馬場紀寿著「初期仏教―ブッダの思想をたどる」を読む ― 6(完) 仏教は唯物論? 五蘊と六処とが「渇望」を起こす。 年金は現役世代からのお布施?
馬場紀寿著「初期仏教―ブッダの思想をたどる」を読む ― 6(完) 仏教は唯物論? 五蘊と六処とが「渇望」を起こす。 年金は現役世代からのお布施?
今回は馬場紀寿著「初期仏教―ブッダの思想をたどる」を読んでいます。
「第五章 苦と渇望の知」の続き
p167
それでは、「渇望」とは何を欲することなのか。 四聖諦や縁起の説明において、三種
挙げられている・・・・。
==>> ここで挙げられている三つの「渇望」は、短く言うと以下のようなことです。
「快楽への渇望」は性的衝動に代表される欲望。
「生存への渇望」は生存そのものへの渇望であり死後の再生を含む。
「無生存への渇望」とは、死によって全て消えることへの渇望。
この三つ目はフロイトが「死の欲動」と言ったものに似ているとしています。
〈死の衝動〉ないし〈死の欲動〉
https://kotobank.jp/word/%E6%AD%BB%E3%81%AE%E6%9C%AC%E8%83%BD-1172128
「〈死の本能〉は,フロイトがその最後の本能論において,〈生の本能(生の衝動,
生の欲動)〉と対立させて提唱した概念である。」
「生物は無生物から生じ,かつては無生物であったのだから,すべての生物には,
かつての無生物の状態,すなわち死へと向かう基本的傾向があるというもの」
p168
四聖諦でも縁起でも、渇望こそが生存の原因であって、渇望なくして生存は起こらない。
仏教は、繰り返される生存の原因として渇望を発見したのである。
・・・初期仏教が説く、「渇望がある限り、さらに生存が作られる」という因果関係は、
現代の感覚では理解困難かもしれない。 しかし、古代インド社会の文脈においてみると、
現実的な生活感覚に根ざした思想として聞こえてくる。
p170
古代インドでは、人々が死後に天界へ再生することを願って祭式を行なっていたのだから、
欲望が生存を作るという因果論は、頭のなかにある妄想ではなく、現実を動かしていた
思想だったのである。
死後に天界へ再生しようとする渇望の存在を、仏教は認めた。 再生へ向かって渇望が
駆動するという生存のあり方を、批判的に明らかにした点で、仏教は唯物論とたもとを
分かったのである。
==>> 確かに「現代の感覚では理解困難」だと思います。
今現在生存していて、祭式を通じて展開へ再生しようという渇望は分るの
ですが、死んだあとに、というより生まれる前の段階で、どんな渇望が
あるというのかが分かりません。
p173
「主体としての自己の不在」と「諸要素としての自己の再生産」という生存の両形態を
明らかにすることで、仏教は古代インド社会にそれまでなかった新たな思想を打ち出した。
それは、唯物論と同様に輪廻の主体を認めず、輪廻の主体を措定するバラモン教や
ジャイナ教と一線を画している。 他方、バラモン教やジャイナ教と同様、欲望が再生
をもたらす過程を示して、たんに主体を否定する唯物論を斥けている。
p174
十二支縁起を説く仏典では、「存在する」と「存在しない」の両方を斥ける。「一切が
存在する(有)という見方はひとつの極端であり、「一切が存在しない」(無)という見方は
もうひとつの極端であって、その両方を斥ける「中」による教えが十二支縁起だとも
説く。 これを「非有非無の中道」と呼ぶ。
==>> ここで分からないのは、「主体としての自己の不在」といいうのは、既に書いた
「霊魂」は無いということだと思うんですが、では、「諸要素としての自己」
というものに「渇望」なるものがあるのかという点です。
つまり、変な話ですが、諸要素である物質に「渇望」と呼べる意識のような
ものがあるのかってことです。
過去に読んだ本の中には、素粒子レベルで意識があるということを書いている
本もあったもんで・・・・
その内容を短く説明してあるサイトを見つけました。
ペンローズの理論
https://www.i-ise.com/jp/column/kyuukonu/2015/10.html
「意識とか思考といった活動がどういう仕組みでなされるのか。多くの神経生物
学者の仮説は、意識を生じさせる因子は分子レベルではなく、ひとつの細胞
もしくは複数の細胞における神経伝達物質の放出や活動電位の発生といった
神経レベルで存在している、とされている。
これに対してペンローズの理論では、意識はニューロンを単位として生じて
くるのではなく、微小管と呼ばれる、量子過程が起こりやすい構造から生じると
いう。微小管とは、すべての細胞が持つ、タンパク質からなる直径約
25
ナノメートル の管状の構造をした細胞骨格である。そしてまた難しいのだが、
脳内の神経細胞にある微小管で、波動関数が収縮すると、意識の元となる基本的
で単純な未知の属性も同時に組み合わさり、生物の高レベルな意識が生起する、
というのである。」
「ペンローズは臨死体験との関連性について次のように推測している。「脳で生
まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・
時間にとわれない性質を持つため、通常は脳に納まっているが、体験者の心臓が
止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合、意識は脳
に戻り、体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続けるか、あるいは別の
生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない。」」
私が読んだ本の中では、このような記述がありました:
