安本美典著「日本民族の誕生 ― 邪馬台国と日本神話の謎」を読む ―1― なぜ東日本に人口の94%が住んでいたのか? 姶良カルデラと鬼界カルデラの大噴火。「キングダム」の時代に呉からの避難民?

安本美典著「日本民族の誕生 ― 邪馬台国と日本神話の謎」を読む ―1― なぜ東日本に人口の94%が住んでいたのか? 姶良カルデラと鬼界カルデラの大噴火。「キングダム」の時代に呉からの避難民?

 

 


 

神社から神話、そして邪馬台国と大和朝廷の関係などを芋づる式に読んでいるの

ですが、今回のこの本は、図書館で発見。

 

 


なんと言っても、最初のページのこれがインパクトがあって、ほかにも多くの絵、写真、

図表、グラフなどがあって、面白そうだったので読んでみることにしました。

 

 


 

p(2)

 

「民族」概念は、たんに生物学的な遺伝を中心とする概念ではない。

「言語」「文化」などを含む概念である。

 

「2000年」という年数は、しばしば数万年単位でものを考える遺伝人類学にとっては、

ほんのみじかい期間にすぎない。 しかし、「民族」の形成にあたっては、2000年

ぐらいの年数が、しばしば決定的な意味をもつ。

 

==>> これは、「日本民族の誕生」というタイトルに何故「民族」という言葉を使って

     いるのかという説明になっています。

     生物学的な日本人という人種ではなく、このおよそ二千年の間にどのように

     日本民族と呼べる同じ言語、同じ文化を持つ集団ができてきたのかを解明して

     みようという意図であるようです。

 

 

p003

 

およそ、十万年まえごろに、アフリカを出発し、四万年~三万年まえに日本列島に到達

した。 そこから、わたしたち日本民族の歴史がはじまる

 

 

p009

 

「原人」の段階でも、アフリカを出て、ユーラシア大陸に広がったとみられる。

だいたい、180万年まえ以降のことのようである。

 

「新人」は、いまから、15万年~16万年まえごろに、アフリカ東海岸にそう一帯に

出現した。 「新人」は、およそ、10万年まえごろに、アフリカを出発し、まず、

アラビア半島にわたる。

 

==>> この本では、猿人、原人、旧人、新人という区別を基礎にして話をすすめて

     いて、それらの時代に何度もいわゆる「出アフリカ」があったことを述べて

     います。

     まず最初に、最新のDNA解析を踏まえた情報をちらっと見ておきましょう。

    「最新DNA解析」でわかった「古代日本人」の起源を解説

     https://www.youtube.com/watch?v=yqWQvhhh70g

     「遺伝情報の約12%を縄文人から受け継いでいる

     「東ユーラシアの人々の中では、遺伝的に大きく異なる集団」

     「一方で、縄文人は旧石器時代のシベリア南部の集団に由来するという研究も」

     「南縄文人と北縄文人は大きく異なっていた

     「縄文人の大多数は古代東アジア人の子孫だが、北海道の縄文人は・・・」

     「ハプログループ解析で、D系統はかつての縄文人のものであると・・・」

     「ハプログループDは、現代の東アジア人とシベリア人に近い」

     「縄文人は現在は海底に沈んでいるフィリピン沖のスンダランドが起源・・」

     「細石刃はバイカル湖周辺に起源をもつもので、日本列島に電波したのはおよそ

2万年前、宗谷海峡経由で北海道にもたらされた」

     「三段階渡来説・・・・ユーラシア大陸各地から狩猟採集民が渡来・・・     

     縄文後晩期の渡来人の波、海の民の移住・・・・弥生時代以降、前半に朝鮮半島

     を中心に、九州北部に水田稲作をもたらし・・・」

 

     私も遺伝子検査をやってみたのですが、その結果は、

     ハプログループ「A」でした・・・

     「ハプログループとは、同じDNA配列を持ったグループの中でも、遺伝子を

コードしている箇所の変化によって分類されるグループをいいます。」

     「Aグループは約23千年前にロシアのバイカル湖周辺で誕生したと考えら

れています。その後東アジアに広がり、またシベリアやベーリング海峡を通って

アメリカ大陸にも進出しています。

※誕生年は約15千~31千年前ともいわれています。」

~約1万年前:日本

日本列島で生活、定住する。一部集団はアメリカ大陸にも進出」

・・・ということで、私はおよそ1万年まえごろに日本列島に渡来してきた

人たちの子孫のようです

ただし、中国旅行をした時に、中国人ガイドさんから「あなたの顔は中国の

南方系の顔だ」と言われましたので、バイカル湖を出た後に、中国の南部に

立ち寄ったのかもしれません。

 

