武光誠著「古代日本誕生の謎」を読む ―1― 日向から、吉備経由で団子を持って、 大和の纏向古代都市を作った? 吉備が桃太郎で、出雲が鬼だった。 奈良・山の辺の道

武光誠著「古代日本誕生の謎」を読む ―1― 日向から、吉備経由で団子を持って、

大和の纏向古代都市を作った? 吉備が桃太郎で、出雲が鬼だった。 奈良・山の辺の道

 


 

 

この本を読んでみようと思った理由は、いままでに読んできた世界の神話、日本の神話と

神社の関係、そして、邪馬台国から大和朝廷へと変わっていく中で、どのような神々が

人々に拝まれ、また変化してきたのかを知りたいと思ったからです。

 

 


では、さっそく読んでいきましょう。

 

p013

 

奈良時代の時点で、日本は、北海道と東北地方北端の蝦夷の文化圏と、日本列島の

大部分を占める大和の文化圏、沖縄文化圏の三者に分かれていた。

 

p014

 

なぜ、日本列島の住民が一つの政権のもとにまとめられていったのであろうか。

その問いに対して私は、「日本文化が日本という国をつくった」という答えを用意している。

 

「大和朝廷がつくった日本文化の核となるものは何か」という問題に明確な答えを出さね

ばならない。

 

p015

 

弥生時代中期にあたる紀元前一世紀末ごろから、いくつかの農村をあつめた人口

1000人から2000人ていどの小国があらわれた。

 

p019

 

王家のもつ宗教、文化は、大和朝廷の誕生から継体朝まで一貫したものになっている。

王家は三輪山の大物主神を自分たちのまもり神としてまつり、亡くなった大王を古墳に

葬って神として崇めた。

 

==>> まず、この本の始まりに合わせ、目次には、私が知りたいことが

     かなりたくさんあることに期待は高まります。

     目次にある言葉は、

     山の辺の道、神殿がない大神神社、三輪山、纏向石塚古墳、

     縄文時代の伝統を引く荒脛巾神、手長足長の神と縄文的信仰、などなど

     もちろん、邪馬台国から大和朝廷への変化の中に何があったのか、

     人々が祀ったものの変化とどう関係していたのがが興味のあるところです。

     そして、そこに、外来の文化がどのような影響を与えたのか・・・・

 

 

 


 

「第一章 古代都市「大和」と首長霊信仰」

 

P022

 

縄文文化の中心は東北地方にあり、弥生文化は北九州から広まった。 そして三世紀初頭

に、その二種類の文化の先進地から最も離れた奈良盆地で、第三の文化が生まれた

それを首長霊信仰という。 有力豪族の祖先を首長霊として祭るものだ。

 

P023

 

約三万年前に北方からの大量の移住者の手で旧石器文化がもち込まれた。 そして、彼ら

約1万6000年前に縄文文化を生み出した。

 

次いで、紀元前1000年前後に、朝鮮半島からの移住者が水稲耕作を持ち込んで弥生

文化を作った。 

 

さらに、紀元前一世紀末に北九州に小国が発生した。

 

・・・しかし、首長霊信仰が作られねば、日本は数百年にわたって小国分立の状態に

あったのではあるまいか。

 

==>> これが著者の全体的な見取り図であるようです。

     私はDNA検査の結果がハプログループAでしたので、

     「Aグループは約23千年前にロシアのバイカル湖周辺で誕生したと考えら

れています。その後東アジアに広がり、またシベリアやベーリング海峡を通って

アメリカ大陸にも進出しています。」

という結果でした。

ということは、もしかしたら私のご先祖様は、樺太経由で縄文人になっていた

のかもしれません。

もちろん、バイカル湖から、東アジアのどこかを経由して、弥生人になった

のかもしれませんが・・・

     いずれにしても、流れ者であることに変わりはないようです。

 

P028

 

大和朝廷は銅鐸の祭祀を行っていた近畿地方の小国の中から出たものではない。 九州

から吉備を経て来た集団が、大和朝廷を作ったのだ。

 

・・・神武天皇が日向(ひむか)から水軍をひきいて大和に入り天皇家を起こしたとする

神武東征伝説は、このことに関する記憶から作られたものだ。

 

・・・西方から来た者が残した遺跡の中で最大のものが、奈良県桜井市纏向(まきむく)

遺跡だ。

・・・そのような動乱の中から、有力な集団が発生した。 彼らは、220年頃、纏向

古代都市「大和」を築いて大和朝廷を樹立した。

古代人は、霊山とされた三輪山の麓の纏向を中心とする一帯を「大和(やまと)」と

読んでいた。

 

==>> 邪馬台国がどこだとか、どんな集団が大和朝廷を作ったのか、といった話は

     特に前者は様々な説がありますが、後者については、とりあえずここにある

     説を受け入れて読み進めたいと思います。

     いわゆる渡来人がどの程度まで大和朝廷に関与していたのかには、非常に

     関心がありますが・・・

 

