大和岩雄著「秦氏の研究」を読む ―7― 神鏡、傀儡師とは、 遊女・舞女が天皇の御子を、 芸能・祭・神事・巫女、大酒神社に行かなくちゃ、新羅系の倭鍛冶? 身分のギャップ
大和岩雄著「秦氏の研究」を読む ―7― 神鏡、傀儡師とは、 遊女・舞女が天皇の御子を、 芸能・祭・神事・巫女、大酒神社に行かなくちゃ、新羅系の倭鍛冶? 身分のギャップ
「四、 秦氏と芸能民と職人」に入ります。
p413
香春の採銅所(古宮八幡宮)から八幡神の「御正体」といわれる神鏡が巡行する祭事は、
仏教と習合して放生会といわれているが、神鏡は終着地として宇佐の和間浜の浮殿頓宮に
着く。 この和間浜の浮殿は、初めて八幡神が辛島乙目に託宣した「比志方荒城塩辺」と
重なる・・・・
==>> まず放生会(ほうじょうえ)を公式サイトで確認します。
宇佐神宮の公式さいとより:
http://www.usajinguu.com/festival-detail/#detail05
「養老4(720)年、大隈・日向の隼人(はやと)の反乱を鎮圧するため、大和
朝廷は八幡神へ祈請し、薦枕(こもまくら)を神験(みしるし)として神輿に
奉じ、戦地である大隅・日向に赴きました。この時の輿が、日本で初めての神輿
とされています。」
「神亀元年(724)には「隼人の霊を慰めるため放生会をすべし」との託宣が
あり、天平16年(744)八幡神は和間(わま)の浜に行幸され、鎮圧された
隼人の霊を慰めるため、蜷(にな)や貝を海に放つ「放生会」の祭典がとり行われ
ました。これが「放生会」の始まりです。」
Wikipediaでは、下のような解説があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E7%94%9F%E4%BC%9A
「放生会(ほうじょうえ)とは、捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める
宗教儀式。放生会は古代インドに起源をもつ行事で中国や日本にも伝えられた
という。」
「この金光明経による放生会を最初に実行した人物が隋代の中国天台宗の開祖
智顗であるといわれる。」
「宇佐八幡宮においては、養老四年(720年)に大隈・日向両国で隼人が反乱し、
その鎮圧の為多数の隼人を殺生した事を滅罪する為、宇佐八幡宮の大神諸男と
禰宜尼大神杜女によって創始されたと伝え、各地の八幡宮にも伝播していった。」
・・・これらの解説を読むと、日本では、生類憐みというよりも、隼人の霊を
鎮める為という意味合いが強いようです。
・・・上記の解説には神鏡の話は出てきませんが、下のサイトでは、その神鏡
の行幸のルートが書かれています。
https://kawara-kankoh.com/route/388.html
「清祀殿では、奈良時代の8世紀初頭から、大分県宇佐市にある全国の八幡宮の
総本宮、宇佐神宮に銅の御神鏡を鋳造し奉納していました。その際、御神輿で
運んだといわれて、その宇佐神宮を通じて、奈良の大仏鋳造にも貢献したといわ
れています。」
・・・しかし、「宇佐の和間浜の浮殿頓宮」というのが出てきません。
その「浮殿」はこちらのサイトで確認。
「浮殿とは和間神社のことを指す。
200年くらい前まで、この辺りは海であった。潮が満ちると社殿が波間に浮かん
でいるように見えたことからこの名が付いた。十九世紀に行われた干拓により
海岸線が移動し、神社は現在地にいたる。しかし、御許山に源を発し、宇佐神宮
神域を流れ豊前海にそそぐ寄藻川の河口に突き出された朱色の本殿は、今でも
