立花隆著「臨死体験」を読む ― 2 延暦寺や高野山の修行者は死に方のマニュアルをもっていた。 脳内麻薬の恍惚感か?
立花隆著「臨死体験」を読む ― 2 延暦寺や高野山の修行者は死に方のマニュアルをもっていた? エンドルフィンの恍惚感か
立花隆著「臨死体験(上)」を読んでいます。
「第二章 「至福」の光景」
p064
唐招提寺の全景で、やがて全視野に広がった。
・・・途端に、身が軽くなり、直立となり、ベッドより離れた。
そして、白光(極めて明るい、但し眩しくはない。気持ちのよい温度)の中を猛烈な
スピードで上昇し、更に頭上の密度の濃い白光(おかしな表現だが)のかたまり(その中
がトンネル状になっていた)の中に入っていった。
p065
臨死体験というのは、基本的にイメージ体験であるが、そのイメージが何であるかが問題
なのである。 あの世的な体験なのか、あの世とまではいわないまでも、この世を超越
した何者かの存在を示唆するものなのか。 それとも、病める脳が生みだした幻覚の
一種にすぎないのか。 ポイントはここにある。
==>> これが著者である立花さんの分析のポイントになるわけです。
最初の事例は、茨城県水戸市の医師会報告第九十四劫(昭和63年2月)に
のった片山龍男氏(開業医)の、「ノンフィクション再生記“狭心症―心筋梗塞
―あの世―この世“」から引用となっています。
この上下巻を通じての立花さんの一貫した態度は、あくまでも科学的に
説明が可能かという態度でして、私などのように「へえ~~、そうなんだ」と
曖昧なままに飛び付いてしまうことは一切ありません。
私が今のところの読書のテーマにしているのは「意識」の問題であって、
様々な現象をスピリチュアルではなく、科学的に納得できないかという観点
から見ていきたいので、非常に参考になります。
ぶっちゃけ、臨死体験ってそうそう誰にでもあるものじゃないし、普通は
そのままあの世かどこかに行っちゃうわけですから、他の人には語れない
ですもんね。 自分が経験もしないものを信じろといわれても、疑い深い
性格なもんですから。
p079
― 臨死体験や体外離脱の解釈に二つありますね。 魂の離脱説と脳内現象説と。
どちらをとりますか。
「・・・そういう生命エネルギーの主体を魂というなら、人間というのは、肉体と魂
が混然一体となって生きているものだ。 それが死んだらどうなるか、物理学の第一法則
はエネルギー不滅ということです。 ・・・だから人間が死ぬときも、その生命エネルギー
が消滅してしまうことはない。 ・・・結局、全宇宙を満たす巨大なエネルギーの流れ
の中に人間もいる。 人間の生も死も、その大きなエネルギーの流れの中の形態変化で
しかない」
こういう考え方というのは、実は臨死体験解釈の新しい流れとして、欧米では最近よく
聞く発想である。
==>> 私自身は今のところ「脳内現象説」であって欲しいと思っているんですが、
既に読んだ本の中に下のような「神の物理学」という本もありました。
保江邦夫著 「神の物理学 甦る素領域理論」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_2.html
「p123
この宇宙を構成するすべての素領域を囲むようにして存在する最小限の完全
調和を分割して得られるモナドなのだ。
そのようなモナドは「霊」あるいは「霊体」と呼ばれ、素領域をまったく内在
させていないモナドは「聖霊」と呼ばれるが、あくまで形而上学的素領域理論
の中での用語であって素朴な宗教的概念ではないことを明示するために、以下
ではそれぞれを「霊モナド」及び「聖霊モナド」と呼ぶことにしたい。」
p126
天の川銀河系を含め、この宇宙に存在する銀河系の集団は全体として3次元
立体的な網目構造あるいは格子構造を造り上げるように宇宙空間の中に立体
周期的に分布しているという観測結果が知られている。 ・・・・ここにおいて
も形而上学的素領域理論におけるモナドの考え方を用いることが解明の糸口と
なるかもしれない。」
・・・このように、元々は湯川秀樹博士の発想であった素領域理論をこの
理論物理学者である保江邦夫さんが、まじめに展開しているんです。
この理論がスピリチュアルな穴に落ち込むことなく、あくまでも科学的な
理論として発展することを期待しているんです。
p101
最初にそのような科学的研究を行ったのは、コネチカット大学のケネス・リング教授