P030

 

大和朝廷は、280年前後に奈良盆地統一の動きを始めた。そのころ、全長278メートル

の最古の大型前方後円墳、箸墓(はしはか)古墳が築かれた。

 

・・・400年前後に大和朝廷の性格に大きな変化が起こった。 古代都市「大和」は

4世紀の終わりに姿を消した。 そして、朝廷の本拠地は河内に移動した。

 

5世紀の中期古墳には、祭器に代わって、大量の刀剣、甲冑、馬具、鉄製農具、金銀の

装飾具が副葬されるようになるのだ。

それは、大王の性格が司祭者から軍事的・政治的支配者へと変化したことを物語るものだ。

 

P031

 

5世紀に大和朝廷が朝鮮半島に進出するようになると、優れた軍事的指導者になる大王

が求められた。

 

P032

 

古代都市「大和」は滅んだ。 その後、中央集権化の動きが始まる7世紀になって、

整った官衙(かんが)をそなえた中国風の年がようやく出現した。

 

==>> このあたりは、高校時代に日本史が大嫌いだった私としては、並べて

     いくのも難儀なので、こちらの年表で3世紀から7世紀ぐらいを

さらっと見ておきましょう。

     http://www.inoues.net/kodai_nenpyo.html

     「239 卑弥呼、魏に遣使を送る。

248 卑弥呼死す。

      300~ 前方後円墳出現 纏向遺跡(奈良県)

          箸墓古墳・桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳(奈良県)

       391 倭国朝鮮進出、高句麗と戦う。

      400~ 河内(大阪平野)に巨大前方後円墳がつくられる。

      538 百済から仏像・教典伝来。

      607 法隆寺建立。

      645 大化の改新。難波宮に遷都。」

 

      まあ、私の興味で大雑把にこのあたりを考えると、いわゆる卑弥呼の鬼道の

      時代から、聖徳太子の仏教導入の時代という、宗教的には非常に大きな

      変化があったということになりますね。

      そのあたりで、縄文的信仰の在り方がどのように神道、仏教に変化して

      いったのかに個人的な興味があります。

 

p034

 

山の辺の道は、現存するもっとも古い歴史書『古事記』の中に出てくる。

『古事記』は、崇神天皇の御墓が「山の辺の道の勾之崗上(まがりのおかのえ)」にあり、

景行天皇の御陵(みささぎ)は、「山の辺の道上」にあったと記す。

 

p035

 

ふつうは、近畿日本鉄道(近鉄)大和朝倉駅で降りて、すぐ三輪山の裾を廻る方法が

使われる。しかし、それでは三輪山の全体像を眺めることはできない。 だから、近鉄

かJRの桜井駅から、三輪山の遠景を見た後に、東方に進んで山の辺の道に入ることを

勧めたい。

 

==>> おお、これはしっかり旅行ガイドになっていますね。

     本殿の無い三大神社のひとつである三輪山の大神(おおみわ)神社に

     近いうちに参拝したいので、是非このガイドに従って、桜井駅からの

     三輪山を拝みたいと思います。

     ついでに、こちらで「山の辺の道」観光ガイドを読んでおきましょう。

     山の辺の道・ハイキングコース

     http://www.nishida-s.com/main/categ4/23yamanobenomichi/

     「大神神社と書いて「おおみわじんじゃ」と読ませる。日本最古の神社といわれ、

本殿はなく三輪山が御神体。大三輪の神は国造りの神様、また医療・酒造り・

方除等人間生活全般の守護神とされ、延喜式名神大社であり、大和の国一の宮と

して崇められている。また、俗に三輪明神として親しまれている。」

 

 

p040

 

もともと神は魂であり、自由にあちこちを行き来するものとされていた。

つまり、神は、時を定めて神殿を訪れ、一時滞在して、また去っていくのだ。

 

大神神社の拝殿の奥には、三輪鳥居という三個の鳥居が建っている。その先は、

「禁足地」といわれ、神職でさえも足をふみ入れない聖域とされていた。つまり、拝殿

「禁足地」とされた三輪山を拝むために作られているのだ。

 

・・・三輪山には三個の巨石群があることが明らかになった。 それは奥津磐座

(おきついわくら)、中津(なかつ)磐座、辺津(へつ)磐座と呼ばれ、山頂と拝殿を

結ぶ線上に並んでいる。

 

==>> 「神は、時を定めて神殿を訪れ、一時滞在して、また去っていくのだ。」

     というフレーズは、歌謡曲で聞いたような内容のフレーズですね。

     「秋川雅史/千の風になって」

     https://www.youtube.com/watch?v=aHdkn5VTyWM

 

