大和岩雄著「秦氏の研究」を読む ―2― 弓月の民、 稲荷神社、波多野神社、養蚕(こかい)神社、 三柱鳥居、 秦王国は豊前、 香春神社、宇佐神宮、豊国法師と朝鮮の巫覡

大和岩雄著「秦氏の研究」を読む ―2― 弓月の民、 稲荷神社、波多野神社、養蚕(こかい)神社、 三柱鳥居、 秦王国は豊前、 香春神社、宇佐神宮、豊国法師と朝鮮の巫覡(ふげき)

 

 


 

 

「弓月君と秦氏・波多氏」から読んでいきます。

 

p070

 

『日本書紀』と『古事記』だけを見ていれば、弓月君と秦造の祖は、結びつかない

結びつけたのは、・・・『古語拾遺』、・・・『新撰姓氏録』である。

 

p079

 

『日本書紀』の編纂時に、原史料に手が加えられたことが推察されるが、六世紀初頭に

秦氏が山城国の深草にいたことは確かである。 ・・・・深草の地には、秦氏が創建した

稲荷神社がある

 

p081

 

河内の秦氏は融通王を祖とするが、融通王の別名が弓月王だから、河内の秦氏と腋上

もまったく無関係ではない。

 

==>> ここではあちこちの秦氏とその祖について書いてあるのですが、

     ここで全体像をみるために、こちらのサイトを見ておきます。

     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B0%8F

     「葛城襲津彦の支援によって日本へ渡ると、葛城氏の本拠地である葛城に住んだ

大和国のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在

の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)、摂津国

豊嶋郡、針間国(現在の兵庫県)、阿波国、伊予国など各地に土着し、土木や

養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)

では湿地帯の開拓などを行った。」

「『新撰姓氏録』によれば、応神14年(283年)に百済から日本に帰化した氏族

であり、秦の始皇帝の末裔だと主張する百済人弓月君(融通王)が中心的人物

される。」

・・・いずれにせよ、祖については、諸説あるようです。

 

 

p082

 

日野は、弓月君の「ユヅキ」の意味について、「斎槻の観念に発する語ではないだろうか」

とし、その微証として、『万葉集』の柿本人麻呂歌集に、「弓月」が「由槻」と書かれている

ことから、「神聖な樹木として槻の樹をめぐる、水と農耕の儀礼と不可分にむすびついた

観念」が「ユヅキ」であり、その語が秦氏の始祖氏としてとりあげられたとみる。

 

理由として、稲荷信仰などにみられる、秦氏の「農業とくに水稲耕作との関係ふかい

宗教信仰」、及び『山城国風土記』逸文に載る秦伊侶具の樹木信仰や、世界樹の観念などを

例証としてあげている。

 

==>> ここに出ている槻の樹について確認しておきます。

     https://kotobank.jp/word/%E6%A7%BB-330366

     「槻(読み)つき

     〘名〙 植物「けやき(欅)」の古名。

     [語誌](1)樹勢が盛んでしばしば大木になるためか、古来神聖視され、その樹下

も聖域とみなされたらしい。特に、法興寺(飛鳥寺)の槻の木の下では重要な

儀式や行事がたびたび行なわれたことが「日本書紀」に記されている。「万葉集」

では斎槻の意で「ゆつき」「いつき」などとよまれている。」

 

・・・これらを読むと、なるほどそうかもしれないという感じになります。

 

p084

 

波多野には、式内社の神波多神社がある。 この神波多神社の祭祀氏族が波多氏(星川臣)

であることからも、弓月獄と弓月君は波多氏と結びつき、弓月君は波多氏の祖とみる

私見の裏付になる。

 

p085

 

山城秦氏の本拠地には、養蚕(こかい)神社(京都市右京区太秦森ケ東町)があり、秦氏が

祭祀している。 地元では、「蚕の社」という。

 

秦氏が祭る伏見稲荷大社の祭神についても、『稲荷社記』は、養蚕の道を最初に始めた神と

記す。

 

==>> ぞくぞくと神社の名前が出てきます。 ちょっと確認しておきましょう。

     神波多神社

     https://naratrip.com/kamihatajinjya

     神社の名称は神波多神社となっていますが、「最寄り駅・バス停・・」のところ

     には「波多野神社前」と書いてありますから、地名としては波多野だったの

     かもしれません。 ただし、所在地は「奈良県山辺郡山添村大字中峰山309」に

     なっています。

 

