岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」を読む ―1― 空海さんも新羅系? 平成天皇 「韓国ゆかり」発言、「日本書紀」は反新羅? 八幡さまと稲荷さまは新羅系
岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」を読む ―1― 空海さんも新羅系? 平成天皇
「韓国ゆかり」発言、「日本書紀」は反新羅? 八幡さまと稲荷さまは新羅系
図書館でたまたま見つけた一冊。
日本神話と神社の関係、そしてその起源が知りたくて。
p010
百済系を主張する人もいるが・・・白髭神社が新羅系渡来人の奉祀した神社だとは、ほぼ
定説になっている。
p011
このあたりは、古代の豪族三尾(水尾とも書く)氏の地盤であり、三尾氏は白髭神社の奉祀
者であった。 そして渡来系、とりわけ新羅系の氏族ではないかと考えられている。
p013
『日本書紀』によると、継体天皇の父彦主人王は、「近江国の高島郡の三尾の別業」にいた
時、「顔色きらきらしくて、甚だうるはしき色ありといふ」噂を聞き、越前三国の高向から
振媛という女性を迎え、妃とし、天皇をもうけたのだという。
==>> まずは白髭神社です。 公式ホームページをみてみましょう。
「近江最古の大社で、社記によると垂仁(すいにん)天皇の25年(第11代・2000
余年前)、皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が社殿を御創建(御再建とも)」
「御祭神の猿田彦命(さるたひこのみこと)は、天孫(てんそん) 瓊瓊杵尊(ににぎ
のみこと) 降臨(こうりん)の際に先頭に立って道案内をされた神で、導き・道開
きの神として知られている。当社にお祀りされている猿田彦命は白髪で白い鬚
を蓄えた老人のお姿で、御社名の由来にもなっている長寿神である。」
さて、上記の「倭姫命(やまとひめのみこと)」はどういう人かといいますと、
Wikipediaには「第11代垂仁天皇の第四皇女で、母は皇后の日葉酢媛命。垂仁
天皇25年3月丙申に天照大神を伊勢の地に祀ったとされ(現在の伊勢神宮)、
斎宮の伝説上の起源とされる人物である。」
・・・ということですので、同じ垂仁天皇25年に、この白髭神社と伊勢神宮
を祀ったということになるのでしょうか。
ちなみに、「斎宮」は「伊勢神宮に奉仕した未婚の内親王(皇女・女王)。」だ
そうです。
猿田彦については天孫降臨の際の先導役であったことは、こちらで読みました。
「p204
天孫降臨
このホノニニギは、アマテラスからみると孫、つまり天孫であるため、この場面
を天孫降臨という。 サルタヒコの先導で天孫ホノニニギは、葦原中国へ下るこ
とになった。 その際に付き添った天つ神は、天の岩屋戸神話で活躍した
アメノコヤネ、フトダマ、アメノウズメ、イシコリドメ、タマノヤである。」
また、三尾氏については、継体天皇を出した氏族だそうで、三尾神社という
神社もあります。
「越前の三尾一族が近江の湖西に進出してきたのはフリヒメの興入れの時、
五世紀の第4四半期と思われる。」
p015
「和邇(わに)」という駅がある。・・・近江のもう一つの著名な豪族和邇氏の地盤・・・
ワニが古代朝鮮で剣、或いは鉄を意味するところから、製鉄にかかわった氏族で
あり、琵琶湖の和邇あたりが本拠で、近江の製鉄は和邇族によって開始された可能性が
高いと説く。
実際和邇の近くにも多くの製鉄や採鉄の遺跡が残っている。
p017
弥生時代、朝鮮半島から多くの人々が日本列島に渡ってきたわけだが、その多くは
地理上最も近い半島南東部、つまり後に新羅・伽耶の諸国が立国する地域の人々で
あったと考えられる。
彼らの多くは北九州を目的地としたであろうが、北九州を介さず、直接日本海沿岸
の諸地域にやってきた人々も、私たちの想像以上に多かったことが、最近の研究で
次第に判明しはじめている。
==>> ここでは、近江一帯での鉄生産に関する氏族として和邇氏をあげています。
そしてこれらの氏族は朝鮮半島からの渡来人であったと推測しており、
