あおきてつお著「邪馬台国は隠された」を読む ― 卑弥呼はなぜ日本書紀に書かれていないのか? ― 後編
<<前編からの続きです>>
p178
「古事記」「日本書紀」の記述によると、神武天皇は「九州から
やってきた」ことになっています。
・・・神武一族=邪馬台国だとしたら、九州を出て、東に進んだ
邪馬台国が、都を大和へ移し、政権を樹立したことになります。
p180
壱与が西晋に使者を送った西暦266年より、実に50年も以前に、
大和では新しい国づくりを始めているわけなのです。
邪馬台国が東遷しようがしまいが、大和では新政権が着々と
国づくりを始めているではありませんか。
これはどう考えても、邪馬台国東遷説に無理があり、時代が合わない
と言わざるを得ません。
==>> 私も過去に読んできたいろいろな本からのイメージとして、
邪馬台国東遷説じゃないかと思っていたんですが、
どうも雲行きが変わったようです。
p183
福岡県朝倉あたりをさらに調べていたら、大和へ移住した痕跡
を示すある事実が浮かび上がりました。
歴史学者の安本美典先生が、古い地図から福岡県夜須・朝倉地方と、
奈良県大和地方に、相当数の共通した地名があることを提示して
いたのです。
p184
私は一つの可能性として、ヤマト政権となる民(=神武一族)が、
西(夜須地方)から東(大和地方)へ移住した痕跡ではないか、
と考えます。
==>> ここでは、福岡県甘木・朝倉・夜須地方の地名と
纏向遺跡を含む奈良県大和地方の地名の共通点が
記されています。
邪馬台国ではない、九州の神武一族が東遷したという話。
p185
この福岡県夜須のあたりに、神武の出発点となるなんらかの痕跡が
ないか、・・・
すると、不思議な遺跡の存在を確認したのです。
そこは、佐賀県吉野ケ里遺跡をも上回る巨大な規模をもつ遺跡と
言われ、・・・しかも何重にも環濠が掘られ、入念に防御を固めて
備えているにもかかわらず、なんと纏向遺跡と同様に、鉄器がまったく
発見されていないのです。
p186
「平塚川添遺跡」。
地図を見て、あっと思われたでしょうか。 そう、あの「日向」の
地名から至近距離。おそらく同じクニの領土内だったでしょう。
==>> 初耳の平塚川添遺跡。
どんな遺跡なのか、チェックしてみましょう。
平塚川添遺跡(ひらつかかわぞえいせき)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%A1%9A%E5%B7%9D%E6%B7%BB%E9%81%BA%E8%B7%A1
「遺物は生活土器のほかに銅矛・銅鏃・鏡片・貨泉(貨泉)などの
青銅製品や、農具・建築部材・漁具などの木製品が出土しているが、
鉄製品は出土していない。」
「時代としては中国の歴史書に記されている倭国大乱から邪馬台国の
時代にあたり、このような集落構造が当時の「クニ」の実態を理解する
上で極めて重要であるとして、1994年(平成6年)に遺跡部の112,073.88
平方メートル(約11ヘクタール)の区域が史跡に指定された。」
p189
ここで肝心なのは、ヤマト政権の担い手だった倭民族のうち、吉備でもなく
出雲でもなく、九州勢だけが後世に記載されたという事実。
ということは、九州勢がのちの古代天皇家の母体となったことを示唆します。
==>> おお、そこまで推理しますか。
今までに天皇家とはそもそもどんな一族だったのかを知りたいと
何冊かの本を読んだり、インターネットで検索したりもしたの
ですが、九州の一族が古代天皇の母体となったとまで言及する
のは初めて見ました。
歴史学者や研究者ではなく、漫画家であることでフリーハンドを
持てるということなんでしょうか。
p190
纏向初期古墳が造られたのは3世紀初頭。 つまり、その年代からして、
彼らは遅くとも2世紀末には移動を開始したのではないかと思われます。
2世紀末、この数字は重要です。 なぜなら、九州においてのこの時期、
一連の重要な出来事があった・・・・
そう、倭国大乱(178~184年ころ)。 そして狗奴国との交戦。
p191
卑弥呼は、魏に使いを送りますが、イワレビコの一族はそれを待たず、
この時期に、戦を逃れ、あるいは敗れて、九州の地を去って新天地を
めざしたのではないでしょうか。
==>> イワレビコは後の神武天皇ですが、この神武東征に関して
こちらの動画でさらっと見ておきましょう。
「神武天皇一代記 古事記・日本書紀「神武東征」」
https://www.youtube.com/watch?v=PSLRbKU82cY&t=82s
