ギャラップ著・丹波哲郎訳「死後の世界」を読む ― その5(完) 日本の終末期医療は大丈夫かなあ・・・ぽっくり地蔵しかないか?
ギャラップ著・丹波哲郎訳「死後の世界」を読む ― その5(完) 日本の終末期医療は大丈夫かなあ・・・ぽっくり地蔵しかないか?
ギャラップ著・丹波哲郎訳「死後の世界―人は死んだらどうなるか」を読んでいます。
「9 死後の世界 ―― 人は何を与えられるのか」
p195
われわれが調査した人のうち十人に一人、約230万人が「天国にいる人は現実の世界の
人間の精神的な要求に応じて力を貸すことができる」と言っている。
p196
死んだ身内や友人は「夢や幻覚や予感や超感覚的知覚(ESP)」などを通して私たちと
コミュニケーションすることができるのだろうという結論に達した人も少なくない。
p198
ある若い主婦は次のように話している。
「どのようにしてかははっきりわかりませんが、霊的存在となった“人たち”は、あとに
残してきた人の心を慰めたり、何等かの方法で自分たちはだいじょうぶだと知らせたり
するのだと思います。・・・」
p200
しかし、一般的には、天にいるものがわざわざ地上に戻って、現実の世界の苦しみと
戦っている人を助けるという考え方については伝統的なキリスト教の教えも ――
聖書さえも ―― 何ら言及していない。
旧約聖書も新約聖書も生きている者が亡くなった人と連絡をとって助けてもらおうとする
ことに強い抵抗を示している。
==>> アメリカの死に瀕するような経験をした人のおよそ1割の人たちは、
あの世の住人である、たとえば亡くなった身内などが、まだ地球上で生きている
人たちを助けてくれると思っているそうです。
しかし、聖書にはそのようなことは何も書いてないのだそうです。
日本の場合はそれに相当するようなものはありますかね?
あの世に住んでいる人が地上に現われるとなると、それは亡霊ですからねえ。
どっちかといえば、呪いとか祟りとか呼ばれるような「お礼参り」系が多い
ような気がしますね。
「今昔物語」にはこのような話があるそうです。
「巻二十七第二十五話 夫の幽霊が泣き暮らす妻を訪れた話」
・・・これは、やっぱり「うらめしい」「心が残る」という感じですね。
菅原道真さんなんかは、典型的な怨霊の例ですしね。
https://toyokeizai.net/articles/-/376544?page=2
「近年は、中学校の歴史教科書にも、道真の祟りを載せるところが多い。例えば
『社会科 中学生の歴史』(帝国書院)には、半ページを使って大きく『北野天神
縁起絵巻』(北野天満宮蔵)を載せ、キャプションとして「藤原氏によって
大宰府に追いやられた菅原道真は、903年、無念のうちに亡くなりました。当時
の人々はその霊が雷神となって都に戻り、藤原氏のいる清涼殿に雷を落とした
と信じました」と記載されている。」
仏さんだったら、「かさ地蔵」みたいな人たちが昔はいたようですけど。
https://www.youtube.com/watch?v=3kzcFgS9BFU
まあ、とりあえず、仏教には阿弥陀さんみたいに、あの世の人が地上の死者を
お迎えにくるとかいうのはありますし、アメリカとはちょっと違うタイプの
ようですが。
「10 臨死によって人生観が変わる」
p208
体験談のSF的な修飾をすべて取り除き、人々が最も気にかけている核心部分に迫ると、
次の二つの疑問が出てくる。
1. 死にかけた時の不思議なできごとを体験したことによって死に対する恐怖が薄らいだ
か?