もしかしたら継体天皇はその一族の出であるから、渡来系の天皇なのでは
ないかという仮説をたてています。
p018
継体天皇は謎の天皇といわれる。 記紀ともに応神天皇の五世の孫と記して、父の
彦主人王以外中間の系譜に全く触れていないのも、武烈天皇の死後、日嗣がないと
いうことで、畿内から遠く離れた越前三国から大伴金村によって迎えられたことも、
大和に入るのに二十年かかっていることも、すべて異常だ。
武烈でそれまでの皇統が断絶し、継体から新しい王朝がはじまったと考える学者も
一人、二人ではない。
==>> 継体天皇については、いろいろと議論があるようです。
https://kotobank.jp/word/%E7%B6%99%E4%BD%93%E5%A4%A9%E7%9A%87-59037
「その即位事情は極めて異常で,実は,前王統とは血縁関係がなく,その人格,資質
により大王となったと考えられる。継体天皇の后妃となった氏族(息長,三尾,
茨田,尾張の各氏など),および継体天皇と擬制的血縁関係を持つ氏族は,近江国諸
郡と越前国を中心に美濃(岐阜県),尾張(愛知県),河内国(大阪府)に広がる地域の
諸首長であり,琵琶湖,淀川の水上交通により結び付いたこれらの首長たちが
天皇を支えていたとみられる。」
・・・継体天皇になるまでに20年もの時間がかかっているので、皇位を
簒奪した王朝であるというなど、諸説あるようです。
こちらの漫画でさらっとストーリーを確認しておきましょう。
https://discoverjapan-web.com/article/50531
「継体天皇の時代は権力基盤が不安定なことに加え、新羅の勢力が拡大し、倭国
の拠点である任那(朝鮮半島にあったヤマト王権の機関)が危機に陥る。劣勢
回復に努めるも、九州の豪族・磐井が新羅側について反乱を起こす(磐井の乱/
527年)。」
p020
この種の天女伝説は、世界各地にみられ、朝鮮半島にも色濃く分布しており、かつて
新羅の地であった・・・・
天日槍が最後に居を定めた但馬の出石のすぐ近くであり、天に帰れなかった天女を祀る
という式内社奈具神社の中に新羅社があり、室町時代、大洪水のあとこの神社が一時
合祀されていた。
==>> 天日槍(あめのひぼこ)とは何者でしょう・・・・
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E6%97%A5%E6%A7%8D-1050889
「『古事記』『日本書紀』の伝承に登場する新羅の王子。・・・・その伝承の内容
は次のとおりである。性器に日が当たり,女が赤玉を生む。天日槍がそれを手に
入れると赤玉は女と化したので妻とする。女は祖国日本の難波(大阪市)へ逃げ帰
ったので天日槍はそれを追う。しかし難波へは入れず,但馬出石にとどまり,
多遅摩俣尾の娘前津見を娶り,子孫をつくる(後裔に神功皇后)。」
・・・こちらのサイトの系図でみると、このアメノヒボコ(天日槍/天之日矛)
から8代目に神功皇后が繋がっているようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%83%92%E3%83%9C%E3%82%B3
また、こんな天皇からの直接の発言もありました・・・・
天皇の「韓国ゆかり」発言とは
https://www.moong.info/2019/05/14/korea-yukari/
「宮内庁楽部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、今も
折々に雅楽を演奏している人があります。
こうした文化や技術が、日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって
日本にもたらされたことは、幸いなことだったと思います。日本のその後の発展
に、大きく寄与したことと思っています
私自身としては、桓武天皇(第50代)の生母が百済の武寧王の子孫であると、
続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。」
