倉橋日出夫著「古代出雲と大和朝廷の謎」を読む ―3― 物部氏の神ニギハヤヒが大和国の初代統治者、卑弥呼=日女命(ひめのみこと)=倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)=神大市姫命=日神
倉橋日出夫著「古代出雲と大和朝廷の謎」を読む ―3― 物部氏の神ニギハヤヒが大和国の初代統治者、卑弥呼=日女命(ひめのみこと)=倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)=神大市姫命=日神
「第8章 邪馬台国は出雲系か」
p148
神武東征説話の成立をめぐっては、これまでに多くの議論があり、史実とみるか、
何らかの史実の繁栄された創作とみるか、さらにはまったくの虚構とみるか、専門家の
間でも意見が分かれている。
東征説話をはじめ、天皇の祖先が天から日向に天降ったという天孫降臨説話なども、
もともと中国の古典や仏典をはじめ、北方や南方の民族の伝説を取り入れたもので、
記紀の作家のフィクション、つまり虚構とみるわけである。
p149
しかし、在野の研究科のなかには、神武東征説話に何らかの史実をみようとする人が
多いのも事実だ。 邪馬台国の所在地論争でいえば、神武東征説話は事実上、邪馬台国
東遷説の拠り所となっていた面がある。 九州にあった邪馬台国が畿内に遷ったという
史実を、東遷伝説は反映しているとするのである。
しかし、・・・邪馬台国が九州から大和に東遷したちう事実はないし・・・・・
==>> 九州説を贔屓にしている私としては、東遷説に一縷の望みをかけていたん
ですが、著者はあっさりとそれを否定しています。 ああ、がっくり・・・
p151
最も理解しにくいのは、天から降ってきたという天孫降臨の説話そのものと、降臨した
地がなぜ日向の高千穂かという点だ。 これまでのところ、少なくとも考古学の発掘
では、弥生時代から古墳時代の初期にかけて、この伝説を裏付けるような有力な勢力
の痕跡は宮崎県の日向の高千穂からは発見されていない。
・・・九州南部は1万年ほど前から縄文文化が発達した場所でもある。 この地方には
大昔からの聖地伝承のようなものがあり、それが伝説に取り入れられている、とでも
考えればいいのだろうか。
==>> ここで、神武東征の出発地点である日向(ひむかい)について検討している動画
があったので、日向が時代的にどのような場所であったのかを確認しておき
ましょう。
神武東征は日向から始まったのか。神社さんの由緒を読み解きつつ
https://www.youtube.com/watch?v=zAXOtfGBw34&t=212s
日向にはなんにもなさそうだけど・・・
「本野原(もとのばる)遺跡:西日本最大の縄文集落の遺跡」があるじゃないか。
「狭野神社: 社殿によれば、第五代孝昭天皇の御代に神武天皇御降臨の地に
創建されたと伝えられています。」
と出てきましたので、狭野(さの)神社のサイトを確認しておきましょう。
https://sanojinjya.web.fc2.com/
「御祭神【初代天皇 神武天皇(じんむてんのう)
(ご幼名 狭野尊(さののみこと)】)
「社伝によれば、第五代孝昭(こうしょう)天皇の御代に神武天皇御降誕の地に
創建されたと伝えられています。当社より西方一キロの霊跡に末社皇子原神社
が鎮座し産場石と呼ばれる神石が奉齋されています。」
「当社は高原町の南西部に位置し霧島連峰の麓に鎮座するため幾多の火山噴火
の災禍に見舞われた歴史があります。」
「この地方では古くから天孫降臨の聖地、高千穂の峰を中心とする霧島山を
信仰の対象としていました。霧島権現の信仰があった縁故の地には仁王像が残さ
れ、狭野神社においても二体の仁王像が残されています。」
・・・ちなみに、孝昭天皇は第五代の天皇です。
「欠史八代の一人で、実在性については諸説ある。」とwikipediaにはあります。
p153
神武東征伝説が語っているのは、大和朝廷というか後の天皇家となる一族は、まず
九州出身ということである。 九州にルーツを持つ天皇家の祖先の勢力が、九州を発し、
大和に攻め入り、大和在来の勢力を制圧したことを物語っている。
p154
では、制圧された大和の在来の勢力とは、いったい何か。
それは、・・・三輪山の神を祭る勢力で、しかも出雲族と呼ばれる人々だったようだ。
p155
三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)は、出雲の主神である大国主命(おおくにぬしの
みこと)の別名である。 大和朝廷成立以前の大和には、この神さまを奉じる出雲族が
住んでいた。 つまり、邪馬台国は出雲系の王朝だったのではないか、と考えることが
