立花隆著「臨死体験」を読む ― 1 どんな経典よりも「死」への恐怖を消してくれる本?

立花隆著「臨死体験」を読む ― 1 どんな経典よりも「死」への恐怖を消してくれる本? 

 

立花隆著「臨死体験(上)」を読んでいます。

 


 

 

分厚い本で、それも上下巻となっていたので、びびってしまって最初は上巻のみを買って

読んでいたのですが、これは下巻も読まなくちゃと思ってすぐに購入し、どんどん読め

ました。

 

読後感を一言で先に言ってしまえば、「どんな仏教関係の経典よりも人々が抱いている

死への恐怖を取り除いてくれる」本だと思います。

 

今までに、いろんな仏教関係の経典に関する入門書などを読んできたのですが、

死に関する体験とされるものの具体的な事例を数多く調べて、つぶさに書き記している

この本を読むと、どの経典の内容から受ける印象よりも、「死」に対する恐怖感を

取り除いてくれると感じました。

その意味でこの本は大変お薦めです。

 

もちろん、立花隆さんの調査能力と論理的な話の進め方には、驚嘆しながらも、確かに

そうだよなという納得感が持てました。

 

では、今回もなが~~い感想文になりそうですが、お付き合いください。

もっとも、この本を買って読む方が手っ取り早いと思いますけどね。

 

======

 

p018

 

「建物の中にはベッドがいっぱいならんでいて、そこには赤ちゃんがズラッと寝てる

です。 そのまわりに赤ちゃんの子守をしている女の人が三、四人くらいいて、その一人

が、「あなたはここから出ていった人なんだから、ここに戻ってきてはいけない」という

んです。 それで建物から出ると、またいきなりドーンと現世に戻ってしまうんです。」

 

==>> これは臨死体験をした人の証言なんですが、ここには「女の人の言葉から

     判断すると、それは生まれる前の赤ちゃんと思われる」と筆者の説明が

     書いてあります。

     つまり、臨死体験をした人が、生まれる前の赤ちゃんの世界にも迷い込んだ

     という話です。 生きている人の「この世」と、死者の「あの世」の他に、

生まれる前の「その世」?なるものがあるような体験ですね。

 

     ところで、この感想文には膨大な数の経験談が書いてあるので、それを

     いちいちここに書くことはできませんが、著者の論理の進み方を私が理解する

     上で大事だなとおもう経験談は少し引用したいと思います。

     あくまでも私の頭の中を整理するための感想文ですので、あしからず。

 

 

p020

 

いま臨死体験研究の最も活動的な中心になっているのが、コネチカット大学の二人の

研究室で、国際臨死研究協会(IANDSInternational Association of Near-Death Studies

の事務局もここにおかれている。

 

・・・ここには、数千例にも及ぶ臨死体験者の体験記録が各地の研究者から寄託されて

保管されている。

 

==>> あとから、このような研究の難しさについては、話が出て来ますが、

     いわゆる「いかがわしい」研究と思われがちな中で、このような研究が

     真面目にされているのは、さすがにアメリカだなと感じます。

     最近のAIなどの最先端のコンピューター技術に関連して、「心」は

     コンピューターで作れるという考え方もある一方で、このようないわば

     「霊的」な事象に関する研究もおこなわれているのが素晴らしい。

 

p020

 

松谷さんは、童話を書くかたわら、現代の民話を収集するという仕事を、ここ十数年

にわたって、「日本民話の会」に人々とともにつづけている。 その成果は、「現代民話

考」全八巻・・に結実しているが、その第五巻が「あの世へ行った話・死の話・生まれ

かわり」で、その中には約260例の臨死体験談ないしそれに近いものが、聞き書き、

アンケート、文献資料引用などの形でおさめられている。

・・・体験のケースの多さではこれがいちばんである。

 

==>> この「臨死体験」の本の中には、世界中の体験事例が書かれていますが、

     日本人の体験例もかなり出て来ますので、海外と日本での体験例の違いに

     ついても知ることが出来ます。

     結論的にいえば、日本人は割と仏教的だがあまり意識はされていない、一方

     欧米ではかなりキリスト教的であるようです。

 

 

p033

 

当時の社会の上層部にいたエリートたちが源信を中心に集まって、二十五三昧衆という

念仏結社を作るわけです。死ぬとき、みな無事に極楽往生できるよう、お互いに助け

あおうという結社なんです。

 

p034

 

死に行く者の耳に口をつけて、「いま何が見える?」と聞くことになっていました。

聞かれた者は正直にそれに答える。 それを克明に記録したんですね。 それが

「二十五三昧根本結縁衆過去帳」という文献にのこっているんです。

 

・・・・光明に包まれて阿弥陀仏がやってくるのを本当に見る人もいる。 みんな

阿弥陀仏を見られればいいんですが、必ずしもそうではないんです。「何も見えない。

真っ暗だ。」といった人もいる。 あるいは、・・・・体が火で焼き尽くされそうだといった

人もいる。

 