公式な宮内庁のサイトはこちらです:
天皇陛下お誕生日に際し(平成13年)
https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h13e.html
ところで、この本に何度も出てくる「式内社」の意味を確認しておきましょう。
https://kotobank.jp/word/%E5%BC%8F%E5%86%85%E7%A4%BE-72671
「神祇関係法規の適用される範囲の神社名を列記したもので、この2巻すなわ
ち『延喜神名式』(『延喜式神名帳』ともいう)に登載された当時の官社3132座
(一社で複数の祭神が登載された神社もあり、社数では2861社)を式内社とい
う。」
・・・・つまり、公式に登録された神社名ということみたいですね。
p026
「近江国の鏡村の谷の陶人は天日槍の従人なり」と『日本書紀』にはあり、実際、
天日槍を祭神とする湖南の蒲生郡竜王町鏡にある鏡神社の周辺には、須恵器の窯跡
が点在していてこの記述を裏付けている。
==>> 鏡神社(滋賀県)は、こちらに詳しい記事がでていました。
https://miniuzi0502.sakura.ne.jp/jinjadistant/shiga/kagami.html
「主祭神天日槍尊は日本書紀による新羅國の王子にして垂仁天皇三年の御世
(BC三一)来朝し多くの技術集団(陶物師、医師、薬師、弓削師、鏡作師、
鋳物師など)を供に近江の国へ入り集落を成し、吾国を育み文化を広めた祖神を
祀る古社である。
天日槍は持ち来たる神宝の日鏡をこの地に納めたことから「鏡」の地名が生まれ。
書紀にも「近江鏡の谷の陶人は即天日槍の従人なり」と記されている。鏡山の麓
は渡来集団に関わる地名も多く須恵器を焼いた古窯址群も広く現存する。」
ところで、この「鏡神社」を検索したところ、私の故郷に近いところにも
鏡神社がありました。 滋賀県の鏡神社と佐賀県唐津市の鏡神社との間に
なんらかの関係があるのかなとチェックしてみたところ。
https://kagami.or.jp/origin/ichinomiya/
「御祭神:息長足姫命(神功皇后)
宝の国・新羅に出兵するに当たり、皇后は七面山(鏡山)に登り、天神地祇を
祭って戦勝祈願をしたところ、山頂に夜な夜な霊光が現れるようになりました。
そして皇后は韓の国に向けて出帆しました。」
・・・つまり、天日槍(あめのひぼこ)の8代後の神功皇后つながりでした。
神功皇后といえば「三韓征伐」なので、確認しておきましょう。
「夫の仲哀天皇の急死(200年)後、神功皇后が201年から269年まで政事を
執り行なった。仲哀9年(200年)3月1日に神功皇后は齋宮(いはひのみや)
に入って自ら神主となり、まずは熊襲を討伐した。9月には大三輪の神を祀り軍
を集めた。その後に住吉大神の神託で再び新羅征討の託宣が出たため、対馬の
和珥津(わにつ)を出航した。お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま
海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服(降伏)
して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという。」
・・・上記の「大三輪の神」というのが何かを検索してみたところ、
こちらのとおり、奈良は三輪山の大神神社(三輪明神)であるようですから、
まさに出雲の神を祀ったということじゃないかと思います。
(大神神社(三輪明神)桜井市
三輪 桜井市観光・・・で検索してください。)
p032
園城寺の古名は、大友村主寺であったようだ。 大友氏は、このあたり、即ち滋賀郡
大友郷を本拠としていた氏族で、大友村主の名から分かるように渡来系であり、しかも
新羅明神を祀っていたとなれば、明らかに新羅系だ。
・・・讃岐に色濃く分布していた新羅系の豪族秦氏に連なる人であったと考えられている。