2. 死にかけた時の不思議な体験には、その人の考え方や生き方をより良く変えるような
力があるのだろうか?
p209
「痛みも恐怖もまったく感じませんでした。 死というのはただ移り変わるというだけの
ことで、・・・永遠の生命というものを受け入れることは人生の一部なのです」
「何も怖くはありませんでした。 ただ、夫もいつか神のもとに命をお返しして、二人で
一緒に神のもとで暮らせるようにと祈りました。 ・・・」
==>> 私自身が幼い時に一度「ご臨終」と宣告された時のことからいえば、
確かに死というものに対する怖さというものは感じませんが、その前に
痛い目にあうのはイヤだなと思います。
上記のアメリカ人のケースでは、どうしても宗教的な臭いがついてしまうよう
ですが、日本人の場合は、比較的に現実的な考えの人が多いのではないかと
思います。 あの世の話なのに、現実的というのも変ですが。
上記の「永遠の命」とか「神のもとに命をお返しして」という考え方からは
かなり遠いなと感じます。
p214
不滅の世界に対して非常に希望をもって見通しを立てることができる。 しかしそれらの
体験談を検討する時に気を付けなくてはならないことがいくつかある。
まず第一に、死への恐怖が薄らいだと答えたのはあくまでも少数の人であることを
忘れないでいただきたい。 たとえそれが全体の三分の一強という、けっこう多い
人数であったとしても。
それにわれわれが調査をしたのは、大部分が急病や手術の突然の事故などによって
命が危険にさらされたケースである。 長いあいだ病床にあって、苦しみながら
死んでいったというケースはこれらの体験談には出てこない。
==>> はい、この最後の部分が問題ですね。 長い間苦しんだりする病気で
あれば確かに怖くないという話にはならないだろうと思います。
海外では、終末医療だのホスピスだの安楽死だのという制度があるらしい
ですが、最近の日本の医療制度ではどういうことになっているんでしょうね。
こちらのサイトには、かなり大きな問題が日本にはあるということが
書かれています。
「我が国の高齢者終末期医療の現状と課題」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsrcr/27/3/27_252/_article/-char/ja
「高齢者が穏やかに人生を終えたいと望むのは当然です.しかし現在の日本の
医療はそれに応えていません.わが国では高齢者が終末期に食べなくなると,
当たり前のように点滴や経管栄養が行われます.そのため,何もわからない寝た
きりの状態で,何年間も生き続ける高齢者がたくさんいます.一方,我々が訪れ
た欧米豪では,高齢者が終末期に食べなくなると点滴や経管栄養を行ないませ
ん.食べるだけ飲めるだけで看取ります.何も口にしなくなってから,2週間ほ
どで穏やかな最期を迎えています.日本のような延命医療は老人虐待とさえ
言われます.」
・・・私などは、こういう欧米豪のような形が良いと思います。
北欧はもっと進んでいるのかもしれませんが。
p217
死後の世界をかいま見る体験をした人の39%にあたる人が、今まで以上に宗教心が
強くなったと答えている。 また、20%の人は格別に宗教心が強くなったとは思わない
と言っており、41%はわからないと答えている。
p221
この男性を含め、死後の世界に足を踏み入れそうになりながら現実の世界に戻ってきた
人の中には、死に直面したことのない人よりも草花や空や木や太陽や月などに関心を
もつようになったという人が少なくない。
「これまではごく当たり前と思っていたささいなものにもすばらしさを感じるように
なりました。 空や木、健康、愛、笑い、そして目に映るあらゆるものに」
==>> 「宗教心」という言葉は、人によってとらえ方がかなり異なるでしょうし、
アメリカと日本ではさらに異なる概念にもなりそうですから、上記の数字に
どのような意味合いがあるのか推し量るのは難しいと思います。
しかし、後段にある「草花や空や木や太陽や月などに関心をもつようになった」
という感覚であれば、日本人的にも納得できそうな気がします。
もともと日本は自然崇拝の八百万の神々の世界、スタジオ・ジブリの世界です
からね。
p226
この女性は、生死の境をさまよう体験をして、自分なりに神と死後の世界についての
本質をつかむことができたため、次のようなことを言うことができたのである。
「今ならわたしは、家族や友人をみんな見送って最後に残る辛さや寂しさに耐えることが
できると思います ―― その先にどんなことが待っているか知っているから」
==>> 臨死体験をした人は、さまざまな形で、その人生に変化がみられるようだと
ここには書かれています。
