ライプニッツ著「モナドロジー」を読む ― 1 素領域理論とモナド論の関係は?
ライプニッツ著「モナドロジー」を読む ― 1 素領域理論とモナド論の関係は?
湯川秀樹の「素領域理論」、
そして先に読んだ保江邦夫著「神の物理学 甦る素領域理論」の関連で、
モナド理論なるものが出てきましたので、ライプニッツ著「モナドロジー」を
読んでいます。
まず、モナド論とはなにかを予備知識として確認します。
https://kotobank.jp/word/%E3%83%A2%E3%83%8A%E3%83%89%E8%AB%96-646138
「ライプニッツの形而上学説。モナドは不可分の単純実体で、非物質的本性を有し、
表象と欲求とからなる。宇宙はこのモナドから構成されているが、モナドは相互に
作用しあうことがなく、独立である。従って、宇宙の統一的な相互対応関係は神に
よる予定調和にほかならないとされた。単子論。モナドロジー。」
「ドイツの哲学者・数学者ライプニッツの哲学書。『モナド論』とも呼ばれる
1714年執筆,1840年刊。彼の哲学体系を要約したもの。全実在あるいは宇宙は無数の
単子(モナド)からなり,単子は原子のようなものであるが知覚と欲求をもち,それが
集まって統一と調和を保っているとし,神による予定調和と,その中における人間の
自由意志を説いた。」
==>> 物理学っぽい表現もありますが、基本的には形而上学であると
いうことのようです。
では、さっそく、気になった部分を引用しながら、勝手な印象を書いていきます。
===
p11
1. 私たちがここで論じるモナドとは、複合体のなかに入る単純な実体
に他ならない。 単純とは、部分がないことだ。
p13
2. さて、部分がないところには、拡がり(延長)も、形も、可分性もない。
そしてこうしたモナドは、自然の真の原子であり、ひとことで言えば事物の要素
である。
注(1) 原子論者のいう物質的な原子ではない。 ・・・モナドは、延長も
形も可分性も部分もない、非物質的な存在である。
==>> 本文を読むと、物理学としか思えない表現ですが、注を読むと
非物質的と断り書きがあります。
p14
6.かくしてモナドは、生じるのも滅びるのも、一挙になされるほかない、と言って
よい。 つまり、創造によってしか生じないし、絶滅によってしか滅びない。けれども
複合されたものは、部分部分で生じる、もしくは滅びる。
p16
8.だがモナドは何か性質をもつはずだ。 そうでないと、モナドは存在するものと
さえ言えなくなる。 それに、単純な実体がその性質によって互いに異なっているの
でなければ、事物のなかに起こる変化を意識表象する手立てはないだろう。
複合体のなかに起こるものは、単純な構成要素からしか来ないからだ。
注(2) 「空虚」のない、「充実空間」はライプニッツの世界の特徴の一つ。
充実空間とは共働する諸モナドのなす体系のことであり、諸物体が運動する場所のことを
そのまま言っているのではない。
==>> モナド自体は、神によって創造され、生じたり、滅したりするが、
その複合体はモナドが部品となって、組み立てられたり、分解されたり
するということのようです。 複合体の性質は、モナドの性質によって
決まると言っているようです。
「空虚」のない、「充実空間」と言っているのは、もしかしたら、
保江邦夫さんのいう「完全調和の真空」に相当するのかもしれません。
p18
11.・・・モナドの自然的変化は内的原理から来ることがわかる。 外的原因は
モナドの内部に作用することができないからである。
注(1) モナドの自然的変化は、モナドの創造、絶滅という超自然的変化に対して
言われる。
p20
14.一なるもの、すなわち単純な実体のなかで、多を含み、これを表現する推移的
な状態がいわゆる表象にほかならない。 これは意識される表象ないし意識とは
しっかり区別されねばならない。
注(1) 表象(perception)はきわめて広義で、意識に上るものも上らないものも
含む。 表象は表出(expression)、表現(representation)とほぼ同義に用いられている。
==>> この「表象」というのがどういう意味なのかがまだ分かりません。