というのも、唐から帰国した円珍が、父の館址に建立した金倉寺の境内には、新羅神社
(現在)が祀られているからである。
・・・・円珍の母は佐伯氏の出で、同じ讃岐生まれの空海の姪であり、そしてこの
佐伯氏も秦氏系らしい。
==>> 日本には多くの渡来系の氏名があることはわかってきたのですが、
ここで、空海さんの名前が出てきたので、チェックしておきましょう。
https://www5.hp-ez.com/hp/namikata/page4/bid-391255
「空海の幼少名は「佐伯眞魚」ですが、その姓「佐伯」の出所はどこであり、
どのような先祖なのでしょうか。」
「倭国と呼ばれた日本から技術や制度を学ぶために遣隋使が派遣されています。
秦氏は渡来人であり、大陸から先進技術を日本にもたらしたキリスト教徒で
あり、彼らの存在のために豊国は豊かな国となったと言えましょう。この秦氏の
地域の中に佐伯の名前が地名としてあり、佐伯氏は秦氏の支族と考えられます。」
「空海は讃岐国多度郡屏風浦(現・香川県善通寺市)に生まれ、父は軍司・佐伯
直田公です。佐伯氏が秦氏の支族とすれば、空海も秦氏と関係していたことにな
ります。このことは、渡来人が西日本一帯に住み着いたということからすれば、
渡来人の一主流の秦氏が讃岐で活躍していとことは十分に考えられます。」
・・・最澄さんが公費留学だったのに、なんで空海さんは土壇場で私費留学
で行けたのかなと不思議に思っていたら、どうも強力なバックアップが
あったような感じですね。
それに、中国人の役人が驚くほどの中国語力があったことも、気になって
いたんですが、秦氏との関係があるとなれば不思議じゃないって感じですかね。
それに、当時の日本のお寺というのは、中国人が中国語で仏典を教えるような、
いわば中国大使館みたいな感じがあったようですし。
p038
神社信仰の成り立ち
近江の渡来人が祀った神社、渡来人とかかわりのある神社についてすぐに気づくのは、
新羅=伽耶系が圧倒的に多いことである。
白村江の戦いに敗れたあと日本に渡来し、大和朝廷に重用された鬼室集斯を祀る日野町
の鬼室神社をはじめ、百済系の神社はいくつかある。
p039
しかしどこをどうみても、神社に関しては新羅が眼につく。
式内社について言うならば、近江のそれは142社、その約2割が渡来系で、そのうち
8割が新羅系なのである。
・・・寺院に目を移すならば、湖東三山の一つ百済寺をはじめ石塔寺など百済系のもの
の方が多い。
・・・それゆえ新羅・伽耶と倭の関係は、百済との関係よりはるかに古い。
『三国史記』では、「新羅―倭関係記事が紀元前の時期から始まっているのに比べ、百済
と倭の関係は397年・・・という記事から始まっている・・・・百済本紀にはわが国
との関係記事が八カ条しかないのに、百済本紀では六十数カ条に達しているのだ・・・。
大和岩雄氏らが繰り返し指摘するように、白村江の敗戦のあと、大挙して渡来してきた
百済人たちがその編纂に参劃した『日本書紀』の新羅敵視観のせいである。
==>> この新羅と百済の倭国との関係はなかなか複雑そうですね。
最後の部分の「新羅敵視観」というのがキーポイントなのでしょうか。
こちらのサイトでは、異常な「親百済」ぶりについて書いています。
https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/9598/
「古代日本の朝廷は、理由は定かではないが、伝統的に極端な親百済政策を貫い
てきた。この親密ぶりはむしろ異常ともいうべきもので、百済滅亡後に成立した
『日本書紀』の記述でさえ、この姿勢をくずしていない。」
こちらのサイトには、かなり大胆な仮説が書かれています。
https://ameblo.jp/ysaino111/entry-12450332139.html
「倭国を乗っ取った亡命百済王朝は、中国に天照・神武から続く万世一系の皇統
だと思わせなければならなかった。しかし、天照大神が中国人であったことは隠
さなければならなかった。従って神武元年を紀元前210年よりずっと古く見せ