     養蚕(こかい)神社

     http://www.kyoshri.grats.jp/shri1202.html

     「この嵯峨野一帯は、古墳時代に朝鮮半島から渡来し、製陶・養蚕・機織などに

はすぐれた技術をもっていた秦氏の勢力範囲で、当神社本殿の東側には織物の

祖神を祀る蚕養(こかい)神社(東本殿)があり「蚕の社」もそれにちなんだ

社名である。」

「本殿の西側には四季湧水する「元糺(もとただす)の池」という神池があり、

天保2年(1831)に再興された京都三鳥居の一つとされる石製三柱鳥居が建つ。」

 

・・・ここに出てきた「三柱鳥居」が気になります。

     昨年お参りに行った奈良の大神神社の一の鳥居の近くにもあった三柱鳥居です。

 

     


     (三輪山の大神教本院の三柱鳥居)

 

     三柱鳥居については、こちらで。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9F%B1%E9%B3%A5%E5%B1%85

     「木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)-(京都市右京区太秦にある木嶋神社)石造り

の三柱鳥居が境内の「元糺の池(もとただすのいけ)」の中に建てられている。

現在のものは1831年に再建されたものだが、「北斎漫画」十一集「三才鳥居」に

描かれているものは木造となっている。」

大神教本院-(奈良県桜井市三輪)三輪山麓に鎮座する大神神社の崇教会であ

る「大神教本庁」内にある大神教本院の摂社である、三輪稲荷大明神社の拝殿前

に黄土色丸柱の三柱鳥居がある。」

 

・・・これを読むと、三柱鳥居の元祖はこの「蚕の社」のように見えます。

また、大神教本院の三柱鳥居も、稲荷大明神ですから、秦氏との関係が

あるように見えます。

 

     ちなみに、先日お参りに行った三囲(みめぐり)神社の三柱鳥居は

     こんな感じです。

     


     「三囲神社-(東京都墨田区向島)石造りの三柱鳥居に囲まれるように井戸が

設けられている。「三角石鳥居。三井邸より移す。原形は京都・太秦 木島神社に

ある。」と説明されている。」

     ・・・ここでは、ちゃんと「これはレプリカです」というような趣旨が

     書かれていました。

 

 

 

さて、ここから「二、 日本の中の朝鮮人の国「秦王国」」に入ります。

 

p091

 

平野邦雄は・・・・

そしてこの二書は、新羅が中国に似る理由を、「居之以秦人、故名之日秦韓」に求めている。

要するに、新羅は秦人の居住地であるから、風俗・言語・物産ともに、華夏、即ち中国に

似ているという論理を展開しているのである。

 

秦人の語は新羅のみに用いられたことからすれば、秦王国は新羅の再版と意識されていた

のであろう。 (中略)秦王国は竹斯(筑前)とそれら諸国の中間地域、即ち豊前か長門・

周防にあたるであろう。

 

p095

 

泊勝美も、大宝二年の戸籍からみて、秦氏系氏族が豊前に多数いること、香春神社や

宇佐八幡宮の祭祀氏族が秦氏系渡来氏族であることから、秦王国は豊前にあったとする。

私も豊前説を採る。

 

==>> ここでは、秦王国と呼ばれた地域がどこにあったのかのふたつの説を

     紹介しています。

     平野説では、福岡県から山口県あたりだとしているようですが、著者自身は

     泊説つまり豊前説に賛成するとしています。

 

     香春神社(かわらじんじゃ)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%98%A5%E7%A5%9E%E7%A4%BE

     「古来より宇佐神宮と共に豊前国を代表する大神社だった。 辛国息長大姫大目

神社と忍骨神社に正一位の神階が与えられたのは、承和10年(843年)で、

これは奈良の大神神社(859年)、石上神宮(868年)、大和神社(897年)が

正一位になった年よりはるかに早い。」

「『豊前国風土記』逸文には、辛国息長大姫大目命は、昔神羅より渡って来た神

であると書かれている。・・・・神功皇后は、『古事記』において息長帯比売命・

大帯比売命と記されている。」

 