水上に浮かんでいるかのようである。」
「浮殿は、宇佐宮が毎年行う放生会のための神社として八世紀半ばに建立
された。」
・・・放生会のための神社なんですね。
そして、もうひとつの意味不明な言葉「比志方荒城塩辺」なんですが、
八幡縁起
https://ameblo.jp/konronsinkai/entry-12417389080.html
「八幡神が豊前国宇佐の地に現れた由来について諸説があり」
「⑵欽明天皇の時代に、「宇佐郡辛国宇豆高島」に天降り、ついで「大和胆吹嶺」
「紀伊国名草海島」「吉備国神島」と経て、「宇佐郡馬城嶺」にはじめて現われ、
それより「比志方荒城辺」に移ったのを辛島勝乙目が祀って神託をうけたという
説」
p414
細男(さいのう)舞は傀儡(くぐつ)舞ともいわれている・・・
傀儡舞を奉仕する上毛・下毛の両郡のうち、上毛郡は・・・秦氏系氏族が圧倒的に多い
地域である。また下毛郡今津役(千間)は、古要神社のある大分県中津市伊藤田だが、
この地には中世まで北原散所があり、傀儡師(子)らがいた。
古要神社のある伊藤田(いとだ)には、六世紀前半から七世紀後半までの陶器窯跡群が
七ヵ所ある。 陶器は渡来系氏族(主に加羅系)の工人によってつくられたが、陶器
制作地に傀儡師が居住しているのは、陶器制作者と共に傀儡師も渡来してきたからであろう。
==>> この傀儡舞がどのようなものかを確認。
「古要神社の傀儡子の舞と相撲(こようじんじゃのくぐつのまいとすもう)は、
大分県中津市大字伊藤田の古要神社に伝わる人形による舞と相撲の神事
である。」
「奈良時代に、朝廷の命により隼人の反乱の平定に向かった豊前国の軍が、戦場
で傀儡子の舞を演じて隼人の気を引き、その隙に乗じて隼人の軍を攻めたこと
に由来するという。
その後、戦死した隼人の慰霊のために宇佐神宮で放生会が始められると、その際
に傀儡子の舞が奉納されるようになり、それが古要神社に伝わったといわれる。」
p415
傀儡子族の婦女であるクグツ、遊女のことを「うき竹の賤の女(しづのめ)」といふのは、
この故であって、白丁民の生態は『傀儡子記』に述べられてゐる傀儡子族の生態に酷似
している。・・・
p417
山田宋睦が、「わたしが瀧川説を支持できないのは、強引な推論よりも、売春や漂白が、
道徳的な大和民族にありえようはずがないから、それは帰化白丁族のもたらしたものと
いう、民族的偏見が根底にひそむからである」と批判している。
==>> 傀儡子は、最初はかなり悪評を受けるようなものであったのが,
次第に日本の芸術を代表するようなものに昇華していったようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%80%E5%84%A1%E5%AD%90
「傀儡子らの芸は、のちに猿楽に昇華し、操り人形はからくりなどの人形芝居と
なり、江戸時代に説経節などの語り物や三味線と合体して人形浄瑠璃に発展し
文楽となり、その他の芸は能楽(能、式三番、狂言)や歌舞伎へと発展して
いった。または、そのまま寺社の神事として剣舞や相撲などは、舞神楽として
神職によって現在も伝承されている。」
また、この本での上記の議論は、下のような源流に関する諸説が基になって
いるようです。
「「奈良時代の乞食者の後身であり、古代の漁労民・狩猟民である」とする林屋
辰三郎説、「芸能を生地で中国人か西域人に学んだ朝鮮からの渡来人である」と
する滝川政次郎説、「過重な課役に耐えかねて逃亡した逃散農民である」とする
