馬場紀寿著「初期仏教―ブッダの思想をたどる」を読む ― 5 空の思想の芽があった。霊魂を認める宗派はどこ?
馬場紀寿著「初期仏教―ブッダの思想をたどる」を読む ― 5 空の思想の芽があった。霊魂を認める宗派はどこ?
今回は馬場紀寿著「初期仏教―ブッダの思想をたどる」を読んでいます。
「第四章 贈与と自律」続き
p132
しかし、八人目・・・の転輪王のとき、世界に混乱が生じ始めた。
・・・「貧しい者たちに財を与える」という転輪王の務めを果たさなかったために、
人々の間に盗みが始まり・・・・王が盗人を処刑すると、人々に恐怖が広がり、武器をとる
ようになった。
p135
「転輪王経」が理想的為政者の条件として挙げているのは、すぐれた教養ある者からの
助言にもとづき正しい法による統治を行なうこと、貧しい者の生活保障をすることである。
経典の冒頭に、自己と教えを「拠り所」とするようブッダが教えるのも、善行を実践する
ためには自己に立脚することが必要だからである。 これは地縁血縁の共同体の秩序に
従うのではなく、善悪の結果を自分自身が引き受けることになると考えて、意思を正し、
言動を正していく自業自得の行為論に裏付けられる。
==>> ここでは「理想的為政者象」という文脈での話になっています。
「貧しい者の生活保障」という言葉は、今現在のコロナ禍では、正に2千年
以上も昔のインドでも日本でも同じと言うべきことでしょう。
p136
この転輪王という為政者の理想像は、仏教を通してインドから内陸アジア、東南アジア、
東アジアへ伝えられた。・・・・・日本でも、徳川家康を祀る日光の寺院が勅許により
輪王寺(転輪王の寺)と名づけられたのは、その一例である。
==>> 日光の輪王寺については、こちらで:
「日光山は天平神護二年(766年)に勝道上人(しょうどうしょうにん)により
開山されました。以来、平安時代には空海、円仁ら高僧の来山伝説が伝えられ、
鎌倉時代には源頼朝公の寄進などが行われ、関東の一大霊場として栄えました。
江戸時代になると家康公の東照宮や、三代将軍家光公の大猷院廟が建立され、
日光山の大本堂である三仏堂と共にその威容を今に伝えております。」
転輪王はこちら:
https://kotobank.jp/word/%E8%BB%A2%E8%BC%AA%E7%8E%8B-579112
「古代インドの伝記上の理想的帝王のこと。単に転輪王または輪王ともいう。
この王が世に現れるときには天の車輪が出現し,王はその先導のもとに武力を
用いずに全世界を平定するとされるところから,この名がある。」
p137
仏教の行為論の特徴は、「個の自律」にある。 欲望に駆られて他者を害する限り、それは
他律的な生き方である。 欲望に振り回されずに、自らが自らを律してこそ、正しい意思
による正しい行為が実現する。
・・・逆に言えば、確固とした倫理規範のない世俗的な社会が平和に保たれるのは、高度な
監視技術と警察機構があるからであって、・・・・監視社会ではない世界を創ろうとする
なら、個の自律は不可欠の条件となる。
==>> 世界の一部の国では、「監視社会」とも見えることが現実のものになっています。
その意味では、このブッダが説く「個の自律」に基づく倫理というものが
今後の世界のひとつの選択肢ということになるのかもしれません。
それは、ユヴァル・ノア・ハラリ著「ホモ・デウス」でも強調されている
近い将来の政治体制の選択ということも思い出させます。
p138
為政者が貧しい者の生活保障を怠れば、平和は乱され、人々が殺し合う「武器の時代」
を迎えるだろう。 ・・・個の自律が実現してはじめて、理想的為政者が再び現れ、
彼の下に諸国が自発的に統合して、世界が一つになる。
==>> これは、今の世界の動きをみていると、「武器の時代」に突入しているように
しかみえません。統合どころか逆の方向に向かっているように思います。
監視社会を選ぶのか、はたまた民主主義の中での混乱を乗り越えることを
選ぶのか、現実の社会を生きている者としては難しい選択だと思います。
「第五章 苦と渇望の知」
p142
初期仏教思想の根幹にある「四聖諦」「縁起」「五蘊」「六処」に共通するのは、我々は
どこから来て、どこへ行くのかという、「生存」をめぐる問題である。
我々の生はどのように成り立っているのかという点では、「渇望」によって生存が作り
上げられる過程を示す。 また、我々の生はどうなるのかという点では、作り上げられた
生に確かな根拠は何もなく、生存がつねに危うい状態(苦)にあることを示す。
p146
