ライプニッツ著「モナドロジー」を読む ― 2 「モナド」とは何なのか? ふたつの論文
ライプニッツ著「モナドロジー」を読む ― 2 「モナド」とは何なのか? ふたつの論文
湯川秀樹の「素領域理論」、
そして先に読んだ保江邦夫著「神の物理学 甦る素領域理論」の関連で、
モナド理論なるものが出てきましたので、ライプニッツ著「モナドロジー」に
掲載されている「理性に基づく自然と恩寵の原理」他の書簡を読んでいます。
==
まず、ふたつの論文「原理」と「新説」を読んでみましょう。
論文「理性に基づく自然と恩寵の原理」からの引用と感想です:
1714年にウィーンで、サヴァワのウジェーヌ公のために書かれたものとされています。
p77
1. 実体とは、作用することのできる存在である。 実体は、単純であるか、複合的で
あるかだ。 単純な実体は、部分をもたない実体である。 複合的な実体は、単純な
実体すなわちモナドの集まりである。
2. モナドは部分をもたないから、形成されも解体されもしないだろう。 モナドは、
自然的には生じることも滅びることもできず、したがって、宇宙と同じだけ持続する。
一つのモナドがそれ自身においてしかもその瞬間において他のモナドから識別されうる
のは、内的性質と内的作用によってでしかない。 それらは、そのモナドの表象
(言い換えれば、複合的なものすなわち外にあるものの、単純なもののなかでの
表現)と欲求(言い換えれば、一つの表象から他の表象へ向かうモナドの傾向)
以外のものではありえない。
==>> ここでは「モナド」の定義を、先によんだ「モナドロジー」の記述よりも
明解にまとめて書いてあります。
「モナドロジー」に明確に書いてあったように、モナドは形而上学的な
ものであって、非物質的であることを再確認しておきます。
しかし、「モナドの表象(言い換えれば、複合的なものすなわち外にあるもの
の、単純なもののなかでの表現)」という「表象」の意味がいまひとつ
私にははっきりしません。
一応、モナドの表れ方という意味で理解しておきます。
p78
3. 自然においてはすべてが充実している。 至るところに単純な実体があり、実際には
固有の作用によって互いに区別され、絶えずその関係を変化させている。 そして複合的な
実体(たとえば動物)の中心となりその唯一性の原理となっている。
p79
・・無数のモナドが、中心的モナドの固有の物体(身体)を構成し、その物体(身体)
の変状に従って中心的モナドは、一種の中心におけるように自分の外にある事物を表現
する。 この物体は有機的であり、一種の自動機械もしくは自然の機械を形作って
いて、・・・・・世界の充実性のゆえにすべては結びついていて、・・・
==>> この部分では、「モナドロジー」の記述内容でははっきりしなかった
「充実空間」について述べられています。 また、複合的な実体が
どのようなものであるかの説明もされています。
たとえば、猫であれば、一匹の猫は無数のモナドによって有機体として
複合体として存在し、その無数のモナドに中心的なモナドがあって、
それが周りの無数のモナドを猫として表現するということのようです。
そして、その中心的モナド自体が、おそらくその猫の魂という位置づけに
なるのでしょう。
ここでやっと、「モナドの表象」の意味するところが理解できました。
p80
4. モナドが非常に整った器官をもち、・・・いっそう強い力で作用するとき・・・
それは感覚、言い換えれば記憶を伴う表象、すなわち反響が長く残っていて・・・
そのような生き物は動物と呼ばれる。 その生き物のモナドが魂と呼ばれるように。
そしてこの魂は、理性にまで高められると、いっそう高貴なものとなり、精神のうち
に数えられる。
==>> ここでは「記憶を伴う表象」をもつものは「動物」であって、動物には
魂があると説かれています。 そしてその魂が高度な理性になると精神を
もつ人間となるようです。
私のイメージとしては、精神よりも魂の方がレベルが高いように思えるの
ですが。 英語ではどうかとちょっと確認してみますと。
精神: mind; soul; spirit; phren;
mentalis; anima; animus; nous
魂: soul; spirit; anima; animus
これで見ると、精神の方がより広い意味があるようです。
しかし、マインドやmentalis(精神的)やphren(brain or mind)などと
なっていますので、私的には形而上学的な意味としてはやはり魂の方が
レベルが高いような感じがします・・・・
しかし、よくよく考えてみると、動物や植物には魂はありそうですが、
精神があるかと訊かれると無さそうですね。
じゃあ、大和魂と日本精神ではどっちがより高貴なんでしょう?