角田一郎説などがある。」
p418
このような民族的偏見による推断に、私はついていけない。
『古事記』は、「皇軍」を率いた神功皇后の始祖を、新羅国王子天之日矛としている。
このような起源をもつ神功皇后伝承は、瀧川流の皇国史観を否定するものである。
==>> この辺りは、国境すらなかった、あるいは曖昧だった時代に、
あっちだこっちだという線引きは意味のないことだと思うのですが、
少なくともよって立つべき記紀の神話に対して、墓穴を掘るような説は
いかがなものかと、著者は言いたいようです。
p423
後鳥羽天皇は、水無瀬離宮に江口・神崎の遊女、または白拍子(舞女)をよんで、今様・
朗詠・舞などの盛宴を催しているが、宴が終われば、遊女・白拍子は天皇の寝殿にも
招かれた。 その結果、舞女滝が覚仁法親王を、舞女石が煕子(きし)内親王を、
舞女姫法師が僧覚誉・道伊・道縁の三人を生んでいる。
後鳥羽院が最も寵愛したのは、白拍子亀菊である。
==>> ちなみに、煕子(きし)内親王についてどう書いてあるかといいますと。
https://kotobank.jp/word/%E7%85%95%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B-1069081
「1205-? 鎌倉時代,後鳥羽(ごとば)天皇の第4皇女。
元久2年2月16日生まれ。母は舞女の石(丹波局(たんばのつぼね))。藤原長房
(ながふさ)に養育される。建保(けんぽ)3年伊勢斎宮にさだめられ,承久(じょう
きゅう)3年しりぞく。」
・・・遊女や舞姫と虐げられながらも、天皇の子をなして、その子は
伊勢神宮の斎王になっているんですね。
p424
遊女・傀儡・白拍子は芸能にかかわる女性だが、芸能は祭りとかかわり、これら女性は
巫女的性格をもっており、「歩き巫女」ともいわれた。 歩き巫女は漂白の尼でも
あった。
人形操りの傀儡師が祀る西宮市の百太夫社の社伝では、「道薫」といわれる人が、
人形操りを創始したとある。 道薫も秦道満と同じ「道者」である。
白比丘尼伝承の秦道満や、「道者」としての猿楽の徒が秦河勝を祖とすることから
みても、道薫も秦氏である可能性があるが、こうした傀儡の芸能の源流は、秦王国に
あるようだ。
==>> 芸能は祭り・神事と繋がって、巫女的性格がある。
では、ここに出ている「道者」とはなんでしょうか。
https://kotobank.jp/word/%E9%81%93%E8%80%85-580459
ここには様々な意味がありますね。
「① 道教を修めた者。道士。道人。
② 仏道を修めた者。また、仏道修行に志す者。
③ 歌道、茶道などの道を修めた人。その道の専門家。
④ (「同者」「同社」とも書く) 社寺・霊場へ参詣・巡拝する旅人。
⑤ 僧から施主をさしていう称。檀那(だんな)。檀家。
⑥ 街道の宿場にいる遊女。また、一般に、遊女。→みち(道)の者。」
この本の文脈から言えば、ここでは、③の意味でしょうか。
日本では、いろいろな芸事などに「道」をつけて、書道、華道、柔道、
剣道などと呼ぶのは、ここから来たのでしょうか。
~~道と呼ぶのが好きですからね。
p426
『傀儡子記』の百神は才人白丁が祀る白(ペク)神である。 日本へ渡来した才人白丁は、
秦氏の中へ組み込まれていったと推測される。 漂泊芸能民や白比丘尼が秦河勝・秦道満
を祖とすることからみて、古代の日本列島へ渡ってきた朝鮮半島の才人白丁は、秦氏の
統制下に入るか、自ら秦氏に結び付こうとしたかの、どちらかであったと推測される。
