田中健夫著「倭寇 海の歴史」を読む ― 1 ― 松浦党などの倭寇を朝廷はコントロールできなかった。 遣元使船(寺社造営料唐船)が禅をもたらした

田中健夫著「倭寇 海の歴史」を読む ― 1 ― 松浦党などの倭寇を朝廷はコントロールできなかった。 遣元使船(寺社造営料唐船)が禅をもたらした

 

 


ここしばらくは、神道、神社、そしてその起源ということで、何冊かの本を読んで

きたのですが、そこで思ったのが、国境というものがまだ判然としなかった時代に、

どのような地域の文化圏があったのかということです。

 

そして、真っ先に頭に浮かんだのが倭寇の存在です。

フィリピンに過去15年ほど住んで、その間に、フィリピンの歴史教科書も少し

読んだのですが、そこにも倭寇の痕跡が書いてありました。

 

 

 


と言うことで、今回は倭寇を読んでみます。

 

 

まずは、日本の国境というものがいつ頃意識され固まったのかを検索したところ、

下のような説明がありました。参考まで。

https://q.hatena.ne.jp/1224305977

「日本では、江戸時代後期にすでに欧州で出来つつあった国家のあり方を持つロシアの

接近という外的要因と国学の大成による内的要因、さらに江戸幕府崩壊後の明治維新の

中で、現在の我々が使用する日本語の作成や帰属意識を作る国家の歴史を作り、教育して

いった。また、そこでは中国との差異化による固有性の発見と欧州への同一化によるアジア

における優越も思想的な問題として行われていたという。これによって、日本が漢語による

アジア圏から脱却し、一国家として他とは国境を持って一線を画すようになったのでは

ないかという。

ちなみにこれは、某大学で行われた講義で扱われていた部分をかいつまんで書いたもの

なので、その講義を行った教授の思想・考え・偏見が入っていることを忘れてはならない

ことも付け加えておきます。」

 

また、別の角度で、日本地図というものがどのように作られてきたのかをチェックして

おきましょう。

国境という意識はないようですが、こちらの室町時代の地図が日本列島全体という

意味においては最古級だそうです。

https://rekishi-memo.net/japan_column/chizu.html

14世紀中頃の室町時代(南北朝時代)に描かれた、本州から九州のほぼ全域が記された

日本地図だ。日本列島全体が残った地図では最古級のもの

近畿を中心に九州を上に描き、京都から各地へ街道が伸びている。日本と中国との中継ぎ

貿易で栄えた沖縄「琉球」も記されている。」

 

では、「倭寇」を読みましょう。

 

 


p003

 

倭寇は東アジアの沿海諸地域を舞台とした海民集団の一大運動であるが、構成員は

日本人だけではなく、朝鮮人・中国人・ヨーロッパ人をふくんでいる

日本史上の問題というよりも、東アジア史あるいは世界史の問題といったほうがふさわ

しい。

 

・・・大きな影響、大きな爪あとを中国大陸・朝鮮半島・日本列島・琉球列島・台湾・

フィリピン・南方諸地域の諸国人民に残し、これらの地域の歴史を変革しながら消滅

していった。

 

==>> まずは、倭寇と言えば日本人のようなイメージを払拭するような説明が

     出てきました。

     そこで、倭寇といわれる集団が暴れまわった範囲がどのあたりなのか、

     いつ頃だったのかを確認しておきます。

     「東アジアを脅かした海賊たちとは?」

     https://honcierge.jp/articles/shelf_story/4735

     「倭寇という言葉自体は太古の昔からありましたが、上記の意味で使われるよう

になるのは1350年、高麗の各地で日本人商人とみられる者らが侵略行為を起こ

すようになってからです。それから高麗ではしばしば彼らによる侵略を受ける

ようになり、高麗はその対策に追われます。

同じ頃中国大陸でも倭寇が見られるようになり、主に浙江(せっこう)、山東

(さんとん)、遼東(りょうとう)といった地域にて侵略がおこなわれました。

当時中国では元朝が滅び明朝が建国されていましたが、明朝は討伐のために

沿海部の防御を強化しています。」

 