==>> 「二十五三昧根本結縁衆過去帳」についてはインターネット検索には

     ほとんど引っかかってきませんが、その内容にまで及ぶセミナーのような

     ものはこちらにちょっとだけありました。

    「往生の語り〜『楞厳院二十五三昧会結衆過去帳』に見られる臨終と夢〜」

https://ryogan.org/blog/2020/03/17/%E3%80%8C%E5%BE%80%E7%94%9F%E3%81%AE%E8%AA%9E%E3%82%8A%E3%80%9C%E3%80%8E%E6%A5%9E%E5%8E%B3%E9%99%A2%E4%BA%8C%E5%8D%81%E4%BA%94%E4%B8%89%E6%98%A7%E4%BC%9A%E7%B5%90%E8%A1%86%E9%81%8E%E5%8E%BB%E5%B8%B3/

     「具体的に『楞厳院二十五三昧会結衆過去帳』をテキストとして取り上げられ、

そこに見られる「臨終と夢」の記述をご紹介くださいました。このテキストは

源信僧都が中心的な役割を果たした念仏結社「二十五三昧会」の『過去帳』で、

そこにはそのメンバーの伝記がいくつか記されています。それらの記述は、単に

歴史上の人物の伝記にとどまらず、「往生の語り」として「いかに生きるべきか」

という問いを私たちに具体的に投げかけてくれているという点に注目すべきで

あることをご指摘いただきました。」

 

 

p047

 

「日本霊異記」には、他にも六つばかり臨死体験例が記されている。 この他、平安時代

「今昔物語」、「日本往生極楽記」、鎌倉時代の「宇治拾遺物語」にも臨死体験が沢山

出てきますよとベッカーさんに教えられて、それらの文献のページを繰ってみると、

なるほどその通りだった。

 

==>> ここに挙げられている本については、今までに読んだ本の中に、仏教説話として

     紹介されていたので、ちょこちょこと読んでいます。

     いくつか読んだのですが、これこそが臨死体験の例だというものは記憶には

     ありませんが、探してみます。

 

     この「臨死体験」の本の中で立花さんが紹介しているのは、宇治拾遺物語からの

     一例ですが、法師が死んだので棺に入れて放っておいたら生き返ったという話

     です。 

 

p048

 

西欧の古典にも、臨死体験は出てくる。 中でも有名なのは、プラトンの国家篇である。

 

・・・勇敢なる戦士であった。・・・エルは戦争で最期をとげた。 ・・・その屍体は

家まで運んで戻された。 そして、死んでから十二日目に・・・野辺送りの火の薪の

上に横たえたとき、エルは生き返った。そして、あの世で見て来たというさまざまの

事柄を語ったのである。

 

p050

 

一口にいうと、 それは輪廻転生の世界である。 ・・・死んで魂が天に上がってくると、

生きている間にどのような生活を送ってきたかによって天国あるいは地獄での賞罰を受

ける。 ・・・再び地上に戻らなければならない。 そのときがくると、運命を導く

ダイモーン(神霊)の前でクジを引き、・・運命を選択する。

 

p051

 

もっともこのような古典にあらわれた臨死体験の記録をそのまま事実と受け取るのは

誤りだろう。 ・・・・作者が事実に適当に手を加えているのが常である

 

==>> 西欧の古典に輪廻転生が書かれているというのがちょっと驚きました。

     キリスト教的には少なくとも聖書には書かれていないそうです。

     https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-reincarnation.html

     「輪廻転生という概念は聖書では全く教えられておらず、聖書には私たちが

一度死に、裁きを受ける事が定められていると書いてあります(ヘブル9:27)

聖書には人々が二度地上生涯を送るチャンスを与えられたり、違う人物や動物

に生まれ変わるなどとは書いてありません。

・・・輪廻転生の信仰は古代からあり、ヒンズー教、シク教やジャイナ教など、

インドの宗教の教えの中心とされてきました。現代多くの不信者達やニュー

エイジの人々やスピリティズムを信じている人々も輪廻転生を信じています。

しかしながら、キリスト者は輪廻転生が聖書的ではなく、拒むべき教えである

ことを知っています。」

 

ちょっと気になったので、輪廻思想の起源がどこなのかを検索してみたの

ですが、西欧ではなくインドのバラモン教あたりに起源があるような記事しか

見つかりません。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB

「ヒンドゥー教の前身であるバラモン教(: Brahmanism)、すなわちヴェーダ

の宗教(: Vaidika)において、はじめて断片的な輪廻思想があらわれたのは、

ヴェーダの宗教最終期のブラーフマナ文献ないし最初期のウパニシャッド文献

においてである。」

 

・・・なぜ西欧の古典に輪廻みたいなことが書かれているのか不思議です。

もしかしたら、インドのバラモン教以前に、元祖輪廻みたいなのが西欧にも

あったのかもしれないですね。

 