(心理学者。 現在、国際臨死体験研究会会長をつとめている)で、その著「いまわの
きわに見る死の世界」・・・・百二名の体験者に対する聞き取り調査をもとにしたものだが、
その中でムーディのいう「異様な騒音」について・・・
「・・・われわれのデータでは、そういう聴覚的現象を裏付ける事例は、ごくわずかしか
ない。
・・・音を覚えているというのは、わずか十四人で、その内訳は、コア経験非体験者
四人にたいして、コア経験体験者が十人である。・・・重要性および正当性は疑わしくなる」
p102
リングは、独自の調査をもとにして、臨死体験の要素を分類し直し、かつそれぞれの
項目に重要性の比重に従って点数をつけ、“コア経験比重指数”というのを作った。
==>> ここでこの指数の点数の高いものを参考までにピックアップします。
4点 ― 光の中に入る
2~4点 ― 安らぎ、気持ちがいいなどの感じ
2~4点 ― 身体と分離した感じ
2~4点 ― 暗いところへ入っていく感じ
その他、3点には、誰かに会う、誰かの声を聞く、自分の人生を振り返る、
目に見える“霊魂”に会う・・・などが書いてあります。
昔は「幽体離脱」という言葉を時々見たような記憶があるんですが、
この本では「体外離脱」という言葉を使っています。
つまりは、離脱するものが何なのかを前提せずに考えているからでしょう。
p108
臨死体験の解釈の一つの立場に、心理学的解釈がある。 臨死体験で見るイメージは、
夢と同じように、その人の心理状態の反映だとする説である。
・・・この説に従えば、天国に行きたいという欲求がその人に天国に行くイメージを
見させたということになる。
==>> ここで例示された日本人のケースでは、「そういう事実は全くないということ
なので、心理学的解釈はこの場合成り立たない」と書いてあります。
ただし、後ででてくる海外のケースなどを読むと、日本人の宗教に対する
淡白さと、外国人の熱心さとのギャップがあるのかもしれません。
p111
「・・・その闇に空間はじきにまぶしい白光に変わった。意識だけがそれを見ている。
目ではなく意識全体で見ているのだと分かった」
「頭の中で爆発が起きた感じがした」というので、爆発音を聞いたのかと思ったら、そう
いう感じがしただけで、音は聞かなかったという。 同じ病因なら同じ現象があらわれる
というわけではないのである。
==>> ここでは、臨死体験者の経験内容を詳細にみていくと、それぞれ微妙に異なって
いることが見てとれることを書いています。
ただし、上記のようなコアになる経験というのはやはりあるようです。
また、後々でてくるんですが、「意識だけがみている」というのもポイントに
なりそうです。 体外離脱した後は、自分の身体が感じているのではなくて、
意識が直接感じたり、自分の身体が見えていなかったり・・・・
p115
ともかく、臨死体験というのは、単純な現象ではなく、複合的な要因によって起きる
複合的な現象である。
・・・山口県宇部市の小森浩さんという七十歳の老人である。 この人は、自分で
自分の肉体をコントロールして、自分を準臨死状態に追い込み、臨死体験と同じ体験を
することができるという不思議な能力を持つ人である。
p116
・・・まずその前に一週間程度の断食をするなどの準備をととのえる・・・・
それから天井を向いてあおむけに寝る。 そして、息を吸っても吐かないようにして、次第
に呼吸を止めていくのだという。・・・小森さんも十年ぐらいかけてやっとできるように
なったのだという。
==>> 様々な状況で死の直前までいく人がいるかと思えば、この小森老人のように
まるでインドの行者のような人もいるんですね。
良い子は真似をしないようにしてください。
p116
小森さんによると、呼吸を止めるとともに、胃の動きも止まり、腸の蠕動も止まり、ただ
心臓だけが動いているという状態になる。 すると、まず「太陽の何倍もの白光」が
見え、つづいて、体外離脱が起こる。 自分の体が二つにわかれて、一方は上昇していく。
p117
「天に昇って行く、天井も屋根も何の抵抗もなく抜けて上って行きます。 春夏秋冬が
一時に現れた下界が見えます。天女もいます」
「時には映画女優が裸体で浮遊してきます(高峰秀子が出た)。 だから幻覚と思います」
というのである。
==>> この小森老人は、宗教の勉強をしたとか、禅の修行をしたとかいうのではない
と自ら断っています。 そして、本人が「いろんな現象は、身体の機能がそう