ベンローズ著「心は量子で語れるか」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2020/09/post-871d9d.html
「p234
単独のニューロン中の微小管は絡み合った状態にあると考えられ、最終的には、
多数のニューロンが絡み合った状態にあると推定されるのである。大規模な
“絡み合い”が必要とされるのは、次の理由による。
「脳全体の広範な領域に広がる何らかの量子的干渉の形態が存在するときに
のみ、単独の精神というまとまりが生じうる」。
ペンローズは超伝導(特に高温超伝導)や超流動現象を考慮しており、さらに
大規模な絡み合いが体温下にある生体内で起こりうるというフレーリッヒの
計算を引き合いに出して、自分の提案が妥当だと主張している。」
「第六章 再生なき生を生きる」
p179
人間は、遺伝子の自己複製によって種を増殖する生物学的生存であるにとどまらず、言語
によって秩序を形成する社会的存在でもある。 ・・・人間は自らがつくりだした
秩序の下で自然や生命、さらには人間自身を作り変えてきた。
・・・家畜や栽培植物はもはや野生の動植物ではなく、人間の手によって取捨されることで
徐々に遺伝子の組み換えが進んだ。 今からおよそ一万年前のことである。
p180
ここで起こっていることは、動植物にせよ、人間にせよ、たんなる自然のサイクルでは
ない。 人間による動物の家畜化と植物栽培をかりに「動植物の再生産」だと呼ぶと
すれば、社会的役割分担に沿って人間を生み育てることは、「人間の再生産」と呼ぶ
ことができよう。
・・・それと連動して、「自己の再生産」が始まる。
・・・時間意識と・・・空間意識が共有されるようになると、・・・・未来の生を確実な
ものにしたいという欲求が現在の行動を規定するのである。
・・・未来の自己のために、現在、行動するという新たな行動様式・・・・
==>> 明日の食料を得るために「動植物の再生産」をし、明日の社会を支える
ために「人間の再生産」をし、そのために「自己の再生産」をしている
ということですね。
今の私は、年金生活者ですから、あまり「自己の再生産」をしているとは
思えませんが、少なくとも消費という形での社会との関わりはしている
みたいです。
p183
五蘊説の文脈では、五蘊という五つの要素のいずれにも主体は認められない。 しかし、
五蘊の四番目に挙げられる「諸形成作用」(行)が五蘊(色・受・想・行・識)をそれぞれ
「作り上げる」と説く。 つまり、主体はないが、諸要素としての自己を「作り上げる」
作用の存在は認められているのである。
十二支縁起の文脈では、「無知」(無明)を第一原因として、「諸形成作用」を含む五蘊と
六処とが「渇望」を起こして、繰り返し「生存」を生み出す。
==>> おお、やっと出てきました。
何が「「渇望」を起こして「生存」を生み出すのか。
そうですか、それは「無知」が原因で、五蘊と六処が「渇望」するわけ
ですね。・・・ってことは、ますます上記のペンローズさんの仮説が
仏教の考え方と似ている・・・ような気がする・・・と言えそうです。
素粒子レベルに意識があるんじゃないかという話です。
p184
諸形成作用によって、自己の再生産は続く。 仏教が究極的な目的とする「涅槃」とは、
まさにこの「一切の形成作用(ひいては形成されたもの)の静止」を意味する。
・・・自己の再生産を停止した彼岸に渡ることが、涅槃である。
「涅槃」という語は、「消滅する」という意味の語根から派生し、「消滅」を意味する。
火が消える文脈でも用いられることから明白なように、涅槃が暗に前提しているのは、
バラモン教で行われる祭式の祭火に他ならない。 祭火こそ、子孫の繁栄や天界への
再生に対する渇望の象徴であり、・・・
p187
・・・涅槃とは、燃料の供給を停止して、薪を焼く火が消えることである。
言い換えれば、自己の再生産を停止して、執着を伴う五蘊から執着を伴わない五蘊へ
転換することである。 初期仏教において涅槃は、基本的に「現世で」経験するものだ
とされているから、自己の再生産を停止して涅槃に達すれば、再生なき生を生きることに
なる。
==>> おお、涅槃とはそういう意味でしたか。ここに来て、やっと分ったような
気がします。 つまりは、形成する作用そのものを停止するってことの
ようですね。
祭火ということからすぐに連想するのは拝火教(ゾロアスター教)なんですが、
バラモン教との関連が気になりましたので、ちょっとチェック。
https://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=299652
「メソポタミア周辺に定住したアーリア人(イラン・アーリア人)のミトラ信仰
が元になって、原始ミトラ教が作られた。それが分裂してゾロアスター教が生ま
れた。」
「インド・アーリア人は、ミトラ信仰を元に、土着の信仰を取り込んでバラモン
教を作り出し、そこからヒンドゥー教や仏教が生まれた。仏教の「弥勒」の起源
も、ミトラ神。」
「>ヴェーダの宗教(バラモン教)の神々は、アーリア人のインド侵入時に、
彼らの神話に登場する神々と原住民の神々とが融合し発展したのではないかと
みられている。アーリア人の信仰する宗教は、おそらくゾロアスター教の原型の
ようなものでもあり、イランにあってはまさに「ゾロアスター教」の基礎として
確立していったのであろう。」
しかし、それにしても、「現世で」涅槃に達しなかったら天界だか地獄で
再生しちゃうんですよねえ。 間に合いそうにないなあ・・・・
上に「つまり、主体はないが、諸要素としての自己を「作り上げる」作用の存在
は認められているのである。」と書いてあるってことは、主体としての霊魂は
輪廻することはないけど、「諸要素」はバラバラになって輪廻するのかな?