できる。
==>> ここで、著者は大物主神=大国主命であると断じているのですが、
これにも諸説ありそうです。
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E7%89%A9%E4%B8%BB%E7%A5%9E-450980
「大神神社(桜井市の三輪山)に祭られる。『日本書紀』の諸伝承の中には,
オオモノヌシを大国主神(オオクニヌシノカミ),大己貴命の別名とするものも
ある。」
「この男と娘との間に生まれた子が,神武天皇の皇后となった比売多多良伊須気
余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)だ,という。」
「オオモノヌシは,もともと大和地方で圧倒的な影響力を持つ,三輪山に祭られ
る神であったものが,朝廷によって神話がまとめられていく過程でその体系の中
に繰り込まれたものだろうし,この神をオオクニヌシと同神とする伝承は,両神
の名称が類似していることにも影響されたものだろう。<参考文献>松村武雄
『日本神話の研究』4巻」
・・・上に出てくる神武天皇の皇后については、wikipediaには以下のような
解説があります。
比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)
「この結婚は「ヒムカ」(日向国)からやってきた他国者であるイワレヒコ
(神武天皇)を、凡河内国(大和国と摂津国)の有力者たちが支えたことを示す
ものだろうと解釈する説がある。また、イワレヒコが単に武力制圧するだけで
なく、在地の勢力との融和策によって支配基盤を固めようとする政治的方法を
示すものだとも解釈する説もある。後述するように、神武天皇の勢力が製鉄技術
を確保したことを示すものだとの解釈もある。」
「名に含まれる「タタラ」は製鉄との繋がりを示唆するという解釈があり、神武
天皇がヒメタタライスズヒメを嫁としたことは、政権が当時の重要技術である
製鉄技術を押さえたことの象徴であるとする説がある。」
・・・製鉄技術というのは、名前の中に「タタラ」という言葉が含まれて
いることにヒントがあるようです。
製鉄技術に関しては、日本海側のいくつかの場所で、渡来人との関係を
書いた本もあります。
p156
大和朝廷とは、いうまでもなく天神系の天照大神を奉じる政権である。 だが、邪馬台国
はそうではなく、どうやら出雲系の神を奉じていたようだ。 すると、出雲系邪馬台国から
天照系大和朝廷へーーーという、そんな構図が見えてくる。
p162
ニギハヤヒの存在は、すでにある正当な勢力が大和に存在していたことを物語っている。
しかも、神武はその勢力を認めざるを得ず、打ち負かすことはできない。
そこで、出雲の国譲りと同じように、神武はニギハヤヒから大和を譲られるのである。
==>> ここでは、「ニギハヤヒ」という人物が重要な感じなので、こちらの
動画でざっと概略をつかんでおきましょう。
ちょっとふざけた感じのサイトなんですが、ポイントは押さえているので
私のお気に入りの動画サイトです。
歴史の闇に葬られた神「ニギハヤヒ」について
https://www.youtube.com/watch?v=Rdm2bH1VC60
「物部氏=神の子孫、古代の豪族
その彼らの神様がニギハヤヒで、天皇家との争いに敗れてしまったために
ニギハヤヒが大和国の初代統治者であると書かれたこの先代旧事本紀が
偽書とされてしまったんだ」
「出雲ではオオナムヂと呼ばれる神様を鎮魂した出雲大社を建てたように、
この大和国にも鎮魂のために石上神宮という神宮を建立して、
祟り神を祭る御霊信仰としてニギハヤヒの力を守護としたと言われている」
こちらのコトバンクでは、下のような解説になっています。
https://kotobank.jp/word/%E9%A5%92%E9%80%9F%E6%97%A5%E5%91%BD-591173
「『日本書紀』によると,ニギハヤヒは天神の子とされ,神武天皇より先に天磐船に
乗って大和に天降り,長髄彦(ナガスネヒコ)の妹三炊屋媛と結婚して可美真手命
を生んだ。ナガスネヒコがニギハヤヒを天神と崇めて忠誠を尽くそうとしたの
で,神武がその証拠を求めたところ,ナガスネヒコはニギハヤヒの神宝を見せて
それを明かしたが,ニギハヤヒは神武に帰順して逆にナガスネヒコを滅ぼしたと
いう。」
・・・日本書紀にしっかり書かれているくらいですから、神武天皇と同じく
天神の子であったことは認めざるをえない人物だったということのようです。
そして、それが物部氏の子孫ということなんですね。