内的原因から来るということが書かれていますので、おそらくモナドが
表現して、他に対してなんらかの影響を与えるものかと、とりあえず
考えます。
p21
15.一つの表象から別の表象への変化ないし推移を起こす内的原理の働きを欲求と
名づけることができる。 たしかに、欲求は、そのめざす表象全体に安全に到達できる
とは限らないけれども、つねにその表象から何かを得て、新たな表象に到達する。
==>> モナドとは表象と欲求である・・・なんて言われても意味が分かりません。
しかし、ここで「欲求」についての定義はされています。
「変化ないし推移を起こす内的原理の働き」であるそうです。
まあ、普通に欲求という場合も、今の状況から別の欲しいと思う
状況への変化を望むことが自分の心身の中で働くことと考えれば、
一応は理解できるのですが。
p24
18.すべての単純な実体つまり創造されたモナドに、エンテレケイアという名を
与えてもよいだろう。 なぜならモナドはなかに、ある種の<完全性>をもっている
からだ。 そこに<自足性>があって、それによりモナドは自らの内的作用の源と
なり、また、いわば非物体的自動機械となっている。
注(1) ・・・エンテレケイアという語は明らかに、完全を意味するギリシア語
に起源を有しており、・・・その内には、単純な作用的能力のみならず、力とか努力とか
傾動性とか呼ばれるものもふくまれている・・・・・
==>> 非物体的自動機械・・・というのは、保江邦夫さんのいう「魂」みたいな
ものに相当するのでしょうか。
p26
・・・すなわち創造されたモナドは、魂と呼べるだろうが、知覚は単なる表象以上の
ものであるから、表象しかもたない単純な実体には、モナドとかエンテレケイアとかの
一般的名称で十分であり、表象がより判明であり記憶を伴う単純な実体だけを魂と呼ぶ
ことを認めたい。
==>> ここは、かなり微妙な区別ですね。
表象しかもたない実体は「モナド」または「エンテレケイア」で、
記憶を伴う実体は「魂」ということになるのでしょうか。
p29
25.・・・自然は、多くの光線や空気の振動を集めその結合により効果をいっそう
強める器官を動物にそなえる入念さをもって、動物たちに水準の高い表象を
与えている。 嗅覚にも味覚にも触覚にも、おそらく私たちの知らない他の
たくさんの感覚にも、それに近いものがある。
=>> 表象という表現がいまひとつしっくりとした理解にならないんです。
たぶん、要するに、動物の感覚器官に感知される表象というか、
視覚への現れ方、嗅覚、味覚、触覚への現れ方ということなのでしょう。
人間のさまざまな感覚と同じように、動物それぞれに異なった仕組みでの
感覚があって、そこに異なる形で感じられる表象があるということなの
でしょう。
p38
注(1) ライプニッツのいう実在性は、そのものの本質として含まれる内容もしくは
内包の量を指している。 実在性は思考可能性に他ならない。 だから実在性は完全性
の程度に比例する。 完全性とは実在性または本質の程度すなわち量である。
現実的なものだけでなく可能的なものもそれなりの実在性を含み、神の知性において
等しく検討される。
ライプニッツの言う「実在性」は、現代に用いられているような「主観的観念・想像とは
独立な客観的・現実的なあり方」を意味する用法とは異なっている。
p43
注(2) (ア・プリオリの意味) 「経験に先立って」という今日の意味ではなく、
それ以前の意味。 原因から結果を示し、原理から帰結を導くのがア・プリオリな論証で、
結果から原因を示し、帰結から原因へ遡るのがア・ポステリオリな論証。
==>> 物理学でも言葉の定義はいろいろあるんでしょうが、哲学となると、これが
時代的にも哲学者によっても異なってくるのでややこしい。
ここでライプニッツの言う「実在性」は、あくまでも形而上学における
意味的な実在性のように見えます。
訳者によっては「事象性」としているそうです。
いわゆるイデアみたいなものなのかどうか・・・・
「ア・プリオリ」の意味については、私は「先天的」という意味だけしか
知りませんでした。 つまり、生まれながらに知っているという意味。