p81
4.・・・外的な諸事物を表現しているモナドの内的状態である表象と、意識もしくは
この内的状態の反省的認識である意識表象とを区別するのがよい。 意識表象は、
すべての魂に与えられているわけでもなく、同じ魂につねに与えられているわけでもない。
==>> ここで「意識」が出てきました。
モナドの内的な表象と「反省的認識である意識表象」を別のものとして考え、
意識は特別な魂に属するものと考えているようです。
私は今までに意識とは何かということを、さまざまな分野の本で読んできた
んですが、この形而上学では、モナドが自分を意識するという位置づけになって
いるようです。
p90
14.理性的魂すなわち精神については、モナドや、されには単なる魂のなかに
ある以上のものがそこにはある。 それは被造物の宇宙の鏡であるだけでなく、
神の似姿でもある。 精神は神の作品の表象をもつだけでなく、小規模ではあっても
神の作品に似たものをつくり出すことさえできる。
というのも、私たちは、目覚めているときには見出すために長いあいだ考えなければ
ならないような事柄を、夢のなかでは難なく(しかもそうしようという気もなく)
考え出してしまうものだが・・・・・
==>> この部分は、先に読んだ 稲葉耶季 vs保江邦夫の対談
「理論物理学vs仏教哲学 「神と人をつなぐ宇宙の大法則」」にも
湯川秀樹と岡潔の体験が書かれていました。
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/06/blog-post_0.html
「p161
夜、寝ていた湯川先生は、雷の音でふと目が覚めた。そのとき、目覚める
直前に、夢の中の自分が「中間子理論」というものを考えていたのを覚えて
いた。 雷の音で突然目覚めたから、まだ鮮明に記憶に残っていたんでしょうね。
湯川先生は、常に枕元に、・・・・あれ(紙)を置かれていた。
・・・夢の中で自分が考えた中間子理論を、その紙に書き留めて、また寝た。
で、翌朝見たら、「あっ、これはすごい」というので論文にして、それが
ノーベル賞ですよ。 論文はわずか2~3ページで、すごく短いんです。
確か数式は三つくらいしかなくて、非常に初歩的。 それでノーベル賞なん
ですよ。
p166
岡潔は寝ている間に情報を得ていました。 寝ている間というより、
ときどき意識がなくなって仮死状態になり、あっちの世界に行っては、
さまざまな数学的真理を見てきたようです。 帰ってきて、パーッと
論文を書き、世界的に有名な多変数関数論の理論を完成させました。」
・・・物理学や数学に限らず、芸術や美術などの分野においても、
「何かが降りて来て私に描かせた・・・」みたいな話はたくさんありますね。
保江さんの素領域論の中では、「完全調和の真空」にすべてのデータがあって
そこから情報を取って来るというイメージだそうです。
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次の論文は、1695年にパリの「学術雑誌」に匿名で発表されたとされています。
「実体の本性と実体間の交渉ならびに 魂と身体のあいだにある結合についての新説」
からの引用と感想です:
p99
5.・・・精神すなわち理性的魂を、他の形相や魂と無差別に結びつけて混同しては
ならないと判断した。 精神はより高尚な次元のものである。 私の考えでは至る
ところに見いだされる、物質のなかに深く入り込んだ形相よりも、精神は比較できない
ほど大きな完全性を有している。 そうした形相に比べて、精神は神の姿に似せて
つくられた小さな神のようなものであって、それ自身のなかに何か神性の光の微光を
もっている。
==>> ここまでこの本を読んできてどうしても頭に浮かんでしまうのは、
仏教との類似性です。 「不生不滅」や相互作用という意味での「空」