先に読んだこちらの本でも「三輪信仰」について書いてありましたので、

     ちょっと復習します・・・

岡谷公二著「神社の起源と古代朝鮮」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/09/blog-post_30.html

     「p144

奈良県桜井市にある三輪神社(大神(おおみわ)神社)は、三輪山(三諸

(みむろ)山)を神体とし、本殿がなく、神体山を直接拝するという太古の神社

のありようを今に伝えていて名高い。

三輪神社が、神社の原初のありようを考えようとする時決して逸することの

できない存在であり、神社の典型の一つであることを否定する者はいないだろ

う。」

 

・・・ここで、たった今気が付いたのですが、本殿が無い三大神社の

ひとつである埼玉の金鑚(かなさな)神社の御神体の山の名前は「御室ケ嶽

(みむろがたけ)」となっていました、そしてこの三輪山も御神体は

「三諸(みむろ)山」であると書かれています。

なぜ、ふたつともに「みむろ」なのでしょうか。

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/10/jr.html

     「これが境内の略図です。入って右側に拝殿があって、その背後には、御神体の

御室ケ嶽(みむろがたけ)があり、そのお山を拝むことになります。」

 

     ・・・そこで、「みむろ」を辞書で調べたところ・・・

     https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%BE%A1%E8%AB%B8/

     「み‐もろ【▽御▽諸/三▽諸】 の解説

神の降臨する場所。みむろ。

https://kobun.weblio.jp/content/%E3%81%BF%E3%82%80%E3%82%8D

「み-むろ 【御室】

    貴人のお住まい。僧房や庵室(あんしつ)にもいう。◇「室(むろ)」の

尊敬語。」

 

     つまり、「みむろ」=「みもろ」で、神様が降りてくる場所、あるいは貴人の

     お住まいということです。

 

     要するに、カナサナ神社もオオミワ神社も、「神様が降りてくる場所」を

     御神体にしているということになります。

     しかし、長野の諏訪大社の公式サイトには、

     http://www.suwataisha.or.jp/index.html

     「諏訪大社の特徴は、諏訪大社には本殿と呼ばれる建物がありません。代りに

秋宮は一位の木を春宮は杉の木を御神木とし、上社は御山を御神体として拝し

ております。古代の神社には社殿がなかったとも言われています。つまり、諏訪

大社はその古くからの姿を残しております。」

「守屋山の山麓で中部地方唯一と言われる原生林に抱かれる如くに鎮座して

おります。」

とあるのですが、「上社の御山」は「守屋山」(もりやさん)となって

いて、「伝承によると旧名を「森山(もりやま)」という。古文書には「守屋ヶ嶽」

「守矢が岳」という名称も見られる。」であって、「みむろ」=「みもろ」には

なっていません。

 

 

p043

 

天照大神を祀る檜原(ひばら)神社は、江戸時代初頭に、伊勢神宮の神官、荒木田氏が創祀

したものだ。崇神天皇が笠縫邑(かさぬいむら)で初めて天照大神を祭ったという伝説に

因んで作られた。この伝説は、伊勢神宮が大神神社から分かれたことを示すものだ。

 

==>> この「伊勢神宮が大神神社から分かれた」いきさつについては、

     こちらのサイトの事情が書かれていました。

     古代信仰伝える「元伊勢」 檜原神社(奈良・桜井)

https://www.sankei.com/article/20211011-E2F27325ANK3POL3L3JEY6D5HE/

     「日本書紀によると、崇神(すじん)天皇の時代、宮中に祭っていた天照大御神

の勢いが畏(おそ)れられ皇女、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託

して笠縫邑に神が降臨する神籬(ひもろぎ)を造って祭った。その後、天照大御

神は垂仁(すいにん)天皇の皇女、倭(やまと)姫命に託され、宇陀、そして

近江、美濃を巡って最終的に伊勢へと至ったとされる。」

 

伊勢神宮の公式サイトにも、このように書かれています。

https://www.isejingu.or.jp/about/history/

「天孫降臨以来、天照大御神は天皇のお側でお祀りされていましたが、第10

崇神天皇の御代、御殿を共にすることに恐れを抱かれた天皇は、大御神を皇居外

のふさわしい場所にお祀りされることを決意され、皇女豊鍬入姫命は大和の

笠縫邑に神籬を立てて大御神をお祀りしました

その後、第11代垂仁天皇の皇女倭姫命は豊鍬入姫命と交代され、新たに永遠に

神事を続けることができる場所を求めて、大和国を出発し、伊賀、近江、美濃

などの国々を巡り伊勢国に入られました。」

 

 

     

p050

 

纏向遺跡には木製の鋤は多く残されているが、鍬はほとんど見られない。鋤は土木工事

にも耕作にも使われるが、畝や溝を整える鍬なしには田畑を耕作できない。

そういったことから、「大和」の住民は、ほとんど農業を行わず、交易か貢納で食糧を

得ていたとみられる。そこで出土した鋤は、大溝や古墳を作るのに用いられたもので

あろう。

 