なければならなかった。そのために、120歳以上の天皇を6人も創り、兄弟承継
であった8代9代10代を父子承継にした。」
「不比等をはじめとする亡命百済人たちは百済(日本)の歴史書を創るにあたり、
倭国と日本(百済)は別の国と思われないために百済の王の中に倭国の王を混ぜ
た。 日本書紀において原古事記から引用したと思われる倭国大王は神武天皇、
崇神天皇、応神天皇、雄略天皇、天武天皇くらいである。」
p040
「神社も神宮も新羅から入ってきたのです」とは金達寿氏の言葉・・であり、円仁が
比叡山の山麓に祀った新羅明神に関して、司馬遼太郎氏は「新羅人は当時、日本の原始
神道と相通じる神をもっています」と語る。
日本の神社に相当する聖地は、朝鮮半島では、山神堂、ソナン堂、コルメギ堂、堂山など
と呼ばれる堂(タン)だが、仏教、儒教をそれぞれ国教とした高麗、李氏朝鮮の下で
弾圧、あるいは排除されて消滅するか、儒教化してしまって、日本の「延喜式」に当たる
ような文献も皆無にひとしく、その古代でのありようは把握できない。
==>> この著者の興味は、ここに書かれている朝鮮半島の「堂」と沖縄の「御嶽」に
見られる古い神社の形にあるようなのですが、そこがなかなか、文献も
ほとんどないので、古代のありようはつかめないようです。
私もそのあたりがしりたくて、この本も読んでいるんですが、やっぱり
無理かなあと感じているところです。
考古学的な証拠でも出てくりゃいいんですが、なにせ自然崇拝ですから・・
p041
古代の一時期からはじまった新羅蕃国視、明治以降の朝鮮蔑視から、白木、白城、白井、
白国、白髭などと名を変えたところが多かった中で、今なお新羅神社を名乗る神社は
全国に数多く・・・・ 高麗神社、百済神社の名は間間見られるけれども数は少ない。
日本で最も数の多い神社のそれぞれ一つである八幡神社、稲荷神社が、元来は新羅系の
秦氏が祀った神社であった。
==>> ここで、神社の系列というのか、グループ分けをした場合に、どれくらいの
シェアをもっているのかを見てみましょう。
そういうサイトがあるってことが驚きですが・・・
要するに、神社ランキングです。
https://www.gentosha.jp/article/20189/
1位 八幡信仰 7817社(八幡神社や八幡宮、若宮神社)
2位 伊勢信仰 4425社(神明社、神明宮、皇大神社、伊勢神宮など)
3位 天神信仰 3953社(天満宮、天神社、北野神社など)
4位 稲荷信仰 2970社(稲荷神社、宇賀うが神社、稲荷社など)
5位 熊野信仰 2693社(熊野神社、王子神社、十二所神社、など)
これらの上位5つの中でも、新羅系の八幡と稲荷は凄いですね。
こちらにもなかなか面白いサイトがありました。
https://plaza.rakuten.co.jp/bluestone998/diary/201906170000/
「私はこれまで神道は日本独自の宗教であるというふうに、誰に教えられたわけ
でもなくそう信じておりましたが、それが実はそうではないことを、「週刊金曜
日」の記事で知りました。」
「桓武天皇は8世紀から9世紀初めの人とされる。『続日本紀』によれば、生母
は高野新笠(たかのにいがさ)である。その父は「和」と書いて「やまと」と読
む姓で、古代朝鮮半島にあった百済系渡来人だと記されている。改姓し「高野」
となった。娘の新笠は光仁(こうにん)天皇の側室から天皇の妻となり、のちの
桓武天皇を生むことになる。つまり、天皇家には朝鮮半島からの渡来人の血が流
れているということだ。これが事実なら、「嫌韓」を煽(あお)る「愛国者」の
人たちは天皇家のルーツに唾を吐きかけていることになる。
その発言の16年後に明仁・美智子夫妻が訪れた冒頭の高麗神社の由来も、実は
この『続日本紀』に記されている。」
・・・いや、私も前々からそう思ってきたんですが、いわゆる愛国者を名乗る
人たちって、尊王なのか攘夷なのか、どっちなんでしょうね。
p052
谷川健一氏は・・・天日槍が巡歴したコースに残る地名とそれにまつわる伝承、その
