倉橋日出夫著「古代出雲と大和朝廷の謎」を読む ―1― 卑弥呼の鏡と墓、邪馬台国の要件。 年輪年代法が弥生時代を変えた。 三角縁じゃなく画文帯神獣鏡。

倉橋日出夫著「古代出雲と大和朝廷の謎」を読む ―1― 卑弥呼の鏡と墓、邪馬台国の要件。 年輪年代法が弥生時代を変えた。 三角縁じゃなく画文帯神獣鏡。

 

 


神話と神社の関係をいろいろ読んでいるんですが、やっぱり出雲と大和の関係

分からないと謎はとけそうにないので、まずは、ノンフィクション・ミステリーを

得意とするらしい小説家で、楽しく読んでみようと思います。

研究者の本を読む前に、肩慣らしのつもりですが、どんな説が飛び出してくるのやら。

 

 


p003

 

出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へーー古代の日本では、このように大きな転換が

あったのではないかーー。

 

邪馬台国の所在地は、奈良県の大和盆地、いわゆる大和だ。

そのなかでも、卑弥呼が居住した祭政の中心地域は、最近とみに注目されている纏向(まき

むく)遺跡、さらに卑弥呼の墓は、その地で最初に出現した巨大前方後円墳、箸墓(箸中山

古墳)。 こういう前提である。

 

国宝の『海部氏系図』に記された倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)、すなわち

「日女命(ひめのみこと)」こそ、卑弥呼と考えられるからである。

 

p005

 

私が考えているのは、列島には早くから古代出雲文化圏のようなものができており、

邪馬台国はどうやらその基盤の上に乗っている。 そして大和朝廷は、邪馬台国の

支配域を上書きしただけではないのか・・・という構図である。

 

 

==>> 著者は、「はじめに」でミステリーの筋書きをバラしています。

     ミステリーが苦手な私としては、非常にありがたい構図の宣言です。

     もっとも、私は長崎県出身なので、邪馬台国九州説ではないのが残念

     なのですが。

 

p014

 

今から1800年ほど前、2世紀末から3世紀前半ごろ、日本列島のどこかに

邪馬台国という国があった。 その国には卑弥呼という名前の女王がいて、60年ほど

王位についていた。

 

p015

 

卑弥呼が王となって以来、彼女を見たものは少なく、奴婢千人が彼女の世話をしている。

・・・卑弥呼が暮らしているところは、宮室、楼観、城柵がおごそかに設けられ、いつも

兵士が武器を持って守っている。

 

239年・・卑弥呼は大夫(たいふ)の難升米(なしめ)らを帯方郡(朝鮮半島にある

魏の出先機関)に送り、男女の生口(せいこう・奴隷)10人や木綿などの布をもって、

魏に朝献することを申し出た。

 

==>> この辺りでは、魏志倭人伝などに書かれていることなど、一般的なことが

     述べられています。

     

 

p017

 

卑弥呼が女王になったのは、おそらく西暦180年~190年ごろというのが一般的

な見方である。 卑弥呼はその頃に王位につき、247年か、248年ごろ死んだ

 

p019

 

倭人伝の記述では、福岡あたりから南へ南へと、船と陸それぞれ1ヶ月もかけて

邪馬台国に着く。 これでは日本本土を突き抜けて、南方の遥か海上に達してしまう

 

p020

 

中国の古地図に描かれた日本列島は、九州を北に置いて、そこから南方向に本州が延びて

いるようなものがある。 また、日本列島の位置を台湾や沖縄と混同しているかの

ような描写もある。

 

やはり、倭人伝のデータそのものが正確ではないのだ。

 

==>> 卑弥呼の時代については、ほぼ一般的な見方としての合意があるようですが、

     邪馬台国の場所については、ご存じのとおりで、さまざまな説があります。

     著者はその中で、大和盆地説(畿内説)を展開していくようです。

     せっかくですから、youtubeで「諸説」を見ておきましょう。

     邪馬台国の場所に関する諸説をできるだけ集めて根拠や反論も探してみた動画

     https://www.youtube.com/watch?v=ypoDx4eOKvs&t=34s

     畿内説、九州説、出雲説、吉備説、北陸説、近江説、徳島説、愛媛説、

などなどが説明されています。

 

p021

 