一旦解散した諸要素が、天界だか地獄だかで再集結するのかね?
お釈迦さんは、形而上学は語らなかったそうなので、そんなことはないので
しょうが・・・
P192
ヴェーダのウパニシャド哲学にとっての解脱は、輪廻から主体たるアートマンを解放して、
ブラフマンと一体となることだった。 また、ジャイナ教にとっての解脱とは、輪廻から
主体たるジーヴァを解放することであった。
こうした先行する解脱思想に対し、仏教はその意味をまったく換えている。 解脱とは、
もともとは「再生の連鎖からの真の自己の解放」だったのに対して、仏教では
「快楽・生存・無知からの心の解放」なのである。
ここで興味深いのは、「自己」ではなく、無常な「心」このを文の主語としたことによって、
真の自己が輪廻から解放されるという「自己の再生産」からの解放を指すことになる。
==>> 「自己の再生産」というのが上記P180のような社会的意味におけるもので
あるとするならば、そのような意味での執着を捨てるということなら分かる
ような気がします。
ところで、ウパニシャド哲学の「輪廻から主体たるアートマンを解放して、
ブラフマンと一体となる」という表現は、真言密教の大日如来と一体化すると
いう話と似ていますね。
P205
出家生活の要は、所有と再生産から離れた生活様式を打ち立てることにある。
初期仏教は、五蘊・六処という個体存在の諸能力・要素について「自己(主体)ではない、
自らのもの(所有)ではない」と説いていた。 ・・・・
家畜や土地を所有しないから、当然牧畜や農耕という動植物の再生産に関わらない。
家族を離れ、性交しないため、人間の再生産にも関わらない。 祭式を行なわないため、
天界に「自己を作り上げる」こともない。
・・・再生産社会から離れた個の集団が、仲間や集団を意味する「サンガ」すなわち
出家教団なのである。
==>> 出家者の生活は上記のようなことなんですが、私のような年金生活者の
場合は、家や家具などの所有はあっても再生産はしないし、
今後新しい家族を再生産する気力も能力も経済力もないし、
祭式をやるような信心もないので、割と当てはまるような気もするん
ですが、出家者は「托鉢」をして食べ物を在家の人たちからもらわないと
いけないんですね。
しかし、考えてみれば、年金が現在の現役世代からのお布施だと考えれば、
立派な出家者じゃないでしょうかねえ・・・・
P215
大乗仏典は、ゴータマ・ブッダに代表される「高貴な者」という理想像に加えて、
新たに阿弥陀仏、薬師仏、毘盧遮那仏などの諸仏や、文殊菩薩、普賢菩薩、観音菩薩、
勢至菩薩、地蔵菩薩などの諸菩薩といった理想像を生み出していった。
P217
・・・五世紀前半、上座部大寺派は、バーリ三蔵の正典化を完了し、大乗仏典を
「非仏説」として排除する教理的根拠を作り上げた。 ブッダはバーリ語で話したので
あり、三蔵という正典は、バーリ語でこそ伝承されるべきだという主張をした。
・・・今日も生きた「ブッダの言葉」(仏語)として朗誦されている。
==>> さて、ここで、上座部の仏教と大乗仏教が分れたわけですね。
そして、その大乗仏教が日本にやってきた。
それがいいことだか、どうだか、分かりませんが、
初期仏教のこのような考え方は、非常に面白いと私は思います。
ちなみに、日本以外の世界の地域では、日本仏教は仏教じゃないみたいに
思われているというのを、なにかで読んだ記憶があります。
おそらく、ヨーロッパなどの研究者は、いわゆる上座仏教(小乗仏教)の
研究を主にやっているからではないかと思います。
さて、やっと、読み終わりました。
この本で、初期仏教の概要が分かりましたので、今後読んでいくはずの仏教関連の
本の位置づけが楽になるかと思います。
手元に「阿含経入門」が積んであるので、いずれ感想文を書こうと思っています。
=== 完 ===
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