     日本人のハプログループが気になる方は、こちらのサイトでどうぞ:

     https://first-genetic-testing.com/gene/haplo.html

     「ハプログループDは、日本人の中で最も多い集団で、4割弱を占めます。

     ・・・東アジア全体でも最大のグループで、とくに中国東北地方、朝鮮半島

     では、日本同様、人口の3割から4割を占めます。」

     「日本人で2番目に多いハプログループがBで、・・・・中国南部で誕生し

     たと推定され、中国南部から東南アジアにかけて、人口に占める割合が多い

     グループです。」

 

     「ハプログループAは、主に中央アジアから北アジアに分布していますが、

     アジア地域では少数派です。 一方、北東シベリアや北アメリカの先住民

     では人口の過半数を占めます。・・・場所はバイカル湖周辺・・・・」

 

     ・・・つまり、私の祖先は、アメリカに渡り損ねちゃったってことですね。

 

     

p022

 

加藤晋平氏は、「日本人はどこから来たか」(岩波新書、1988年刊)のなかで・・・

「(1万2000年―1万3000年まえ、・・・)に、東日本を覆ったクサビ形細石核を

もつ細石刃文化を担った人類集団の技術伝統は、バイカル湖周辺から拡散してきたもので

ある」

 

==>> ここでp024にある地図を見ると、バイカル湖あたりから日本列島への

     なんらかの流入は、朝鮮半島経由と樺太経由が矢印で描かれています。

     私がこの本を読んでいても、どうしても、「バイカル湖」が気になってしまい

     ます。 グループAなのであしからず。

 

p027

 

縄文中期、西日本は、全体の4パーセントの人口をしめるにすぎなかった。

東日本は、96パーセントの人口を占めていた

 

この人口の極端なアンバランスは、なぜ生じたのか。 

考えられるのは、鹿児島県の鬼界島(硫黄島)でおきた大噴火の影響である。

 

p032

 

縄文時代においては、関東、東北、中部など、東日本の人口が多い。 弥生時代になると、

九州、近畿など西日本の人口が大きくなる。

 

小山修三氏の推定によれば、約4000年前ごろの縄文中期に縄文時代の人口はピークと

なり、約26万1千人と推定されている。

 

p041

 

姶良カルデラの大噴出

縄文時代以前のことである。 約2万5千年まえごろ・・・・に、南九州の鹿児島県の

鹿児島湾の奥部、現在の桜島から霧島市にかけての地域を火口原とする火山の大噴出が

あった・・・・。

その火山灰は、遠く北海道の一部や。東北地方南部から朝鮮半島にまでおよぶ。

九州の南半分から四国の一部にかけては、50センチ以上の火山灰が降り積もった

 

p042

 

ただ、姶良カルデラの大噴出は、年代が古いので、縄文時代の人口にまで、影響を与えた

かどうかは、わからない。

 

・・・それ以後も続いた桜島などの噴出が、西日本の人口に、影響を与えた可能性は

考えられる。

 

p045

 

鬼界カルデラの大爆発

・・・約6400年まえ・・・に、鬼界カルデラの大爆発がおきる。 鹿児島県の

鬼界島(薩摩硫黄島)での噴火である。

・・・アカホヤ火山灰の分布は、遠く東北南部まで達している。

・・縄文時代の早期と前期の境ごろにあたるとみられている・・・・。

 

==>> ここでは、姶良カルデラと鬼界カルデラの大噴火・大降灰の影響が

     西日本全体に及んだため、その時期の日本列島における人口分布が

     極端にアンバランスになっていたことを述べています。

 

     p038にある推定人口の表によれば、

     縄文時代晩期には、東日本の人口割合が85.62%とあり、

     弥生時代にはそれが49.18%となって、西日本とほぼ同程度の人口に

     なっています。

 