周辺の鉱山や砂鉄の採取場の遺跡などから、天日槍の集団が「金属精錬の集団」である
ことを明らかにした。
・・・始祖が大己貴命(おおなむち)、四代が天日桙命だという。
p054
『日本書紀』では、天日槍の渡来が垂仁天皇の2年であるのに対し、倭姫命と伊勢
神宮の件が25年、「弓・矢・刀」以下ことが27年に記されていて、『古語拾遺』
とは順序が前後している。
齋部広成は、・・・さらに言えば、天日槍の渡来が、神社の成り立ちやその祭祀に或る役割
を果たしたことを、広成自身が認めていた事実を示しているように思われる。
==>> これは、著者が、神社は渡来人によってもたらされたものであることを
示唆しているのでしょうか。
p056
日本海に注ぐ円山川の支流出石川のほとりにある出石は、古来から人が住み、新羅や伽耶
ともかかわりが深く、出石神社の近くの伽陽(かや)と呼ばれる地区には、大半が伽耶の
古墳と同じ形式の百基内外の古墳があり、しかも鉄の産出地でもあり、天日槍はもともと
出石に住んでいて、陸路播磨へ出てきたのだとも考えられる。
==>> 出石神社(いずしじんじゃ)の由緒は、こちらのサイトにありました。
http://www.izushi-jinjya.com/history1.html
「出石神社は、天日槍命(あめのひぼこのみこと)が新羅の国よりお持ちになり
ました八種の神宝を出石八前大神(いずしやまえのおおかみ)として、また天日
槍命の大御霊を御祭神として斎祀しています。
天日槍命は、古事記、日本書紀ともに新羅国王の王子であり、日本に渡来された
とし、その事蹟は記紀のほか古語拾遺、播磨国風土記等にうかがうことができ
ます。 八種の神宝とは、古事記には珠二貫・振浪比礼・切浪比礼・振風比礼・
切風比礼・奥津鏡・辺津鏡と記しています。
天日槍命のご子孫には、田道間守命(たじまもりのみこと)や神功皇后があり
ます。」
・・・このように、記紀に明記された由緒があり、神功皇后にも繋がる
ことが書かれています。
p58
最後に問題となるのは、熊の神籬(ひもろぎ)である。神籬は記紀において、神代巻以来
頻出する言葉で、さし当たり「神の降臨の場所として特別に作る場所。・・・後には神社の
意にもいう」とある大系の註に従っておく・・・
p59
「熊は何なのかということですが、朝鮮語のコムでして、「聖なるもの」という意味なん
です」・・・と言う。 両氏は熊だけでなく、神籬もまた朝鮮、新羅の言葉だと主張する。
こうした主張は、江戸時代から日本の学者たち、藤貞幹、金沢庄三郎らも唱えていたこと
で、三品彰英氏も、「神籬にかぎらず、古代神道関係の用語には日韓同源語が少なからず
見出される」とし、ヒモロギに関し、「ヒは霊、モロは三諸山のモロである。・・・・」
==>> ここでも、日韓の多くの学者が、記紀にある用語について、新羅などから
もたらされたものだとしています。
p060
柳田国男は『氏神と氏子』の中で、「たとえば能登の飯田などで榊みこしといふもの、
是は白木造りの台の上に、ただ榊の枝を差し立てたもので、之を神籬(ひもろぎ)だと
神官は謂って居る」と書いている・・・
・・・とりわけ能登半島の突瑞珠洲郡のあたりは朝鮮半島の影の濃いところで、有名な
珠洲焼は「要するに新羅・伽耶の朝鮮土器そのもの」(金達寿)であり、古麻志比古神社
をはじめ渡来神を祀る神社がいくつも存在するのである。
==>> まず珠洲焼については、こちらでその歴史を確認します。
https://suzuware.info/learn/history/
「12世紀中葉(平安時代末)から15世紀末(室町時代中期)にかけて、現在の
石川県、能登半島の先でつくられていました。中世日本を代表するやきものの
一つで、北海道南部から福井県にかけての日本海側に広く流通していました。
そのつくり方は、古墳時代から平安時代にかけて焼かれた須恵器を受け継ぎ、
窖窯(あながま)を使い燃料の量に対して供給する酸素の少ない還元炎焼成
(かんげんえんしょうせい)で、1200度以上の高温で焼き締めていくものです。」
そして、上記のように「須恵器(すえき)」の技術を受け継いでいるとあります