『隋書』倭国伝(7世紀)は、そのあたりの事情を伝えている。

(倭国には)文字はなく、ただ木を刻み縄を結ぶだけ」とある。

文字の代わりに、木を刻んだものや、縄を結んだもので代用していたらしい。

 

・・・南米アンデスのインカ帝国(15~16世紀)では、文字の代わりにキープと

呼ばれる紐を結んだもので、情報を伝達していた。

     

==>> この件については、こちらのサイトである説が書かれています。

     漢字渡来以前に日本に文字はあったか

     https://vpoint.jp/column/186451.html

     「「刻木(こくぼく)」が、「甲骨文字」を意味し、

     「結繩(けつじょう)」が、縄目を結んだ「縄文文字」

を意味するなら、それは明らかに「漢字とは異なった文字が用いられている」

ということの証(あかし)になります。」

 

結縄(けつじょう)についてはこちら:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E7%B8%84

結縄(けつじょう)は、紐や縄などの結び目を用いた記憶補助手段、もしくは

原始的な情報媒体である。南米のインカ帝国下に行われたキープが最もよく知

られているが、同様の方法が世界各地に伝わっている。このような記録方法は

今日でも、カトリックのロザリオや仏教の数珠、ハンカチの結び等にも見ること

ができる。」

「日本に関して、『隋書』巻81東夷伝倭国条には、倭人の風俗として「文字無

し、唯だ木を刻み縄を結ぶのみ」と記している。関連は定かでないが、唐古・

鍵遺跡や鬼虎川遺跡など弥生時代の遺跡からは、結び目の付いた大麻の縄や

イグサの結び玉と考えられるものも発見されている。」

アイヌの結縄文化については、1739年(元文4年)に坂倉源次郎が著した

『北海随筆』や、1808年(文化5年)に最上徳内が著した『渡島筆記』に言及

されている。」

 

     ・・・私としては、この情報は初耳なんですが、実際に遺跡などからそれらしき

     ものも発掘されていたんですね。

 

 

p023

 

古代倭国では、このように私たちが想像する以上に、中国の皇帝との関係が重視されて

いたようだ。 五世紀ごろの倭の五王の時代になっても、そうである。 中国皇帝から

何らかの地位を授けられることが、自分自身の権威になったようだ。

古代東アジアでは、中国はあまりにも巨大な帝国だったのである。

 

p024

 

奴国王に与えられた印とは、現在、福岡市博物館に展示されている有名な「漢委奴国王」

の金印と考えられている。

 

p025

 

こうして2世紀を迎えると、倭国の事情は何か変わってきた。 倭国王の帥升が支配して

いたのは、奴国や伊那国を中心とする北部九州あたりだったのか、それとも、もう少し

列島の広い範囲を覆っていたのか、このあたりからがいよいよ、邪馬台国にも関係する

当時の倭国を推理する糸口になってくる。

 

==>> 歴史を記録する文字を持っていなかった倭国だったので、倭国の歴史を

     直接知ることはできないわけですが、多くの小国が生きのびていくためには、

     魏や漢の皇帝からの権威付けが必要だったということのようです。

     そして、この辺りから著者は推理の糸口をつかまえていきます。

 

p030

 

「吉野ケ里から邪馬台国が見える」というキャッチコピーとともに、大勢の人たちが

吉野ケ里に押しかけ大ブームとなった。

 

p031

 

ところが、近年の考古学の発掘から出てくるデータは、そんな私たちのイメージとは

かなり離れている。 2~3世紀の列島の様子も少しずつ明らかになり、特に、

この10年足らずの間に、邪馬台国をめぐる状況はがらっと変わってしまったのだ。

 

==>> 確かに、大ブームでした。

     私は生家が長崎県にありますから、隣の佐賀県にある吉野ケ里は見学に

     行きました。

     しかし、その後の発掘で事情は変わったようです。

     この本が出版されたのは、2005年になっていますから、その後の発見も

     多々あるのではないでしょうか。

 

p032

 

最近の発掘では、紀元前1世紀ごろ(弥生時代中期後半)には、列島各地で大規模な

環濠集落が広く分布することがわかっている。 九州だけでなく、山陰から瀬戸内、

近畿、東海、関東、北陸まで、地域の拠点となる環濠をもった大きな集落が形成され

ている。・・・そのひとつひとつが「クニ」と呼べるレベルのものだ。

 

