大和岩雄著「秦氏の研究」を読む ―6― 稲荷大社はなぜ狐? 稲成りが稲荷 秦氏=ユダヤ人説 オシラ神は北陸なのか東北なのか 松尾(まつのお)大社は特別扱い
大和岩雄著「秦氏の研究」を読む ―6― 稲荷大社はなぜ狐? 稲成りが稲荷 秦氏=ユダヤ人説 オシラ神は北陸なのか東北なのか 松尾(まつのお)大社は特別扱い
「伏見稲荷大社 ― 稲荷信仰の白鳥・白狐・狼 ― 」から読み進めます。
p290
この記事からみても、稲荷社の創祀は和銅年間である。 だが、この「創祀」は、
秦氏が社殿を建てて「伊奈利社」として祀った時期をいうのであって、稲荷山の神が
単なる山の神とはいえない点である。
p291
この山頂の古墳を山田知子は、「秦氏の始祖の墳墓」とみて、秦氏の稲荷信仰を、稲荷山
に対する秦氏の祖霊信仰とみる。
稲荷山山頂の古墳は、秦氏の移住前の首長の墓である。 地元の土着民は稲荷山山頂
の古墳を、祖霊墓のある神聖な山として祭祀していた。こうした地元民の祖霊の山の
信仰に、秦氏の信仰が重なったのが、現在の稲荷山の信仰であろう。
==>> つまり、元々の地元民が祖霊信仰の対象としていた山を、秦氏の祖霊の
神聖な山として、伊奈利社を祀ったということのようですね。
p296
ヤマトタケルが死んで白鳥になるのも、白鳥に死のイメージがあったからだが、穀物
の死体化生と同様に、白鳥のイメージは誕生を内包する。
「イネナリ」の白鳥伝説に死と再生のモチーフがうかがえるのも、白鳥と冬・死・種・
倉稲魂のイメージが重なっているからであり、穀霊伝承としての白鳥伝承とお塚信仰は
結びつく。
p297
稲荷山山頂の被葬者は穀神(ウカノミタマ・オホゲツヒメ・ウケモチ)になる。
稲荷大社の主祭神がウカノミタマなのは、稲荷山山頂に葬られた死者を穀神とみたからで
あろう。
『豊後国風土記』は・・・・・白鳥が北から飛来して、餅と化し、しばらくたって、数千株
の里芋に化し、「花と葉が、冬も栄え」たので、朝廷の報告したら、天皇が「豊国」と
命名したとも書いている。
p298
稲荷のお塚信仰は、単なる祖霊信仰ではなく、稲成りの信仰なのである。
==>> 要するに、単に墓地でもなく、祖霊信仰だけでもなく、豊穣を祈るための
穀神の信仰が「稲成り」で「稲荷」ということなのでしょうか。
p300
白狐は、白鳥と共に、生命の源泉である「種」として、豊穣(福)を約束するもので
あった。
p302
柳田国男は、「秦の大津父の出世譚以来、狼が人の恩に報いた話は算へ切れぬほどある」
と述べている。 狼が「大神(オオカミ)」の意とみられることからも、秦大津父に福を
もたらした狼は、伏見稲荷大社にとって「貴き神」の代表だったのであろう。
それが狐に変わったのは、中国の福神としての狐に関する知識によるのだろう・・・
p303
松山義雄も、狼(山犬)伝承を収集し、狼が、農作物を荒らす猪や鹿を退治してくれる
益獣であることを、指摘している。
==>> ここでは、なぜお狐様なのかの謎解きが述べられています。
元々は大神=狼だったかもしれないが、狼と狐は同類と考えられたのかも
しれないという説明もあります。
狛犬は犬ですが、これも同類と考えればいいんですかね。
しかし、狛犬の場合は、片方がライオンでもう一方が犬という話で、
元々は獅子(ライオン)ではなく、犬だったともいわれていますから、複雑です。
おまけに、狛犬ならぬ狛うさぎの神社もありますからね。
昨日お参りにいった浦和の調(つき)神社がそうでした。
「社名の「ツキ」により月待信仰が古くからあり、狛犬ではなく狛ウサギがある
神社として知られる。」・・・なんだそうです。
「木島坐天照御魂神社 ― 三柱鳥居の謎と秦氏 ― 」
p312
この神社は、国宝指定第一号の弥勒菩薩半跏思惟像のある秦氏の氏寺広隆寺に隣接して
・・鎮座し、今は「蚕の社(かいこのやしろ)」・・・、または「木島(このしま)神社」
・・と呼ばれている。
p313
このように、尾張氏・物部氏が祭祀氏族になっている天照御魂神の祭祀氏族に、
秦氏がなぜ入っているのだろうか。 その謎を解くのが、当社にあるわが国唯一のもの
といわれる、「三柱鳥居」である。