     ところで、上記に出てきた「アカホヤ火山灰」とは何なのかを検索したところ、

     下のようなサイトがひっかかりました。

     7300年前、南九州の縄文人を絶滅させた「鬼界アカホヤ噴火」

     https://www.gentosha.jp/article/16240/

     「日本で最後に巨大カルデラ噴火の悲劇が起こったのは、今から7300年前

縄文時代に遡る。縄文時代早期の日本列島では、南九州で成熟した縄文文化が

発達していたという。」

     「これらの最先端縄文土器は、南九州の遺跡では特徴的なオレンジ色の火山灰層

の下にだけ見つかる。この火山灰層は、宮崎ではアカホヤ(「ホヤ」は役に立た

ないものの意味)、人吉ではイモゴと呼ばれていたものだった。」

「同様の火山灰は、九州から遠く離れた中部地方でも発見された。そして東北

以南の日本列島に広く分布するこの火山灰層の厚さを調べることで、その噴出

源が鬼界カルデラであることが突き止められた。この火山灰は「鬼界アカホヤ

火山灰(K-Ah」と呼ばれるようになった。」




 

p052

 

縄文時代の開始年代について、従来、いまから1万2千年ほどまえといわれていた。

この1万2千年ほどまえという年代は、長崎県北松浦郡の福井洞窟出土の試料などに

よって、炭素14年代測定法でもとめたものである。

・・・洞窟内に約6メートルの土層の堆積があり、15層に細分される。

 

1970年にはじまった長崎県佐世保市の泉福寺洞穴の発掘では、隆起線文土器の下層

から、あらたに、豆粒文土器が発見された。

ここでも、炭素14年代測定の結果は、1万2千年ほどまえという結果がえられた。

 

==>> ここは私の出身地ですから、見ないわけにはいきませんね。

     世界一古い土器 佐世保の泉福寺洞窟

https://artworks-inter.net/2018/08/04/%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%B8%80%E5%8F%A4%E3%81%84%E5%9C%9F%E5%99%A8%E3%80%80%E4%BD%90%E4%B8%96%E4%BF%9D%E3%81%AE%E6%B3%89%E7%A6%8F%E5%AF%BA%E6%B4%9E%E7%AA%9F/

     「面白いのは、同じ佐世保にある福井洞窟と同じように、ずーっと何千年もこの

場所に住み続けていたということだ。よっぽど地の利がよく、食料が豊富だった

のだろう。」

鬼界カルデラ破局的噴火・・・まさに縄文全滅の大噴火だったのだ。長崎県内

の平地にも縄文人が住んでいたと思われるのだが、大部分がこの噴火で滅んで

しまったのではないだろうか。

もしかすると、泉福寺洞窟で縄文人が生き残れたのは、この岩山の洞窟をベース

に集落があったからではないかと思う。破局的噴火なのは事実なのだが、幸いに

も全滅はしていなかった。」

 

・・・う~~ん、やっぱり移住するならUターンで佐世保かなあ~~~。

埼玉は富士山が怖いしなあ・・・・

と言いながら、老い先短いしなあ・・・

 

 

p063

 

石弘之氏は、「歴史を変えた火山噴火」のなかで・・・・

噴火や火砕流から免れた人々もいたのに違いない。鬼界カルデラの噴火を分析した

町田(洋)は「噴火には数時間から数十日の間隔があったから、逃げることができた

かもしれない」と語っている。

・・・彼らが築き上げた竪穴住居による大規模定住集落、高度な土器や石器、土偶、

蒸し焼きや燻製技術などは、各地の縄文文化へ影響を与えていった

その証拠は、各地で出土する丸ノミ形石斧の分布をみれば一目瞭然である。

 

p065

 

東日本では、縄文前期の人口は、縄文早期の人口にくらべ、15500人から、

96500人へと、6.23倍にふえている。

 

==>> ここでは、九州に住んでいた縄文人の方が高度な技術をもっていた

     ことを示唆しています。 そして、火山の噴火で移住を余儀なくされ

     東日本に結果的にその高度な技術を伝えることになったようです。

 

p070

 

弥生時代以後、土師器(はじき)・・・の時代にかけて、急速な人口爆発がおきている。

おそらくは、稲作を主とする農業の普及によるとみられる。 

大和朝廷による統一国家の成立は、大規模な治水、灌漑事業などを可能にさせ、生産力

の飛躍的な増大をもたらし、人口の休息な増加をもたらしているようにみえる。

 

p075

 

大和朝廷は、また、日本列島に、「日本語」を普及させた。言語的な統一をもたらした。

 

p078

 