『漢書』地理志には、紀元前1世紀ごろの倭国を「百余国に分かれていた」と記して

いるが、まさにこんな状態をあらわすと現在の考古学では考えられている。

・・・しかも、邪馬台国の200年も前の時代にそうなっていた。

 

紀元前1世紀の中国から見た倭国は、すでに列島規模で捉えられている。地理的に近い

北部九州だけを捉えていたのではないようだ。

 

==>> 昔は、環濠集落といえば吉野ケ里遺跡という感じだったものが、

     その後、列島全体にあちこち発掘されたので、著者としては、百余国という

     のはやはり列島全体をみての100か国ということなんだと推理を進めて

     いくようです。

 

 

p035

 

邪馬台国というと、いかにも幻の古代国家という印象を受けるが、じつは弥生時代の

終末期に位置している。 弥生時代の初めに本格的な稲作が開始されてから、すでに

数百年が(最新の説では1000年ほどが)過ぎた頃である。

つまり、弥生の社会が成熟し、次の古墳時代へと向かう境目に邪馬台国は位置している。

 

弥生時代のなかで北部九州が先進地域だったのは事実だが、何百年と続く弥生時代の

間、ずっとその状態が続いたとは、今では必ずしもいえなくなってきた。

 

P036

 

弥生の墳丘墓は、最初に山陰地方の出雲や瀬戸内の吉備で造られ始め、やがて大和、

丹波、遠くでは関東の千葉県、あるいは、北陸でも造られるようになる。

 

ちょうど卑弥呼が登場する頃から、列島各地でそれらが造られ始めるわけである。

 

==>> 確かに、500年とか1000年という話になると、今の感覚だと

     それこそ大昔の話ですからねえ。なにも変化がないという方がおかしいですね。

     そして、墳丘墓の拡がりをみれば、卑弥呼の時代には日本列島の広い範囲で

     ある一定の文化的力が働いていたことが示唆されるということでしょうか。

 

P037

 

弥生後期の1~2世紀をみると、銅鐸文化圏と銅矛文化圏はやはり歴然とあるわけである。

 

P038

 

当時の近畿や東海地方の人びとは、銅鐸の材料になる銅を必要としており、現に入手して

いた。 おそらく北部九州から瀬戸内を経由するメインルートがあったのだろうが、最近

では、山陰や近畿北部から入ってくるルートも考えられ始めている。

・・・これも当時の倭国の範囲を知る手がかりのひとつである。

 

==>> ここで銅鐸と銅矛について、こちらの動画を見てみます。

     銅鐸・銅剣・銅矛

     代表的な3種類の青銅器の分布

     https://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005403013_00000

     

     こちらに、銅鐸の意味を述べている動画がありました。

     銅鐸は、大国主の文化の祭具であり、銅鐸の分布は大国主一族の支配権を表す

     https://www.youtube.com/watch?v=oCoHll6jzd8&t=123s

     

     この動画の説に従えば、銅鐸は出雲系・諏訪系ということになり、

     銅矛の九州系を考えれば、この動画は邪馬台国九州説ということになって、

     それが東遷して大和朝廷を作ったというストーリーになりそうです。

     このストーリーは、今読んでいる本とは対立する筋書きになりそうです。

 

 

P039

 

500枚見つかっている三角縁神獣鏡は新旧6つのタイプに分類されており、そのうちの

最古のタイプが「卑弥呼の鏡」の可能性がある、ということである。「景初3年」などの

年号をもつ鏡は、すべてこのタイプに入っている。

 

==>> 卑弥呼の鏡については100枚のはずなのに、三角縁は500枚もある。    

     しかも、中国では1枚も出土していない、ということで、大論争があったこと

     が、ここに書かれているのですが、著者は、上記のような理由で、これは

     卑弥呼の鏡であろうとしています。

 

     この本の著者は邪馬台国近畿説ですので、こちらの動画で、

     三角縁神獣鏡にまつわる諸説を含めて畿内説を見ておきましょう。

     邪馬台国畿内説(近畿説、大和説)とは

~根拠、理由や反論を見てみよう~魏志倭人伝、隋書、纒向遺跡、箸墓古墳他

     https://www.youtube.com/watch?v=Hsrd3eu8tOI

 

