大和岩雄著「秦氏の研究」を読む ―4― 鹿児島にある正八幡宮、製鉄の鐸比古・鐸比売神社、 秦氏と最澄・空海、 太子信仰と大師信仰
大和岩雄著「秦氏の研究」を読む ―4― 鹿児島にある正八幡宮、製鉄の鐸比古・鐸比売神社、 秦氏と最澄・空海、 太子信仰と大師信仰
「秦王国」の鍛冶神伝承をめぐって」から読んでいきます。
p165
辛嶋氏はもともと採銅所・・・長光氏と同様に鍛冶技術を有する氏族である事は、
八幡宮縁起の鍛冶翁神話によってみても分かる如く鍛冶シャーマンである。
つまり原始八幡信仰は鍛冶技術を有するシャーマンが、それまでのナチュリズム・
アニミズム社会を駆逐して行ったものであろう。
==>> 私がここで気になるのは「それまでのナチュリズム・アニミズム社会」と
いうところです。 自然信仰・精霊信仰ということだと思うのですが、
それが元々の倭人の信仰だったのか・・・
そして、それが渡来人のシャーマニズムで上書きされたということか?
卑弥呼の鬼道とはどういうものだったのか。
p166
香春の神と八幡の神は同根で、秦王国の神であり、秦王国の勢力範囲が南下して、
宇佐地方にまでひろがった結果、宇佐にもちこまれた神が「ヤハタ」神といわれて
官製化したのである。 だから、香春三ノ岳の採銅所に、古(元)宮八幡宮が鎮座して
いる。
古宮八幡宮のある香春の山を、『豊前国風土記』は「新羅国神」を祀る山と書くことから
みても、鍛冶翁伝説は渡来工人の伝承である。
==>> ここで香春神社(かわらじんじゃ)を復習しておきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%98%A5%E7%A5%9E%E7%A4%BE
「『豊前国風土記』逸文には、辛国息長大姫大目命は、昔神羅より渡って来た神
であると書かれている。辛国息長大姫大目命と神功皇后との関連性は古くから
議論されている。」
p170
八幡宮の祭神を応神天皇と神功皇后にせず、漂着した日の御子とその母大比留女(大日女)
の母子神信仰を伝え、この伝承にもどづく八幡神こそ、「正八幡」だと主張していること
からみても(・・・「鹿児島神宮―なぜ「大隅正八幡宮」というか・・」)、八幡信仰の
根はどこにあるかを明らかにしている・・・
==>> 現在は鹿児島神宮となっていますが、公式サイトには以下のように
書かれています。
ただし、主祭神は、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと) (山幸彦)
豊玉比売命(とよたまひめのみこと) になっています。
https://kagoshima-jingu.jp/yuisyo.php
「また正八幡宮、国分正八幡、大隅正八幡等とも称し全国正八幡の本宮でもあり
ます。」
大比留女については、wikipediaに記載があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E5%AE%AE
「『八幡愚童訓』に「震旦国(インドから見た中国)の大王の娘の大比留女は
七歳の時に朝日の光が胸を突き、懐妊して王子を生んだ。王臣達はこれを怪しん
で空船に乗せて、船のついた所を所領としたまうようにと大海に浮かべた。船は
やがて日本国鎮西大隅の磯に着き、その太子を八幡と名付けたという。継体天皇
の代のことであるという。」との記載がある。」
「八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと
『今昔物語集』にも記載されている。」
「伝承ではかつて国分八幡と宇佐八幡との間に、どちらが正統な八幡かを巡っ
て争いが起き、宇佐八幡は密かに15人(14人とも)の使者を遣わして国分八幡
を焼かせたという。」
・・・ということで、船で大隅に着いたというのは半信半疑ですが、
宇佐でなにやら争いごとが起きたようです。
p178
鐸比古・鐸比売神社は、現在山麓にあるが、神社の参道から五世紀末から六世紀代の
大型製鉄遺跡が発見された。 この製鉄遺跡は秦氏らによる製鉄工房とみられるが、
彼らは七、八世紀代になると鋳造を主におこなうようになった。
この河内の秦氏鋳造工人が、東大寺の大仏の鋳造に従事したので、大仏造立に宇佐八幡神
が登場したのである。
==>> 鐸比古鐸比賣神社(ぬでひこぬでひめ)
鐸比古鐸比賣神社|大阪|柏原市に鎮座する製鉄の神
https://spiritualjapan.net/18531/
「鐸比古鐸比賣神社の祭神は、社名の通り鐸比古命と鐸比賣命の2柱である。
いずれも記紀には登場しない神だ。」
「先ほどの弘文院に伝わる通り、創建は成務天皇21年としている。西暦に直す
と151年らしい。とんでもない古社である。もっとも、その当時は高尾山の山頂
にあった。山頂には大きな磐座があり、それが信仰の対象となっていたという。」