あるいは「縁起」「相依り」、そしてここに書かれている「仏性」そして
「即身成仏」みたいなものとの類似性です。
厳密に正しく読んでいけば異なる考えなのでしょうが、素人ですから
お許しください。
p101
7.・・・・合理的な立場はただ一つしかないと思い至った。それは、魂だけが保存される
のではなく、動物そのもの、およびその有機的機械(身体器官)も保存されるという立場
である。 もっとも、大きく粗い部分が破壊されると動物は小さなものになってしまい、
それが生まれる前に小さかったときと同様に、私たちの感覚では捉えられない。 だから、
死滅の本当の時間を正しく特定できる人はいない。
==>> この本はあくまでも形而上学的な話を書いているとライプニッツは断っている
のですが、記述の内容は物理学や医学のような表現になっていて混乱しそう
です。
ここでは、動物が死んだからといって、魂つまりモナドが死ぬわけじゃないと
いっています。 複合体である動物が現実世界で死んでも、実体であるモナド
や魂は死ぬわけじゃない。
「死滅の本当の時間を正しく特定できる人はいない」というのは、現代の
医学においても同じであるように思います。
脳死を人間の死とするという考え方が一般的だとは思いますが、問題は
そんなに単純ではないそうです。
p105
11.・・・・実体の原子、すなわち部分を全然もたない実在的一性だけが、
作用の源泉であり、事物の合成の絶対的第一原理であり、いわば、実体的事物の
分析の究極的要素である。 これは、形而上学的点と呼ぶことができよう。
それは、何か生命的なところと、一種の表象を有している。
数学的点は、形而上学的点が宇宙を表出するための視点である。
だが、物体的実体が収縮しているときは、そのすべての器官は一緒になって、私たち
から見るとただ一つの物理的点となる。
==>> この部分を読んでいると、なんだか宇宙の始まりであるビッグバンが
「点」から始まったことを連想させます。
ライプニッツはあくまでも形而上学的な話をしているんですが・・・・
p106
12.・・・・身体(物体)はいかにして魂に何かを生じさせるのか、あるいは
その逆に魂はいかにして身体(物体)に何かを生じさせるのかということも、
また、ある実体はいかにして他の被造的実体と交渉しうるのかということも、
説明する方策がまったく見いだせなかったからだ。
p108
14.・・・・私たちの内的感覚(すなわち、魂そのものの内にあり、脳や身体の
微細な部分の内にあるのではない感覚)は、外的存在に伴って起こる現象にすぎず、
あるいはむしろ真なる現れであり十分に規則だった夢のようなものなのだから、
魂そのもののなかのこうした内的表象は、魂自身の根源的な構成によって、すなわち
(魂の外の存在を自分に器官に応じて表出することのできる)表現的本性によって、
魂に生じるのでなければならない。
この表現的本性とは、その創造のときから魂に与えられていて、その個体的特質を
成している。
==>> 魂=モナドは、神によって創造され、個体的な特質をもっているが、
それが表現的本性であるということですね。
そして、それは、魂の外の存在(つまりは神?)を忖度?して、
自分に与えられた役割を、まるで湯川博士が夢の中からとってきた
インスピレーションによってノーベル賞を取ったように、
なんらかの役割を果たす・・・ってことでしょうか。
要するに、モナド、魂は単一の実在だけど、そこには宇宙全体に
完全調和として存在する法則によって制御されているってことで
しょうか。 ライプニッツの場合は、予定調和ですが。
以上で、ふたつの論文を読み終わりました。
== その3 に続きます ==
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