     教科書的には、考古学的な立場の学者の間では、畿内説が有力になっている

     とのことです。

 

p041

 

大和を中心に分布する画文帯神獣鏡が、3世紀初めごろのホケノ山古墳から出土している

ということは、当時、すなわち女王卑弥呼の前半期に、鏡を入手できる勢力はどこに

存在していたかを明確に語っている。

 

この鏡が「卑弥呼の鏡」の100枚に含まれるかどうかはともかく、大和の勢力が中心

になって画文帯神獣鏡を手に入れたのは、おそらく確実だ。

邪馬台国所在地論争の答えはここにある、といってもいいのではないだろうか。

 

==>> 著者は、画文帯神獣鏡が三角縁神獣鏡よりも論争を説くためには重要だと

     考えているようです。

     私にはこの画文帯神獣鏡というのは初耳なので、ここで確認しておきます。

     画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)

http://tokyox.matrix.jp/forum/discussion/370/%E7%94%BB%E7%B4%8B%E5%B8%AF%E7%A5%9E%E7%8D%A3%E9%8F%A1

     「中国大陸の魏から邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)に贈られた鏡が「三角縁

神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」であるとする説が、近年揺らいでい

る。出土した古墳がいずれも卑弥呼の生きた3世紀ではなく、4世紀以降のもの

のためだ。これに代わって一躍脚光を浴びているのが、奈良県内で近年相次いで

出土した3世紀の鏡「画文帯(がもんたい)神獣鏡」で、こちらを魏志倭人伝

(ぎしわじんでん)にある「卑弥呼の鏡」とする見方もある。」

「奈良県立橿原考古学研究所の調査研究部長として、三角縁神獣鏡が33面

出土した黒塚(くろづか)古墳(天理市)やホケノ山古墳などの調査を指揮した

同県の広陵町文化財保存センター長、河上邦彦さんは「三角縁神獣鏡は国産鏡で、

魏志倭人伝に登場する銅鏡100枚ではない」と断言。逆に、「画文帯神獣鏡は

『銅鏡100枚』の候補の鏡のひとつと考えられる」と主張する。」

 

また、こちらのサイトでは、三角縁と画文帯の重要性の違いを示唆する

ことが書かれています。

「天理市立 黒塚古墳展示館」

http://www.inoues.net/club/kuroduka_museum.html

画文帯神獣鏡は、全国でも10面ほどしか見つかっていないタイプである。

1月11日、京都大学人文科学研究所の岡村秀典助教授の鑑定で明らかに

なった。大和(おおやまと)古墳群では、同タイプの画文帯神獣鏡が大和天神山

古墳(奈良県天理市)と桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市)の2ヵ所で確認されて

いる。黒塚古墳の画文帯神獣鏡は木棺を安置していた粘土床の中央付近で一面

見つかった。棺外を守るように配列された三角縁神獣鏡とは区別して扱われて

おり、埋納に特別な意味があったと推測されている。」

 

さらに、画文帯神獣鏡の分布に関しては、下のサイトにこのような記述と図が

あります。

第317回 邪馬台国の会

https://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku317.htm

近畿78,四国13,中国16,九州20」(地図4より)

「画文帯神獣鏡は中国では鄂城(がくじょう)や浙江省のような揚子江流域から

多く出ている。また、西安、洛陽からも出ている。これは西晋の南京を都にした

ことからの分布に合うようにみえる。

日本では九州、中国地方、四国からも出ているが、近畿が多い。時代も4世紀の

古墳から出てくる。このように、画文帯神獣鏡は奈良県から揚子江流域につな

がっている。」

 

 

・・・と言うことで、この本の著者の論拠もこのあたりにあるのでは

ないかと思います。

つまり、卑弥呼の鏡と言われるものは画文帯神獣鏡であって、それは

畿内説を支持するということですね。

 

 

 

p045

 

私たちの印象では、弥生時代の物や人の流れは九州から近畿に動いているように思えるが、

邪馬台国の時代になるとむしろ逆で、近畿から九州に影響力が働いているようだ

先進の北部九州というイメージは、じつはこの時点で終わっている。

 

ちょうど邪馬台国の時代には、九州で鏡の出土が減ってくるのも特徴的だ。

・・・2世紀後半ごろから九州では鏡の数が全体に少なくなってくるのである。

 