いくつかのサイトでは、基本的には記紀の物語にある
東征の理由を基本としているようですが、この本では
北の邪馬台国、南の狗奴国に挟まれて、新天地を求めた
という筋になっています。
また、過去に読んだ本に下のようなものがありました。
「村井康彦著「出雲と大和」を読む ― 1 ―
邪馬台国・大和朝廷非連続説」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/12/blog-post_31.html
「これを邪馬台国・大和朝廷非連続説と呼ぶなら、私はこの立場を
とっている。
そう考えるに至った根拠はただ一つ、邪馬台国や卑弥呼の名が『古事記』
や『日本書紀』に一度として出てこないことにある。」
p193
「記紀」でいう「古代天皇家にニギハヤヒが恭順する」くだりは、
考古学でいう「古代天皇陵に吉備文化が流入する」事実とピタリ符合し、
ニギハヤヒ=物部氏=吉備は、ほぼ間違いないと私は考えます。
p194
一部の研究者の間では、
「天皇家は物部氏の祭祀形態を継承した(民俗学者・吉野裕子氏)と
いわれており、古代天皇家と物部氏は、祭祀国家の時代に融合していった
のではと見られるのです。
そういえば例の桃の種を使った祭祀。大量に見つかったのは吉備と
纏向だけ。 これも吉備祭祀を、一部天皇家が継承した証拠になりうる
のではないでしょうか。
==>> ここで、物部氏についておさらいしておきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E9%83%A8%E6%B0%8F
「神武天皇よりも前にヤマト入りをした饒速日命(ニギハヤヒ)が
祖先と伝わる天神系の神別氏族。」
「物部氏の職掌について、本位田菊士は
屯倉の設置と管理、
軍事と外交(主に朝鮮)
医療と呪術
狩猟・飼育と食物供献儀礼
殯儀礼
を挙げている。」
「欽明天皇の時代百済から贈られた仏像を巡り、大臣・蘇我稲目を中心
とする崇仏派と大連・物部尾興や中臣鎌子(中臣氏は神祇を祭る氏族)
を中心とする排仏派が争った(仏教公伝)。」
・・・
つまり、物部氏は伝統的な呪術・儀礼を取り仕切る立場に
あったようです。
p199
・・・天皇は、ほかの臣下と同じように神託を受ける側で、政事を
行なうしかなかった。
崇神はそのやり方をやめたわけです。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の神託では
国が治まらなかったけれど、天皇自らの神託で大田田根子に祀らせたら、
たちどころに平和になった。
というエピソードは、つまり、
「巫女の神託を受けなくても、天皇自身に神が棲んでいる。 政事は
天皇が自ら行うべきだ」
という意味。
==>> 倭迹迹日百襲姫命と大田田根子の話は、以前本で読んだこと
があるのですが、その意味は分からないままでした。
なるほど、そういう意味だったんですね。
つまり、出雲系の磐座信仰からヤマト政権の神鏡信仰へ
変化したということでしょうか。
過去に読んだ本の中に、以下のような文言がありました。
「村井康彦著「出雲と大和」を読む ―2(完)―
邪馬台国は出雲勢力、霊石信仰から神鏡信仰・社殿へ」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2023/01/blog-post.html
「p133
鏡を神とみる観念は、さらに鏡を祭るための、よりふさわしい形を求める
に至る。それが「社殿」祭祀であった。 ただしその建物は、隔離された
非日常の場所になければならない。 これが伊勢神宮の創始へと連なる
ことは、もはや説明を要しないが、実現するまでにはなお歳月を要した。」
p201
世界広しといえど、こういう国は日本だけかもしれません。
現在はさすがに、“現人神”ではなく、“象徴”という言葉に替わったけれど、
なぜ天皇家が特別な存在として、長く日本にあり続けたかは、このように
今より1700年以上前に生まれた「天皇には国を守る神が宿るのだ」という、
古来の思想からきています。
崇神・ハツクニシラススメラ命は、こんなふうに、巫女による神託に頼らず、
倭のリーダーとして次第に席巻していきました。
==>> 天皇制については、政治的な意味では賛否両論があるでしょうが、
特に今のように政治家による政治が混乱している時には、
天皇がいてくれて良かったと思う国民が多いのではないかと
私は思います。
大昔から、権威と権力が分離されたような政治が行なわれて
きた日本であるからこそ、日本人のアイデンティティの一部にも