四聖諦と五支縁起はともに、「渇望」こそが苦のはじまりであるという因果関係を示して
いる点で、同じ内容を有しているのである。
p149
要するに、十二支縁起は、五支縁起を核としつつ、その原因を遡って説明していくに当た
って、「五蘊」と「六処」を体系的に位置づけることで成り立っている。
==>> この辺りでは、仏教用語がたくさんでてきまして、それぞれの解説がされて
います。上記の抜き書きはそのポイントとなる部分ではないかと私が
思った文章です。
p150
仏教は、神々や人間や動物などの生まれ死ぬ個体を指す場合、「存在」という表現を
使う。漢訳でいう「衆生」「有情」である。 仏教では、個体存在に輪廻する主体としての
「自己」を認めない。 個体存在は、諸認識器官の束=「六処」として、また身体と
諸能力の合奏=「五蘊」として理解されるのである。
==>> ここは非常に哲学的な表現かと思います。そして、既に読んだ本の中に、
慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授が書いた
下のようなコンピューターで心をつくれるかという本がありました。
前野隆司著 「脳はなぜ「心」を作ったのか」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/09/blog-post_97.html
「p42
しかし、脳内のたくさんの小びとたちが行う「知」「情」「意」の処理に「注意」
というサーチライトを当てるためには、「意識」は、たくさんの小びとたち
すべてが何をやっているのかをトップダウンに把握している万能かつ巨大な
システムでなければならない。だから、「私」が脳の中の一部分に局在するとは
考えにくい。
この問題を、脳のバインディング問題、という。 バインディングとは、結び
付けること、という意味だ。
p43
そもそも「意識」が主体的に小びとたちの仕事を結びつける、と考えること自体
が間違っていると思う。」
・・・この心の機能をシステム的に考えるという捉え方が、上記の仏教の
考え方にかなり似ているのではないかと、私には思えるのです。
特に「個体存在に輪廻する主体としての「自己」を認めない。」という部分が
「「私」が脳の中の一部分に局在するとは考えにくい。」という主張と同じでは
ないかと思えるのです。
p153
これは、現代人の感覚からしても、うなずけるところであろう。 日常世界のみならず、
たとえ今日の最先端の宇宙物理学であっても、宇宙についてのデータは人間の知覚を通さ
なければ得られないはずである。 その意味で、人間は十二処を離れて世界を認識すること
などできない。 仏典は、十二処を「一切」と呼び、それを離れて、別の「一切」を
説くならば、それは根拠の無い言葉だと説く。
・・・神のような超越的存在を説くことは、仏教にとって無根拠な言説なのである。
==>> ある意味において、仏教は唯物論的だと言われるのは、このような部分
なのでしょうか。
そうでなくても、かなり科学的なアプローチであるように思います。
p154
このような理解に立って、仏典はさらに、個々の認識器官が永遠ではなく(無常)、
思い通りにならず(苦)、自己ではない(非我)と説く。
==>> 人体を構成している細胞ひとつひとつの寿命が、部位によっては
驚くほど短い時間で新しい細胞に生まれ変っていることを思えば、それだけで
無常ということが理解できるように思います。
「ヒトの体の細胞数は30兆 そのうち毎日入れ替わる数は?」
https://lifescience-paper.com/20210114-human-cell-turnover/
「この結果、チームはヒト細胞のターンオーバー・レートを3300億個/日と
算出しました。すなわち、体内の全細胞の1.1%に相当する3300億個が毎日
死んでは新しい細胞に入れ替わる計算になる、ということです。入れ替わる細胞
の大半(86%)は血液細胞で、12%は腸など消化管細胞であるとしています」
「本研究の細胞数ベースで日々1%強が入れ替わるとのデータに基づいて、
ヒトの体は100日弱ですべて入れ替わる、というふうに書くものも出てくる
でしょうし、実際そういう考えもあながち間違いではないと思います。」
・・・つまり、人の認識器官を構成する細胞は、このように物凄いスピードで
入れ替わっていると思えば、その認識能力も自ずから変化していると考えた
ほうがいいのかもしれません。
何年か前の自分と今の自分は他人である・・・ってことでしょうか?