小山(修三)氏は、・・・のべている。

旧石器時代の人口は、日本全体で、3千人ていどであったであろう。

縄文時代の人口が最大になるのは、縄文中期で、約26万人である。

縄文時代の終わり、約2千年前には、人口は、7~8万人までに落ち込む

縄文時代には、人口全体の96パーセントは、東日本に集中し・・・

弥生時代にはいると、人口は、100万人近くになる

弥生時代になると、・・・西日本の人口が多くなる。

奈良時代には、日本の人口は、800万人ほどとなる。

 

==>> ここでは、「日本語を普及させた」ことについては、具体的なことは書いて

     ありません。 ちょっと気になります。

     いずれにせよ、日本列島の人口の増減については、上記のとおりなのですが、

     その日本列島の範囲としては、図をみるかぎり、北は青森県から南は九州

     までという前提のようです。

     そして、一時期人口が落ち込んだのは、火山の大爆発によるものであろう

     という見立てのようです。

     弥生時代の人口増加は、渡来人による稲作の普及などが原因とされるようです。

 

     縄文時代は諸説あるようですが、大雑把には1万6千年前ごろに始まって、

     3千年前ごろに終わったと考えられているようです。

     と言うことになると、私はハプログループAなので、1万年まえ以前には

     日本列島に入っていたという見積もりなので、縄文時代が始まったころには

     バイカル湖あたりから日本に移住してきたことになりそうです。

     もしかしたら、佐世保の泉福寺洞穴あたりで生きのびたグループに入って

     いたのかもしれませんねえ。そう考えると楽しいですね。

 

p082

 

自然人類学者の埴原和郎は、・・・・西暦紀元前3世紀ごろから、紀元後7世紀ごろ

までの約千年間に、100万人ぐらいの渡来人がきたとする説をのべている。

・・・また、この間に、朝鮮半島からわたってきた人々のかなり多くが、「倭人」系

の人々であった可能性もある。

 

==>> ここに出てくる「倭人」系の人々が朝鮮半島から渡ってきたという部分

     なんですが、検索してみたところ、もしかしたら朝鮮半島の南部に

     倭人の国みたいなものがあったんじゃないかという説があるようです。

     任那の誕生『朝鮮半島にあった倭人の国』

     https://www.youtube.com/watch?v=vDPg2mVmkSk&t=266s

     「つまり、馬韓、辰韓、弁韓の南に倭人が住んでいたと考えられる・・・」

 

     先に読んだ「倭寇」の本でも、朝鮮半島南部と北九州は、ひとつの文化圏を

     作っていたともされていますから、不思議なことではないと思います。

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/09/blog-post_34.html

 

     倭人がそもそもどこにいたのかという詳しい推理がこちらのサイトにあり

ました。 この辺りは議論百出でしょうが・・・

倭国の本拠地の変遷(推定)

     https://tacchan.hatenablog.com/entry/2014/05/18/013006

     「倭人が遼東半島の東に居たことは、倭人というのは、日本列島に留まらず、

東アジアでかなり広域的に居住した民族だったと分かるのですが。」

「倭人伝に登場する最初の倭国の地方自治体は「狗邪韓国」であり、当時の倭の

最北端となる。現在の韓国の慶尚南道(韓国の南東)の沿岸部にあった。

これは西暦200250年頃と見られ、日本書紀では7世紀まで、朝鮮半島の倭地

は「任那」という名に継承される。」

倭人そのものが朝鮮半島の南端に居住したとわかる。これらは西暦200250

年頃と見られる」

 

 

p085

 

揚子江流域の文明・習俗をになう人々が、漢民族南下の圧迫をうけ、東や西や南に、

のがれたためであろうか。 それは、わが国への稲作の到来とも関係するのであろうか。

高床式建築、千木、カツオ木、羽子板でのはねつき、竹馬、げた、歌垣などの習俗が、

わが国と、中国の奥地や南部とに遺存しているようにみえる。

 

p088

 

石寨山(せきさいざん)古墳出土の青銅製の家は、横からみたとき、屋根が上に

ひろがっているようにみえる。・・・・わが国の銅鐸や鏡の上に、これに似た形の家が

描かれている。 また、似たようなか形をした家形埴輪が出土している。

 

このようなタイプの建物は「干欄(かんらん)式建築」による建物である。 

 

 



(上の絵が「日本古来の干欄式建築」として描かれているものです。

纏向遺跡、 大阪府池上曽根遺跡、静岡県登呂・山木遺跡、愛媛県古照遺跡、ほかには

各地で発掘された埴輪に同様の建築物を表すものが例示されています。

 