白山・白日・白神信仰と百(白)太夫信仰の習合が、そのことを示唆している。
==>> これはこの本の著者が『神社と古代民間祭祀』の中で述べたことだそうです。
まず、才人白丁(さいじんはくちょう)とはどんな人たちなのか。
https://kotobank.jp/word/%E6%89%8D%E4%BA%BA%28%E6%9C%9D%E9%AE%AE%29-1322712
「(1)白丁 賤民の代名詞であり,屠殺や柳器匠などに従事する被差別民。
(2)才人 白丁から分化し,軽業などを業とする大道旅芸人。
(3)巫覡(ふげき) 男女のシャーマン」
さらに、白比丘尼(しろびくに)は、
https://kotobank.jp/word/%E7%99%BD%E6%AF%94%E4%B8%98%E5%B0%BC-1342593
「人魚の肉を食し、八百歳(または二百歳)の長寿を保ったという若狭国の伝説
上の老女。」
・・・秦氏が渡来した頃の時代は、大陸や半島での戦乱や飢餓で、多くの
人々が列島に渡ってきたとも言われていますから、様々な人たちがやってきた
のでしょう。それは、神のレベルで伝承される人たちに限らなかったと
いうことですね。
p430
太子巫と太子の信仰は、秦王国の信仰として、・・・聖徳太子の太子信仰、弘法大師の
大師信仰へとつながっていくが、こうした秦氏の信仰の源流である八幡祭祀に、傀儡芸
がかかわることからみても、宮廷神楽の細男芸にも、秦氏の芸能が深くかかわっていると
いえる。
==>> ここにある「太子巫」とは何なのか。
それを調べようとしたらこんな興味あるサイトがヒットしました。
新羅、秦氏、八幡神の信仰の広がり
https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/15074822/
「「太子」とは朝鮮の巫女が降神させるある神霊への呼称であり、その巫女は
「太子巫」と呼ばれた。」
「島津と称する前は惟宗氏(これむね。新田八幡宮神官も惟宗氏)と言い、氏祖
の忠久は日向国守の家に生まれ、源頼朝による薩摩国島津荘の地頭職安堵が縁
で「島津氏」を名乗ったのだ。その惟宗氏とは秦氏である。やはり、源氏の鎌倉
幕府とは「新羅」系政権と言えそうか。」
「新羅・若者組の「花郎」や薩摩藩・兵児二才の「稚児様」とは、太子だった
ことも分かる(新羅の「源花」はアルのもう一側面の母神か)。紀記中の神名に
登場する「彦」(日子)もアルであり、太子信仰に拠るものである。」
「実は、加賀と豊前の白山信仰に一つだけ違いがある。豊前には白山に付随して
ある天童信仰が、加賀にはないのである。朝鮮に最も近い対馬の白山には、天童
信仰が付随している。繰り返しになるが、英彦山の「ヒコ」は「彦」であり
「日子」である。つまり英彦山とは「アル山」なのである。一方、加賀・白山姫
社は白山姫を祭るが、これは「アル」のもう片方の母神に他ならない。」
・・・このサイトに書かれた内容は、様々に連想を掻き立てるものになって
います。
ひとつは、聖徳太子の「太子」の意味。
二つ目は、島津氏のルーツと鎌倉幕府との関係。
三つ目は、天童信仰が対馬・豊前にはあるのに、なぜ加賀にはないのか。
そしてついでに言えば、その6で読んだ「オシラ神」は北陸なのか東北なのか。
まあ、いろいろと説が出てくるので、こちらの動画で、頭のなかをサクッと
整理しましょう。 割といろんな説を冷静に考慮している動画なんで。
日本人のルーツは秦の始皇帝!?秦氏の謎!!