p155
バーリ語やサンスクリット語などのインド・アーリヤ語において、「AはBについて空
である」という表現は、「AにBがない」「AはBを欠く」という意味である。
つまり、ここでは、各認識器官は自己ではなく、自らのものでもないと言っているので
ある。 これが、後に大乗仏教で発展する「空の思想」の原初の形である。
==>> 原始仏教あるいは初期仏教において、そもそも「空」の思想があったのかと
いう点については、私も少し疑問に思っていましたが、大乗仏教で「空」の
思想が発展する前の時代からその萌芽となるものがあったことを書いている
のはこれが初めてかなと思います。
p158
ふだん、「これは私である」「これは私の身体である」と考えているものは、よく吟味して
みると、身体であれ、個々の能力であれ、思うがままにならない。 思い通りにならない
ものを「自己」と呼んでよいのか。
==>> これに関して、ブッダは、もし身体が自己であるのなら、「私の姿はこのようで
あれ」とか「私の姿はこのようであるな」と言うことができるであろう、と
説いたと「律蔵」に書いてあるそうです。
それが自分の意思でどうにもならないものを自己とは呼べないということだ
そうです。
つまり、自分の身体というのは、生まれた時から当てがわれた自動車みたいな
もので、自分の意思とは関係なく、故障したり、壊れたり、自分の理想とする
形でも性能でもないから、常にメンテナンスや改良をやらなきゃしょうがないということになりそうです。
p161
「誕生」「老い」「病」「死」を「四苦」と言う。
世界で最も弱い者(赤子)として生まれ、病に倒れ、老いさらばえて死んでいくことは、
生存に必然的結果である(古代の新生児死亡率も病気感染率お、現代よりはるかに
高かった)。 生存には、当初から、そして常に、危うさがともなっているのである。
==>> ここで取り上げられている新生児死亡率に関連して、「乳児死亡率」の
データがこちらにありました。
「乳児死亡の動き Infant mortality」
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/singi/toukei/report/25followup/25followup_5p.pdf
1947年から2012年のデータですから、大昔の数字は分かりませんが、
この短い期間だけでも、ここに取り上げられている日本を含む9カ国の
比較グラフをみると、大雑把に言って、平均すると千人あたりおおよそ
60人の乳児死亡があったものが、概ね10分の1の6~7名になって
いることが読み取れます。
ちなみに、明治時代の数字をこちらで見ると、
https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2021/04/07/111505#151
「約15%は生後1年以内に死んでいた
いきなり統計の話からはじめます。我が国では明治32年(1899年)から現在の
形での人口動態調査が行われています。戦時中の2年間を除き、比較的きちんと
したデータが残っておりますので、まずはここから見ていきましょう。
統計がはじまった初年度の乳児(生後1年未満)死亡率は
【1000人あたり153.8(約15%)】でした。
生まれてきた赤ちゃんの10人に約1.5人(約15%)は、1年以内に死んでいるということです。天然痘やインフルエンザ、はしか、おたふくなど、今もある
病気に対して、当時の乳幼児は無力で呆気なく死んでしまいます。」
そして、さらに遡って江戸時代はどうかといえば:
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jps/24/0/24_KJ00009383846/_article/-char/ja/
「17世紀後半から19世紀前半にいたる200年間の乳幼児死亡率を求めると,それぞれ乳児死亡率は,193.2パーミル,幼児死亡率は229.6パーミルである。両者ともに,18世紀後半から上昇しはじめ19世紀半ばには対象とする期間のなかでもっとも高くなった。」
(パーミルというのは千人当たりの数字です)
従って、江戸時代から 約200人―約150人―約60人―約6人と
乳児死亡率が改善していることが見て取れそうです。
(大雑把でスミマセン)
これらは、生活環境の改善や医学の進歩によってもたらされてきたと考える
のが普通かなと思います。
現代は、高齢化に伴って古代とは少し異なる苦があるようにも思えますが・・・・
p164
・・・仏教でも、身体(色)は、アジタ・ケーサカンバリンが挙げたのと同じ四大元素