・・・これを読むと、見方によっては宇佐神宮や大神神社などよりも格上の

神社であったようにも見えます。

また、神功皇后と「新羅の神様「辛国息長大姫大自命(からくにおきながおお

ひめおおじのみこと)」を祀った神社」の祭神とは同一人物ではないかという

説もあるようです。

 

p098

 

新羅によって加羅にとどめおかれていた弓月の民(秦の民)を、葛城襲津彦が加羅まで

行って連れて来たとある。 ・・・葛城の腋上に住みついて、後に山城へ移住したと、

『姓氏録』は書く。

 

・・・全国に散在する秦氏の多さからみて、加羅から渡来して各地に居住していた人たち

が、応神紀に書く「百二十県」の人たちで・・・・・

 

==>> ただし、著者は百二十県の人たちのすべてが葛城氏の連れられてきたわけでも

     ないだろうとしています。

 

p099

 

南朝鮮の戦乱、飢餓を避けて、日本各地へのがれて来た人たち(百八十種の勝たち)は、

勝手に各地のボス(臣・連ら)に使われていたのを、雄略天皇が、秦酒の統率下において。

 

「秦王国」を海上から見た隋使が来た推古朝(593~628)は、聖徳太子の寵臣

秦河勝が活躍していた時代である。 秦河勝を太子が重用したのは、河勝の才能がすぐれて

いたこともあるが、豊前国に「秦王国」があったように、全国的に強力な勢力を維持して

いた秦集団の指導者であったことも、一因であろう。

 

==>> まず「百八十の勝たち」(ももあまりやそ の すぐり)ですが、

こちらにこのような解説があります。

     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E9%85%92%E5%85%AC

     「秦の民が分散して臣・連などの姓を持つ諸氏のもとに置かれ、おのおのの一族

のほしいままに駈使されている情況を嘆いて、秦造酒は天皇に訴えた。天皇は

これを集めて酒公に賜った。酒公はこの百八十種勝(ももあまりやそ の すぐり)

を率いて庸、調の絹や縑(かとり)を献上し、その絹・縑が朝廷にうず高く積ま

れたので、「禹豆麻佐」(うつまさ)の姓を賜ったという話がある。」

 

     この「勝(すぐり)」とは何かといいますと・・・

     https://kotobank.jp/word/%E6%9D%91%E4%B8%BB-541346

     「村主(すぐり)

天武朝の八色(やくさ)の姓(かばね)以前から存した古代の姓の一つ。

多く、韓、漢からの渡来人の小豪族に与えられた。姓としては下級のもの。

下級渡来人系の姓である「勝」も同じく「すくり」と読むという説もある。」

 

この本には、いろいろと朝鮮半島の話が出てくるので、古代朝鮮の歴史を

こちらの動画で、ささっと見ておきます。

朝鮮の起源『古代~箕氏朝鮮の滅亡まで』

https://www.youtube.com/watch?v=QhY91aVj4IM&t=1167s

 

・・・これを見ると、中国からの避難民がかなり半島に入っていることが

分かります。 秦の始皇帝の末裔も流れて来たか・・・・・

 

     ついでに、こちらの動画で、半島に倭人が住んでいたという話もあります。

     九州側に渡来人の秦王国があるように、半島側にも倭人の国があったという

     ことでしょうか。

     任那の誕生『朝鮮半島にあった倭人の国』

     https://www.youtube.com/watch?v=vDPg2mVmkSk&t=20s

                                        

 

 

p101

 

『隋書』には「秦王国」が記されていても、正史の『日本書紀』には載らない。 しかし、

「秦王国」のあった豊前が、特別な国であったことは、『新撰姓氏録』に載る「豊国奇巫」

『日本書紀』に載る「豊国法師」からいえる。

 

==>> まずは、「豊国奇巫」と「豊国法師」の意味を探します。

     宇佐八幡神は新羅の神だった

http://web1.kcn.jp/tkia/mjf/mjf-51.html

「五世紀末のことと思われる。雄略天皇が病いに倒れたとき、和泉国大鳥(鳳)

郡(現大阪府堺市)から、物部氏に従う「豊国の奇巫」が呼ばれている。豊前(秦

王国)出身の、ニッポン流ではない「巫医」のことである。」

「『隋書』倭人伝である。608年、小野妹子は隋使・裴世清を伴い、帰国した。

裴世清は、筑紫から瀬戸内海に入ったとき、中国人が住むという「秦王国」

存在を知らされる。「秦王国」とは、渡来帰化人の秦氏が多く住んだ豊前の地

(現在は福岡・大分両県に二分される)のことであった。」

 