そして、こちらの記述が動画では「裏」とされている歴史なんですが・・・
「平安初期に作られた『先代旧事本紀』には別の伝えがあり,ニギハヤヒは
尾張氏の祖神天火明命に同じで,天神から10種の神宝を授けられて河内国
(大阪府)に天降り,そこから大和国(奈良県)に移ったと記している。ニギハヤヒ
は,この国の支配者として,かつては天皇家の祖神よりも古い伝承を持っていた。」
そこで、初耳の『先代旧事本紀』も確認しておきます。
https://kotobank.jp/word/%E5%85%88%E4%BB%A3%E6%97%A7%E4%BA%8B%E6%9C%AC%E7%B4%80-88530
「平安初期に編纂(へんさん)されたと推定される歴史書。本書の序には、620年
(推古天皇28)聖徳太子、蘇我馬子(そがのうまこ)らの撰録(せんろく)するとこ
ろと記すが、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺(しゅうい)』などからの引用が
あるので、本書は807年(大同2)以後に成立したもの。」
「著者は未詳であるが、「天孫本紀」には尾張(おわり)氏および物部(もののべ)
氏の系譜を詳細に記し、またほかにも物部氏関係の事績が多くみられるので、
本書の著者は物部氏の一族か。」
・・・・物部氏といえば蘇我氏を自動的に思い出すわけですが、
「欽明天皇の時代百済から贈られた仏像を巡り、大臣・蘇我稲目を中心とする
崇仏派と大連・物部尾興や中臣鎌子(中臣氏は神祇を祭る氏族)を中心とする
排仏派が争った(仏教公伝)。」(wikipedia)
にもあるように、この争いが何らかの影響を与えたのでしょうか。
物部氏が古い神道を守る勢力だとすれば、蘇我氏は仏教を持ち込んで神仏習合
を推進した勢力だということになるのでしょうか。
Wikipediaには、
「『先代旧事本紀』 - 江戸時代の国学によって偽書であることが解明されたが
その頃からすでに内容の一部には独自の史料価値があるとも評価されている。」
・・・とありますので、史料価値はあるようです。
また、wikipediaでは、蘇我氏について、
「蘇我氏は葛城氏の政治力や経済力、対朝鮮の外交ポストや渡来人との関係
(4世紀から5世紀にかけて、葛城には渡来人が居住しており製鉄作業に従事
していた)や、大王家との婚姻関係などを継承したと考えられる。葛城氏対朝鮮
半島関係を担っていたという伝承を持っていた。」
・・・とありますので、製鉄を含めて、渡来人との関係が深かったようです。
p165
神武の東征物語は、三輪王朝が誕生してくる様子をあらわしていると考えられるが、
そのなかで、神武はニギハヤヒから王権を譲り受けている。 神武の前に大和を支配
し、王権を築いていたのはニギハヤヒである。 では、ニギハヤヒは邪馬台国の王だった
のだろうか。
p168
物部氏は朝鮮半島の百済とも関係が深い氏族といわれているが、その活動が活発に
なってくるのは、じつは5世紀ごろからだ。 これは河内王権の拡大とはっきり歩調を
合わせており、河内から大和に進出し、河内王権を支える武力勢力として基盤を確保
していく。
物部氏はやがて、石上神宮の管理を受け持つようになり、武力的な性格のほかに、
祭祀的な性格が備わり始める。
・・・このように、7世紀から8世紀初めという大和朝廷によって中央集権化が進む
段階、ちょうど『古事記』や『日本書紀』が出来上がってくるときに、物部氏は
朝廷内で大きな発言力をもっていたわけである。
・・・となれば、ニギハヤヒは、物部氏のために創られた架空の人物と考えられる
要素が非常に強い。
==>> 「やがて、石上神宮の管理を受け持つようになり・・・祭祀的な性格が
備わり始める」とありますね。
元々から祭祀的な旧来の神を祭る物部氏というわけではなかったという
ことですかね。
となると、邪馬台国の神を祭っていたということにはなりませんね。
p171
記紀が成立した頃は、日本に仏教や儒教などあらゆる思想が洪水のように押し寄せた
時代で、おそらく、中国の漢籍や仏典にルーツがあるとみるのが普通である。
だが、それだけではない何かがあるのかもしれない。
==>> これは「日本神話の国際性」に関してかかれている部分なんですが、
著者は、「何か人類共通の事件といったものがあるのではないか」とも
書いています。
つまり、世界中に似たような神話が多いということです。
p174
あの百襲姫(ももそひめ)の名前がここに記されている。 その上のほうに「日女命」
(ひめのみこと)とあり、「またの名を神大市姫命(かむおおいちひめのみこと)」とある。
さらに、「日神(にちじん)と云う」と記述されている。
これは卑弥呼だ。 間違いなく卑弥呼がここにいる!