==>> つまり、纏向は普通の集落ではなくて、商取引を中心とする都市だったと

     いう話のようです。

     また、弥生時代の平均的な小国六個分の住民が「大和」にいたと、推定して

     います。

 

p052

 

大和朝廷の支配層は確実に高床式住居に住んでいた。 そのことを示す面白い話が

『日本書紀』にある。 

 

この話から黒媛は床のある家、すなわち高床式住居で生活していたことがわかる。

高床式住居を作るには、竪穴住居を設けるよりはるかに多くの手間がかかる。

 

・・・「大和」の人々は、その周囲の農村の竪穴住居に住む者より高い地位にあった

見られる。

 

==>> 高床式の建物がいわゆるステータス・シンボルであったことについては、

     先に読んだこちらの本に詳しく書いてありました。

     最新の文化の一部として中国大陸の南部から入ってきたようです。

 

     安本美典著「日本民族の誕生 ― 邪馬台国と日本神話の謎」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/10/blog-post_9.html

     「p129

わが国の古代では、「高床式」は、宮殿や、神宝をおさめる倉庫など、為政者

がわの用いる建物の様式であった。

揚子江の中流域の郢(エイ)などを中心として栄えた楚系統の、為政者がわの

文化は、いっぽうで、雲南省の滇池(てんち)のあたりにおよび、いっぽうで、

わが国にも及んでいるようにもみえる。」

 

 

p059

 

そのような儀式の大筋は、古代の朝廷で整えられた新嘗祭(にいなめのまつり)の手順

と一致する。 今の皇室にまで受け継がれた新嘗祭の原形は、古代都市「大和」で

生まれたのだ。

 

新嘗祭は、地方の首長が朝廷への忠誠を示す場でもあった。 その意味で、尾張の土器が

「大和」の祭祀遺跡から出ていることに注目したい。

 

==>> ここでは、新嘗祭で地方との交流があったことを述べています。

     つまり、纏向遺跡がそのような儀式の場になっていたということです。

     さらにここには、

     「纏向遺跡全体から出土した土器の原産地の調査から、東は武蔵から西は長門

     に及ぶ・・・・」と書いてあります。

 

p060

 

日本では、弥生中期初頭つまり紀元前一世紀中葉が、城砦の発生期だ。 それ以後、

戦闘を目的とした高地性集落や環濠集落が多く設けられていく。 佐賀県神埼町吉野ケ里

遺跡は、典型的な環濠集落だ。

 

p061

 

これまでの発掘による限り、纏向遺跡の遺物に大陸文化の影響がほとんど見られない

ことに、特に注意する必要がある。 というのは、三世紀以前の北九州の小国の跡で、

多くの中国、朝鮮風の豪かな品物が発見されているからだ。

 

==>> これは確かに注目すべきところですね。

     私はこの時期にも、日本海側から朝鮮半島からの移民がさまざまな経済的

     背景をもって入ってきていたのかと思っていました。

     纏向ができた時期には、外部との交流が一時的に途絶えていたのでしょうか。

 

p063

 

現在の時点では、二世紀末に中国と意欲的に通交した邪馬台国の跡が、そのころの

大陸文化の影響の少ない纏向遺跡だったとは考えにくい

 

黒塚古墳から33面の三角縁神獣鏡が出土した・・・

・・・二世紀末から三世紀末のあいだに大和朝廷が勢力を拡大し、多くの青銅器を保有

するようになったとみられる。

 

大陸文化を中心に考える限り、「大和」は行進地だ。 たとえば、当時の北九州の鉄器

の量は、近畿地方のそれよりはるかに多い。

 

==>> なるほど、確かに中国と交流があって、権威を裏付けてもらっていた

     卑弥呼が邪馬台国なら、大陸文化の影響は大きかったでしょうからね。

     纏向遺跡どのような集団が作った都市だったのでしょうか・・・・

     どうしても、渡来系という集団が頭から離れないのですが。

 

p067

 

近年の纏向石塚古墳の調査を通じて、纏向の人びとが吉備の墳丘墓を原形に、前方後円墳

を作っていったいきさつが明らかになってきた。

 

「纏向型前方後円墳」と呼んでいる。 それらの前方部は、異常に小さく、また低い。

横から見ると、円墳と見間違えそうなほどだ。

 

p069

 

そういった吉備の諸要素は、すべて「大和」の発生期の古墳に受け継がれた。また、吉備の

人びとは、墳丘上で死者のための祭祀を行なっていた。 そのため、墳丘に登る参道は、

墳丘墓に欠かせないものだった。

 

p070

 

纏向遺跡に設けられた最後の前方後円墳が箸墓だ。 それは、280年前後に作られている。

 

p072

 