p44
注(2) ・・・デカルトは人間の知性と神の知性を異質なものとし、非連続的に
捉える。 ライプニッツでは創造されたものの本質と創造者の本質とのあいだには
発展的な差異があるだけで、人間知性の最高原理は神にも人にも共通にあてはまる。
==>> おお、これはちょっと仏教の考え方に似ていますね。
元々のブッダは形而上学を語ってはいませんが、その後の大乗仏教で
現れた考え方のようです。
先に読んだ「仏典を読む」から:
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post.html
「p34
「仏性」というと、すべての人の中にある悟りの本性ということであるが、
その原語はブッダ・ダートゥである。 ところが、この言葉はもともと仏の
遺骨を意味している。 仏の遺骨とすべての人の中の悟りの本性はずいぶん
違いそうだが、そこに「仏性」の理念が出てくる道筋が籠められている。
すなわち、仏の遺骨への崇拝がやがて仏の永遠性へと発展し、次に、その
永遠性がすべての人の中に内在するものとして理念化されると、それが「仏性」
の概念になるのである。」
また、 空海著 加藤精一編 「即身成仏義」の中でも、以下のような
解説があります。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2021/02/post-7535b7.html
「p37
加持とは如来の大慈悲心と衆生が如来を仰ぐ信仰心との関係を
あらわすことばで、たとえていいますと、仏の光が衆生の心に
映るのを「加」といい、修行者の心が仏の光を感ずるのを「持」と
名づけるのです。
修行者がこの意味を深く理解すれば、仏の三密と修行者の三業とが
ぴったりと感応相応するので、この世で直ちに私たちは本来備わって
いる大日如来の三身すべての仏性を顕わし証得することができます。
この故に、速疾に顕わるというのです。
即時とか即日とかいうのとまったく同じ意味で即身というのですから、
この身のままということです。」
・・・・「人間知性の最高原理は神にも人にも共通」という考え方は
特に上記の空海さんの即身成仏の考え方と同じではないかと思います。
p53
注(1) ・・・・デカルトの神は恣意的に働き、スピノザの神は必然性から働き、
マルブランシュの神は奇蹟によって被造物に介入するが、予定調和説は恣意性も
必然性も奇蹟も用いないので、神の偉大さを高めるのに相応しいとする。
==>> 「予定調和」という言葉が出てきましたが、これがライプニッツの原理のひとつ
であったとは、まったく知りませんでした。
一般的なこの言葉の使い方は: 国語辞典では、
「(日本社会で)小説・映画・演劇・経済・政治等広い範囲で、観衆・民衆
・関係者等の予想する流れに沿って事態が動き、結果も予想通りであること
をいう。」
・・・・であるわけですが・・・
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%88%E5%AE%9A%E8%AA%BF%E5%92%8C-146335
「ドイツの哲学者ライプニッツの形而上学的根本原理の一つ。
彼の実体概念であるモナドは相互に影響し合うことはなく,因果関係は
見かけにすぎない。たとえばAが語った言葉をBが理解するのは,
A,B,2つのモナドのそれぞれの内的変化があらかじめ神によって
しかるべく定められているからであると説明される。全歴史を通じ,
全世界のモナドの変化の過程を,あたかも直接的相互関係があるかの
ように支配しているこの原理が予定調和である。」
・・・・保江邦夫著の「神の物理学」には、「完全調和の真空」という言葉は
出てくるんですが、この「予定調和」は出て来ません。
もしかしたら、予定調和の考え方は完全調和に含まれているのかもしれません。
ちなみに、先に読んだ「神の物理学」にはこのように書いてありました:
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_65.html
「p17
物理学を離れて形而上学に参入するならば、完全調和のみの真空の状況は