私は思わず声をあげそうになった。
私が眺めていたのは「海部氏勘注系図」(あまべしかんちゅうけいず)という丹後の
籠(この)神社に伝わる系図である。
==>> この籠神社に伝わる系図については、公式サイトのこちらでどうぞ。
国宝 海部氏系図(平安初期)
https://www.motoise.jp/about/houbutsu/
さらに、こちらのサイトには、もう少し詳しく書いてあります。
http://tokyox.matrix.jp/pukiwiki/index.php?%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC
「系図によると、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫の
ところに、「日女命(ひめのみこと)」と出てきます。この「日女命」の脇に、
「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」
などと記されています。」
「「神大市姫命」の「大市」。これは『日本書紀』のなかで箸墓について、「倭迹
迹日百襲姫が死んで、大市に葬る。時の人はこの墓を名づけて箸墓という」と
ある記述に完全に一致。宮内庁による箸墓の呼び名「倭迹迹日百襲姫の大市墓」
の「大市」です。
どうやら、箸墓に葬られた百襲姫という女性は、丹後の
籠神社の系図にある「日女命」と同一人物で、彼女が卑弥呼であるらしい。
つまり、卑弥呼は「日女命」と考えてよいようです。」
・・・このサイトでは、卑弥呼=日女命(ひめのみこと)=倭迹迹日百襲姫
(やまとととひももそひめ)=神大市姫命=日神・・・であるとほぼほぼ
断定しているようです。
p178
「勘注系図」はやはり彦火明命から平安初期までだが、江戸時代初期に書き写されて
いる。 もともとは「丹波国造本記」があり、これを9世紀後半、34代目の宮司
(海部勝千代)が修録したものだと書いてある。
この章の冒頭にみた「日女命」という名前は、「勘注系図」の方に置かれている。
その末尾付近に次のような言葉がある。
p179
「最奥の秘記として、これを永世に受けつぎ、他人に見せてはならない」
・・・まさに、並々ならぬ決意のほどが込められている。
==>> そして、水戸藩主・徳川光圀からの要請があったが、「御神体であるから」
という理由で、要請を断ったという話も書いてあります。
そういうものがあるという事は、知る人ぞ知るということだったようです。
p181
「勘注系図」の彦火明命(ひこほあかりのみこと)の記述をみると、前段と後段のふたつの
部分からなっている。
前段は丹後に降臨する話、後段は河内に天の磐船で降り、日本を支配していたという
話である。 ・・・神武東征伝説に登場するニギハヤヒに重なるのは後段の部分だ。
天孫降臨というと普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州は日向の高千穂に天降った
とされているが、「海部氏系図」では、ニニギノミコトではなく、ヒコホアカリノミコト
が、九州ではなく丹後に天降ったという。
ニニギとホアカリはともに天照大神の孫で、どちらも天孫である。 つまり、天皇家と
海部家は兄弟の関係になる。 だが、ニニギとホアカリは、史料によっては別の関係
にもなっている。
==>> 要するに、二つの天孫降臨があったってことのようです。
高千穂と丹波ですね。
天皇家と海部家です。
兄弟で降りてきたけれども、海部家の方が、一足早く大和に来ていたって
ことのようです。
p184
「勘注系図」をさらに見ていくと、2代あとの11世の孫のところに、また、「日女命」
が出てくる。 「またの名を小豊姫命(おとよひめのみこと)」とある。
これが「とよ」を連想させ、邪馬台国の二代目の女王、台与ではないかと思わせる。
この女性はまた「稚日女命(わかひるめのみこと)」、「一云、玉依姫命(たまよりひめの
みこと)」ともある。
「稚日女命」とは、まさに「小さな日女命」という意味だ。 大市の卑弥呼に対して、
小市の台与という関係がここでも見える。
==>> ミステリー作家ならずとも、古文書などをしっかり読める人であれば、
このような連想なり組み立ては出来るのでしょうが、さすがだなと
思います。
私などは、漢字がたくさんならんでいるだけで、びびってしまいますから。
p189
海部氏が「神宝」として代々伝えてきた息津鏡と辺津鏡の2面の鏡は、本来なら、とうの