つまり、三世紀の発生期の大和朝廷では、神のお告げを聞く「神の妻」が最も力を

もっていた。 ところが、箸墓古墳が作られた前後に、大王が体内に「天皇霊」を

受けるとする首長霊信仰が生まれた。

それからすぐ、「神の妻」は置かれなくなった。それゆえ、後世の朝廷には王族の女性が

三輪山を祭る習慣がみられない。

 

==>> つまり、この時期に、祭祀のありかたが大きく変わったということですね。

     そして、そういう変化をもたらしたのは大和朝廷だったという話になりそう

です。 こういう変化が起こる前の神々が、アラハバキ神でありミシャクジ神

のような崇拝対象であったということなのでしょうか。

それが、大王、首長崇拝になり、天皇崇拝の信仰に作り替えられていった。

 

     ところで、「吉備国」が気になるので、どのような国であったのかを

     こちらのサイトでチェックしておきましょう。

     吉備の国解説その1

     https://www.kibi-guide.jp/indexa1.htm

     「吉備といわれていたむかしは、出雲が大和朝廷に対する隠然たる一敵国で

あったように、吉備国もまた一個の王朝のすがたをとっていたにちがいな

かった。・・・中国山脈で砂鉄を産したがために、武器、農具が多くつくられ、

兵はつよく、土地ははやくからひらかれ、出雲とならんでいわゆる出雲民族の

二大根拠地であり、その富強をもって大和に対抗していた。」

 

上に北九州は鉄器が多く、大和より進んでいたと述べられていますが、

この吉備も進んでいたようです。それも、鉄を作ることまでやっていたよう

ですから、おそらくその技術は渡来系によってもたらされたんでしょうね。

 

上記のリンクのその2には、こんなことが書かれています。

古  代 :出雲族(温羅)は吉備津彦に征服されて、鬼にされた。

古  代 :吉備津彦(桃太郎)の子孫ーー上道氏、下道氏は、雄略天皇に

征服された。」

 

・・・つまり、吉備が桃太郎で、出雲が鬼だったということですね。

出雲は日本海に面していて、渡来人との交流も多かったようですから、

そこに入ってきた鉄器製造などの「お宝」を桃太郎が鬼から戦利品として

奪ったというストーリーが生まれたのでしょうか。

(単なる妄想ですが・・・・)

 

 

p074

 

発生期の大和朝廷は、神託を聞く女性の司祭者の統治をうけていた。しかし、三世紀末

にそこの神の性格が大きく変わった。 朝廷の全構成員の神であったものが、大王ひとり

につく神に変わり、大王が神に等しい地位について人びとを治めるようになったのだ。

この変化を、首長霊信仰の成立という。

 

p081

 

天皇霊(すめらみことのみたま)」は、三輪山に住むと同時に、大王の体内にもいる

と考えられた。 「天皇霊」が霊魂である以上、それが同時に二箇所に出現しても

瞬時に長距離を移動してもかまわなかったからだ。

 

p082

 

国見では大王が三輪山の頂上に立つことによって自らを三輪山の神と同じ位置に

もって来ていることに注意したい。

 

「天皇霊」の観念の発生とともに・・・・そして、鎮魂を受け持つ物部氏が、大和朝廷

と深く結びつく。

 

==>> ここで、大王の中の大王という意味の天皇が生まれ、そこに天皇霊という

     観念も生まれ、大和朝廷を動かしていく求心力になっていったという

     ことのようです。

     そして、それは、三輪山で起こった。

     三輪山の大神(おおみわ)神社ということですね。

 

p082

 

祖霊信仰と首長霊信仰、さらに・・・精霊崇拝が絡まり合って、日本的信仰(神道)

を形作ってきた。

前の二者は、特に混同されやすい。

 

・・・祖霊信仰は、水稲耕作とともに江南から伝えられた。

・・・祖先たちの霊魂(祖霊)は、自然物の精霊にはたらきかけて自然現象を操り、

農耕の神となり漁撈の神となる。 これが祖霊信仰の基本的発想だ。

 

このような信仰は、江南、インドネシア、フィリッピン等の南方の各地に見られる。

・・・そのような信仰は、容易に万物の霊魂を祭るアニミズム(精霊崇拝)と結びつく。

そして、祖霊が水の神、風の神等と融合する。

 

御年玉は、もとは「御年魂」で、供え物の餅のお下がりを年神様の魂として子供たちに

配ったものだ。

 

==>> ほお、なるほど、そうなりますか。

     字面からは、祖霊信仰と首長霊信仰が似たようなものだと思いがちですが、

     実は、祖霊信仰と精霊信仰の方が近い関係にあるわけですね。

     祖霊信仰はすべてのご先祖さまが平等ということらしいのですが、首長霊と

     なると平等ではなくなるわけですからね。

 

p086

 