これらは、中国雲南省のものに似ているということで紹介されています。)

 

==>> こちらのサイトは伊勢神宮に関するものですが、ここに社殿の絵図が描かれて

     いまして、干欄式建築ではないようですが、かなり似た高床式であると

     思います。

     初詣、伊勢神宮に参拝して気分も新たに! (1)

     https://plaza.rakuten.co.jp/navitabi/diary/201001010000/

     「神宮正宮の建築様式は唯一神明造り、檜の素木を用い掘立柱で高床、切妻、

茅葺、千木、そして平入り構造は簡素です。」

 

p106

 

わが国の神社建築などは、現在も、高床式建物で、千木やカツオ木(棟木の家に横にならぶ、

カツオ節状の木)などがみられる。

千木やカツオ木なども、中国南部の長江(揚子江)流域や、雲南、タイなどの諸民族の

家にみられるものである。

 

==>> 千木やカツオ木については、こちらのサイトにも絵図があります。

     https://religion-in-japan.univie.ac.at/kami/Ise_Schrein

 

     こちらのサイトの建物のCGの絵は、干欄式の高床式のように見えます。

     「纏向遺跡は邪馬台国か?(1)~まずは遺跡の整理から」

     https://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-213.html?sp

     「あまり知られていませんが、特徴的な遺跡として、滋賀県守山市・栗東市の

伊勢遺跡があります。弥生時代後期(紀元1世紀末から2世紀末にかけて栄えて

いた)遺跡で、面積は約30haにも及びます 。

<伊勢遺跡の建物(復元想像図)、後ろは三上山(近江富士) >」

 

 

p108

 

(雲南省の)・・・その家のかやぶきの屋根には、日本の神社にもみられる「千木」や

「かつお木」と見紛う物がある。これは、まさしく、出雲大社や伊勢神宮などの屋根

型と同型である。

 

==>> 千木とカツオ木については、伊勢神宮、出雲大社、橿原神宮などの写真が

     掲載されています。

     

 

 

p119

 

地図18をみると、・・・「干欄式建物」の青銅器の出土した雲南省昆明の近くの滇池(てん

ち)の付近も、鵜飼の分布域のなかにはいっていることがわかる。

 

p121

 

「古事記」の「神武天皇記」には、奈良県の吉野川の下流で、神武天皇軍が贄持(にえもつ)

の子という国つ神と出あうが、この贄持の子は、鵜飼部の祖先とされている。

 

p124

 

わが国では、古代から鵜飼がかなり行われたことがうかがわれる。

なお、可児弘明氏は、・・・「朝鮮半島に鵜飼がひろまった痕跡はみつからない」と

記している。

 

==>> ここで著者は、干欄式建物、鵜飼、そして稲作というものが、これらが分布する

     中国の南部あたりから、朝鮮半島を介さずに、直接日本列島に入ってきたことを

     示唆しています。

     そしてそれは、漢民族が南下して圧迫されたために、追われた人たちが

東、西、南に移住したためだとしているわけです。

 

 

p124

 

照葉樹林文化は、共通の文化的要素によって特徴づけられる

イモ類、アワ、ヒエ、キビなどの雑穀類の栽培、稲作、絹の製造などを大きな特徴とする。

モチやナットウ、スシを食べ、絹や漆を利用する。 麹で酒をつくり、高床の家にすむ。

歌垣や鵜飼の習俗がある。

 

照葉樹林文化は、ヒマラヤ山麓から東南アジア北部山地、南中国、日本西部にかけての

東アジアの温暖帯に分布する。

 

 

p129

 

わが国の古代では、「高床式」は、宮殿や、神宝をおさめる倉庫など、為政者がわの用いる

建物の様式であった。

 

揚子江の中流域の郢(エイ)などを中心として栄えた楚系統の、為政者がわの文化は、

いっぽうで、雲南省の滇池(てんち)のあたりにおよび、いっぽうで、わが国にも及んで

いるようにもみえる。

 

 

p130

 

(哀牢(あいろう)の夷人(現在の、雲南省西南部地方に国をたてていた民族)の邑の豪は、)

歳ごとに、貫頭衣二領などをさしだしそれを賦(みつぎもの)とした。

 

