才的だったようですが・・・

 

p226

 

東大寺で具足戒を受けた最澄の父も百済系の三津首百枝(みつのおびとももえ)で

あった。 ・・・日本における天台宗の開祖である最澄すなわち伝教大師もまた渡来系

の血脈につながっていたことはみのがせない。

 

==>> おやおや、日本仏教の総合大学の開祖もまた渡来系でしたか。

     単科大学の真言宗の開祖・空海さんの方は、いろいろと謎があるそうですが。

     空海さんは佐伯氏の系だから、渡来系に近いとかなんとか・・・・

 

p233

 

私は前々からこのアメノヒボコ集団に象徴される伝承は鉄と須恵器の文化ではないか、と

考えてきた。 アメノヒボコゆかりの伝承地とされている播磨・近江、そして近江から

但馬へ入ってくる途中の丹後(たとえば京丹後市の遠所遺跡)の製鉄遺跡、そして出石の

入佐山(いりさやま)3号墳の副葬品のなかの砂鉄など、鉄の文化とのかかわりがある。

その点についてはアメノヒボコに象徴される文化は弥生時代の銅剣、銅矛、銅鐸などの

青銅器の文化の反映とする説がある。

 

・・・私はこの説とは違って、その背景には鉄と須恵器の文化があったと推定している。

 

==>> アメノヒボコ(天日槍)に関しては、すでに読んだ本の中に、下のような記述が

     ありました。

     岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/09/blog-post_20.html

     「p020

この種の天女伝説は、世界各地にみられ、朝鮮半島にも色濃く分布しており、

かつて新羅の地であった・・・・

天日槍が最後に居を定めた但馬の出石のすぐ近くであり、天に帰れなかった

天女を祀るという式内社奈具神社の中に新羅社があり、室町時代、大洪水のあと

この神社が一時合祀されていた。」

「p026 

「近江国の鏡村の谷の陶人は天日槍の従人なり」と『日本書紀』にはあり、実際、

天日槍を祭神とする湖南の蒲生郡竜王町鏡にある鏡神社の周辺には、須恵器の

窯跡が点在していてこの記述を裏付けている。」

 

 

また、アメノヒボコと製鉄の関係についても、すでに読んだ本の関連で

触れてありました。

吉田敦彦編「世界の神話101」

https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/09/blog-post_18.html

「p180 

新羅神話 

新羅には王位につくべき家柄は、朴・金・昔の三姓と定まっていた。これら三姓

は「天降姓」と呼ばれ、王位につけない「土姓」たちと区別されてきた。」

 

昔氏は現在の日本の但馬、丹波、肥後、周防のいずれかの地域から船で渡った

倭人と見る向きが多く、その後、昔氏の末裔のアメノヒボコが日本に戻ったと

される。『日本書紀』によると、アメノヒボコは菟道河をさかのぼり、若狭を

へて、但馬にいたり、ここに居を構えた。

 

アメノヒボコについては、こちらのサイトで。

https://www.hyogo-koukohaku.jp/modules/guidance/index.php?action=PageView&parent_category_id=3&language=ja&number=35

アメノヒボコは、新羅の国の王子として、奈良時代に記された古事記や日本書

紀、播磨の国風土記などに登場します。それぞれの書物によって若干の違いがあ

るものの、朝鮮半島からやってきた渡来人で、最終的には但馬に定住したという

ところは一致しています。」

「アメノヒボコの伝説が残る土地に、土器作りや製鉄に関係する場所が多いの

は、アメノヒボコが渡来系の技術者集団と関係があることを示しています。

そして、その伝説の中心に豊岡市の出石神社があります。」

 

・・・ということで、アメノヒボコは、元々は倭人であったのが、朝鮮半島で

昔氏となり、丹波に戻ってきたという話になっています。

 

 

p237

 

『播磨国風土記』「韓国」から「渡来」した「客神」としてアメノヒボコを位置づけ

いるのは興味深いが、宍禾(しさわ)郡比治(ひじ)里奮谷(うばいたに)の条でも、

アシハラシコオとアメノヒボコが谷を奪い合い、同郡柏野里伊奈加川(いなかがわ)の条

でも両者が国占めを争ったことを記載する。

 

p238

 

アシハラシコオについては、『古事記』は「大国主神、亦の名は大穴牟遅神(おおなむぢ

のかみ)といひ、亦の名は葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)といひ、亦の名は

八千矛神(やちほこのかみ)といひ、亦の名は宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)