「「弘文院」の伝承によると、
「和気氏の先祖である鐸石別命(ぬてしわけ)は、成務天皇19年に亡くなり、
高尾山に葬られた。同21年に祠が造営され、これを鐸彦神社という。」」
・・・ここは、元々は磐座が信仰対象だったようです。
三輪山などと同じですね。
もっとも、神社ができる前の時代は、すべてがそうだったのかもしれません。
和気氏に関しては、宇佐神宮とのつながりが下のサイトにありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B0%97%E6%B0%8F
「僧道鏡に対する宇佐八幡宮神託に関する事件で功があって朝廷に進出し、藤野
別真人から和気朝臣の氏姓が与えられた。」
別のサイトでは、和気氏について、
http://ek1010.sakura.ne.jp/1234-7-29.html
「和気氏は古来金属精錬を得意とする氏族とされ、本拠地備前国和気郡でも
和気神として「鐸石別命」を祀ってきた。」
と記載があります。
p182
火は鳥によって運ばれたとか、火を制御するのは鳥とする説話が、世界中に共通して
あり、鍛冶屋と火に関する伝承も世界中にあるのは、火を使うのがシャーマンだから
である。 神にもっとも近いのが童子で、七歳までの子どもは、神と人との間にいる
存在と、わが国ではみられていた。 朝鮮ではそうした子供を「太子」といった。
==>> 子供とシャーマニズムという繋がりで思い出したのが、諏訪大社の
大祝(おおほうり)という生き神さまの話です。
何かの本で読んだ記憶があるのですが、とりあえずこちらのサイトで・・
【諏訪大社の怖い話】子供を生贄にしていた?
https://wellcan.jp/trip/suwataisya-kowai
「【生き神としての「大祝(おおほうり)」】
最上位の役職である「大祝(おおほうり)」には、幼い男児が選ばれたと言い
ます。大祝となった者は、神が憑依した生き神として奉られたそうです。
神を降ろす神官と蛇形の自然神と共に、半地下の土室で冬籠りをする神事。
12月から約3ヶ月間のその「御室入り」はとても重要なものでした。」
さて、次に、ちょっと興味がある章に入ります。
「秦王国」の信仰と空海・最澄
p186
太子没後の飛鳥・奈良時代に、太子は神仙・菩薩とみられているが、平安時代に入って、
太子信仰をひろめたのは、最澄である。
法華経の大きな功徳の一つは、この弥勒の「功徳利益」であった。 たぶん最澄は、
法華経の弥勒信仰をとおして太子を信仰したのであろう。
当時、弥勒信仰のもっとも盛んであったのは、かつての秦王国であった豊前であり、
彦山・香春岳などがそのメッカであった。
最澄は延暦23年(804)7月、入唐する前に、香春岳に登り、渡海の平安を
願い、香春岳の麓に寺を造って読経した・・・・・
==>> 遣唐使として出発する前に香春岳の麓に寺まで造っていたんですね。
ただ単に、難波―香春―大宰府―博多港の途中にあったからということでは
なさそうです。
遣唐使の空海・最澄・円仁らの渡航ルート
http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16253649.html
これを見ただけでは、最澄さんが難波から香春までどういうルートで行ったか
は分かりませんが・・・
ところで、親鸞さんも太子信仰があったようです。
過去に読んだ本には下のように書いてありました。
やはり、最澄―法然―親鸞の流れで繋がっていたのでしょうか。
島田裕巳著 「親鸞と聖徳太子」
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2021/08/blog-post_58.html
「p16
親鸞が聖徳太子を讃える和讃を作っていることが、浄土真宗において聖徳太子
が信仰対象とされることに結びついている。 その背景には、親鸞の聖徳太子に
対する高い評価、さらに言えば、聖徳太子崇敬が存在する。」
・・・ただし、ここでは、弥勒菩薩ではなく救世観音なのですが・・・
p188
平野邦雄は、最澄は、秦氏出身の高僧である勤操や護命と親しかったとみて、
「二人は、かつて延暦13年(794)、桓武天皇の御願により、最澄を施主として
行なわれた叡山根本中堂での初度供養においては、勤操が堂達、護命が散華をそれぞれ
つとめている・・・・」と書く。
p189
平安京の土地が秦氏の祖先(秦河勝)伝来の土地であり、比叡山は秦氏にとって信仰の
対象の山、聖山であったこと・・・・
ところで空海は、若い時、長岡京に出て、勤操に会い、虚空蔵求聞持法を学んだと
いう。 平野邦雄は、「勤操を師としたという『御遺告』の説は、『続日本後紀』や
『三教指帰』などには、一沙門としかないので、信用できないという人もいるが、
道慈―勤操―空海という師承関係はみとめてもよいのではないかと思う」と書く。