ので、こちらで確認しましょう。
https://kotobank.jp/word/%E9%A0%88%E6%81%B5%E5%99%A8-83326
「古墳時代に朝鮮半島からその製作技術が伝えられたもので、構築した窯(窖窯
(あながま))を有し、1000℃以上の高温で焼成することや、ろくろを使用し多量
の製品を同一規格でつくりうることなど、従来の土器(土師器(はじき))にみら
れない画期的な焼物である。」
・・・つまり、従来の野焼きをしていた土師器にくらべ、高温窯を利用した
大量生産方式の技術が伝えられたということになります。
p061
降臨した山の名だけでなく、この神話と天孫降臨とがさまざまな点で似ていることは、
三品彰英が「首露伝説――祭儀と神話」の中で詳しく説いており、金錫亨氏は「日本の
古文献にみられる天孫天降りの話は、駕洛移住民のものであったと考えざるをえない」
とまで言う。
新羅の始祖赫居世誕生の神話も「駕洛国記」の神話と酷似している。
==>> まず、「駕洛国記(からこっき)」を調べてみましょう。
https://kotobank.jp/word/%E9%A7%95%E6%B4%9B%E5%9B%BD%E8%A8%98-1155928
「朝鮮古代の金海加羅国とその後の歴史を点描した高麗初期の歴史書。別名
〈駕洛記〉。知金州事の金良鎰により1076年に編纂。」
「11世紀の金海邑の邑祭では,始祖王の降臨神話や始祖王后の海洋渡航神話に
よる神事が行われていたことが知られる。」
次に、「新羅の始祖赫居世」ですが・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%AB%E5%B1%85%E4%B8%96%E5%B1%85%E8%A5%BF%E5%B9%B2
「赫居世居西干(かくきょせい きょせいかん、紀元前69年? - 後4年 )は、
斯蘆国の初代の王(在位:紀元前57年? - 4年)であり、姓を朴、名を赫居世と
する。」
「馬が消えてあとには大きい卵があった。その卵を割ると中から男の子が出て
きたので、村長たちはこれを育てた。10歳を過ぎるころには人となりが優れて
いたので、出生が神がかりでもあったために6村の長は彼を推戴して王とした。
このとき赫居世は13歳であり、前漢の五鳳元年(前57年)のことという。」
・・・「駕洛国記」は、1076年の編纂となっていますので、日本書紀の
720年に比べるとかなり遅いので、どちらが元なのかという議論は難しそう
ですね。
中国の古文書などではどういう扱いになっているのでしょうか。
p062
天日槍(アメノヒボコ)とその一行が神籬(ひもろぎ)を将来したとするならば、
神籬は神祀の最初の形だったのだから、彼らは、石上の神宝を通して朝廷の宗儀に
参加しただけでなく、神社の成り立ちにも或る役割を果たしたと言いうるだろう。
日本の祠堂、即ち神社が、古代から現代まで国家の庇護をうけ、その信仰が全国に
わたっていまだに脈々と生き続けているのに対し、朝鮮の祠堂、即ち堂(タン)は、
後世、仏教、儒教が国教となったため、国家の庇護を受けられず、賤視、抑圧、時には
迫害されたため、いちじるしく衰退、変貌し、或いは極端に儒教化されてしまった・・・・
==>> ここでは、日本の神道の元になったものは、朝鮮半島からもたらされたと
考えるのが妥当だと思われるのだが、一方の半島側では、歴史的に神道系の
ものが抹消される環境にあったため、具体的な形での証拠を捉えるのが
難しいという事情が述べられています。
やはり、考古学的なこれぞを言えるものが出てこないと議論が進まない
ということなのかもしれません。
ここまで読んで来ると、もうほとんど神道や神社の大元は新羅あたりになるんじゃ
ないかという気持ちにもなるのですが、まだまだ先があるので、次回読み進めたい
と思います。
次回は、「第三章 敦賀という場所」に入ります。
===== 次回その2 に続きます =====
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