「豊国法師」とは:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%9B%BD_(%E5%83%A7)

     「この「豊国」を九州の豊国とすれば、大和への公伝以前に豊国に仏教が伝わっ

ていて、大和の人々が、九州を特殊な地域として認識していたとみることも

できる。・・・・時に穴穂部皇子が「豊国法師」を引て、内裏に入ったといい、

この「豊国法師」を固有名詞でなく、「豊国」の法師と考えるならば、「豊国」は

仏教と関係深い国であったことも否定できない。」

 

     ・・・豊国法師については、個人名として扱っている解説と豊国という場所の

     仏教僧という解釈にしているものがありますね。

 

p102

 

彼らはわが国の巫とちがって、道教的要素や朝鮮の巫覡(ふげき)がおこなう巫術を

もっていたから、一般の巫に対して「奇」巫であったのだろう。

豊国の奇巫は和泉国大島郡に住み、それを統括したのが物部真椋であったから、巫部氏

は物部氏系に入っているが、彼らは本来は秦王国の人たちで、秦氏系であったと考え

られる。

 

==>> ふ‐げき【巫覡】  巫覡(読み)きね

     https://kotobank.jp/word/%E5%B7%AB%E8%A6%A1-617701

     「〘名〙 (「ふ」は「巫」の慣用音、「ぶ」は漢音。「ぶげき」とも) 神仏を勧請

し霊の口よせをする者。神がかりとなって、人の未来、吉凶禍福を予言する者。

女を巫、男を覡という。」

巫(ふ、かんなぎ)、巫覡(ふげき)

 

     ・・・・本文には「朝鮮の巫覡」と断ってあるのですが、日本の巫覡という

     ものは朝鮮から来たという意味合いが入っているのでしょうか。

 

     Wikipediaを見ると、以下のような説明があります。

     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AB

     「「かんなぎ」と言う場合は、特に日本の巫を指す。現在、神職の一般呼称で

ある「神主(かんぬし)」とは、本来、文字通り神掛かる役目を持つ職のことで

あった。日本においては古来より巫の多くは女性であり、巫女(みこ、ふじょ)

という呼称で呼ばれることが一般的である。」

 

検索してみたところ、まさに「朝鮮の巫覡 朝鮮総督府編」というものが

ひっかかってきました。 

「国書刊行会(復刻版)  昭和47年第一刷平成7年第二刷より引用」となって

います。

https://blog.goo.ne.jp/tenkasurounin36/e/8da57b848bf326f82361fa085bcb47c1

     「朝鮮の巫覡はその多くが世襲的であり、全鮮至るところ之あらざるなく、全道

を通じてその数萬余を算するのである。 而して之等巫覡のなすところは、

主として病気祈願・災厄禳祓(じょうふつ)・運命占卜(せんぼく)及び神楽

舞踊などであるが、之等の巫覡は日本内地と異なり、大部分は神社に所属する

こと なく(往昔には神社に所属していたものであった。今でも済州島の如き

神祠ある處では神社所属の巫がある。) 民間に雑居し人々の依頼に応じて巫禱

をなす ものである。 」

 

・・・これは、朝鮮総督府が作ったものですから、日本の神道と比較して

後進的であるとしたいようですが、日本のそれと何が違うのかについては

ここには出てきません。

 

p105

 

豊国奇巫・豊国法師が、都の巫・法師がなおすべき天皇の病気を、わざわざ呼ばれて

治療するのは、彼らが特別の治療法を用いていたからであろう。 在来の方法とちがう

のは、豊国が秦王国であったからであり、彼らは、秦王国奇巫・秦王国法師であった。

 

p106

 

「醫」について『説文解字』・・・の書いた、もっとも古い漢字の解説書・・・は、

酒を飲ませて病をなおすからと解説し、薬師の意とする。

「毉」については、病をなおす工(たくみ)で巫と同じだからとある。

「醫術」の字は主に薬で病気をなおし、「毉術」の字は薬以外の巫術で病気をなおす

のに用いられている・・・・・

 

==>> 「医術」の漢字には、上記のようにその意味の違いによって

     「醫術」と「毉術」があったようです。

     今でいうなら、フィジカルとメンタルの違いでしょうか。

 