から成ると定義された。 アリストテレスに代表される、古代ギリシアの四大元素説
(火・空気・水・土)にも通じるこの言説に、仏教が唯物論と共有していた時代の空気
がうかがえる。
このような思想は、アートマンという真の自己を措定するバラモン教と決定的に異なる。
バラモン教では、自己があるからこそ、自己に帰属する所有物があり、また、天界に
おける自己の再生を目指して祭式を執り行うのである。
p164
バラモン教やジャイナ教が輪廻の主体として自己を解脱論の核に据えるのに対し、仏教
はあくまで生存を諸認識器官の束、身体と諸能力の合奏としてとらえる。 輪廻の主体を
立てないという点で、仏教は、バラモン教やジャイナ教と根本的に異なっている。
==>> 唯物論との関係については その1のp17のところで述べられていました。
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/10/blog-post_30.html
では、上記の「輪廻」に関して、仏教ではどのようなことになっているのか、
Wikipediaにはこう書いてありました。
(URLが長すぎるので、wikipedia 輪廻 で検索してください)
「仏教における輪廻とは、単なる物質には存在しない、認識という働きの移転である。心とは認識のエネルギーの連続に、仮に名付けたものであり、自我とは
そこから生じる錯覚にすぎないため、輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は
否定される。輪廻のプロセスは、生命の死後に認識のエネルギーが消滅したあと、
別の場所において新たに類似のエネルギーが生まれる、というものである。
このことは科学のエネルギー保存の法則にたとえて説明される場合がある。」
・・・ここで「霊魂は否定される」と書いてあるのが目を引きます。
現代の日本仏教においては、私の誤解かもしれませんが、一般には霊魂と
いうものがあって、天国や地獄などがあって輪廻するという理解かなと思い
ます。もちろん、信じているかどうかは別としての話です。
そして「ご冥福を祈ります」とか「ご霊前」とか「霊を迎える」とかいうことが
特定の宗派に関心がない一般の人たちが漠然と思っていることかなと、私自身
も思ってきました。
そこで、日本仏教は「霊魂」の存在を認めているのかどうかを、検索して
みたら、こちらに公式見解なるものがありました。
7つの仏教法人に送った質問状「霊魂は存在すると考えるか?」
https://president.jp/articles/-/48783?page=3
「浄土宗の場合は宗門として霊魂の存在を明確には認めていない。臨済宗や
曹洞宗などの禅宗系も、浄土宗のスタンスと似ている。それでも浄土宗の場合は
まだ、霊魂の捉え方に関して寛容なほうだ。
浄土真宗に至っては、霊魂そのものの存在を否定している。
他方、真言宗や天台宗、日蓮宗は明確に霊魂の存在を認めている。それらの宗派に属する僧侶は躊躇なく、鎮魂、除霊、加持祈祷といった作法を行う。」
・・・このように、宗派によってまちまちです。
真言宗と天台宗については、ヒンドゥー教に近いとされる密教がありますから、
霊魂を認めるというのはある意味自然なことのように思えます。
おそらく、輪廻についても、霊魂を認めるかどうかで異なってくるものなの
でしょう。
2012年にこんな本を読んだんです。
島田裕巳著 「浄土真宗は なぜ日本でいちばん 多いのか」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/05/post-b909.html
「「他の宗派では僧侶の資格を得るために長期にわたる修行を必要とするが、
本願寺ではそれがない。 僧侶と一般の門徒のあいだに基本的な差がないわ
けで、門徒は僧侶に対しても対等の立場から発言する。
そこには 既に述べた 衆議の伝統も生かされている。」
「本願寺には 神祇不拝の伝統があり、神棚を祀ったり、神社に参拝することを
拒否したりする。 また、霊が実在しないという立場をとり、葬儀の際の
清めの塩を否定する。 ただし、門徒には地方の保守的な階層に属する
人間が多く、そうした方針が必ずしも徹底されているわけではない。」
・・・これを読み直してみると、一番キリスト教に近いといわれている
阿弥陀一神教みたいな浄土真宗が、初期仏教に近いなと見えたりします。
=== 次回その6 に続きます ===
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