といひ、あわせて五つの名あり」とのべる

 

『日本書紀』には、・・・・・と七つの神名をしるす。

 

『播磨国風土記』にアシハラシコオの神が登場するのもそれなりの理由があったみなす

べきであろう。

出雲系の文化が播磨の地域にも及んでいたからである。

 

==>> アシハラシコオ=大国主神が 渡来したアメノヒボコと争ったという話

     ですね。

     この戦いについては、「出雲vsタニハ 日本海の主導権争い」というサイトで

     詳しく書かれています。

     (アシハラシコオとアメノヒボコで検索すれば出てきます)

     「豊岡に拠点を構えたアメノヒボコだが、『播磨国風土記(はりまのくにの

ふどき)』には、瀬戸内海側で、アメノヒボコが出雲神・アシハラシコオ(葦原

志挙乎命)と戦ったという伝承が残されている。」

「アメノヒボコが「韓国(からくに)」から渡来し、宇頭の河口(揖保川)にやっ

てきたとき、アシハラノシコオに、次のように懇願したという。

「あなたは国主(土地の主)なのだから、私に宿る場所を譲ってくれないだろう

か」

 これに対し、アシハラノシコオは海の中ならばよいと、意地悪をした。すると

「客の神=アメノヒボコ」は剣で海原をかき混ぜて波を起こし、その上に

座った。」

 

「タニハ」というのは丹波のことらしいのですが、つまりは丹波vs出雲

戦いだったという説のようです。

下は参考のサイトです。

私は十分に混乱していますので、深入りはしませんが・・・・

https://ameblo.jp/mountain-laser/entry-12760394565.html

 

 

p247

 

東漢氏というのは単一の氏族で構成されていたのではなく、伽耶・百済系・・・漢人氏族

の総称であった。

 

有名な征夷大将軍坂上田村麻呂、その坂上氏は東漢氏の一族であり、父の坂上苅田麻呂

(かりたまろ)が宝亀3年(772)・・・に・・・

 

この奉言では、檜前忌寸の氏族を高市郡の郡司に任命すべきであることが、先祖の阿智

使主以来の系譜にもとづいて主張されている。 「檜前忌寸「とは東漢の支族のひとつで、

天武天皇14年(685r)の6月八色(やくさ)の姓(かばね)のなかの忌寸姓を

与えられて、檜隈の地を本拠とした氏族であった。

 

==>> おお、東北を制圧したという坂上田村麻呂は、そういう一族だったんですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8A%E7%94%B0%E6%9D%91%E9%BA%BB%E5%91%82

     「田村麻呂の生まれた「坂上忌寸」は、後漢霊帝の曽孫阿智王を祖とする漢系

渡来系氏族の東漢氏と同族を称し、代々弓馬や鷹の道を世職として馳射(走る馬

からの弓を射ること)などの武芸を得意とする家系として、数朝に渡り宮廷に

宿衛して守護したことから武門の誉れ高く天皇の信頼も厚い家柄であった」。

     「延暦15125日(79639日)、田村麻呂は陸奥出羽按察使兼陸奥守

に任命されると、同年1027日(7961130日)には鎮守将軍も兼ねる

ことになった。延暦16115日(7971127日)、桓武天皇より征夷大

将軍に任ぜられたことで、東北地方全般の行政を指揮する官職を全て合わせ

持った。」

 

p249

 

京都観光の名所として有名なひとつが清水寺である。 その清水寺の建立を発願した

大願主が、前に述べた坂上田村麻呂であったことを知る人は少ない。

 

坂上田村麻呂の高子夫人が病いとなり、田村麻呂は夫人のために文字どおりの「薬狩り」

にでかけ、賢心上人と出会って帰依することになった。そして清水寺の建立を発願・・・・

 

p250

 

田村麻呂と高子の間に生まれた春子は、桓武天皇の後宮に入り、葛井親王が誕生した。

 

==>> この辺りのいきさつなどについては、こちらを参照してみましょう。

     京都の清水寺は征夷大将軍・坂上田村麻呂が創建に深く関わった寺院だった

     https://www.excite.co.jp/news/article/Japaaan_168040/?p=2

     「この日、田村麻呂は妻の高子の病気平癒の薬となる鹿の生き血を求めて、鹿を

捕えるために音羽山中で狩りを行っていました。音羽の滝で修業中であった

賢心は、田村麻呂に対し、観音霊地での殺生を戒め、観世音菩薩の功徳を説いた

のです。」

 