させるものだと思います」と話したそうです。
p118
この強烈な快感に耐えていると、次に、小森さんが「澄」と名づける段階に入る。
それは「明澄としかいいようがない、何もかもが澄み切った世界」だという。
その段階に入るのには、呼吸停止だけでは十分でない。心臓が止まる必要があるという。
・・・そのとき、自分の望みがすべてかなえられたような気持ちになり、宗教でいう、
「大悟を得た」という心境になる。
「神も仏も友達のような気になります。 神や仏と一体となり、自分がその一部になって
しまったような気です」
==>> 本当に、これはブッダも苦行の末にこのような境地になったんじゃないかと
だれしも思いますよね。
そして、そのような体験から「梵我一如」とか「即身成仏」とかいう言葉が
出てくるのでしょう。
こういう話になると、どうしても宗教的な雰囲気になってしまうんですが、
それは本当は、脳科学というか神経科学でいずれ説明ができるものかも
しれませんね。
脳細胞のそれぞれの小部屋には、いろんな現象に対応する小人たちが住んで
いるらしいので。 (これまた譬えが神話みたいになっちゃいますが・・)
前野隆司著 「脳はなぜ「心」を作ったのか」 を読む
― 2 小びとが分散処理するニューラルネットワーク
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/09/blog-post_97.html
「p37
MITのミンスキー教授は、著書「心の社会」の中で、脳の無意識の自律分散的
処理のことを、心とはたくさんのエージェントから成る社会だという比喩を
使って説明した。脳の中にたくさんの小びとがいて、それぞれ自分の仕事を
せっせとこなしている様子をイメージしてもらえばいい。
p38
・・・それぞれ独立して、おのおのの処理をこなすモジュールが存在するという
ことのたとえだ。 それぞれが意識を持つわけではない。
・・「小びと」=ニューラルネットワーク、と考えていただいて差し支えない。」
p122
平安末期から中世にかけての往生伝に登場してくる、比叡山、高野山などで修行して
往生した有名、無名の行者たちの死に方なんです。 ・・・自分の死期を悟った段階
から修行の形態が変わってくるんです。 まず、木食の行に入るんです。五穀断ちと
いって、穀物をいっさい食べない。 木の実とか、木の根、草の根くらいしか食べない。
栄養水準をどんどん下げていって、自分の肉体を枯れ木のようにしていく。 その
最終段階で、断食に入る。
・・・そうすると、きまってその行者たちは、何等かの奇跡を体験するんです。
たとえば、阿弥陀如来や般若如来が目の前にあらわれる。来迎するわけです。
==>> こういう修行というのか、往生する際の段取りというのか、僧侶の間では
単なる噂や信仰ということではなくて、具体的な実践として、こうすれば
こうなるというものがあったんですね。
そういう意味での研究というのは、現代よりも進んでいたのかもしれません。
p125
とりあえず、臨死体験の体験主体とでもしておこう。その主体が肉体から完全に外に
出てしまうと、肉体に基礎をおいた感覚刺激がいっさい無くなってしまう。・・・・
いわゆる体外離脱というプロセスがあったかどうかは別として、臨死体験というのは、
すべて主体が肉体から離れて経験するものだというのがリングの考えである。
・・・霊魂というか、アストラル・ボディというか、その他もろもろどんな名称をつける
にせよ、臨死体験は、肉体から分離した何等かの体験主体によって体験されているもの
なのかどうか、結局、ここのところが、解釈論の最大の争点になってくる。
p126
感覚入力がゼロになるということは、意識主体が物理的肉体から分離したということの
十分な証拠にはならないと思う。 物理的分離がなくても、神経系の感覚入力系がなん
らかの理由で遮断されれば、感覚入力はゼロになるのである。そして、そのようなことは、
人の死のプロセスの最終段階においては、十分起こり得ることなのである。
・・・意識中枢は自己が肉体から分離したと誤って判断してしまう。
==>> ここでは人間の五感からの外部からの刺激が遮断された場合のことを
議論しているわけですが、そのような場合に、脳はどのようにその事態に
対応するのかということかと思います。
過去に読んだ神経生理学の本には、次のようなことが書かれていました。
「意識と脳」を読む -「マトリックス」と「意識の劇場」が主観?