なりえたのではないかと感じます。
p214
西暦300年前後から、前方後円墳が北九州各地にあいついで
築かれ始めるからです。
これは・・・相当速い段階で、ヤマト政権が九州の地にやってきたこと
を意味します。
西暦300年というと、邪馬台国が最後に晋へ朝貢してから34年後です。
すでにこのとき、邪馬台国連合の中枢が、ヤマト政権に屈伏したという
証拠になります。
もっとも、邪馬台国連合の彼らにとっては、半島との緊張感の中に
いたので、できるだけ早く後ろ盾になってくれそうな、新たなリーダー
の存在を必要としていたのかもしれません。
==>> この本のストーリーに乗っかって言えば、
ついこの前までうちの隣にいた九州の一族が、東征して、畿内で
ヤマト政権というものをつくって、九州に戻ってきたって
ことになりますね。
そういうことなら、「な~~んだ、お前たちが戻ってきたのか」
ってな雰囲気で、邪馬台国連合とヤマト政権がすんなり
連合してしまったのかもしれないですね。
少なくとも神武東征の最初に立ち寄ったとさてる宇佐は
早かったみたいです。
p217
14代中哀天皇紀では、筑後の山門県(やまとのあがた)にいて、果敢に
ヤマト政権と戦った女首長・田油津姫(たぶらつひめ)のことを伝えています。
・・・女王のシャーマンであり、卑弥呼と同じく鬼道を使ったといいます。
・・・九州はまだ邪馬台国と同じ、巫女によるシャーマニズム国家にあった、
とみていいでしょう。
p218
要するに、この「熊襲」「土蜘蛛」と称される一族たちの正体とは、
邪馬台国連合の部落国家の王族たちのことであり、「記紀」に書かれた
この頃の「熊襲征伐」の真相は、進攻するヤマト政権vs死守する旧邪馬台国
連合の争いだったことに、間違いありません。
==>> 上のコメントに、うっかり早々と邪馬台国連合が吸収合併された
かのように書いてしまいましたが、その連合も一枚岩では
なかったようで、邪馬台国の一部や熊襲征伐には苦労したようです。
熊襲というのは南部を支配していた狗奴国などを指しているようです。
p245
少なくとも「倭人伝」が書かれた3世紀末の時代、中国王朝の人びとは、
「狗邪韓国は、女王国に属する倭の国である」という認識を持っていました。
・・・奴国(博多湾周辺)が「倭国の極南界なり」、つまり博多湾周辺が、
倭国の南の端っこである、と後漢書では言っているわけです。
p247
“3世紀末、朝鮮半島にも倭人の住む部落国家があった”これは間違いありません。
ただし、くれぐれも注意して欲しいのは、
「倭=日本」ではないということ。
・・・「倭人伝」が描かれた3世紀のこの当時は、海を通じて人びとは
自由に行き来しており、国家意識は当然希薄でした。
==>> この関連では、いわゆる倭寇に関連する本を読んでいた時に
知りました。
「田中健夫著「倭寇 海の歴史」を読む」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/09/blog-post_34.html
この中で、wikipediaからの引用として、こう書きました。
「古代の朝鮮半島は現代と比べ人口も少なく諸種族が点在しており、
半島南部には倭人、北部には沃沮(よくそ)、濊(わい)、扶余(ふよ)
などの濊貊(わいはく)系、挹婁、扶余、を中心に定住していた。
その中の中国の満州南部から渡来した夫余から発展した高句麗が南下
しながら半島に勢力を拡大し、これに連動するように半島中部で
北部の馬韓諸国を統合した百済、半島東南部では辰韓諸国を統合した
新羅が成立し、3国が鼎立するに至った。」
p249
倭国統一というのは、東アジアの情勢に影響されて、百済、新羅の
建国と同じ一連の流れとして捉えることができます。
ちなみにこの王朝交代劇の成功は、武内宿禰の存在が不可欠でした。
武内宿禰は成務・景行・仲哀・応神・仁徳となんと5代の天皇に
仕えた大臣で、葛城氏、平群(へぐり)氏、蘇我氏、巨勢氏(こせうじ)、
紀氏、波多氏、江沼氏の祖とされている人物。
また神事に関わり、霊媒者としての特殊な能力をたずさえていた、
とも言われています。
==>> ここで王朝交代劇と書かれているのは、
この著者は「仲哀天皇と応神天皇は、本当に親子なのか?」
というところから、「神功皇后は、仲哀天皇と応神天皇を
親子としてむすびつけるために、設定された人物と推定します」
ということで、ここで王朝が交代したとみているからです。
「万世一系」であることを示すために必要であったという
ことのようです。
武内宿禰については、こちらの動画でさっと確認しましょう。