これは「魏志倭人伝」に、「(倭人の)作った衣は、一枚の布のようで、その中央を

うがち(まん中に穴をあけて)頭をつらぬいてこれを衣る(中央貫頭衣)。」と、いわゆる

「貫頭衣」のことが記されているのと通じている。

 

==>> ここでは、楚の国の文化が、雲南省や日本にも及んでいることを示唆して

     います。 その一例としての、高床式の建物の使い方や、貫頭衣が共通である

     ことを述べています。

 

 


p131

 

「魏志倭人伝」に、次のような文章がある。

(倭人の)木弓は下が短く、上が長くなっている。 竹の箭(や)は、あるいは、鉄の

鏃(やじり)、あるいは骨の鏃(のもの)である。」

 

ここに、「下が短く、上が長い(短下長上)」とある。 現代でも、わが国の「和弓」は、

「下が短く、上が長い」、「長弓」である。

 

中国では、・・・アーチェリータイプの「短弓」がおもに用いられていた。

 

p135

 

じじつ、奈良県の唐古遺跡から出土した弥生時代の弓は、推定で、長さが2.0メートル

ないし2.3メートルていどという。 あきらかに長弓である。

 

==>> 弓の長さと上下のバランスのことを語っているのですが、こちらに和弓と洋弓

     との違いをまとめてありますので、上記が言っていることがすぐに理解

     できます。

     弓の基礎知識「弓矢を学ぶ(弓編)」

     https://www.touken-world.jp/tips/65943/

     「和弓は全長の下から3分の1くらいのところに弓把があり、左手でここを

握ります。また、弓幹も上下対象の弧ではなく弓把の辺りで弦側に寄るという

複雑な形状をしているのです。

これは小さな力で大きな推進力を得るために考えられた、先人の工夫そのもの。

一方、洋弓は、ほぼ上下対象のきれいな弧になっており弓のほぼ中央を持つ構造

になっているのです。」

 

p135

 

アイヌの弓は、・・・アーチェリータイプの短弓である。

 

サハリン(樺太)に住む、アイヌ以外の北方少数民族の弓も、アイヌの弓と同じように、

短弓のように見える。

 

p145

 

アイヌの弓矢文化が、短弓で毒矢をもつのに対し、倭人の弓矢が、長弓で毒矢を用いない

ことなど、弓矢については、文化の系統が異なるようにみえる。

 

北海道中部の・・・ユカンボシE11遺跡から、

縄文時代中期の、木製の矢柄数本が・・・・約4700年前のものとされている。

矢柄は50~60センチのものとされている。その長さが、長くないところからみて、

短弓に用いたとみられる。

これは、わが国で、もっとも古い矢の例とみられる。

 

p151

 

弘法大師・空海の著書「性霊集(しょうりょうしゅう)」のなかに、・・・

・・・これによれば、九世紀の前半には、蝦夷は毒矢を使用していたことになる。アイヌと

つながる文化をもっていたことになる。

 

p152

 

韓国の人など、朝鮮半島の人が思いうかべる一般的な弓の形であろう。

アーチェリータイプの短弓である。

 

高句麗の弓は・・・やはり、アーチェリータイプの短弓である。

 

==>> ここで著者は多くの写真を掲載していまして、弓の形が短弓であることを

     説明しています。

     上記以外にも、匈奴、モンゴル、中国、ペルシア、ブータン、タイなど

     ユーラシア大陸東部の国々では短弓が一般的であって、日本の長弓は

     その中にあっては異質であることを述べています。

 

p162

 

これに対し、関西以西の長弓の伝統は、・・・弥生時代以降にかぎられ、縄文時代の

遺跡からの出土例を、わたしは知らない。

このことは、長弓の文化が、弥生稲作とともにわが国にもたらされた、という仮説

成立する可能性を思わせる。

 

太平洋南方初頭の弓

・・・我が国の長弓と関係があるかとみられる長い弓の存在する地域がある。

太平洋南方諸島である。

 

p164

 

人類学者・解剖学者の金関丈夫(1897~1983)は、日本の長弓の由来を、

「射魚」の風習と関係づけて説明する。

 

「長弓は長い矢を必要とするところから発生する。 長い弓は空中では不利だが、

メディアムの濃厚な水中を貫通するには有利であり、必要である。 長弓は多くの

原始姻族で、射魚の風習に伴っている。

・・・その弓の中央より下をにぎるやり方が、日本の弓の原理によく一致している。

短下長上のにぎり方は、前下方をねらう射魚の場合、その弓を前に傾けるのに有利な

にぎり方である。・・・」

 

p167

 