「天皇霊」信仰が作られると、豪族たちもそれにならって自家の祖先神を重んじる

ようになった。つまり、家ごとの首長霊信仰を作り上げていったのだ。 やがて、

大伴氏の祖先神、天忍日命(あまのおしひのみこと)、中臣氏に祖神、天児屋根命

(あまのこやねのみこと)といった神々ができ、後にそれらは「氏神」と呼ばれた。

 

==>> なるほど、そうやって氏神様が発生したんですね。

     地方の有力者たちの神々が祀られた。

 

p086

 

三輪山の祭祀が長期にわたって行なわれ、さまざまな変遷を経たためにそうなった。

最初はそこの神が巫女に神託を下し、次いで大王がそこの神の体現者となり、

最後に大王自身は三輪山の祭祀に関わらなくなった。

三輪山の神の最も原初的な姿は、祖霊信仰の上にたつ土地の神、つまり国魂だったと

考えられる。

 

p087

 

『日本書紀』には、雄略天皇に仕える少子部蜾蠃(ちいさこべのすがる)という勇者が

三輪山の神を捕らえたことが見える。神は大蛇の姿をしていた。雷を起こして睨みつけ

ので、大王は恐れて三輪山に送り返させたという。

 

==>> この文脈からすれば、三輪山=祖霊信仰=精霊崇拝ということになりそうです。

     いまふっと思いついたのですが、神である大蛇が「雷を起こして」という

     部分で、「雷」=「神鳴り」なんじゃないかと妄想しました。

 

     確認のために語源辞典を見たところ、なんとこの妄想が当たっていました。

     https://gogen-yurai.jp/kaminari/

     「かみなりは、「神鳴り」が語源である

鬼の姿で虎の皮のふんどしを締め、背負った太鼓を打ち鳴らす雷神(雷様)は、

現代では空想上のものとされているが、昔は、本当に神がかみなりを鳴らすと

信じられていたため、「かみなり(神鳴り)」と呼ばれるようになった。」

 

p087

 

国魂(くにたま)は多様な性格を持ちすぎていたために、後に三系統に分けられた。

古代都市「大和」の三輪山の神が、大神神社、伊勢神宮、大倭(おおやまと・大和)神社

の祭神になったのだった。

 

p088

 

三輪山から太陽神が分かれると、太陽神である天照大神が天皇霊とされるようになった。

そのことが三輪山の神の地位を大きく低下させた。

 

==>> 天皇霊が三輪山から伊勢に移されたことについては、すでにp043に

書きましたので、初耳の大倭(おおやまと・大和)神社を調べてみましょう。

 

     大和神社 おおやまとじんじゃ

     https://yamatoji.nara-kankou.or.jp/01shaji/01jinja/03east_area/oyamatojinja/

     「日本大国魂大神は大地主大神で第五代孝昭天皇の年、宮中内に天照大神と

同殿共床で奉斎されたが、天照大神を皇女豊鋤入姫命をして倭の笠縫邑に移さ

れた時、皇女渟名城入姫(ぬなきいりひめ)に勅して、市磯邑(いちしのむら)

(大和郷)に移されたのが当神社の創建である。」

 

・・・これを読むと、天照大神が宮中から三輪山に移された時に、

宮中にいた日本大国魂大神は大和郷に移されたとなっていますね。

Wikipediaには以下のような記述があります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E9%AD%82%E7%A5%9E

「『日本書紀』のみに登場し、他に日本大国魂神とも表記する。大和神社

(奈良県天理市)の祭神として有名

『日本書紀』の崇神天皇6年の条に登場する。宮中に天照大神と倭大国魂の二神

を祭っていたが、天皇は二神の神威の強さを畏れ、宮の外で祀ることにした

天照大神は豊鍬入姫命に託して大和の笠縫邑に祭った。倭大国魂は渟名城入姫

命に預けて祭らせたが、髪が落ち、体が痩せて祀ることができなかった。

その後、大物主神を祭ることになる件が書かれている。」

「この神の出自は書かれていない。大国主神の別名の一つに「大国魂大神」があ

ることから、倭大国魂神は大国主神と同神とする説がある。『大倭神社注進状』

では、大己貴神(大国主神)の荒魂であるとしている。また倭国造やその同族で

ある久比岐国造の支流・青海首が祀った。しかし、本居宣長の『古事記伝』では、

この神を大国主神と同一神とする説を否定している。」

 

おお、これは大混乱ですね。

元々宮中にいたとされるこの日本大国魂神は、いろんな説があるようです。

特に、三輪山・大神神社で祀られているとされている神を確認しておきます。

 

三輪山・大神神社の公式サイト

https://oomiwa.or.jp/jinja/

「ご祭神の大物主大神(おおものぬしのおおかみ)がお山に鎮まるために、古来

本殿は設けずに拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し三輪山を拝するという原初の

神祀りの様を伝える我が国最古の神社です。」

 