 

 

p257

 

キトラ星宿図には独自の要素があって「分野之図」の銘文には7世紀前半ころの高句麗

の石刻星図をもとにしたことだけでなく、『晋書』天文志の記述を引用している。

西晋の陳卓がまとめた星図がその石刻星図の古天象図であった可能性もある。

 

高松塚古墳の女人像の服装は高句麗の徳興里古墳や修山里古墳の壁画などと近似し、

「天寿国繍帳」のそれとも類似する。男性像の東壁の・・・・・中国・山西省の太原市で

発見された北斎(500―577年)の高級武官徐顕秀の「山行図」の従者のもちものと

共通している。

 

==>> それぞれの図はこちらで:

     (画像1) 古墳壁画の星宿図(奈良県キトラ古墳:7c 文化庁)

     https://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2011/08/09/%E5%88%97%E5%93%81%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E3%80%8C%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E5%87%BA%E5%9C%9F%E5%A4%A7%E5%88%80%E7%BE%A4%E3%81%A8%E9%87%91%E8%B1%A1%E5%B5%8C%E9%8A%98%E6%96%87%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%80%8D%E3%80%80%E8%A3%9C%E9%81%BA1/

 

     高松塚古墳の壁画

     https://www.asahi.com/special/takamatsuduka/gallery/001.html

     女子群像や男子群像などの写真

 

 

p260

 

『姓氏録』によってもわかるとおり渡来の人びとの国々、そしてその関係氏族の数は

かなり多い。そのすべてに言及することは不可能である。

 

おりおりに論究してきた代表的な渡来氏族と渡来の文化についての考察を中心に、

最近の見解を書き加えて本書をまとめることにした。

 

 

==>> これは著者の「あとがき」の言葉です。

     この本のタイトルは「渡来の古代史」であって、「国のかたちをつくったのは

     誰か」ということに関連しての考察をまとめたものになっています。

 

さて、これで一冊を読み終わったのですが、今までにいろいろ読んできた本の中にも、

古代の日本の話になるとどうしても渡来人の話を抜きにはできないことが多く書いて

ありましたので、ここでその渡来人の仕事がどのようなものかを知るために読んで

みました。

 

これを読んだ感想としては、やはり日本列島は、ユーラシア大陸の東の端にあって、

アフリカを出た人類が地球上に拡散するにあたっては、アメリカ大陸へ渡った

グループも含めて、この東の端の「北ツ海」の周辺を通過せずには移動できなかった

のだろうという感じで受け止めました。

 

その意味では、さまざまなグループが大いに混ざり合った、環境の良い場所だった

のではないかという思いを抱きました。

1万年ほども続いたと言われている縄文時代がその証拠ではないかという気がします。

 

ところで、日本人という時、何世代つづけて日本列島に住んでいれば日本人と

いうことになるのでしょうか。

 

「三代続けば江戸っ子」といわれていますが、実際のところはどうだったのでしょう。

https://ameblo.jp/yukasikido/entry-12003712213.html

「一応はじめは出稼ぎ人であって、三代続いて江戸に住みつくことで、「江戸っ子」として認められる仕組みになっていました。

「江戸っ子は三代目から」というのは、そこから生まれた言葉なのです。」

 

一方で、京都人となるとどうなるのでしょう。

一説では「京都人を名乗れるのは5代目からとか」というのが検索にひっかかって

きました。

 

これを例えば日系人ということでいうならば、初代の両親が日系1世だとすれば、

江戸っ子なら3世、京都人なら5世ということになりますね。

 

いずれにせよ、どういう何世代にも渡って、渡来人の氏族の人びとが

さまざまな分野で特に大和朝廷の建国に深くかかわっていたことが分かりました。

 

 

今後も、何冊か、邪馬台国と大和朝廷、出雲と大和、神話と神社、そしてそれらよりも

もっと前の時代に関係するものを探して読んでみたいと思います。

 

もちろん、文献に残っていないもの、考古学的資料もないような時代については、

「諸説あり」の世界になってしまうのでしょうが・・・それもまた楽しみです。

 

 

===== 完 =====

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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