佐伯好郎は、「太秦(禹豆麻佐)を論ず」という論文・・・景教(七世紀前半に中国に
入ったキリスト教の異端ネストリウス派)の遺跡とした。
唐の建中二年(782)に建てられた「太秦景教流行中国碑」という景教碑が、かつての
景教の寺、太秦寺にあり、三柱鳥居が太秦の地にあること、三角を二つ重ねた✡印が
ユダヤのシンボルマーク、ダビデの星であること・・・・
==>> 秦氏はユダヤ人であるという説のひとつの根拠でしょうか。
このような本も出版されています。
京都はユダヤ人秦氏がつくった
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784594087395
「巨大な古墳や平安京の造成、寺社建築、仏像制作に関わり、古都・京都の原型
をつくったのはユダヤ系の渡来人、秦氏だった!なぜ日本の規格に合わない
都がつくられたのか。渡来人は朝鮮人・中国人という思い込み。太秦はなぜ
「ウズマサ」なのか。祇園祭の起源は何か。八坂神社、伏見稲荷大社、上賀茂
神社、松尾大社、他、古代史の定説を覆す新説。」
ただし、この著者は、「佐伯説は成り立たない」と断じています。
「三柱鳥居」については、その2で既に書きました。
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2023/01/blog-post_17.html
「p085
山城秦氏の本拠地には、養蚕(こかい)神社(京都市右京区太秦森ケ東町)が
あり、秦氏が祭祀している。 地元では、「蚕の社」という。
秦氏が祭る伏見稲荷大社の祭神についても、『稲荷社記』は、養蚕の道を最初に
始めた神と記す。」
・・・ここに出てきた「三柱鳥居」が気になります。
昨年お参りに行った奈良の大神神社の一の鳥居の近くにもあった三柱鳥居です。
こちらのサイトに詳しいことが書いてありました。
大神教本院の三柱鳥居
https://narayado.info/kikimanyo/mihashira-torii.html
このサイトでは、大神教本院と秦氏の神社の三柱鳥居は趣旨が違うようだと
しています。
p315
双ヶ丘は嵯峨野一帯に居住する秦氏の祖霊の眠る聖地であり、三柱鳥居の正三角形の
頂点は、それぞれ秦氏の聖地を指し示している。
尾張氏・物部氏が祭祀する天照御魂神を、なぜ、渡来氏族の秦氏が祀るのか。
朝鮮でも同じ信仰があったからである。
『古事記』の大年神神統譜に、「白日神」が載り、その兄弟神として、韓神(からかみ)・
曽富理(そほり)神・聖(ひじり)神が載る。
p318
このように迎日祭祀が朝鮮でおこなわれていることからみて、秦氏が奉斎する天照御魂
神社の三柱鳥居は、朝鮮の白日神の信仰と、稲荷大社にみられる祖霊信仰がミックスした
信仰のシンボルとみられていたのであろう。
==>> 白日神の信仰に関連して、こちらのサイトでは、下のような記述が
あります。
上・大年神の系譜 旧 白日神(地祇本紀)
http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/shinmei/shirahinokami/
「大年神と伊怒比売との間に生まれた兄弟五神については、神名から、渡来系の
神かといわれ、あるいは、渡来系氏族の秦氏らによって奉斎された神とも論じら
れている。」
「新羅神説に対しては、上代特殊仮名遣い新羅のギが乙類仮名でと白日のヒが
甲類仮名であるから不可とする説がある。向日神説に対しては、写本がみな
「白日」表記で「向日」と書かれたものがないことから否定する説がある。」
・・・いずれにせよ、諸説あり・・という感じです。
秦氏の研究という観点からは、限りなく半島からやってきたという
雰囲気になっているようですが・・・
p320
『古事記』は、新羅の王子天之日矛は、沼のほとりで日光の女陰を刺された女が
生んだ姫を妻にしている。
日光感精伝承の沼のほとりが、河合であり三柱鳥居の池・泉である。 三柱鳥居が池の
中にあるのも、秦氏が加羅・新羅系であることからみて、天之日矛伝承の沼のほとりの
話と関連がある。