日本の周辺で、長い弓をもつ民族は、ポリネシア、フィリピン、ソロモン諸島など

太平洋にひろがっていることがわかる。

 


 

==>> つまり、著者は、日本列島の縄文時代には、アイヌのように短弓を

     使っていたと思われるが、弥生時代の頃から、西日本においては長弓が

     使われるようになっているので、その時期に、南方からの移住者が

     入ってきて射魚系の弓を伝えたのではないかと推理しているようです。

 

 

p172

 

春秋五覇の一つの呉は、紀元前473年に越によって滅ぼされた。

そして、呉の人たちが、わが国にやってきたことを、おぼろげに伝えるような伝承がある

 

・・・呉と越とは、江南地方にあった最初の国である。

紀元前473年に、呉が越に滅ぼされ、紀元前334年に、越が楚に滅ぼされた。

 

p175

 

「魏略」は、「魏志倭人伝」の先行文献、または、同時代に成立した文献といわれている。

倭が、呉の太伯の子孫であるという記事は、他にいくつもの、中国の歴史書が記載して

いる。

 

・・・歴史家、金仁山(1232~1303)は、「通鑑前編(つがんぜんぺん)」のなかで、

・・・「日本いう、呉の太伯の後なりと。 けだし呉亡んで、その支庶(傍流)、海に入って

倭となる。」

 

・・・「日本書紀私記」に、「日本の国が、姫氏国(きしこく)と呼ばれるのはなぜなのか。」

という質問がのっている。 そのころ、日本が、中国から、太伯伝説にもとづいて、姫氏国

と呼ばれていたことがわかる。

 

p177

 

このようにみてくると、日本と呉越との関係は、考古学的にみても、あるいは、中国の

歴史書をみても、深いものがあったといわなければならない。

 

 

「魏志倭人伝」によれば、倭人は「租賦(租税)」をおさめていたという。すなわち、

税をとるシステムをもっていた。 「税をとる」というアイデアじたいは、中国から

きたものとみられる。

 

そのような「国家概念」をもった倭の為政者は、あるいは、伝承どおり、呉から来た

という史的事実があったのかもしれない。

・・・中国の江南の地では、その後も、周辺に余波をおよぼしうるような大きな動乱

が何回かあった。

 

==>> ここで著者は呉の伝承をとりあげて、江南での動乱によって、呉あたりの

     人々が日本列島に渡ってきたかもしれないと推測しています。

 

     そして、その動乱について、以下のようなものを列挙しています。

     越の滅亡 紀元前334年

     楚の滅亡 紀元前223年

     秦の滅亡 紀元前207年

 

     おお、これは、まさに、テレビアニメの「キングダム」の時代ですねえ。

 

p179

 

ナレズシやナットウの分布

 

・・・ナレズシは、いまもわが国では琵琶湖畔などでつくられるフナズシに、その姿

をよく留めている・・・

 

13世紀ごろ以後、中国人(漢人)の中では失われてしまった古い食習慣が、少数民族

の中でよく保持されてきたということができる。 いずれにしてもナレズシは大変

古い食品である。 おそらく、それは稲作農業とともに長江の下流あたりから、九州へ

伝わったものと考えられている。

 

p183

 

この地図28をみれば、ナットウも、ナレズシや長弓などと同じように、照葉樹林

文化地帯の外周部へ、ひろがりをみせているようにみえる。

 

 

==>> この著者のアプローチはなかなか面白いと思います。

     図表や絵図が多く、説得力があります。

     中国の戦乱の時代に、それこそ今でいえばロシアのウクライナ侵略に

     よって避難民が世界中に拡散するのと同じように、江南の地域から

     西日本へ逃れてきた人たちがいても不思議ではありません。

 

     少なくとも、文化的な面や中国の文献にその一端が残っているわけです

     から、全否定は出来ないのだろうと思います。

 

 

では、次回は「第4章 弥生文化と日本語の発祥の地は、九州北部と朝鮮半島南端の地」

から読んでいきます。

 


 

 

===== 次回その2 に続きます =====

 安本美典著「日本民族の誕生 ― 邪馬台国と日本神話の謎」を読む ―2(完)― 揚子江流域から戦火を逃れて稲作と共にやってきた倭人? 遺伝子分析結果と比べてみれば (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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