こちらのサイトの説明には、一番古い記録のことが書かれています。

https://kotobank.jp/word/%E5%80%AD%E5%AF%87-154019

『高麗史(こうらいし)』に倭人が朝鮮半島に寇した記事が初めてみえるのは

1223年(貞応2)で、日本側の記録でも1232年(貞永1)に鏡社(かがみしゃ)

(佐賀県唐津市)の住人が高麗から珍宝を奪って帰ったと記している。」

 

・・・「倭寇という言葉自体は太古の昔からありました」というところが

非常に気になるのですが、この本を読み進める中で出てくればいいなという

ことにしましょう。

 

p017

 

「倭寇」ときくと、半裸でハダシ、大刀を腰にぶちこんで大海を荒らしまわるアラクレ

モノの日本人という姿を漠然と脳裏におもいうかべる人がいるようだが、このような

倭寇像は、歴史の真実とはかなりへだたっている

 

「倭寇」という文字のあらわれる史料で最も古いものは・・・高句麗広開土王(こうかいど

おう)(好太王)の碑銘である。

 

この碑の第二段に倭および百済(ひゃくさい)と高句麗とが交戦した記事があり、

・・・「倭寇潰敗、斬殺無数」とある。

・・・「倭」という言葉で日本をさしていることはまちがいないが、・・・・

 

==>> ここでは倭寇という名称が初めて文字として確認されて史料のことを

     述べているのであって、いわゆる「倭寇」の意味ではなく、日本からの侵略軍

という意味だとしています。

この本で扱う「倭寇」は、1350年の略奪行為からだとしています。

 

 

p023

 

本書では「前期倭寇」「後期倭寇」というよび方をとらず、「14~15世紀の倭寇」

「16世紀の倭寇」というよび方をとることにした。

この二つの時期の「倭寇」は、同じ倭寇の名でよばれているが、その発生の理由も、

構成員も、行動の地域も、性格もまったく相違していた・・・

 

14~15世紀の倭寇のなかには多くの日本人がいた。 朝鮮半島におけるかれらの

行動は日本人の罪悪史の1ページとして、ながく記憶されなければならない。

しかし、倭寇の構成員のなかには禾尺(かしやく)・才人(さいじん)などとよばれた

朝鮮の賤民層のものも多く参加していたのである。

 

p024

 

16世紀の倭寇は、中国人自身が、倭寇のうち日本人は1割か2割程度にすぎないと

書いているほどで、大部分は中国人であった。

 

==>> 上記にある禾尺(かしやく)・才人(さいじん)については、

     こちらのサイトでは、「高麗時代には国家の職役についていない一般庶民

     が元であると述べていますので、要するに国家公務員以外の私らのような

     民間人はこのカテゴリーに入るようです。

     https://kotobank.jp/word/%E7%A6%BE%E5%B0%BA-1289361

 

 

p031

 

藤原定家の日記「明月記」を見ると・・・

松浦党という鎮西の凶党等が数十艘の兵船でかの国の別島(巨済島か)に行って合戦し、

民家を焼き、資財をかすめとった。・・・朝廷のためにははなはだ奇怪なことである」とし、

日本が高麗の恨みを買うようなことになれば、宋との往来も容易でなくなるといい・・・」

 

==>> ここでは、日本の松浦党が高麗で乱暴狼藉を働いているので、朝廷が

     困っている様子を書いています。

     松浦党というのは、「肥前(ひぜん)国松浦(まつら)地方(佐賀・長崎両県の玄界

(げんかいなだ)に面する海岸地方)に割拠した弱小武士団に対する呼称。

・・・平安時代末期には武士化して、水軍的性格を有する武士団に発展した。」

https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E5%85%9A-136799

であるとされています。

つまり、朝廷のコントロールができない集団であったことは確かなようです。

     ちょっと他人事のような距離感がありながら、その影響を不安に思っている

     のが朝廷の立場なのでしょうか。

 