まさに神の世界、あるいは神そのものといってもよい。 今後は特に誤解
を生む可能性の低い場合には基礎理論物理学において「真空」を解明して
いくときにそれを「神(かみ)」と呼び、また真空が示す様々な性質の
幾つかを「神意」や「愛」あるいは「情緒」などと表すことがある。」
・・・・つまり、保江さんは、完全調和の真空は神だと言っていますので、
そこにはライプニッツの予定調和が含まれていると考えてよさそうです。
p56
62.・・・創造されたモナドはそれぞれに宇宙全体を表現し、特にそのモナドに
割り当てられて、モナドがそのエンテレケイアをなしている物体(身体)をより
判明に表象する。 そうしてこの物体は、あらゆる物質が充実空間のなかで結合して
いることで宇宙全体を表出しているから、魂もまた、個別的に自分に属している物体
(身体)を表現することによって、同時に宇宙全体を表現する。
==>> p26では、
「表象しかもたない実体は「モナド」または「エンテレケイア」で、
記憶を伴う実体は「魂」」という定義でした。
神によって作られたモナドですが、表象しかもたないエンテレケイアが
例えばある人間という肉体を担当する。
そして、そこに記憶が宿ると肉体に魂が宿って特定の人間になる・・・・
・・・というシナリオでしょうか。
保江邦夫著 「神の物理学 甦る素領域理論」においては、
モナドと魂の関係について、以下のように説明されていました:
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_2.html
「p123
このモナドは素朴な言葉では「霊魂」と呼ばれてきた存在を形而上学的素領域
理論の中で表現するために導入されたものだが、その実体は「真空」あるいは
「神」と呼ばれた唯一絶対の完全調和を分割したものに他ならない。
この宇宙を構成するすべての素領域を囲むようにして存在する最小限の
完全調和を分割して得られるモナドなのだ。
そのようなモナドは「霊」あるいは「霊体」と呼ばれ、素領域をまったく
内在させていないモナドは「聖霊」と呼ばれるが、あくまで形而上学的素領域
理論の中での用語であって素朴な宗教的概念ではないことを明示するために、
以下ではそれぞれを「霊モナド」及び「聖霊モナド」と呼ぶことにしたい。」
・・・保江さんは、「肉体に魂が宿る」のではなく、「魂に肉体が備わる」と
いう考え方をしています。
肉体はライプニッツのいう複合体として生まれてきたり死んでいったりする
わけですが、魂は神が創造したモナドという原型であるから生きたり死んだり
することはなくて永遠に存在するということのようです。
・・・ここで思い出すのは仏教の「不生不滅」という言葉です。
不生不滅とは - コトバンク (kotobank.jp)
「仏教用語。何ものも生ぜず,また滅びないということ。輪廻の世界から
解放された世界観に立つと,絶対的な実在はないということを表現する
ときに用いる言葉。空の観念を補足するものであり,涅槃のあり方を否定的
に説明する語法。
p57
注(1) 第一段階のモナドによって支配される単なる有機的物体が生物、第二段階
の魂によって支配される有機体が動物と呼ばれ、第三段階の理性的魂・精神によって
支配されるのが人間である。
==>> ここで、モナドの段階説が出てきました。
保江さんの「神の物理学」においても、次のような3つの区分があります。
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_2.html
「p133
「モナドと生命」
ここでは、「モナド」の考え方を用いることで「生物」と「無生物」の
二大分化の由来を明確にして「生命力」に対して適切な意味づけをする
ことを目的としているため、「モナド」の階級分けに相当する捉え方を
導入することにする。
p134
いわゆるウイルスと呼ばれる高分子構造体は「生物」と「無生物」の
中間に位置するという捉え方が学界で有力となってきているため、
それに対応できるように「生物」、「中間物」、「無生物」という三大別を
導入しておくのがよいだろう。
・・・つまりその空間を構成する素領域を包含するモナドの側の制御性能に、