==>> ここでアメノヒボコを確認しておきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%83%92%E3%83%9C%E3%82%B3
「アメノヒボコは、記紀等に伝わる朝鮮半島の新羅からの新羅人または渡来神。
『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」」
「『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子の天日槍が渡来した
と記す。」
「天之日矛は妻が逃げたことを知り、日本に渡来して難波に着こうとしたが、
浪速の渡の神(なみはやのわたりのかみ)が遮ったため入ることができなかった。
そこで再び新羅に帰ろうとして但馬国に停泊したが、そのまま但馬国に留まり
多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶り、前津見との
間に多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けた。」
「但馬地方では、上述の出石神社をはじめアメノヒボコに関連する式内社数社
の分布が知られる」
・・・まあ、つまり、難波に逃げた妻を追いかけて渡来して、そのまま
居ついてしまったということのようです。
要するに、半島と列島は、昔から結構行き来があったってことみたいです。
「養蚕(こかい)神社 ― 秦氏と養蚕と白神信仰 ― 」
養蚕神社は、木島坐天照御魂神社の境内社で、「太秦」の地にあるが、この地は
山城秦氏の本拠地である。
==>> とりあえず、養蚕神社を確認。
https://kaiun.sseikatsu.net/kaikonoyashiro/
「秦氏は養蚕、織物の技術者を連れてこの地に移ってきました。
この地に織物の祖神を祀ったのが養蚕神社の始まりと伝わります。」
・・・このサイトには、三柱鳥居の複製がある東京の三囲神社との関わりも述べ
られています。 三井・三越との関係です。
p330
藤原相之助は「おしら神考」で、ネフスキイの説を引いて、オシラ神信仰は、シベリア
沿海州のツングースの間にもあり、東北中国や北朝鮮、そして閩越(びんえつ)地方の
苗(ミヤオ)族の間にも残っていると書き、越前・加賀地方にある新羅神社の新羅神は
オシラ神で、加賀や東北地方で養蚕の神として祀られている白山神、御白神も、
同じ神だと書く。
==>> 越前・加賀地方の新羅神社を検索してもなかなか出てこないのですが、
やっとこちらがひっかかってきました。
福井県の新羅神社
http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/117_2.htm
「当地方も新羅・加耶系氏族に係る伝承や伝説が多く、神社の祭祀氏族としては、
秦(はた)氏(朝鮮語のパタは海の意で、渡来海人であろう)が圧倒的に多い。」
「当地の神社で新羅神社と標記される神社は現存しないが、
標記の方法を変え
て新羅(しらぎ)信仰を今に伝えている神社がいくつか残っている。
敦賀市の
「白城(しらぎ)神社」(所在地・白木)、
「信露貴彦(しろきひこ)神社」
(沓見(くつみ))、
小浜市の「白石(しらいし)神社」(下根来(しもねごり))
などである。これらに
加え「気比(けひ)神社」「角鹿神社」「須可麻(すがま)
神社」なども
新羅・加羅系の氏族が祖神を祭ったといわれている。」
「上古敦賀の港は三韓(古代朝鮮)交通の要地にして、三韓・任那人等の多く
此地に渡来し、
敦賀付近の地に移住土着したる者少なからず。其族祖神を新羅
神社として祭祀せるもの多く、
信露貴神社亦共一に属す」(『今庄の歴史探訪』)」
一方、オシラ神信仰はどうかとチェックしましたが、ほとんどが
東北地方の記事で、北陸地方はほとんど解説がありません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%97%E3%82%89%E6%A7%98
「おしら様(おしらさま、お白様、オシラ様、オシラサマとも)は、日本の東北
地方で信仰されている家の神であり、一般には蚕の神、農業の神、馬の神と