     ところで、私の父は佐賀県、私自身は長崎県の出身ですからねえ。

     まさに、もしかしたら、祖先は松浦党あたりだったかもしれませんねえ。

 

 

p040

 

禾尺(水尺とも書かれる)・才人(さいじん)は、朝鮮人から異種族と見られていた

賤民で、・・・これが倭寇と結びついて高麗の官庫をおびやかしたのである。

後年のことになるが、李朝鮮の世宋二十八年(1446)判中枢院事李順蒙は、倭寇の

構成人員のことに言及して、「倭人は1~2割で、朝鮮人が倭服をかりに着て徒党して

乱をなしたのだということを聞いている」と語っている。

 

==>> 神社に関する本にもあったように、朝鮮半島と北九州あるいは出雲あたりとの

     間には、弥生時代や古墳時代からすでに玄界灘文化圏みたいなものがあった

     ようですから、そこが倭寇の文化圏の下地にもなったのではないかと

     思えます。 こちらのサイトは参考まで。

     「銅矛文化圏の歴史」

     https://blog.goo.ne.jp/ikejun_2018/e/8d65eabf466d4f9ade5d48ec53838fd3

 

     上記に、「禾尺・才人は、朝鮮人から異種族と見られていた」と書いてあるのが

     ちょっと気になったので、古代の朝鮮半島の民族とはどのような感じだったの

     かを確認しておきます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%B0%91%E6%97%8F

     「古代の朝鮮半島は現代と比べ人口も少なく諸種族が点在しており、半島南部に

は倭人、北部には沃沮(よくそ)、濊(わい)、扶余(ふよ)などの濊貊(わい

はく)系、挹婁、扶余、を中心に定住していた

その中の中国の満州南部から渡来した夫余から発展した高句麗が南下しながら

半島に勢力を拡大し、これに連動するように半島中部で北部の馬韓諸国を統合

した百済、半島東南部では辰韓諸国を統合した新羅が成立し、3国が鼎立するに

至った。」

     ・・・なんと、南部には「倭人」と呼ばれる人たちが定住していたんですね。

     ってことは、なにも今の日本列島にすむ人たちを倭人と呼んでいたわけでも

     なさそうな拡がりがあるようです。

 

p043

 

征東行中書省とは元が高麗に設けた地方統治の機関で、高麗国王を最高長官とし、高麗の

全領域を管轄区域としていた。 幕府は高麗の劄付(きっぷ)に答えて、賊船が外国を侵犯

しているが、これらはいずれも四国・九州地方の海賊どもの行為であり、京都からは厳罰を

加えることができない、として朝廷に代わってはじめて返書を送り、鞍馬・鎧・太刀などを

使者にもたせて高麗に送り返した。

 

p045

 

使節に任じられたのは・・・・・で、いずれも高麗にあっては大官・高吏で名臣とうたわれ

た人物であった。 かれらは幕府ばかりでなく今川氏や大内氏とも連繋を確保し、倭寇に

よって略奪された高麗人の送還に努力し、成功した。

・・・これは高麗の人民が奴隷として売買の対象にされていたことを物語るものである。

 

==>> 結局、朝廷としては何もできず、高麗側が幕府・今川氏・大内氏などと

     連繋して倭寇側との問題解決に動いたようです。

     奴隷売買については、先に読んだ本の中にも、朝鮮人が琉球で売買されていた

     という話がありました。ただ単に、玄界灘という領域だけではないようです。

 

     岡谷公二著「原始の神社をもとめて」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/09/blog-post_27.html

     「p122

琉球は、李朝になってからもしばしば倭寇にされわれた朝鮮の人々を送り返し

ている。倭寇は、さらった朝鮮人を沖縄に来て奴婢として売っていたらしい。」

 

 

p050

 

最後のあがきともいえる倭寇に対して、朝鮮側が示した懐柔策は大きな成果をあげた

懐柔策の第一は、倭寇の首領に降服帰順をすすめ、降服すれば田地や家財をあたえて

優遇し、さらに妻を娶らせて安住させようという政策である。 降服した日本人は

投化倭人・降倭・向化倭人などと呼ばれた。

 