立花隆さんの「臨死体験」には、さまざまな事例が書かれていまして、
人格ががらりと変わって、人生が真逆になるくらい変わった人たちのことも
書かれています。
どういう臨死体験をしたかで、まったく異なると思いますが、その当事者の
感受性にもよるかなと思います。少なくとも私の場合は、ほとんど何ごとも
ありませんでした。「ご臨終」の宣告はあったものの、臨死体験と呼べる
体験はなかったからです。
そして、個人的に一番感じたことは、死というものが怖くなくなるという
ことでした。
「立花隆著「臨死体験」―どんな経典よりも「死」への恐怖を消してくれる本?」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/10/blog-post_90.html
「今までに、いろんな仏教関係の経典に関する入門書などを読んできたのですが、
死に関する体験とされるものの具体的な事例を数多く調べて、つぶさに書き
記しているこの本を読むと、どの経典の内容から受ける印象よりも、「死」に
対する恐怖感を取り除いてくれると感じました。その意味でこの本は大変
お薦めです。」
「11 科学的見地からの「死後の世界」」
p230
死にかけた時の不思議なできごとを評価することについては、医者よりも精神医学者や
心理学者やその方面の研究に携わっている人のほうがある意味で有利な位置にいる。
そういう人は、どの分野の専門家よりも、毎日の仕事の中で異常な精神活動の未解明の
部分にメスを入れるという機会に恵まれているのである。
p231
幽体離脱を体験したという399人を対象に調査したところ、「体験者の大多数を占める
90%がその体験をしたのは死にかけた時ではない」ことがわかった。
では、残りの10%、つまり幽体離脱の現象を死にかけた時に体験したという人の場合は
何か目立った特徴のようなものがあるのだろうか?
博士らは「死にかけた時のできごとだけにしかみられないという特徴は何もない」と
いう結論に達したが、同時に「他の幽体離脱の時よりも死にかけた時のできぎとに
比較的よくみられる現象はいくつかある」と言っている。
==>> 90%が「死にかけた時」じゃないというのがちょっとびっくりですが、
その具体的な中身は本には書いてありません。
おそらく精神科関係ですから、さまざまな薬物を使ってでてくる幻覚などの
類ではないかと思います。 立花隆さんの「臨死体験」に詳しく書いてあります。
死にかけた時に幽体離脱とともに出やすい現象は以下のようなものだそうです。
いろいろな音、 トンネル、 霊魂のような他の生命体、明るい光、など
立花隆著「臨死体験」の本には、下のような分析があるとの記述もありました。
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/10/blog-post_23.html
「p102
リングは、独自の調査をもとにして、臨死体験の要素を分類し直し、かつそれ
ぞれの項目に重要性の比重に従って点数をつけ、“コア経験比重指数”というのを
作った。
==>> ここでこの指数の点数の高いものを参考までにピックアップします。
4点 ― 光の中に入る
2~4点 ― 安らぎ、気持ちがいいなどの感じ
2~4点 ― 身体と分離した感じ
2~4点 ― 暗いところへ入っていく感じ
その他、3点には、誰かに会う、誰かの声を聞く、自分の人生を振り返る、
目に見える“霊魂”に会う・・・などが書いてあります。」
p238
われわれの調査でも、自分が体験した不思議なできごとを人に話さないようにしている
人がいることがわかった。 そんなことを話すと笑われたり、頭がおかしいのではないか
と思われたりするかもしれないと考えるからだろう。 しかし、そういう人には
ためらいがあるからか、大げさな言い方にならずになるべく正確に話そうとする傾向
がある。
==>> こういうのは、日本でも、私を含めて、そうだろうと思います。
しかし、たまたま私の場合は「臨死体験」という本を読んでいた時だったので、
ご近所さんでこんな話があったのにも興味を持つことができました。
(こちらのリンクの一番下に書いています)
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/11/blog-post_26.html
「<<スーパーマーケットでの立ち話>>
話は変わりますが、たまたま私がこのアイソレーション・タンクに入っていた
ころ、我が家の相棒が、昔からの知人にスーパーマーケットで会ったそうです。
・・・
その話の中で、彼女が言うには、
「入院していた時に、抗がん剤なんかの副作用と思われる40度前後の高熱
が出て、その時に、意識が無くなって、お花畑が見えたり、お城の石垣の石の