https://www.youtube.com/watch?v=C8Z11RtwEdE&t=10s
秦人、秦人部、そして秦部のみっつがあるそうな。
そしてそれらを統括していたのが秦氏と呼ばれるらしい。
この動画に触発されて、まずは大酒神社詣ででしょうかねえ。
大酒神社 (京都府京都市右京区太秦蜂岡町)
https://jun-yu-roku.com/yamashiro-kadono-monzen-osake/
「御祭神 秦始皇帝、弓月王、秦酒公」
「『日本書紀』には、秦氏の人々は各地に分散して各臣・連の元で仕えていたが、
天皇の詔により秦酒公の元へ再び集められた旨が記されています。来朝して
帰化した「弓月公」と共に、秦氏の勢力を盛り立てた「秦酒公」は秦氏の祖と
され、当社でも秦の始皇帝と共に御祭神として祀られています。」
「さて当社の御神体は「大石」であったとも言われています。当社は『延喜式』
神名帳に「元名大辟神」とあるように、サケ=境の神であったことが考えられ
ます。」
p478
記・紀の記述は、応神天皇のときになっており、秦の民(弓月の民)の渡来記事も、
記・紀は応神天皇のときと書くから、彼らのうち大和へ来た人々は、彼らの技術に
よって池を作り、韓人池や初瀬川の近くに住んだ。 その子孫が伎楽を学んだから、
楽戸郷が作られ、楽戸郷の秦の楽人が、猿楽の金春家になったのだろう。
p480
渡来した秦人は、まず大和の治水工事に動員され、次に河内の治水工事に活躍した
のであろう。
==>> 今も昔も土木工事の集団が公共事業などで一番儲かるってことなの
でしょうか。 秦氏はそれなりの信頼される技術を持っていたということ
なんでしょうね。
p483
秦(新)楽寺のあった楽戸郷の田原本町の蔵堂には、式内社の村屋坐弥富都比売神社
(むらやにいますみふつひめ・じんじゃ)がある。
「弥富都比売」の「ミ」は敬称で、物部氏が祀る「フツ」のヒメ神のことである。
「ミフツヒメ」の名は記・紀に載らない。
しかし、こうした記・紀神統譜に合わせようとしない江戸時代の文献では、・・・
『和州旧跡幽考』は、「韴霊(ふつのみたま)」とし、・・・『大和名所図会』も、
「フツノミタマ」とする。 この記述が正しい。
p484
この神社は、楽人秦氏の住む楽戸郷にあるが、「フツノミタマ」を氏神とする物部氏
と秦氏は関係が深く、どちらも非農耕的で、特に鍛冶・鋳造などの職業で重なって
いる。
==>> 「ふつのみたま」というのは、霊剣のことだそうです。
「布都御魂(ふつのみたま)は、記紀神話に現れる霊剣。韴霊剣、布都御魂剣
(ふつみたまのつるぎ)とも言う。」
「神武東征の折り、ナガスネヒコ誅伐に失敗し、熊野山中で危機に陥った時、
高倉下が神武天皇の下に持参した剣が布都御魂で、その剣の霊力は軍勢を毒気
から覚醒させ、活力を得てのちの戦争に勝利し、大和の征服に大いに役立った
とされる。」
著者はここで怒っていますねえ。
「明治以降の神官の小賢しい知恵で・・・」と、本来の名前を「日本書紀」
に合わせてしまっていると書いています。
p486
芸能をおこなう人々の居住地は、陶器(すえき)などの制作地であることからも、
・・・職人と芸能が一体化している。
楽戸郷の楽人は、今のような専門の芸能人とはちがって、祭の時に召されて芸能を
おこなっていた百姓だから、普通の専従の農夫としての百姓ではない。 楽戸郷の
楽人秦氏たちは、鍛冶・鋳造にかかわる職人であったから、金属工人たちが祀る
天目一箇神(あめのまひとつのかみ)を祀ったのであろう。
p489
平野邦雄の研究によれば、五世紀のはじめ、新羅から、鋳銅・銑鉄の鋳造技術や
輸入した銑鋋を鍛造する錬鉄技術が伝えられた。 これが新羅系の倭鍛冶で、
秦氏集団と関係あり、令制下では非品部・非雑戸とされる。
==>> さて、ここでは倭鍛冶(やまとかぬち)とはなんでしょうか。
https://kotobank.jp/word/%E5%80%AD%E9%8D%9B%E5%86%B6-1430100