     ちなみに、プラトンは紀元前427-347年の人ですが、バラモン教

     ついてはwikipediaには「紀元前13世紀頃、アーリア人がインドに侵入し、

先住民族であるドラヴィダ人を支配する過程でバラモン教が形作られたと

される。」と書いてありますので、やっぱり、インドから西欧に流れて行った

と考える方が自然ですかね。

 

p057

 

しかしユングは、これをアポロ以前どころか、ガガーリン以前に書いているのである。

ガガーリンが宇宙から地球を見て、「地球は青かった」というまでは、誰も宇宙から地球

を見ると青く見えるなどということは知らなかったのである。 しかも、ユングは、

ガガーリンが見た位置(181-327キロ)よりはるかに高いところから見た地球の

姿を正しく描写しているのである。

 

==>> ここで語られているユングというのは、皆さんごぞんじの、精神医学の巨人

     とされる C.G.ユングのことで、ユング自身が臨死体験をした

     本人の自伝に詳細に書かれているそうです。

     そのユングが書いた内容については、こちらのサイトでも紹介されています

     のでご覧ください。

     ただし、私自身は立花隆さんが「科学万能主義による視野狭窄を露呈/立花隆」

     だとは全く思っていませんし、逆に非常に肯定的にみております。

     https://sessendo.hatenablog.com/entry/20011115/p1

 

p060

 

人は死ぬとき、この世に属する一切のものを捨てていく。 それと同じことが、臨死体験

でも起こる。 捨てられて消えていくのは物質的存在だけではない。 この世に属する

思いの一切が捨てられ、欲望や我執の一切が、希望さえ含んで消えていく。全てを捨てて

捨てていったとき、最後の最後にギリギリ残るものは何なのか。 それこそが私、と

いえるものは何なのか。それは私のまわりで起きたできごとの総体であり、私自身の歴史

であり、私の成就したものの総体であるとユングはいう。

 

・・・体験者に話を聞いていくと、臨死体験によって世界観が全く変わったという人や、

認識の新しい地平が切り開かれたという人がかなりいるのである。

 

==>> 私は、高校卒業後、東京のビジネス英語専門学校に通ったのですが、その間

     新聞販売店に住み込んで配達をしていました。 その頃の私は、特に雨の日に

     重いレインコートを着て、視界が普段よりも狭くなっていた時に、この世と

     いうのは自分の目を覗き窓にして世界を覗いているようなものだと感じて

     いました。 

     その意味で、上記のユングの言は、なんとなく理解できます。

 

     そして、小学生低学年だった頃、坂道の上にある友だちの家の庭で、庭を囲んだ

     塀の上を平均台のように歩いて2~3人で遊んでいて、そこから落ち、その下の

階段をごろごろと転げて、意識不明になり、医者から「ご臨終です」と引導を

渡された経験があります。

 

 


ここがその現場です。

右上の塀の上から、左下の階段に落ちて転がったのを
友人が見ていた。
(当時は左の家の階段の上のひさしはありませんでした)

私は意識不明のまま、自分で歩いて家に戻ったそうです。
一部始終を見ていた友人が、私の家族にそれを知らせて
くれて私の様子がおかしいことに気づき、医者を呼んだ
らしい。

 



     しかし、残念ながら臨死体験はありませんでした

     どうもそれ以来、かどうかは分かりませんが、私には一般的な人の情というのが

     失われてしまったんじゃないかと感じることがあるんです。

 

     具体的な例としては、特に孫が可愛いとかいうお爺ちゃんが多い中で、明らかに

     そのような情が感じられないのです。(自分は変だという意識はあります)

     自分の子供に対してもそうでした。おそらく親としての責任感の方が勝って

いたということなんでしょうが、それにしても、子どもというのはサルみたいな

     もので面白くないと思っていたのです。一人前の大人になってこそ人間だと

     いう感じです。 人間でなければ面白くないという意味です。

 

     ちなみに、私は小さい頃から、暑さ寒さなどに対する感度が鈍く、よく一回り

     以上上の姉から「それじゃ風邪ひくよ」とか「なんでこの暑いのにそんな恰好

     してるの」などと言われながら、着せ替えをしてもらっていたものです。

 

     あの時に塀から落ちて一旦死んでしまった時に、私から「情」や「感度」が失わ

れたのだ、と自己弁護をすることにしています。

高校生の頃に座右の銘としたのは、「慌つるな」と「耳を澄ませて生きていこう」

という言葉でした。

「心」が「荒れる」と宜しくないですからね。

 

 

次回は「第二章 至福の光景」を読んでいきます。

 

 

 

=== 次回その2 に続きます ===

 立花隆著「臨死体験」を読む ― 2 延暦寺や高野山の修行者は死に方のマニュアルをもっていた。 脳内麻薬の恍惚感か? (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

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