 

p046

 

卑弥呼の鏡と墓、このふたつの要件を抜きにしては邪馬台国の候補地にはなりえない

のではないか、と私は思う。

 

p047

 

2世紀末から3世紀初め、ちょうど邪馬台国の女王として卑弥呼が登場してくる頃

国内で一番多く鉄器が出土するのは、北部九州でも畿内でもなく、なんと近畿北部の

丹後半島(古代丹波)なのである。

 

==>> 著者は、ここで、鏡と墓を最重要なものとして、畿内説しかありえない

     であろうと主張しています。

     そして、そこに追加されるのが、鉄の生産になるようです。

     

     そこで思い出したのが、先に読んだこちらの本です。

     岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/09/blog-post_30.html

     「p164

それでは新羅=伽耶系の出雲の勢力は、なぜ大和へ、とりわけ三輪地方へ進出し

たのであろうか? 一言で言って、鉄のためだと私は考えている。

たとえば河上邦彦氏は「三輪山と邪馬台国」・・・という一文の中で、「三輪山の

麓になぜ古代の王権」が生まれたかの理由として、「三輪山で鉄が採れる」から

だと書いている。

実際、山麓を流れる狭井川では良質の砂鉄が採れるし、「三輪山の山頂から

三分の一くらいの高さの所までは、角閃斑糲岩という岩の層であり、これは大量

に鉄分を含んだ岩」だという。

 

p167

 

・・・名は富登多多良伊須須岐比売命(ふとたたらいすすきひめ)と謂ひ、・・・」

とあり、この娘の方が神武天皇の妃となったという。 

母と娘の双方の名の中にあるタタラは、砂鉄製煉に用いられる踏鞴と解されて

おり、実際『日本書紀』の方では、娘の名は、媛踏鞴五十鈴媛命(ひめたたら

いすずひめ)と表記されているのである。 そして大和岩雄氏は、踏鞴の技術は

当然、鉄を産する伽耶から渡来したものだから、タタラヒメは渡来系であろう

する(「日本にあった朝鮮王国」)。」 

==>> どうも三輪山に鉄が埋蔵されていたので、それを狙って渡来系・出雲

勢力が邪馬台国という国を創って、三輪山に神を祀っていたような

筋になっています。おまけに、神武天皇の嫁さんは渡来系のタタラ

ヒメなんでそうです。

 

・・・要するに、出雲を含む日本海側の地域は、元々朝鮮半島からの

渡来人が多く、鉄製造に関する知識なども充分に持っていて、かなり

指導的な立場にある人物もいたということになりそうです。

 

 

p055

 

池上曽根遺跡の影響はそれだけにとどまらなかった。 近畿地方の弥生の年代を見直す

動きが進むなかで、思いがけない事態が生まれてきた。 古墳時代の始まりと、卑弥呼

の死亡時期が極めて接近し、卑弥呼の墓が古墳である可能性が強まってきたのだ。

 

池上曽根遺跡で年輪年代法の結果が出て以来、これまでの近畿の弥生中期、後期を年代的

に修正する動きが進み・・・・卑弥呼が死んで葬られた墓は、じつは日本で最初に

造られた巨大な前方後円墳ではないのか! こんな見方が現実味を帯びてきた。

 

==>> 池上曽根遺跡とはどんなものなのでしょう。チェックしておきます。

     史跡池上曽根遺跡について

https://www.city.izumiotsu.lg.jp/kakuka/kyoikuiinkai/ikegamisoneyayoigakusyuukan/sisekiikegamisoneisekinituite.html

     「池上曽根遺跡を都市として評価してはどうかという意見がだされました。この

意見は「弥生都市論」として、数々のシンポジウムや書籍で論議されました。」

1996427日、各新聞の一面に大型掘立柱建物から出土した柱のうちの

1本が紀元前52年に伐採されたという記事が掲載されました。なぜ新聞の一面

を飾るほどのことなのかと思われた人もいるかもしれません。それは、今までの

歴史を変える可能性が出てきたからです。それまでの考古学では、土器の移り変

わりによって年代を決めてきました。(土器編年による相対年代)漢が倭の奴国

王に金印を授けたという「紀元後1世紀半ば頃」が、「弥生時代の中期後半」に

あたり、池上曽根遺跡が最も栄えたのも、大型掘建柱建物の柱穴から出土した

土器のため、その頃であろうと考えられてきたのです。しかし、出土した柱の

うちの1本が、「年輪年代法」の測定により、「紀元前52年」に伐採されたこと

が判明しました。伐採してすぐ使用されたと考えると、この建物は紀元前50

前後に建てられたことになり、これまでの考えから約100年もさかのぼること

になります。」

 