される。」
「おしら様信仰誕生の背景に山神信仰や、養蚕作業、生活の糧の馬に対する信仰
その他が混ざり、原初的な多様な性格を有する神として成立したものとする
見方もある。伊勢地方の天白神、または中国神話の「蚕馬」を原型とする見方も
ある。」
p330
布目順郎は、オシラ神信仰は、白山のある北陸から越後、甲斐、三河、関東、東北へ
広まっていったとみて、「オシラ神のシラは新羅神、ひいては新羅国に由来するもの
かもしれぬ」と書いている。
p331
養蚕神社の祭祀者秦氏は、新羅国に併合された加羅の地からの渡来人だから、一般に
新羅系といわれている。
==>> この本では、オシラ神は、北陸が発信源という感じですが、上記のwikipedia
では、近年は東北中心という書き方なのでしょうか。
こちらのサイトでどんな姿の神様なのかを見ておきましょう。
【千と千尋の神隠し】神様一覧
https://smailog.com/sentotihiro-god/
「白くてふくよかな体に赤いふんどしと頭に乗っている赤いお椀が印象的な
神様です。大根の神様と言われており、実際に蚕や農業、馬の神様として東北地
方にて同じ名前の神様が信仰されています。」
「おしら様は農家の娘が一頭の雄馬に恋に落ちてしまい、怒ったお父さんが
その雄馬を亡き者としてしまいます。しかし馬と共にショックを受けた娘も
亡くなってしまい、その娘の魂がおしら様になったといわれています。」
ネフスキイのオシラ神研究については、こちらに少し述べられています。
https://www.wul.waseda.ac.jp/Libraries/fumi/31/31-10.html
「日本での研究生活では民俗学を中心とし、オシラ様の研究、アイヌ語や宮古島
方面の研究をし、1925年には西夏語研究のため北京に赴いたり、27年には台湾
を訪れ、曹族言語の研究などを行っている。」
こんな本が出版されているようです。
ニコライ,A.ネフスキイ氏書翰(1)--オシラ様研究をめぐって
https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I839047-00
・・・私はここまで深入りはしませんが・・・・
でも、北陸地方のオシラ様は歴史の中で、神社の名前とともに消されてしまった
のでしょうか?
p333
中国では、太陽は東海の島にある神木の桑から天に昇るとされ、日の出の地を「扶桑
(ふそう)」と称した。 ・・・桑をつむのに特に「東に向く」のは、扶桑の観念による。
==>> 扶桑という言葉は、「扶桑の名の由来は日本国の古い異名の一つ」「扶桑・扶桑国
は、中国における日本の異称となったが、それを受けて日本でも自国を扶桑国と
呼ぶことがある」
だったとは知りませんでした。
知っていたのは扶桑トラックだけ。
「松尾大社 ― 秦氏女子の水辺祭祀と賀茂の御阿例祭 ― 」
p339
『三大実録』によれば、元慶七年(883)十二月、秦宿禰・秦忌寸らが惟宗(これむね)
朝臣に改姓しているから、『秦氏本系帳』は惟宗家にあって、惟宗公方(きんかた)は
それを『本朝月令』に引用したのであろう。 なお、薩摩の島津家、対馬の宗家も、
もとは惟宗氏である・・・・
==>> おお、これには驚きました。
島津家が渡来系、秦氏系であったとは・・・・
これはもしかして、宇佐八幡宮を宇佐氏に乗っ取られた秦氏の一族が、
前回その5で読んだように、大隅正八幡宮として鹿児島神宮を創建したのと
関わりがあるのでしょうか。
p344
韓神、曽富理神、白日神、聖神は、朝鮮の神だが、大山昨神は朝鮮の神ではない。
わが国の山の神であったのが、秦氏が松尾大社の祭祀氏族になったことで、秦氏系に
入れられたのである。
『古事記』は、朝鮮からの秦氏がもち来た韓神と同じ系譜に大山昨神を入れているが、
・・・大山昨神は天知加流美豆比売(あめのちかるみずひめ)との間に生まれた神
として、区別している・・・・
==>> 大山咋神(おおやまくいのかみ)をチェックします。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%92%8B%E7%A5%9E