「《古事記》《日本書紀》などに日本最初の鍛冶としてあらわれるのが天目一箇神
(あめのまひとつのかみ),一名天津麻羅(あまつまら)で,鍛冶の祖神といわ
れている。その子孫は倭鍛冶(やまとかぬち)として代々朝廷に仕えた」
倭鍛冶とは、帰化系の韓鍛冶(からかぬち)に対する呼び方なんですね。
・・・しかし、帰化系でもなく、新羅系の倭鍛冶というのはどういうこと
なんでしょうか。 渡来系の倭人というのも変ですしね。
そして、「非品部(しなべ)・非雑戸(ざっこ)」というのも意味不明です。
こちらを読むと、
律令制の身分制度
https://www.junk-word.com/history/asuka-1mon1/003045.html
「律令制において人民は良民(りょうみん)と賤民(せんみん)に分けられ
ました。」
「良民は官人、農民、品部・雑戸など賤民以外の人民の
ことです。」
「品部(しなべ)と雑戸(ざっこ)は、官庁に属した職能集団で、専門的な技術
を身につけた手工業者です。」
・・・これから判断すると、「官庁に属した職能集団」ではないということで、
職能の内容は同じという意味なのでしょうか。
つまり、職能は同じだけど、公務員か民間人かの違いでしょうか。
p490
私は、「鏡作三社周辺に分布する倭鍛冶」たちは、弥生時代に唐古・鍵遺跡で銅鐸を作って
いた鋳造工人と、韓人池を作った加羅・新羅系の人々(秦氏系)が、倭鍛冶集団と
いわれて鏡作郷周辺に居住していたとみたい。 法貴寺の多多羅部に住んでいた人たちは、
倭鍛冶の秦氏系工人集団であったのだろう。
==>> つまり、「帰化系の韓鍛冶(からかぬち)」よりもひと昔前に列島に入っていた
加羅・新羅系の鍛冶集団を「倭鍛冶」と呼んだということのようですね。
ってことは、どちらにしても、鍛冶に関しては、渡来系の人々が技術を
持ってきたということになりそうですね。
そこで、世界の中での歴史を見てみましょう。
鍛造の歴史
https://www.hakkokinzoku.co.jp/forging-encyclopedia/forging/history.html
「鍛造の始まりとされるのは、紀元前4000年以前。エジプトやメソポタミアで、
礼拝の対象物や貴人が身につける装飾品を作るために、自然産金や銀・銅などの
自由鍛造が行われていたと言われています。」
「紀元前 10 世紀頃に製鉄技術がインドへ伝播。中国では春秋戦国時代に銑鉄
の製造技術が確立しました。」
「一方、日本においては、弥生時代に鉄の鍛造品が作られるようになり、古墳
時代には朝鮮半島南部より「韓鍛冶」が渡来し、鍛冶技術が進歩しました。」
・・・これによれば、エジプトあたりで生まれたものが、大陸の東の端っこに
ある列島にやっと到達したという感じでしょうか。
ついでに、鋳造の歴史もチェックします。
鋳造の始まりは,いつ,どこ?
「紀元前3,000年ごろにメソポタミアの南部に国家都市を建設したシュメール
人が残した人類最古の粘土板の中に,鍛冶工や銅を意味する絵文字が書かれて
います.」
「日本には紀元前300年ごろに中国大陸から朝鮮半島を経て北九州の海岸地帯
に鋳造技術が伝わりました.」
p498
伎楽の伝来について、植木行宣は、「伎楽は、推古天皇二十年(612)にいたり、
百済から帰化した味摩之によって本格的に伝えられた。
『日本書紀』はそれについて、味摩之(みまし)が呉国に学んで伎楽舞(くれのうたまい)に
長じていたので、朝廷はこれを桜井に置き、少年を集めて習わせたと述べている。
==>> 伎楽(ぎがく)について、詳しくはこちらで:
https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8E%E6%A5%BD-50020
「日本最古の外来芸能で,笛,三鼓(くれのつづみ。→鼓),銅拍子(どびょう
し。→銅鈸)の伴奏で野外で行なわれた仮面劇。古くは「くれのうたまい」と
いい,「伎楽舞」「呉楽」とも記した。」