そこで、もしかしたら卑弥呼の墓ではないかと言われている箸墓古墳の

動画を見てみましょう。 百襲姫のの話が長いのですが、なぜ箸墓という名前

になったのかの説明になっています。 また、この古墳が初の前方後円墳と

いうことで、年代測定にかんする上記の話と合わせて、これが卑弥呼の墓

なのではないかという推理です。

卑弥呼の墓!?埋葬者は誰なのか!?箸墓古墳を調査してみた!!

https://www.youtube.com/watch?v=xzMcVQi7jCU&t=252s

「倭迹迹日百襲姫命 やまとととひももそひめのみこと」

「百襲姫に大物主神が乗り移り・・・・」

百襲姫は卑弥呼ではないかという研究者もいる・・・」

箸墓古墳は最も古い前方後円墳の1つ・・・・」

 

p062

 

土器編年という考古学の手法だけでは、もともと正確な年代を決定するのは非常に困難

である。 しかも、年代の取り方は研究者によって微妙に違ってくる。

もっと確実に年代を知る方法はないものか・・・。 

・・・それに応えるために登場したのが、年輪年代法である。

 

考古学で年代測定といえば、放射性炭素14による方法がよく知られている。だが、この

方法には問題もあって、数十年くらいの誤差が出るのが普通だ。

・・・ところが、年輪年代法は1年単位のドンピシャリの年代が出るのである。

 

==>> 放射性炭素14による年代測定というのが正確なのかと思っていたら、

     なんと年輪年代法のほうがぐっと正確なんですね。驚いた。

     

p069

 

さまざまな検証を経て、池上曽根遺跡から出された結論はまさに衝撃的だった。

これまでの定説を覆し近畿の年代観を従来よりも100年も古くとり、北部九州

と並行する時間軸で捉えたのである。これまで、近畿の弥生社会は北部九州より

100年遅れるというような、ある意味でわかりにくかった要素が取り払われ、全国で

共通する枠組みで捉えられるようになった。

 

==>> つまり、北部九州が100年ぐらい進んだ文化圏だという定説が

     ひっくりかえってしまったということですね。

     それで、卑弥呼の古墳も可能性が出てきたと・・・

 

p070

 

この事件以後、・・・・・弥生時代の時代区分に対して全国で共通の基準が定着してきた。

弥生時代中期後半といえば、ほぼ全国で紀元前1世紀、弥生時代後期前半といえば、紀元後

1世紀というような具体的な数字が・・・・

 

当時すでに考古学者の9割が畿内説を表明したといわれていたから、現在ではもっと

多いのではないだろうか。

 

==>> 以前は、邪馬台国九州説と畿内説が拮抗していたように感じていましたが、

     著者が述べているように、最近はほぼ畿内説になってきているようです。

 

 

p073

 

つまり、「先進の北部九州」と「古墳という受け皿をもつ畿内大和」を結び付ける

旧来の考え方の上に、東遷説は立っているわけだ。

 

・・・東遷説でいう邪馬台国が九州から大和に遷ってくる以前に、纏向遺跡ではそれだけ

の動きがある。 九州から遷ってくる必要はないし、王権を持ってくる必要もないので

ある。

 

==>> 私は長崎県出身なので、九州説を贔屓にしているわけですが、ここで

     邪馬台国東遷説も否定されたことになります。 残念。

 

 


では、次回は「第4章 箸墓は卑弥呼の墓か」に入ります。

 

 

 

===== 次回その2 に続きます =====

 倉橋日出夫著「古代出雲と大和朝廷の謎」を読む ―2― 山の辺の道、箸墓古墳、纏向遺跡、卑弥呼=百襲姫=天照大神=大日孁貴神=神功皇后?? 『日本書紀』に出ない邪馬台国 (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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