「『秦氏本系帳』に記載がある丹塗矢の神話によると、上賀茂神社(賀茂別雷
神社)の賀茂別雷大神は松尾大社の祭神、すなわち、大山咋神とされるという。」
・・・秦氏は、あちこちの神様と繋がっているんですねえ。
もう、訳が分かりません。
p349
加羅・新羅の水辺の日光感精と卵生伝承が、秦氏を通して、賀茂の丹塗伝説になったと
考えられる。 たぶん、松尾神社の斎子としての秦氏の子女の「御阿礼祭儀」が、賀茂神社
の祭儀にとりこまれ、賀茂神社が宮都と皇室の鎮守社になったため、「阿礼乎止売(乙女)」
が皇女(内親王)になったのであろう。
==>> 「たぶん」のニュアンスが分からないのですが、秦氏の子女が賀茂神社の
祭儀をやるようになって、松尾神社と賀茂神社が繋がったようです。
丹塗矢伝説(にぬりやでんせつ)
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%B9%E5%A1%97%E7%9F%A2%E4%BC%9D%E8%AA%AC-858488
・・・これを読むと、確かに日光感精伝説と発想がにているかなと
思います。
日光感精伝承(にっこうかんせいでんしょう)
https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E5%85%89%E6%84%9F%E7%B2%BE%E4%BC%9D%E6%89%BF-1385453
しかし、これほど世界中にある伝承だということになると、
もしかして、イエスもこの類になるんでしょうか。
いわゆる処女懐胎ですね。
p350
『続日本紀』には、延暦三年(784)十一月十一日に桓武天皇が乙訓(おとくに)の
長岡京へ行幸、二十日に「都を遷せるを以って」「賀茂上下の二神を従二位に叙し、
松尾・乙訓の二神を従五位に叙す」とある。
また延暦五年十二月二十六日に、従五位下から十四位下へ昇叙されている。
乙訓神社は丹塗矢伝承の丹塗矢(火雷神)を祭神にする神社だが、この賀茂神社系三社
と当社(松尾大社)は、長岡京のとき、すでに秦氏が奉斎する神社でも特別扱いである。
p351
両社とも秦氏が奉斎する神社でありながら、稲荷社は当社より220年おくれて正一位
に昇っている。
平安中期の22社の制についていえば、康保2年(965)にまず16社(伊勢・石清水・
賀茂・松尾・平野・稲荷・春日・大原野・大神・石上・大和・広瀬・竜田・住吉・丹生・
木船)がきまり・・・・
==>> つまり、大昔から神社の格付けは、朝廷にどれだけ貢献したかで
決められたということなのでしょうか。
松尾大社(まつのおたいしゃ)
https://www.matsunoo.or.jp/about01/
「[磐座祭祀]
当社の御祭神“大山咋神”は、当社社殿建立の飛鳥時代の頃に、始めてこの場所に
祀られたものではなく、それ以前の太古の昔よりこの地方一帯に住んでいた
住民が、松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って、
生活の守護神として尊崇したのが始まりと伝えられております。」
「[秦氏来住]
五世紀の頃、秦の始皇帝の子孫と称する(近年の歴史研究では朝鮮新羅の豪族と
されている)秦(はた)氏の大集団が、朝廷の招きによってこの地方に来住する
と、その首長は松尾山の神を一族の総氏神として仰ぎつつ、新しい文化をもって
この地方の開拓に従事したと伝えられております。」
・・・お酒の神様ということだけは知っていましたが、この公式サイトでは、
秦氏の渡来人が移住してきたことをしっかりと書いています。
上記にあるように、元々は磐座などが祀られていたところに、神社としての
体裁を造っていったということのようです。
・・この後、白山神社、志呂志神社・白髭神社、大酒神社、大避神社の章があるんですが、
都合により、スキップします。
従って、次回は「四、 秦氏と芸能民と職人」から読んでいきます。
===== 次回その7 に続きます =====
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