投化倭人のはやい例は高麗時代の1369年にみえるが、・・・急増したのは朝鮮の

時代になってからである。

 

p051

 

・・・投化倭人となるものが続々あらわれた。 対馬・壱岐・松浦地方の人が多かった

ようである。 投化倭人のなかには、倭寇の防禦に働くものもあれば、・・・僧原海の

ように医術の心得があるという理由で長髪させられて典医博士に登用されたものもある。

 

 

p055

 

高麗から朝鮮にひきつがれた政治折衝と軍備の拡充、倭寇の首領にたいする降伏勧告、

通商許可、倭寇自身が奥地に深く入りすぎて自滅したことなどの諸要因がかさなって、

倭寇は変質・分解を余儀なくされた。

 

 

==>> ここを読んでいると、結局は庶民の経済問題が根っこにあったということ

     のようですね。

     それにしても、対馬・壱岐・松浦地方の人たちが日本の政権ではなく、

     高麗の政策によって投化倭人になったということは、日本の政権の

     統治能力がなかったってことになりませんか。

 

     こちらのサイトの解説を読むと、ほとんど高麗任せだったことが分かりますね。

https://kotobank.jp/word/%E6%8A%95%E5%8C%96%E5%80%AD%E4%BA%BA-1375520

     「投降する倭寇(投化倭人)には朝鮮内に土地・家財を与えて安住させ,通商を

求める西日本の諸大名・豪族層(使送倭人)や商人(興利倭人)には富山浦(釜山)

,薺浦(せいほ)(乃而浦(ないじほ)。熊川),塩浦(蔚山(うるさん))の三浦

(さんぽ)を開港して貿易を認めた。」

 

 

p058

 

日本から元に渡った貿易船は寺社の造営料を得ることを目的にしたものが多かった。

 

・・・建長寺造営料唐船・・・関東大仏造営・・・住吉社造営・・・天竜寺造営

・・・療病院造営料唐船などは、朝廷の勅許や幕府の許可をうけて計画されたり

実行されたものであったが、内容な貿易船であった。

 

 

p059

 

日本と元との通交で見逃すことができないのは禅僧の往来である。・・・中国の名僧が

渡来して、日本における禅文化興隆の基礎がきずかれ、日本からは・・・

 

p060

 

禅僧が頻繁に往来したことにより中国の禅林の制度や漢詩・漢文をはじめとして儒学・

史学・書道・絵画など諸般の学芸が日本に伝えられた

 

==>> 遣隋使船とか遣唐使船などは当たり前に聞きますが、遣元使船とでも呼ぶべき

     寺社造営料唐船という名称は恥ずかしながら初めて聞きました。

     こちらのサイトで詳しくご覧ください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%A4%BE%E9%80%A0%E5%96%B6%E6%96%99%E5%94%90%E8%88%B9

     「寺社造営料唐船(じしゃぞうえいりょうとうせん)は、14世紀前半(鎌倉時

代末期から南北朝時代にかけて)に、主要な寺社の造営(修復・増築を含む)

費用を獲得することを名目として、幕府の認可の下、日本から元に対して派遣

された貿易船群のことである。」

「元に滅ぼされた南宋(1279年に滅亡)から日本へ渡った蘭渓道隆・兀庵普寧

や、北条時宗の招きに応じて来日した無学祖元、元からの国使として来日した

一山一寧など13世紀末から14世紀前半にかけて大陸から日本へ渡来した

禅僧は多く、彼らの薫陶を受けた日本の弟子たちは、師が学んだ元への留学を

望んでいた。」

 

日本における禅と言うと、私は鎌倉時代の武士の仏教というイメージしか

なかったのですが、こちらのサイトによれば、随分昔から禅は日本に入って

来ていたようですね。

 