対応する三段階の違いがあると考えるのが最も素直なことではないだろうか。」
p60
70.・・・どの生きた身体にもそれを支配するエンテレケイアがあり、動物では
それが魂であることがわかる。 さて、この生きた身体の肢体には、他の生命体、
植物、動物が充ちていて、その各々がまた、それを支配するエンテレケイアもしくは
魂を持っている。
==>> ここでは、動物、植物にも魂が入っていることを述べています。
八百万の神々とまではいきませんが、かなり東洋的な思想ではないかと
感じます。
Wikipediaで霊魂について、宗教上の違いを見てみますと、以下のように
なっています:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E7%89%A9%E9%9C%8A
「神道はアニミズムであり、万物に霊魂が宿るとする思想から、動物にも
霊魂があると基本的には捉え・・・」
「仏教では西洋思想のように、人間の霊魂と動物の霊魂などという分け方
はしない。そして基本的には、仏教は霊魂については触れず、中立的な立場
を取るとされる。これはよく、あるのでも無く、無いのでも無いとする
「空」と言う抽象概念によって説明される。」
(これは、一般的にはお葬式の時に「ご霊前」とか「ご冥福を祈ります」とか
やっていますから、霊魂があると思っている人が多いのではないかと思い
ますが、仏教であっても宗派によって違います。 浄土真宗では霊というの
を認めていないそうです。「即身成仏」の教えから、死者の冥福を祈る必要が
ない、また、ほかの宗派で位牌に記す「霊位」などの置き字も基本的にはない
ともされています。 )
「ヒンドゥー教はインド古来にあったバラモン教を前身としており、呪物
崇拝・アニミズム・祖先崇拝・偶像崇拝・汎神論哲学の内容を含む為、
基本的には動物にも霊魂はあると捉えている。」
「キリスト教の根本聖典は聖書であるが、基本的に旧約聖書においても
新約聖書においても動物霊については触れられ無い。・・・・」
ただし、コヘレトの言葉には、「人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に
降ると誰が言えよう」と書いてあるそうです。
「ギリシャ神話は多神教であり、自然や動物の霊は精霊として崇められている。」
「イスラム教の根本聖典はクルアーンであるが、クルアーンでも聖書同様、
基本的に動物霊については触れられ無い。しかし、動物の霊魂を否定しないと
いう点でもキリスト教と同じ」
植物の霊魂については、上記から判断すると、神道とヒンドゥー教などの
アニミズム系においては認めているようです。
その意味では、東洋思想では認め、西欧思想では認めないという感じでしょうか。
p61
72.それで魂は少しずつ徐々にしか身体を取り換えないから、その器官すべてを
いちどきに失うことは決してない。 まだ動物には、変態ということがよくあるけれど、
輪廻すなわち魂の転生は決してない。 さらに(身体から)まったく遊離した魂もなく、
身体をもたない精霊もない。 ただ神のみが身体から完全に離れている。
注(1) ・・・身体をもたない多くの例外を認めると、他のモナドとの関係を欠く魂を
認め、宇宙全体の秩序や調和と齟齬をきたすため。
==>> ここでは、はっきりと輪廻を否定しています。
身体と魂は離れることはないとしています。
その代わりに、「魂は徐々に身体を取り換える」と考えているようです。
これは、なんだかドーキンスさんの「利己的な遺伝子」にあるような
身体は遺伝子の乗り物であるという雰囲気になってきました。
つまりは、モナドあるいは魂は不滅であるということが前提であるようです。
p65
78. これらの原理によって、私は魂と有機的な身体の結合ないし一致を
自然的に説明する方法を得た。 魂は魂みずからの法則に従い、身体も身体みずから
の法則に従う。 それでも両者が一致するのは、あらゆる実体のあいだにある
予定調和の為であり、 それは実体がすべて、同じ一つの宇宙の表現だからである。
==>> さあ、ここで「予定調和」の詳しい説明が出て来ました。