https://www.youtube.com/watch?v=mbTpDxOAb0U&t=52s
佐賀県の武雄神社に宿禰が祀られているそうですから、
長寿と認知症予防のために御参りに行かなくちゃいけませんね。
武雄神社はこちら:
https://takeo-jinjya.jp/shrine/
御祭神
武内宿禰【たけうちのすくね】
武雄心命【たけおこころのみこと】
仲哀天皇【ちゅうあいてんのう】
神功皇后【じんぐうこうごう】
応神天皇【おうじんてんのう】
五柱の神を総じて武雄大明神と号します。
p251
この国際情勢、とりわけ高句麗・新羅との関係は、・・・
最終的には、「古事記」「日本書紀」を編纂しなければならない状況まで、
いえ、邪馬台国の名を隠さなければならない状況まで、倭は追い込まれていく
ことになるのです。
p255
近年の韓国の考古学研究により判明したことですが、伽耶の中心地から
大成洞(テソンドン)古墳をはじめ、朝鮮半島南部で、築造年代が
5世紀半ば~6世紀半ばの前方後円墳が次々と発見されました。
今のところ全羅南道に11基、全羅北道に2基の前方後円墳が確認されています。
p257
のちに「任那日本府」と呼ばれる経済・貿易拠点も、前方後円墳が築かれ
始めたこの5世紀半ばに、ヤマト政権が、対外貿易や文化摂取の足がかりと
して任那のある地方に置いたものではないでしょうか。
p258
ただ、ここで誤解ないようにことわっておかなければなりませんが、
任那日本府とは、ヤマト政権が韓を攻めて植民地化した機関ではありません。
まして朝鮮半島を支配下に置いたという考え方も、ありえません。
もともとあった倭国(狗邪韓国)の場所に、ヤマト政権が直接・・・置いた・・
==>> 以上のように、朝鮮半島南部には倭人(日本人ではない)と呼ばれる
人びとが住んでいた。そこは元々は狗邪韓国と呼ばれていた。
そこにヤマト政権は鉄などを入手するための拠点をおいていた。
しかし、「白村江の戦」で、惨敗して失ってしまった。
p261
邪馬台国の存亡。 そしてヤマト政権の誕生。
思えば、古代において倭国は、ずっと九州勢力とヤマト勢力とは並立して
成り立っており、もとを正せば弥生末期にこの二つの政権は、同じ北部九州の
部落国家だったといえます。
p264
「倭」という国を捨て、朝鮮半島への思いも捨て、あらためて日本列島の中の
単一民族国家として、“日の本の国”=「日本」“という国を建国しようとしたのです。
そんな中で出された「古事記」「日本書紀」編纂の“詔(みことのり)”。
その使命は二つ。 一つは海外に向けて、日本の単一民族の誇りと自立を謳うこと。
つまり、“我が国は、古くから由緒正しく高い文化性をもった王朝なのだ”
とアピールし、中国にも方を並べるくらい神聖な国なんだ、と宣言。
p265
もう一つは、国内に向けて天皇家を神格化させること。
天皇を神格化し、あたかも国土を作った神が自分には宿っているんだ、と強調
したのです。
だからこそ、天皇家は神世の代から万世一系でなければならなかった。
かつて中国から、倭の女王と称された「卑弥呼」の名は、絶対に隠さねば
ならなかった。女王国家とした「邪馬台国」の名も、もちろん。
p266
今日、宇佐神宮では「比売大神(ひめおおかみ)」とともに応神天皇・
神功皇后が合祀されています。
・・・かつての邪馬台国連合の一人として、応神が責任を持って、
卑弥呼の霊を鎮めているんだ、・・・・・
==>> 終わりました。
今までにも何冊かの本を読んで「古事記」や「日本書紀」に書いてある
謎がどういうものかについては、様々な歴史学者や研究者の説を
知識としては取り入れてきたつもりでしたが、なかなか全体像の
意味を納得して理解することはできませんでした。
その点、この本は、私のようなド素人でも、比較的すんなりと
納得できるように解説されていると思います。
この著者のストーリーの構成力がそうさせるのでしょう。
著者が論拠としているひとつひとつのパーツがどの程度
信頼できる情報なのかは私には分かりませんが、
古代日本の有様を「古事記」「日本書紀」そして「魏志倭人伝」など
を無理やりに解釈するのではなく、納得づくで語っていることに
好感を覚えました。
これで私も、九州出身の一人として、邪馬台国九州説とともに、
神武東征も邪馬台国とは別の九州の一族がおこなったものとして
物知り顔に語ることができそうです。
=== 完 ===
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