昔に祖先の誰かの墓に副葬されていてもよかったはずだ。
彦火明命は「勘注系図」によると、「天祖から二つの神宝、息津鏡、辺津鏡、それに
天鹿児弓(あまのかごゆみ)と天羽羽矢(あまのははや)をそえて授かり、「葦原中つ国
の丹波国に降り、国土を造成せよ」との言葉を受けて、丹波国に降臨した」。
天祖から授かった神宝の息津鏡と辺津鏡が、一つは前漢鏡、もうひとつは後漢鏡だったと
いうことは、すなわち、中国漢王朝の権威を身にまとった人物が古代の丹後にやって来た
と考えるのが自然だ。
==>> この二つの鏡は、籠(この)神社の神宝として神社のサイトに掲載されています。
https://www.motoise.jp/about/houbutsu/
p193
驚くべきことに、このような玉造りが丹後半島では紀元前2世紀ごろから始まって
いた。 玉造りの工房のある遺跡が、丹後半島だけで十数か所見つかっている。
p195
ここには、北部九州とは別の意味で「先進」というイメージがわいてくる。 ガラスや
鉄製品を作るには、原料を朝鮮半島や大陸から持ってくるほかない。 おそらく北部
九州経由ではなく、日本海から直接朝鮮半島南部に達するルートを持っていたのでは
ないか、と考えられ始めている。
「海部氏」という名が語るように、丹後は海人族(あまぞく)の土地である。
・・それを示すように宮津市の隣の舞鶴市から、縄文時代の丸木舟が出土している。
p198
このように倭国大乱期から邪馬台国時代にかけて、列島のなかでどこよりも鉄を
保有していたのが丹後である。 その多くが鉄剣や鉄鏃(てつぞく)(矢の先端部)など、
武器として出土している。
==>> ここで、九州や大和ではなく、丹後という場所が鉄という戦略物資を
キーワードとして、また、朝鮮半島との直接交易ルートという切り口で
登場してきました。
この本のp047で丹後と鉄の関係がすでに述べられていました。
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/11/blog-post.html
「p047
2世紀末から3世紀初め、ちょうど邪馬台国の女王として卑弥呼が登場して
くる頃、国内で一番多く鉄器が出土するのは、北部九州でも畿内でもなく、
なんと近畿北部の丹後半島(古代丹波)なのである。」
==>> 著者は、ここで、鏡と墓を最重要なものとして、畿内説しかありえ
ないであろうと主張しています。 そして、そこに追加されるのが、
鉄の生産になるようです。
そこで思い出したのが、先に読んだこちらの本です。
岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/09/blog-post_30.html
「p164
それでは新羅=伽耶系の出雲の勢力は、なぜ大和へ、とりわけ三輪地方へ
進出したのであろうか? 一言で言って、鉄のためだと私は考えている。
たとえば河上邦彦氏は「三輪山と邪馬台国」・・・という一文の中で、
「三輪山の麓になぜ古代の王権」が生まれたかの理由として、「三輪山
鉄が採れる」からだと書いている。」
p199
邪馬台国の女王に卑弥呼を共立していく主要なメンバーに、古代丹波が入っていた
のはほぼ間違いない。 しかも、海部氏の系図に残る「日女命」の名は、卑弥呼が
じつは古代丹波出身だったのではないか、と思えてくる。
p202
おそらく卑弥呼の出身地と考えられ、鉄を背景にした大きな武力をもつ丹波は、
朝廷にとっては目の上の瘤のようなものだったに違いない。 ここだけは是が非でも
抑えておく必要があった。
p203
記紀の中では、邪馬台国も卑弥呼の存在もまったく隠されている。 大和朝廷によって、
卑弥呼の痕跡は完全に消されてしまった、ともいえるだろう。
ここの丹波の勢力と大和朝廷との深い敵対関係のようなものが見える。
==>> 著者は、鉄を背景にした武力を持つ丹波に、卑弥呼がいて、
邪馬台国を率いていた。 そして、大和朝廷は、その丹波の力を抑えて、
国譲りを納得させた、という推理をしています。
しかし、それにしても、日本書紀や古事記から、それらのすべてを
抹殺しなければならなかったのはなぜだったのでしょうか。
次回は、「第十一章 美輪山と出雲の神」から読んでいきましょう。
===== 次回その4 に続きます =====
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