「伎楽に次いで大陸から渡来した舞楽や散楽に圧倒されたのか,平安時代に
しだいに衰微した。」
「聖徳太子の奨励で栄えたが、声明(しょうみょう)や雅楽の伝来で次第に衰え、
江戸時代に滅びた。」
p501
天王寺の楽人は、「朝廷の楽所には南都興隆寺その他の社寺から轉入することがあった
けれども、天王寺からは桃山時代を迎えるまでは、その門戸がひらかれていなかった
ごときである」と書き・・・
p506
道者のボスが散所長者だが、四天王寺の楽人が散所楽人といわれたのも、道者が秦氏と
かかわり、四天王寺楽人が秦氏であったことからみて、秦氏系漂泊芸能者であったことが、
他の楽人にくらべて卑賎視され、差別された理由であろう。
p512
秦の民がわが国の民衆の中に深く入り込んでいったためだが、農民にならず非農民的
性格をもっていたことで、被差別者の側に立ってしまったのであろう。
==>> ここでは、楽人(がくにん)、つまり音楽演奏家の中で、特に秦氏系の
四天王寺の楽人たちが、なぜ差別されたのかが述べられています。
これを読んでいると、その後の士農工商の身分制度の元がここに
見えるような感じがします。
その意味で振り返ると、今の日本は、その士農工商のどれが残っているの
かなと疑問に思います。
p515
本田があげる被差別部落で祭る八幡神社も、秦王国の人々が祀っていた神社であり、
白髪神社は、白神(しらかみ)のことであり、熊野神社は白比丘尼(しろびくに)と同じ
漂泊の比丘尼である熊野比丘尼が祀る神社で、どちらも秦氏とかかわる白神信仰の神で
ある。
==>> 白神信仰ということで、検索してみたのですが、これを正面から
説いているサイトはありませんでした。
しかし、こちらにその一部を大胆に展開したサイトがありましたので、
一番下にリンクしておきます。
縄文ノート118 「白山・白神・天白・おしら様」信仰考
「この天白神=白神信仰は、白い雪を頂く活火山のある縄文社会の各地に存在し、
大国主一族の神名火山(神那霊山)信仰に繋がったと考えます。」
「この白山信仰で重要なのは、浅間(あさま)大神=木花之佐久夜毘売(このは
なのさくやひめ)を祀る富士山と同じく、白山比咩(しらやまひめ)大神=菊理
媛(くくりひめ)を祀っていることで、私は縄文時代から続く女神(めのかみ)
の山神(やまのかみ)信仰が、1~3世紀のスサノオ・大国主建国とともに御子
(巫女)神の女神信仰が加わったと考えます。」
・・・このような興味の向き方は、私が知りたいところと重なっているように
感じるのですが、まだまだいろいろと本を読んでみないと何ともいえません。
専門家でもいろんな説が飛び交っているわけですから、私の頭の中は
ごちゃごちゃです。
p516
秦氏は、平安京造営のスポンサーになり、藤原氏とも血縁をもち、彼らが祀る松尾大社
は上賀茂・下賀茂神社と共に平安京の守護神となっているが、一方では、以上述べた
ような被差別の対象にもなっている。 この落差を私たちは確認する必要がある。
==>> 被差別という話になると、私自身は、生まれてこの方、身のまわりで
そのような人を見た記憶がないので、言葉としては知っていてもほとんど
実感はありません。
現代ですらそのような自分ですから、ましてや大昔の歴史上の話となると
まったく雲をつかむような話になってしまいます。
おそらく、秦氏集団は、上から下まで、様々な民を率いていたことで、
指示部隊と実働部隊が機能的に動けたのではないかという気がします。
皮肉なことを言えば、今現在、全国各地で世の中を騒がせている
高齢者相手の詐欺行為や強盗行為にも似たものを感じます。
それでは、次回は「五、秦氏をめぐる諸問題」を読んで、この本を片付けたいと
思います;
===== 次回その8に 続きます =====
縄文ノート118 「白山・白神・天白・おしら様」信仰考
==============================
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