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/10/post-854609.html
「p212
端的に言えば、神経生理学はいまや、意識的な経験の神秘を解明するための突破
口を大きく開いたのだ。 意識的知覚が生じている最中に、個々の画像や概念に
固有なニューロンの活動パターンを、脳のさまざまな箇所で記録できる。
それらの細胞は、現実のものであれ想像上のものであれ、特定のイメージを
被験者が見たときにのみ強く発火する。」
「p224
われわれ神経科学者は、映画「マトリックス」でみごとに描かれていた、哲学者
の空想「培養液のなかの脳」を原理的に信じている。 いかなる日常的な心の
状態も、適切なニューロンを刺激したり沈黙させたりすることで幻覚として
いつでも再現できる。
・・・いまのところ、・・・監督が描くファンタジーの実現にはほど遠い。
何十億ものニューロンをコントロールして、混雑したシカゴの街路や、バハマの
日没に相当する状態を、皮質の表層に正確に描くことは今のところできない。」
・・・これは、脳細胞のひとつひとつ、あるいはニューロンのひとつひとつに
ある概念を記憶して、反応する「小びと」がいるということになります。
つまりは、外部刺激の入力が遮断されても、すでに脳の中にある概念であれば
それを再生することが可能だという話です。
よって、臨死体験の際に、これらが再生されるのではないか。
p128
もはや宗教の域に立ち入ることになってしまう。 ただし私には、ひとつだけ科学的な
挑戦があるように思えてならない。 それはこのユーフォリアをもたらすものはある種の
内因性の「物質」であり、脳内にはそれを一斉に受容するレセプターがあるのではないか
という仮説である。
・・・実は、・・・臨死体験におけるユーフォリアとエンドルフィンという脳内物質の
関連については、すでに臨死研究においていろいろの議論がなされている。
==>> ここにある「ユーフォリア」という言葉は、「なんともいえない幸福感、
陶酔感、恍惚感」のことと説明されています。
臨死体験におけるこの幸福感はどのようなメカニズムで感じられるのかという
ことが興味の対象であるわけです。
そして、脳内物質エンドルフィンが登場します。
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3-166006
「体内性モルヒネ endogenous morphineの略称。大脳内部にありモルヒネに
似た鎮痛などの作用を示す物質で,1975年スコットランドのアバディーンで
心理学者 J.ヒューズと H.コスターリッツによって発見された。その後,数種
のアヘン類似物質が発見され,エンドルフィンと総称されるようになった。」
・・・つまり、この体内性モルヒネが、人の危機的な状況において幸福感を
もたらすような作用をするのではないかという仮説を考えているようです。
p133
臨死体験の恍惚感には、てんかんの発作時の恍惚感と麻薬中毒者の恍惚感に近いものが
あるというのは、実に的確な表現で、現代の研究においても、実際それは感覚の質に
おいてそういうものなのではないかという説があるのである。
・・・どうも、臨死体験でおきる脳の低酸素状態が、脳内におけるエンドルフィン生産量
を増加させるらしいということに気が付くのである。
==>> エンドルフィンという内因性モルヒネの作用については、このような本を読み
ました。
R・ダグラス・フィールズ著「もうひとつの脳」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/12/post-5d73aa.html
「p334
強い痛みやストレスを感じているときには、エンドルフィンが血液中に溢れだし
ている。 だからこそ、戦闘のストレス下にある最中は、兵士は銃創を負った
ことにも気づかないでいられるのだ。 出産中の女性も、体内で自然にエンドル
フィンが合成される。 この「内因性」(「体内で作られた」の意)モルヒネ
によって、女性は出産の痛みに耐えられる。
・・・・カイロプラスチック施術師による強い圧迫、鍼治療における神経刺激、
さらには砂糖錠による偽薬効果も、体にエンドルフィンを放出させることで
効きめを示す。」
次回は、「第四章 「快感」の構造」に入ります。
=== 次回その3 に続きます ===
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