ひとつひとつに36.8度と書いてあって、その石垣を一所懸命登っていたら、
後ろから誰かに引っ張られて意識が戻った」という夢だか幻覚だかをみたという
話。・・・・・
そして、その話を身近にいる人たちにすると、そんな気持ちの悪い話はしないで
と異常者扱いされて、聴いてもらえないという。」
p239
肉体的外傷を受けると、体内に科学反応やその他の変化が生じることはすでに分かって
いる。 例えば、苦痛をやわらげる働きのあるエンドルフィンのようなものが脳内で
生成されるのかもしれない。 体のどこかに外傷を受けると大量の分泌液が出るのは
当然だと思うだろう。 また、脳内部で化学的相互作用が起こると、神経に何等かを伝達する作用を引き起こしたり、ある種の情報を伝える神経系を生じさせるということもわか
っている。
p240
しかしこれは、死にかけた時の不思議なできごととの意味を明確にとらえるために、
どうしても明らかにされなくてはならない科学的な問題である。
==>> この本は1981年ごろの調査に基づいて書かれた本ですので、すでに
40年が経っているわけです。
ということは、その後、神経医学などの分野での発見もかなり積み重ねられて
いるということは期待できます。
立花隆さんの「臨死体験」は、2000年の出版ですから、かなり科学的な
知見も詳しくかいてありますが、その後20年の発見はどうなのでしょうか。
あらたな立花隆さんが出てきてくれないと無理かもしれません。
p243
確かに、そういう不思議なできごとは死後の世界や天国とは何の関係もないという
科学的、神学的意見もある。 しかし同時に、科学的な見解そのものが現在の段階では
確固たる事実や証拠よりも推測に頼っている部分が多いので、100パーセントの
確信に基づいているわけではない。 したがって、死後の世界に足を踏み入れかけた
時に、“不思議なことに出会った”という人は、実際に不滅の世界を冒険してきたのかも
しれないという可能性を受け入れるだけの余裕は残しておくのが賢明であろう。
==>> 著者であるジョージ・ギャラップJR.さんの結論です。
私も基本的にはこのような考え方です。
しかし、出来るだけ科学的で実証的な説明が出てくることを期待します。
そしてその科学的というものの中にも、「神の物理学」のような仮説も
ありますから、非常に面白いなあと思っています。
保江邦夫著 「神の物理学 甦る素領域理論」 ― 湯川秀樹の「素領域理論」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_65.html
「p19
「完全調和の自発的破れとしての素領域と素粒子」
p20
つまり、真空の中に生じる完全調和の自発的破れの大多数は泡の如き3次元の
立体領域の形成を取ることになるが、その3次元の自発的破れの各々を「素領域」
と呼ぶ。
こうして真空の中に生じた自発的破れとしての素領域の全体を「宇宙空間」
あるいは「空間」と呼ぶ。
p21
そもそも真空は完全調和のみが存在する完全無欠な状況にあったため、その
ごく一部に完全調和の自発的破れが生じたときにはその破れた完全調和が速や
かに復旧するような流れが生まれることになる。」
・・・・
そして、私が今まで読んできた本の中で、一番納得できたのは、下の本です。
村本治著「神の神経学―脳に宗教の起源を求めて」: 神(仏)は、
人間の脳の進化に伴って脳内神経回路として発達してきた「実体」である
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/04/post-a880cd.html
「p202
本書が提示するのは、「神(仏)」というものは、人間の脳の進化に伴って
脳内神経回路として発達してきた「実体」であり、それは人間にとって
「内なる神」として、「感じられる」存在であると共に、人間が生きていく
上で非常に重要な役割を果たしてきた存在であるという考え方である。
その意味で、「神(仏)」は「実体」として「存在」し、その存在は
科学的に調べることができるのである。
・・・これが本書の結論として得られる「神経学的紳論」である。」
私は上記の村本治さんの神経学による研究と考察をよんで「これだ!」と感じました。
したがって、臨死体験や「死後の世界」についても、いわゆる「神」が進化によって
産み出した人間の脳による現象であろうと思います。
そのことをお釈迦様は「一切不説」「無記」として形而上学を語らなかったわけですが、
時代は、それを語ることができそうなところまで、もしかしたら近づいているんじゃ
ないだろうかと、夢想したいと思います。
==== 完 ====
===================================
コメント
コメントを投稿