p190
師承関係では、善議―勤操―弘法大師であって、護命―勤操―弘法大師ではない。
しかし、額安寺の虚空蔵像の銘記では、護命を勤操の師にしていることは、無視できない。
護命も秦氏出身である。
==>> なるほど、比叡山と秦氏はしっかりと繋がっていたんですね。
まあ、元々仏教は中国のものを遣唐使として導入したわけですから、
秦の始皇帝を祖としている秦氏と無関係とはできないですね。
公伝仏教以前から仏教を伝えていた氏族でもありますし。
確かに、別の本で読んだ中では、誰から虚空蔵求聞持法を学んだかについては、
一沙門であったと思います。具体的な名前は出ていませんでした。
こんなところで繋がってくるとは思いませんでした。
p192
秦氏の本拠地の京都太秦の式内社木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたま
じんじゃ)の三柱鳥居は・・・矢印の方位にある山は、すべて秦氏ゆかりの聖山である。
双ヶ丘(ならびがおか)には秦氏の古墳群があり、稲荷山・松尾山には秦氏の祀る
神社がある。
==>> 三柱鳥居についえは、その2で出てきましたが、その3つの方位には
このように秦氏の聖山があったわけですね。
大和岩雄著「秦氏の研究」を読む ―2―
https://sasetamotsubaguio.blogspot.com/2023/01/blog-post_17.html
p205
この虚空蔵信仰は、鍛冶・鋳造にかかわる人と結びつく要素があったが、その信仰
をもっと徹底させたのが、虚空蔵求聞持法であった。 この法を弥勒信仰と結びつけ
て勤操が説いたものを、18歳の空海が聞いて、出家の決意をしたのだろう。
==>> こちらのサイトには、これに関する記事も見られます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7
「この時期、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かっている。『三教指帰』の
序文には、空海が阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬などで求聞持法を修めたことが
記され、とくに室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星が飛び込んで
きたと記されている。」
「空海の得度に関しては、延暦12年に、20歳にして勤操を師とし和泉国槇尾山
寺で出家したという説・・・・」
そして、こちらのサイトでは、渡来系氏族との関連が述べられています。
https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/nagasawa/new-13.html
「空海と最も深いかかわりをもったのは渡来系氏族の代表格でもある秦(はた)
氏であった。その秦氏とは、空海の時代、婚姻等を通じて親縁の関係にあった
藤原氏、また秦氏と当初から深い結びつきのある和気氏、さらに空海の母の出自
の阿刀(安斗、阿斗、安刀、安都、あと)氏、そして高野山麓の丹生(にう)氏
などとの縁も無視できない。」
「虚空蔵信仰は、鍛冶・鋳造にかかわる人と結びつく」ということに関しては、
インターネット検索では見つかりませんでしたが、秦氏との関係はいくつか
のサイトで述べられているようです。
p206
法蓮にもっとも近いのは空海である。
法蓮の出自は宇佐氏だが、その信仰は秦王国の豊国奇巫・豊国法師の伝統を受け継いだ
ものであり、秦王国の信仰が、空海に継承されたといえるのである。
p207
太子信仰が弘法大師の大師信仰と習合していったのは、根に弥勒信仰があったからだが、
・・・・タイシとダイシの信仰を習合させたといっていいだろう。
==>> 初耳の法蓮(ほうれん)さんを確認しておきましょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%93%AE
「宇佐神宮の神宮寺であった弥勒寺の初代別当。英彦山や国東六郷満山で修行
したという修験者的な人物でもある。」
「『日本書紀』に見られる豊国奇巫や豊国法師との関連、そして記紀に見られる
仏教公伝・仏教私伝以前に北部九州へ仏教が伝来していた可能性を指摘する
説もある。」
「虚空蔵寺(大分県宇佐市山本) - 大分県宇佐市内にあった古代寺院。法蓮に
よる開基。」
・・・残念ながら、空海との関連については、検索で発見できませんでした。
よって、「もっとも近い」というのがどのような意味か分かりません。
次回は「三、 秦氏の祀る神社と神々」から読んでいきます。
===== 次回その5 に続きます =====
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