魂の法則と身体の法則がそれぞれ独自にあるけれども、その間には
神によってつくられた予定調和があるということのようです。
もちろん、そこには唯一の実体であるモナドがあるということでしょう。
おそらく、保江邦夫著「神の物理学」の中で、これに該当する部分は、
以下のような記述の部分ではないかと思います。
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_2.html
「p124
実は、完全調和の真空を多数のモナドに分割する考え方の本質は、それぞれ
一体として統一された物質存在の背後にその物質存在を構成するすべての
素粒子の運動を制御する一つの霊モナド(=素モナド)がこの宇宙の裏側に
存在するという点にある。
たとえば地球や火星などの太陽系内惑星のそれぞれを安定な物質形態と
して存在させるために、その背後には「地球モナド」や「火星モナド」と
でも呼ぶような霊モナド(=素モナド)がこの宇宙の裏側に存在している
・・・・・「太陽系モナド」・・・
p125
天の川銀河系に属する恒星や恒星間物質については、それら全体の質量の
総和がそれぞれの恒星などを万有引力によって中心部に引き付けて公転
させるにはあまりにも足りないため、我々がまだ見出していない未知
の物質あるいはエネルギーが天の川銀河系空間に存在していると考えられ、
それを「ダークマター」あるいは「ダークエネルギー」と呼んでいる。」
・・・・p57のところで、モナドの階級分けというのをやっています。
「「生物」、「中間物」、「無生物」という三大別を導入しておくのがよいだろう。」
という部分です。
つまり、生物であろうが、中間物であろうが、無生物であろうが、それらは
すべて唯一の実体であるモナドによって出来ている。だから、現実の実在
のものに共通するモナドがそれらを統一する力として働くということ
ではないでしょうか。
それが、ライプニッツの予定調和であり、「神の物理学」では完全調和
ということなのではないか、と思うのです。
p70
注(1) 科学的・機械的説明の及びうる自然世界に対して、精神的・道徳的
世界である。 アウグスティヌスの神の国はキリスト教会のことであり、そこには
キリスト者の精神が住まうだけだが、ライプニッツの神の国にはすべての精神が
住み、そこは人間だけにとどまらない。 神の国は無数の精霊と理性的被造物、
そしてあらゆる種類のものから成り立っている。
==>> ライプニッツの時代は、もちろんキリスト教世界の時代ですから、
異端的な議論を無理やりに押し通すと悲惨な結果も覚悟しなくては
ならない時代だったようです。
この本には、ライプニッツがそのような事態を回避するためかと見える、
教会関係者との、今の言葉でいえば、根回しみたいなこともやっていた
ことが書かれています。
p71
87.・・・・・自然の物理的世界と恩寵の道徳的世界、すなわち宇宙という機械の建築者
としての神と、精神がつくる神の国の君主としての神のあいだに、なおもう一つの調和が
あることを認めなければならない。
==>> ここは、上にも出ましたが、
p53の「予定調和説は恣意性も必然性も奇蹟も用いないので、神の偉大さ
を高めるのに相応しいとする。」
の部分に繋がっているようです。
つまり、自然科学の法則性とキリスト教世界の神の国が両立するような
予定調和を前提としているように見えます。
さて、ここまでで、「モナドロジー」を読み終わりました。
この本は、湯川秀樹博士が発想し、保江邦夫博士が展開し、中込照明博士が
数理的に量子力学に導入したとされる「素領域理論」とライプニッツの「モナド論」
がどのように関係しているのかを私なりに理解したくて、ダラダラと書いて
みました。
ただし、中込博士の論文は私には難しすぎるので読んでいません。
ですが、ダラダラと書いているうちに、漠然とではありますが、その関係が
分かってきたように思います。
この後には、ライプニッツの論文や個人宛の書簡などが掲載されています。
== その2 に続きます ==
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