大物主大神wikipediaで見ると:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%89%A9%E4%B8%BB

「大物主神の神名の「大」は「偉大な」、「物」は「鬼、魔物、精霊」と解し、

名義は「偉大な、精霊の主」と考えられる。」

「大物主の由緒は不明瞭であり、他の神と同定すべきか否かについて複数の

異説が見られる。例えば古事記では詳しい説明はされておらず、大国主命とは

別の神である様に述べられている。 一方『日本書紀』の異伝では大国主神の

別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として

三諸山に祀ったとある。」

 

・・・この辺りで見るかぎりでは、日本大国魂神は、大物主大神でも大国主命

でもなく、三輪山を経由せずに、宮中から市磯邑(いちしのむら)(大和郷)

つまり、奈良県天理市にある大倭(おおやまと・大和)神社へ移されたと考えて

よさそうに見えます。

 

・・・ただし、p043に以下のように書いてあったのに対し、

Wikipediaではちょっと笠縫邑(かさぬいむら、かさぬいのむら)という場所が

三輪山・大神神社なのかどうかはやや疑問になるようです。

「p043

天照大神を祀る檜原(ひばら)神社は、江戸時代初頭に、伊勢神宮の神官、荒木

田氏が創祀したものだ。崇神天皇が笠縫邑(かさぬいむら)で初めて天照大神を

祭ったという伝説に因んで作られた。この伝説は、伊勢神宮が大神神社から分か

れたことを示すものだ。」

 

Wikipediaでは、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E7%B8%AB%E9%82%91

笠縫邑(かさぬいむら、かさぬいのむら)とは、崇神天皇6年に、宮中に奉祀

していた天照大神を移し、豊鍬入姫命に託して祀らせた場所。」

比定地については、檜原神社(桜井市 三輪)、多神社(磯城郡 田原本町多)、

笠縫神社(磯城郡田原本町秦荘、秦楽寺境内南東隅)、笠山荒神社(桜井市笠)、

多神社摂社の姫皇子神社、志貴御県坐神社(桜井市金屋)、小夫天神社(桜井市

小夫)、穴師坐兵主神社(桜井市穴師)、飛鳥坐神社(高市郡 明日香村飛鳥)、

長谷山口坐神社(桜井市初瀬手力雄)、等々。」

 

・・・等々と書いてあってどこなのか決められない様子なので、

仮にこれが三輪山・大神神社であっても構わないってことなんでしょうか。

 

 

p089

 

元来、太陽神と国魂との間に上下関係はなかった。 ところが、七世紀の国史を整える

動きの中で、天神(あまつかみ)、国神(くにつかみ)の秩序ができた

すると、国魂は土地の神とされ、それを代表する出雲の大国主命に結び付けられていった。

 

『日本書紀』は、三輪山の神を大国主命の「幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)」と

する形で三輪山の神と大国主命を結び付けている

 

==>> またまた面倒なんですが、三輪山・大神神社の公式サイトにどう書いてあるか

     を確認してみると。

     https://oomiwa.or.jp/jinja/gosaijin/

     「ご祭神: 大物主大神(おおものぬしのおおかみ)

      配祀:  大己貴神(おおなむちのかみ)

           少彦名神(すくなひこなのかみ)」

     と書いてあります。

     大国主命とは書いてありませんが、こちらのサイトの解説では、下のように

     ありますので、祀ってあることは確かなようです。

     

     「出雲国造(いずものくにのみやつこ)の祖神。出雲(いずも)大社の祭神

大穴牟遅神(おおなむちのかみ)(大己貴神)、葦原色許男神(あしはらのしこおの

かみ)、八千矛神(やちほこのかみ)、宇都志国玉神(うつしくにだまのかみ)など

の別名がある。」

 

・・・ところで、配祀とは辞書によれば「主祭神のほかに、同じ神社の中に他の

神を祭ること。」となっています。

つまり、メインの神様は大物主大神で、客人として大国主命がいるという

関係でしょうか。

 

 

p093

 

『日本書紀』が崇神天皇を「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と記すことには

注意してよい。 初代の神武天皇も「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)

とされる。

 

つまり、六世紀初頭頃までの人びとは崇神天皇を最初の大王と見ていた。神武天皇は、

そこに架上されたものだ。しかも、二人の間に、名前だけは語り継がれたが事跡が伝わら

ない八人の大王が置かれた。

 

==>> 「はつくにしらす・すめらみこと」という名前の天皇が二人いるという話。

     このことを書いたサイトがあったので、参考までに。

     ハツクニシラススメラミコトの謎

     https://tacchan.hatenablog.com/entry/2014/06/21/130118

     「いずれも「始めての国を作った天皇」という意味で、日本の歴史上で、建国主

が2人いるのは謎とされてきました。昔から「神武天皇と崇神天皇は同一人物で

はないか」との想像を掻き立てることになりました。」

 