 

p113

 

「辰韓」について『魏志』は、古老が伝えていうには、秦の苦役を避けて韓国に亡命した

人たちを、馬韓の東を割いて住まわせた。それが辰韓人だから、住人は秦人に似ており、

「秦韓」というのもそのためだ、と書く。

 

この記述から、新井白石は『古史通惑問』(こしつうわくもん)で、秦氏は辰韓に移住して

来た秦人とみる。

 

==>> 秦の始皇帝は人民が苦役に耐えられずに逃げ出すほどの厳しい統治を行った

     んですね。早々につぶれても仕方がなかったということか。

 

 

p114

 

彼らが、銅・鉄・金などの採鉱・精錬や、養蚕・絹織などの技術に長じていたのは、

土着の韓人とちがって、この地に移住して来る前から身に着けていた技術が、採鉱の

精錬や養蚕・絹織などの技術であったためである。 この技術は、わが国に渡来した

秦人たちも用いていた。

 

秦王国の人たちは、採鉱・鍛冶・鋳造などにかかわる人たちだが、エリアーデは

「鍛冶師と錬金術師」で、「鍛冶師とシャーマンは同じ巣からやってくる」とヤクート族

の俚諺はいっている。

 

p116

 

鍛冶の職業は大抵世襲的であり、九代目には鍛冶は一種の超自然的な性質を獲得し、

それ以上に世代がつづけば、ますますその性能は増大するといわれている。

 

p117

 

私は豊国奇巫や豊国法師らの宗教活動は、秦王国の宗教活動とみるが、この秦王国の

宗教は、中野のいうように、道教・仏教と朝鮮シャーマンの巫術(ふじゅつ)がミックス

したものと思う。

 

p118

 

香春神社の祭祀氏族は赤染氏である。 秦氏系常世神信仰が入った豊国のシャーマニズム

が、「秦王国」の信仰である。 この信仰は、わが国の神祀信仰とちがっており

巫覡(ふげき)の祭儀・呪儀も異なっていたから、「奇巫」といわれたのであろう。

 

==>> ここでは、特に鍛冶とシャーマニズムの関係を述べています。

     日本でいうならば、日本刀の刀鍛冶などが、これに近いのでしょうか。

     

     常世神信仰に関しては、こちら・・・・

     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E4%B8%96%E7%A5%9E

     「常世神(とこよのかみ)は、『日本書紀』に登場する新興宗教の神。この神を

祀ると、富と長寿が授けられ、貧者は裕福になり、老人は若返ると説かれた。

・・・・「常世の国」は、海の彼方にある、不老不死の世界のことである。大国

主命の国造りを助けたスクナヒコナ命や、浦島子(浦島太郎)が行ったのが常世

の国といわれる。」

「なぜ河勝ひとりが、常世神信仰を討伐したのかについては、全国に秦人・秦部

を抱え、殖産興業を推進してきた秦氏としては、民の生産・経済活動を停止させ

る宗教は、看過できなかったとする考えがある。」

 

・・・かなりの現世利益という感じですが、この「秦王国の信仰」を

秦河勝が潰したというのが面白いですね。

     個人の利益よりも、共同体の利益を守ろうとしたのでしょうか。

 

     ところで、神祇(じんぎ)とはなんでしょう:

     https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E7%A5%87-536901

     「天神地祇(てんじんちぎ)の略。天神は「あまつかみ」とよび、天上で生まれ、

あるいは天上から降(くだ)った神。地祇は「くにつかみ」とよび、地上に天降っ

た神の子孫、あるいは地上で生まれた神をいう。『令義解(りょうのぎげ)』では、

天神として伊勢(いせ)、山城鴨(やましろのかも)、住吉など、地祇として大神

(おおみわ)、大倭(おおやまと)、葛城鴨(かずらきのかも)などをあげている。」

 

 

次回は、「仏教が一番早く入った「秦王国」」から読んでいきます。

 

 

===== 次回その3 に続きます =====

 大和岩雄著「秦氏の研究」を読む ―3― 熊野権現は天台山から彦山へ、 蘇我氏と物部氏の医術対決、樹木・磐座・山岳信仰・巫覡信仰、山岳信仰の文化圏 (sasetamotsubaguio.blogspot.com)

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

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