日本の禅とその歴史

https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/nipponnzen1.htm

「日本に最初に禅を紹介した人物としては飛鳥時代の僧道昭(629700

するのが通説である。道昭は飛鳥時代の元興寺(飛鳥寺)の僧であった。」

道昭の火葬後火葬は天皇はじめ貴紳の間で急速に普及した。」

「禅宗自体はまだ不振で、義空は数年の滞在で唐に帰国した。そのためか義空が

早々ともたらした南宗禅が日本に根付くことはなかった。」

 

「道セン(どうせん)が伝えた北宗禅(楞伽経系の達磨禅)は平安時代伝教大師

最澄(767822に伝わっていた。」

「最澄は帰国して円・密・禅・戒の四宗を総合した日本天台宗を標榜した。

日本天台宗に含まれる禅は神秀由来の北宗禅に近いことから楞伽経系の達磨禅

だったと言える。」

 

栄西は文治三年(1186)に再び入宋した。彼は天童山景徳寺に住していた

虚庵懐敞(きあんえしょう、)に師事し臨済宗黄竜派の禅を修行した。」

「1223年、明全と共に入宋した道元は天童山景徳寺において如浄(にょじょ

)の弟子になり本格的な曹洞禅の修行に打ち込んだ。」

「奈良時代に道昭や最澄、道せん等によってもたらされた禅は結局日本には

定着しなかった。

日本の禅は殆ど中国の宋・元の時代に学び輸入されたものである。」

 

・・・という禅の歴史があって、結局は上記の寺社造営料唐船によって元の時代

に入ってきた禅が鎌倉の武士などの間に定着していったということのようです。

 

 

p089

 

このころ沖縄本島には山北・中山・山南の三王が分立して勢を競い、それぞれ明に朝貢使を

送っていた。 ・・・とくに那覇は国際港の観を呈していたらしく、日本からの船もここに

多く立ちより、倭寇に捕らえられた高麗の被虜人も転売されたにちがいない。那覇が倭寇の

活動圏の一部であったことは容易に理解されよう。

 

p091

 

尚巴志王統が成立してから、琉球と南方諸国との貿易がにわかに活発になった。

 

==>> ここで著者は、琉球から南方諸国への貿易が拡大したことを書いています。

     諸国というのは、スマトラ、ジャワ、マラッカ、タイ、ベトナムなどの名を

     あげています。

 

 

 

p096

 

1455年・・・道安は琉球王尚泰久の書契をもって朝鮮に入り、大蔵経の支給をねがい

でた。 琉球はこのころ仏教の勃興期で、高麗版の大蔵経に対する要求は切実なもの

があったのである。

 

ついで1457年・・・にも道安は琉球国使として土物を朝鮮王に献じ、済州人等の

漂流民を送還した。

 

==>> 高麗と琉球の関係については、先に読んだ本の中で、東シナ海での海流に

     乗ったと思われる漂流民の話もでました。

 

     岡谷公二著「原始の神社をもとめて」

     https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2022/09/blog-post_27.html

     「p116

済州島には、朝鮮半島から当然人が渡って来たであろうし、五島列島や対馬とは

距離的に近いのだから、倭人とのかかわりが深かったであろうし、黒潮の流れに

洗われていたのだから、南方からも人々はやって来たであろう。

p117

済州島と日本との関係についていうならば、古代から両者の間に移住や混血が

繰り返されてきたことはまちがいない。 どくに、距離的にもっとも近い五島列

島、対馬ではそのようなことは日常茶飯事だったとさえ思われ、韓半島南海、

西海の島々と、玄界灘の島々は、かつては同一文化圏に属していた可能性もある。」

 

 

・・・ここまでで、14~15世紀における倭寇の話を終わります。

 

次回は、「4 十六世紀の倭寇の胎動」に入ります。

 

 

 

===== 次回その2 に続きます =====

 田中健夫著「倭寇 海の歴史」を読む ― 2(完) ― 朝鮮半島からフィリピンまで暴れまわった多国籍の倭寇、倭寇の頭目王直は平戸住まい、日本人は首狩り族? (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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