 

p103

 

八十平瓮は、崇神天皇が大田田根子に三輪山の祭祀を始めさせた際、物部氏を

「神物班者(かみものわかつひと)(供え物の管理者)」にして「物部の八十平瓮(やそ

ひらか)(多くの皿)」を差し出させたという。 これらの話から、四世紀初頭・・・

物部氏が鎮魂の呪術に当たり、三輪山の祭祀の一部に関与し始めたことがわかる。

 

p114

 

大和朝廷は、物部氏、春日氏と結んでから、まず積極的に大和川沿いの交通の要地を

押さえた。 そして、350年頃に物部、春日両氏を支配下に収め、その勢いで奈良

盆地の多くの中小豪族を従えていった

 

p115

 

四世紀には、「大和」と春日とをつなぐ山の辺の道が最も重要な交通路だった。

 

==>> ここで、大和朝廷ができた頃から物部氏と春日氏がいたことは分かったの

     ですが、そもそも事実上初代の崇神天皇という人はどんな氏族の出なんで

     しょうかね? いろいろと謎が多いとされているようですが・・・・

     それと、なぜ崇神天皇が天照大神と倭大国魂神を宮中から外に出したのか

     それも気になるので、いろいろ検索してみたところ、下のようなサイトを

     発見しました。

 

     崇神天皇|伊勢神宮や三輪王朝の始祖、事実上の初代天皇とも

     https://xn--mnq53wmlpcok.com/sujin/

     「崇神天皇のエピソードが記載されている『崇神紀』を読んでみると、事ある

ごとに三輪山大物主が登場します。崇神天皇の時代に、民衆の間で流行病が

大流行してしまい、人民の半数が命を落としてしまいます。病で世が乱れ、各地

で流浪者が続出し、反乱もあちこちで勃発する事態。

崇神天皇は6年に疫病鎮静のために、宮中にて祀っていた「天照大神」と

「倭大国魂神」を別の場所に移すことを決意します。

豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に天照大神を笠縫邑(かさぬいのむら)

で祀るよう命じ、その後も場所を変えつつ、伊勢神宮にご鎮座されたのが垂仁

天皇25年のことでした。そうです、私たちが知る伊勢神宮の始まりです。」

 

また、崇神天皇がどのような氏族の出なのかについては、推測説がいろいろ

ありそうですが、こちらでは騎馬民族説が述べられていました。

崇神天皇 すじんてんのう

https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1018

「北方大陸系の騎馬民族が征服王朝を樹立したとする騎馬民族征服王朝説では、

騎馬民族の後裔である崇神天皇に象徴される勢力が北九州に入って第一回の

「建国」をなし、北九州から畿内に進出した応神天皇によって第二回の「建国」

がなされたと解釈する。このように崇神天皇とその時期は、さまざまに評価され

ているが、文献伝承のみならず考古学の研究成果および東アジアの情勢のなか

で綜合的に考察する必要がある。」

 

さらに、こちらのサイトでは、始皇帝の子孫という説を取り上げています。

日本の歴史と日本人のルーツ 崇神天皇は吉野の豪族の入り婿

https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12114188815.html

「崇神天皇は吉野の豪族に入り婿したので御間城入彦と呼ばれ、妻は御間城姫

と呼ばれたと考えられる。他の妃達は紀伊国の豪族の女や尾張大海媛と纒向に

近い地域の豪族の女であり、皇后が最も近い吉野あたりの豪族の出身であって

も可笑しくない(参考)

すなわち、崇神天皇は徐福と一緒にやってきた童男(始皇帝の子達)の子孫であり、

現地豪族(海人族安曇氏)の娘を娶ったのであろう。」

 

ついでに、徐福とは何者でしょうか;

https://kotobank.jp/word/%E5%BE%90%E7%A6%8F-80575

「中国,秦代の方士 (ほうし) 。徐市 (じょふつ) ともいう。秦の始皇帝の命で

童男童女数千人を連れて,海中の三神山に不死の薬を捜しに出かけたという。

しかし,三神山は発見できず,日本の紀州へ上陸した,といわれてその記念碑が

現存し,連れて行った童男童女から生れた子孫が日本民族である,という説すら

あるが,いずれも後世の伝説にすぎない。」

 

ここまで読んだところで、やっぱり奈良の「山の辺の道」に行って、纏向遺跡と

三輪山・大神神社ぐらいは見て来なくてはと思いました。

 

 


 

では、次回は「第二章 戦乱時代の勝者」から読んでいきます。

 

 

===== 次回その2 に続きます =====

 武光誠著「古代日本誕生の謎」を読む ―2― 太陽神を祭らせ、朝廷の祭祀を拡充し、大王家の系譜や神話を整理、 天神と国神の神話のわけ (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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